Glamorous Life

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2022年08月

名古屋グランパス 0−2 ガンバ大阪

2ヶ月ぶりに動画が貼り付けられます。井戸の底に落っこちて、助けを呼んでも誰も上からのぞいてくれず、暗闇のなかに膝を抱えてうずくまっているような状態でした(おおげさ)
とまあ、そこにひと筋の光が……(おおげさ)
ファン・アラーノからパトリックへのアシストで先制点。
その後、きゃーと言いたくなる場面はヒガシが防ぐ。
そして、そして、鈴木武蔵の豪快ミドル。ヒガシからのバントキックをおさめて、2、3ステップでエリア外から打つ、という豪快さ。
あ〜〜〜よかった。ともあれ、すこ〜〜〜〜しだけ光がさしました。

でもってU20女子ワールドカップですが、日本代表(なでしこ、という呼び名も好きではないけれど、ヤングなでしこというのはもっとぞわっとするなあ)は見事に決勝進出。
応援している山本柚月と浜野まいかが見事なゴールを決めて、ブラジルに快勝(はちょっと言い過ぎかもしれないけれど、すばらしいゴール、素晴らしい試合)した試合の動画も貼らせてください。
WEリーグ、見にいくつもりです。もうね、応援しなくちゃ。

今朝はひっさしぶりに目覚めがとても爽やかでした。
目が覚めてからの数秒間で「気分いいなあ。天気悪いのに。なんでだろう?」と思い、そうかガンバがひさびさに勝ったからだと気づいて、自分のあまりの単純さに呆れました。

 

もうあまりに辛いのでガンバ情報をシャットアウトしているのですが、それでもちらちら目に入り、耳に入ってくるいまの最悪の状況。私個人的にも2022年の夏は「何もかもうまくいかず、がんばる方向もやり方も見えないで汗をふきながら呆然としていた時間」として記憶に残りそうです。
そんないま、別にガンバのことだけでなく言いたいことがひとつ。
なぜ他人にダメ出ししかしない人がこんなに多いのだろうか?
ということです。
仕事でも、趣味(書道やサッカー)でも、個人生活(家事育児介護)についても、私が意図していなかった方向からダメ出しをされることがあって傷つくことが最近多いのです。SNSの普及とともに、ネットでも、おそらく私が会ったこともない、おそらく一生リアルで会ったり話したりすることはないだろうと思われる人から、(ネット上の)思いもかけぬ場所で、思いもかけぬダメ出しをされて、びっくりすることがあります。
とはいっても私なんかが受けるのはたいしたバッシングではない。
ネットには有名人や政治家やニュースで話題になった人だけでなく、市井の人についてまで、面と向かっては言えないだろうと思えるほど激しい言葉を使ってダメ出しを繰り広げる人がいっぱい。私がTwitterやインスタをやらないのも、Facebookの友達をバンバン整理するのも、そのダメ出しでメンタルがやられそうだからです。小心者だから、私。何言われても泰然自若となんてしていられるタイプではない。自分に対するダメ出しはもちろん、他人へのダメ出しでも私は傷つきます。
60代もそろそろ終盤にさしかかっているいま、いまさら人脈を広げたり、あらたな人間関係を築いたりするより、いまの人間関係を整理する段階に入っているのではないか、というアドバイスを受けることがあります。その意見は尊重するけれど、私はまだまだ新しい世界に飛びこんでいって、新しい人と知り合いになり、できれば友だちになりたいです。このブログを22年も続けているのも、思いもかけない人たちと知り合って、私にとっては未知だった世界への扉を開けてくださることがあるから。 
 一概には言えないけれど、ダメ出しは、相手の一面しか見ていないことから出てくるのではないでしょうか。人間は驚くほど多面性を持っていて、「この人はこういう人だ」と決めつけることはできない、というのが70年近く生きてきた私の意見です。若いころ「この人とは意見が合わない。友だちになんかなれっこない」と思っていた人と、思いもかけず60代になって親交をあたためるなんてことも私にはよくあるのです。そしてそういう人間関係はとても新鮮で楽しい。
ダメ出しして切り捨てることで、その人やその人のやったことの別の面を見ないことはとても失礼だし、もしかすると別の面をみようとすることで、ダメ出ししている人にとっても新しい世界が開けてくることがあるのではないでしょうか?

 というところでまたガンバの話になるのですが、ガンバはだめだ、降格しても残留しても先がない、とダメ出しすると辛すぎるので、そんななかでも何か光があるのではないかと探したいです。

 覚悟していたとはいえ、辛すぎる。
 片野坂さんが解任されました。
 降格権から這い上がる気配もないようでは、致し方ないかなと思う一方で、私の気持ちとしては残念でなりません。
 片野坂さんならばガンバを立て直してくれるだろうと信じていたし、いまも信じているんだけれど、いかんせん成績とやっているサッカーは立て直しどころか崩壊一途。
 何がいけなかったのかなあと考えても、私にはわからないし、私なんかが考えてもしようがないのでもう考えないことにします。
 しかしクラブはぜひとも真剣に考えてほしいです。
 思えば2012年にトンでも監督をよんできたときから、すでに崩壊の気配があったのではないか。
 長谷川さんが立て直してくれて3冠獲ったおかげで、根本にあった問題がなおざりにされたところがあるのかも。
 あ、いけない。つい考えて分析とかしちゃってるけれど、それはもうプロにお任せします。

