(Op-Edに出演させていただいた)
ハンガリーで行なわれたConIFA欧州選手権から帰国後、記事を書くだけでなく、Op-EdというインターネットTVに出演したり、有坂哲さんが経営する裏原宿のフットボールカフェmf(エムエフ)で お話させてもらったり、ConIFAについての発信は続けていた。
(裏原宿のフットボールカフェmfで有坂哲さんとトークイベント)
今振り返ると、mfのトークイベントは、日本からの加盟と2016年のワールドフットボールカップ(WFC)出場への大きな後押しとなった。
イベントにはFCコリアのソン・チャノさんが来てくださり、 WFC出場に向けて3歩くらい気持ちが前進なさったようだったし、なんとそのとき聞きに来てくださった比良さんと斉藤さんが「アブハジア行ってみたーい!」と手を挙げられたのだ。彼女たちにはアブハジアで一緒に楽しい時間を過ごすことになるのだが、それは後の話。
そして何回かソンさんとお会いするうちに加盟に向けて、そしてWFC出場権獲得に向けて話はどんどん進んでいったそのとき、なんと木村元彦さんの紹介で、沖縄でサッカークラブの立ち上げに動いていた宮城亮さんから「ぜひ琉球フットボール協会としてConIFAに加盟したい、WFC行きたい!」と連絡をいただいた。ConIFA事務局に連絡すると、「島嶼部地域の加盟には力を入れたい、沖縄にはぜひ入ってもらいたいと思っていたから大歓迎だよ」とすぐに申請書類やらWFC主郡上希望書やら契約書が送られてきた。
ここで一つ、私の中で自分への疑問が湧き起こった。
「うーん、私はどういう立場をとればいいのだろうか?」
最初は取材をするジャーナリストの立場だった。
だが、日本のチームの加盟をConIFAに働きかけ、WFC出場に向けての準備を手伝う、となると、もはやそれはジャーナリストの立場ではなくなってくる。
しかし、日本のチームにはConIFAに加盟してほしいし大会に出場してほしい という気持ちはますます強くなっているし、残念ながら、ConIFAからの送られてくる文書もConIFAとのやりとりもすべて英語で、FCコリアにも琉球にもそれほど英語が得意な人はいない。ConIFAから送られてきた何十ページもある契約書や申請書類を日本語に訳しながらも、「私はどういう立場にいればいいのか?」と迷いは消えなかったが(今も消えていない)、ええいっ、もう今はそういうことを考えずに前に進もう! と振り払った。
そして12月、ソンさんからは「監督と相談して、在日コリアンズだからこそ南も北もない統一コリアとして加盟する。だから協会の名称はUnited Koreans in Japan FAにする」と連絡があり、琉球FAともにサインされた契約書とWFC出場希望を無事にConIFAに送ったのだった。
ConIFA 事務局のデュエルコップから、2協会の加盟受諾の連絡とともに、年次総会の案内が送られてきた。そして公式文書とは別に、彼から「これは私的なアドバイスなんだけれど」と送られてきたメールには「実はWFC出場希望を出しているチームは24ある。それもホストであるアブハジアをのぞいてだから、11の枠を24で争う激戦となる。どうしても出場したい、というのなら、年次総会に出席してプレゼンしたほうがいい。急なことで無理かもしれないけれど」とあった。
(年次総会のディナーで披露されたワールドフットボール「カップ」。わー、このカップ掲げた日本チームが見たい〜と俄然やる気になった)
ソンさんには「無理です」と言われた。いや、そりゃそうだ、1月7日からイタリア、ベルガモで開催される会議に出席しろと、12月に言われてもそりゃかなりむずかしい。
ところが宮城さんは「行きます」とおっしゃるではないか。イタリアまで行く、という発想がまったくなかった私だが、宮城さんのそのひと言で「それじゃ私も行きましょうか?」とつい言ってしまった。なぜならプレゼンは英語でしなくてはならない、宮城さんの英語力が私はあまりわからなかったが、悪いけれどプレゼンできるほどとは思えない、私がやらなくちゃいけないだろう、と思ってしまったわけだ。
