(あ〜〜〜あ、今年は降格の心配しないシーズンにして欲しかったんだけれどなあ、とファンソッコのゴールが決まったあとへたり込みました。順位を見ない、試合レビューも見ない、同志に愚痴を(できるかぎり)こぼさない、ポジティブ思考をつらぬく、その決意をあらためてかみしめております)
2015年春に父が亡くなって7年たちました。父が亡くなる前後から、しばらく母のことで精神的にたいへんだったときは、「お父さんはあんな風に最後の最後までがんばってたのに、なんでお母さんは……」とか「もっとお父さんがちゃんとお母さんの病気に早めに対策とっておいてくれたら……」とか、父の思い出のほとんどを母に紐づけていたのですが、今年に入ってからもう少し距離を置いて父のことを思い出すようになりました。
医師だった父が、長年、折に触れて繰り返して言っていたのが、「自分は寿命をまっとうする生き方をしたい」「患者さんにも寿命をまっとうしてほしい」でした。そのあとに「誰にも寿命というもんが与えられとるんや。だが自分の寿命はそのときが来るまでわからんもんやからなあ。それでジタバタして延命に走る。そうかと思ったら、もういつ死んでもいい、もうどうでもええわとか勝手に自分の寿命を決めて、からだに悪いとわかってることをやりまくって寿命を自分から縮めるようなことをする。そういう人は、いざそのときが来たら、えらい後悔してまたジタバタしたりする」とつけ加えて言っていたのを思い出します。
寿命をまっとうする——重い言葉です。そもそもいつが自分の寿命なのか、なんていま健康で元気に生活している身には実感できない。
でも、頭の中に最近「寿命をまっとうせよ」という父の声が響くのです。なに? お父さん、何が伝えたいんや?
それで私が何をやっているかというと、たとえば切り花をできるかぎり長持ちさせる、とか、服をリフォームしながら長く着続ける、とか、食品ロスをできるかぎり減らす、とか、つまり自分の寿命ではなく、身の回りにある生き物やモノの寿命をまっとうさせようとすることです。まずは身近なところから「寿命」を見直してみよう、と。環境にもやさしいしね、きっと。
ちなみに英語で寿命はlifespanです。ただ、命の長さというだけ。寿命→「命をことほぐ(寿ぐ、言祝ぐ)」=命を祝福する、という意味が日本語にはこめられています。自分がいま生きていることだけでなく、身の回りのすべての命を祝福すること。父はもしかしたらそれを伝えたくて「寿命をまっとうせよ」とささやいているのかもしれません。
(昨年から生ゴミをひたすら放り込んで混ぜ込んで堆肥をつくり、それで野菜を育てるコンポスト栽培を始めました。3月末から育てたスナップエンドウもついに寿命がつき、今朝つるをはずして片付けました。最後の収穫をありがたくいただいて、また来年だな。いまは枝豆育成中です)