 しばらく私は女子サッカーに逃避します。

 清水戦は結果しか知りませんが、それ以上のことを知りたくないのでまたガンバのことはすべて封印状態になっています、すみません。
 前にJ2に降格したときに、現地で試合観戦をしなくなった私に同志が「元子さんは強いガンバしか好きじゃないんだ」と言ったことがありますが、そうかもしれません。強い、という以上におもしろくないサッカーにはつきあえないかな、というのが本音です。
 正直、 2014年に3冠獲ったあとも、ガンバのサッカーはあまりおもしろくありませんでした。なんというか、こう血が沸き立つような感動が味わえませんでした。実をいうと、日本代表の試合にもそういう感動がなくなってしまって、もしかして私はサッカーに興味がなくなってしまったのかなと思ったことがあったのだけれど、2019年に女子ワールドカップ観戦でフランスに行ったとき、フランス対アメリカの試合で以前味わったしびれる感動があって(どちらのチームもとくに応援しているわけではないのに)、まだ私はサッカーのことは好きみたいだと再認識しました。ただし、おもしろいサッカー限定かも。以前のように、高校サッカー、Jユースカップからご近所のグラウンドでやっている小学生の試合まで暇があってもなくても現地観戦していたような情熱はやや薄れていますが。
 でも来年の女子ワールドカップはぜひオーストラリアとニュージーランドで現地観戦したい、といまは意欲満々です。というのも、いま11月発売予定の、女子サッカーの歴史と現状について、英国のジャーナリストが書いた本の初校に取り組んでいて(おかげでまた夏休み返上だよ、とほほ)、それもあって現在コスタリカで開催されているU20女子ワールドカップをチェックしているからです。日本、グループリーグでオランダ、ガーナを破って二連勝中。18日にアメリカと対戦です。前回この大会の王者だった日本女子代表、頑張ってほしい!!  

ここのところ母の骨折とコロナに振り回されておりました……いや、現在進行形で、いまもって振り回されておりまする。
もう退院できますよ、という連絡を病院からもらった後、ケアマネさんや施設の人と相談して、リハビリ病院に転院させることにしました。手術をした病院にその旨申し入れて探してもらい、希望したリハビリ病院への転院が決まって、付き添いのために大阪に出かけようとした直前、病院から電話がかかってきて、転院先にコロナのクラスターが発生して受け入れられない、ほかのところを探すからとりあえずいったん転院は保留で、と言われました。
あちこち聞いてもらったのですが、どこもクラスターまで行かずとも患者さんやスタッフの方々がコロナに感染したり濃厚接触者だったりして転院先探しは難航。
そうこうしているうちに、私のまわりでもどんどん感染者が出てきて、濃厚ではないものの接触した人からも「発症しました」の通知がくるようになりました。いま私が濃厚接触者になるわけにはいかないと外に出て人に会うことを避けて引きこもること5日間。
やっと転院先が見つかったと知らせがあり、すぐほぼ始発の新幹線に飛び乗って日帰りで行ってきました。これほどまでにコロナ感染が拡大してしまうようでは、いろいろな意味で行き場所を母は失いかねませんからね。
母と会っての感想はともかくとして、主治医から言われたことが、ある程度想定していたとはいえど私にとっては少しショックではありました。
ひとつは「自立した生活に戻れる可能性はかぎりなく低い」ということ。
自立した生活とは、車椅子であっても自分の意志で移動して、食事と排泄が少しの介助があればできること」を意味しているそうです。ポイントは意志の有無と、介助の程度です。
食堂やトイレのある場所まで自発的に行く、という意志。車椅子からトイレに移動し、服の着脱をするときに手助けをしてもらう程度の介助。その二つの要件が満たされれば「自立した生活」が可能だとみなされます。つまり移動や食事、排泄にも意志を示して、介助を求めることができれば自立した生活は可能だということです。でも連れて行かれるがまま、服の着脱もお任せ、というのでは自立ではない。その区別は微妙なようでいて、実ははっきりしていることを知りました。
そう言われながらも、私はつい「リハビリしたら歩行器につかまって歩けるようになりますか?」と聞いてしまったのですが、主治医からは、奇跡が起こらないとはいえないけれど、現実的に考えてそれはもう望めないとのこと。なぜなら「動こうという意志」が、認知症が進んでいる母にはすでにないからだそう。骨折と手術でしばらく寝たきりになっていたこともあり、そもそも弱っていた筋力がさらに衰えて、現状は歩くことはおろか、自力で立ち上がることさえできない。しかも立ち上がろう、歩こうという意志が見られず、リハビリでの指示の理解もむずかしい状態では、筋力がアップすることは望めないのではないか。。。。
言葉を選んで、現状と予測を語る主治医の言葉を、帰りの新幹線で何回も反芻しました。
そうか、ついに自立した生活が望めないところに来てしまったか。それならこれからどうすればいいのか。
……そして新幹線が小田原駅を通過するころ、やっといつもの結論に達しました。
考えて悩んでもしかたない。
とにかく今日、無事ならばよしとしよう。
明日のことは考えないことにしよう。
 
その夜に見た月は、神々しいほどの輝きでした。
 
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