ベストセラーや話題の本を意図的にも無意識でもほとんど読まない(もしくは、読んでもよほど面白くなくては読んだことは明かさない)私なので、私がいくら「これが今年のNo1!」と叫んだところで、大勢に影響はまったくありませんし、その本が読まれるようになるわけでもないです。
でも、自分の興味のベクトルに沿った面白い本、生きる上で力になる本がある程度見つけられるようになったのは、56年の読書経験のおかげだと自負しています。(5歳のときに祖母から「何でも好きなもん買うたる」と言われて自分で選んだ本「ピーターパン」を独力で夢中になって読んだことが本好きになるきっかけでした)商業主義に踊らされず、かといって教養主義にも陥らずに、本とつきあっていけたらいいな、と思っています。本とそういうスタンスでつきあいたいと思っている方に、少しでも「こんなおもしろい本があるんですよ〜」とささやきたい一心のつぶやき、かな。
こないだから身辺整理をしていますが、本はなかなか捨てられない。自分で言うのもなんだけれど、亭主や子供は捨てられても(いや、捨てませんけどね、と一応言っておく)、好きな本は捨てられないもんです。本好きの宿命かな(大げさ)

前置きが長くなりました。
No1と言っておきながら、実は3冊もあります。1冊はすでに当ブログで紹介した「オシム終わりなき闘い」(木村元彦著)です。
続く2冊目は
「遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち」
ベン・シェファード著 忠平美幸訳 河出書房新社
4700円(税別)もする大部な本ですが、時間をかけて読むのに価する一冊でした。
昨年と今年の2年続けて、FIFAに入れない(入らない)国や地域のサッカー協会が参加するConIFA(コニファ)という団体主催の大会を取材したのですが、そのとき欧州だけでなく世界の民族地図のf区雑さに頭がくらくらしました。特に第二次世界大戦後に書き換えられた国境線が本来の民族地図と合致していないことが現代も紛争の原因になっていることも実感しました。
戦前戦中に自主的に、また強制的に故郷を追われた移動させられた人々が、自分の身の置き所をどこに定めたらいいのわからないまま現代にいたっている。南アフリカで育ち、イングランドで教育を受けたテレビ・プロデューサーの著者はそういう人々をdisplaced personsと呼びます。ランダムハウスでは「第二次世界大戦以後戦争や圧政のために故国を追われた人、強制移住者、国外流民、特に第二次世界大戦中ドイツで強制労働をさせられた難民」と定義しています。でも、本書によれば強制的に連れてこられた人たちばかりではなく、自国で食べていけずに職を求めて移住した人たちや、ドイツだけでなく「国境」を越えて故郷以外の地に居場所を求めてさまよっている人たちもdisplaced personsに含めています。訳者は適当な日本語が見つからないことからDPとしているのですが、日本語では難民、流民、移民とどう訳しても誤解されるからしかたがないでしょう。
戦後、連合国側はDPの扱いに苦慮し、アメリカが先頭に立って彼らの身の振り方に苦慮します。ドイツの強制収容所に入れられていたDPは、主としてポーランド、ウクライナ、そしてユダヤ人たちですが、彼らの中で自分たちの「故国」に戻りたいと切望する人たちは実は決して多くなかったそうです。彼らの「故国」も受け入れを渋った。それどころかバルカン半島から連れてこられた人たち(旧ユーゴスラビア)にいたっては、「戻さないでくれ!」と懇願したにもかかわらず強制的に送り返され、国境を越えたところで全員銃殺されてしまう。DPはどこにも引き受け手がないまま、収容所に戦後何年も住み続けて地元(たいていはドイツの僻地)で持て余しものになってしまう。その後ユダヤ人はパレスチナにほぼ強制的に移住させられ、そこでもまたDP扱い。「故国」に戻らず、別の国に移住することを選択したDPも、その国や地域に自分たちの「故国」のコミュニティがしっかり出来上がっているかどうかで適応の成否は分かれた。適応できず、どこにも自分の居場所を見つけられなかったDPは不満分子となって社会を不安定にしてしまう……。
読みながら現代日本社会が抱える諸問題にも、第二次世界大戦後のDPの処遇が大きく関与していることをあらためて実感します。DP問題を理解することが、現代の世界地図を理解する上で必要不可欠なのではないか。
最後に、トロントの大司教が1955年にスロヴェニアでの再会の集会に出席したあとで書いた言葉を引用しておきます。
「移民が『祖国』を抱きしめることで自分のアイデンティティを保とうとするとき、そのアイデンティティは理想化される。祖国に戻る移民は、最初は自分の見たいものしか見ない。二度か三度訪れると、自分に何の用意ができていないかを見て取るかもしれない。そして感じ取るかもしれない。自分の理想の国は最初からなかったか、さもなければ消えてしまったのだ、と」
DPばかりではなく、今のこの世界では、人は自分の居場所を自分で見つけてつくっていかねばならないのでしょう。理想の国なんて存在しない。それは幻想でしかない、と自覚しなくてはいけない。

自分の居場所を自分でつくっていく、という覚悟を後押ししてくれたのが
「一人で生きる勇気」
ドロシー・ギルマン著 柳沢由美子訳
集英社
「おばちゃまシリーズ」で日本でも人気の高いドロシー・ギルマンの唯一のエッセイです。
タイトルに魅かれて読みました。
幼い子供を抱えて離婚し、物書きになって必死に生き延び、子供たちが自立したところでニューヨーク郊外からカナダの海辺の町、ノヴァスコシアに移住した著者が、厳しい自然や田舎の人間関係にとまどったりへこたれそうになりながら、本当の意味での「自立」の喜びと力を実感するまでの話です。
どのページを開いても、自立した人生を生きる上での知恵と勇気を与える言葉を見つけることができます。立ち止まるひまなく走り続けなくてはならない毎日を送っていて、毎晩眠る前に「こんなことでいいのか?」と自問するとき開いてみたくなる本。
今もまた開いてこんな言葉が飛び込んできました。
「わたしたちが真に躍動するのは、瞬間の中に入り込み、意識を全開にしてその瞬間を生きるときである」
未来の目標に向ってではなく、ましてや過去の思い出にしがみつくのではなく、今、この瞬間を生きること。こんなことしていていいのだろうか、将来これが何の役に立つ? とかで悩むのではなく、今、やりたいことを、精一杯やる。
さ、仕事しよ!!