3月14日夜、父が89年6ヵ月の人生に幕を引きました。
昨年11月に肺癌で入院したときには、主治医から「恐らく年は越せません」と言われたのですが、正月を自宅で迎え、それどころかその後も何回か自宅に帰ってこられるほど元気を取り戻しました。
しかし、3月に入ってから次第に弱り始め、何回か危篤状態に陥ったので、本人以外の家族は覚悟をしていました。
父は最後の最後まで生き続ける意欲満々でした。あと半年、90歳の誕生日までは生きるつもりだ、と言っていました。「誤嚥性肺炎の恐れがあるから栄養はチューブで取りましょう」と医師たちが勧めても頑として聞かず(父は医師でした)、亡くなる日の昼まで酸素マスクを外しながらスプーンでおかゆをすすっていたそうです。そこまでして口から食べることにこだわったのは「今後の生活を考えると、体力をつけなくてはならないから」……恐らく、そこまで頑張ってつけた体力で、天国では元気に大好きだったゴルフを楽しんでいることでしょう。
父は75歳まで現役で忙しく働いており、その後もゴルフ、海外旅行に絵を描くなどの多彩な趣味の世界に没頭していました。そのためあまり家におらず、いても書斎にこもって書き物をしていたりしてめったに顔を合わさなかったので、亡くなった今になっても「家庭的で子煩悩な父でした」とは子供の口からとても言えません。しかも私は17歳で親元を離れてしまって一緒に暮らした期間も非常に短く、父は常に遠い存在でした。
ただ、離れて暮らす両親(特に母親)が老いの不安を訴えるようになり、しばしば実家に帰っては家事など雑事を手伝うようになってから、恐らく生まれて初めて父と一対一で話をするようになりました。といっても、いわゆる親子の会話ではなく、父から絵のことや医学の世界について、また自分が生まれ育った昭和初期から戦争の時代の話を、まるで講義を受けるように聞いただけです。娘の口から言うのもなんですが、父の話はウィットに富んでいてなかなかおもしろく、私が質問などして自分がその場で答えられないと、資料を郵送してきてくれたりして、それはそれでいい思い出です。
少し落ち着いたら、父から聞いた昭和初期の大阪の話などを書き残しておきたい、と思っています。

まずはお知らせまで。明るくにぎやかなことが大好きだった父なので、家族はみんな、笑いながら思い出話をしています。私も元気です。ばったばったで過ぎて行ったこの半年の遅れを取り戻すべく、4月からは頑張ろう!