最終的に、宮城さんはお子さんが生まれる予定日が1月頭で会議と重なってしまう、というので渡伊をやめられ、私は2協会の出場をかなえるべく、1月7日に日本を飛び立った。飛行機の座席についてPCを広げてプレゼンの仕上げをしながら、私の中にまたもやふつふつと疑問がわいてきた。
「いったいどうして私がイタリアまで出かけてプレゼンするんだ? 当事者でもないのに」
しかし、待ち合わせ場所のベルガモ駅前で、顔見知りのConIFAメンバーや理事たちから「わー、よく来たねー!!」「MOTOKOと再会できて、やっとハッピーニューイヤーだな」とかハグされてキスされるうちに、そういう疑念なんかどうでもよくなった。
(ベルガモ駅で待ち合わせてチッタアルタという丘のてっぺんまでみんなで上り、ピザを食べた)
そして年次総会に出席したことによって、私はConIFAメンバーの信頼を勝ち取って人脈を築けただけでなく、日本とConIFAとの関わりを一歩前進させた、と思う。先日のワールドフットボールカップで、少なくともConIFAメンバーの間では「ああ、彼らがきみのプレゼンによる在日コリアンズのチームだね」と最初から認めてもらえていたし、「きみが推薦したチームだから」と信頼を寄せてもらえた。
会議だが、日本の2協会についてプレゼンし、その後の投票でUnited Koreans in Japanは出場権を勝ち取った。結果論だが、会議出席者の前でプレゼンしたチームのほうが圧倒的に得票に有利だった。琉球には申し訳ないけれど、 United Koreansについては2年越しの根回しが効いた、とも言える。
3日間の会議と打ち合わせが終わって、私は「成果」にかなり満足して帰路についた。
(会議終了後の記念撮影@イタリアベルガモ)
しかし、United Koreans in Japanが無事にワールドフットボールカップで試合をするまでの道のりはまだまだ遠かったし険しかった。出場権獲得は富士山のふもとにたどりついただけ。それからきつい上り坂が待っているとは予感はしていたものの、想定外の出来事が次々起こって、私はアブハジアに向けて出発するまで何回もブチ切れ、へたりこみそうになったのだった。
ハンガリーで行なわれたConIFA欧州選手権から帰国後、記事を書くだけでなく、Op-EdというインターネットTVに出演したり、有坂哲さんが経営する裏原宿のフットボールカフェmf(エムエフ)で お話させてもらったり、ConIFAについての発信は続けていた。
(裏原宿のフットボールカフェmfで有坂哲さんとトークイベント)
今振り返ると、mfのトークイベントは、日本からの加盟と2016年のワールドフットボールカップ(WFC)出場への大きな後押しとなった。
イベントにはFCコリアのソン・チャノさんが来てくださり、 WFC出場に向けて3歩くらい気持ちが前進なさったようだったし、なんとそのとき聞きに来てくださった比良さんと斉藤さんが「アブハジア行ってみたーい!」と手を挙げられたのだ。彼女たちにはアブハジアで一緒に楽しい時間を過ごすことになるのだが、それは後の話。
そして何回かソンさんとお会いするうちに加盟に向けて、そしてWFC出場権獲得に向けて話はどんどん進んでいったそのとき、なんと木村元彦さんの紹介で、沖縄でサッカークラブの立ち上げに動いていた宮城亮さんから「ぜひ琉球フットボール協会としてConIFAに加盟したい、WFC行きたい!」と連絡をいただいた。ConIFA事務局に連絡すると、「島嶼部地域の加盟には力を入れたい、沖縄にはぜひ入ってもらいたいと思っていたから大歓迎だよ」とすぐに申請書類やらWFC主郡上希望書やら契約書が送られてきた。
ここで一つ、私の中で自分への疑問が湧き起こった。
「うーん、私はどういう立場をとればいいのだろうか?」
最初は取材をするジャーナリストの立場だった。
だが、日本のチームの加盟をConIFAに働きかけ、WFC出場に向けての準備を手伝う、となると、もはやそれはジャーナリストの立場ではなくなってくる。
しかし、日本のチームにはConIFAに加盟してほしいし大会に出場してほしい という気持ちはますます強くなっているし、残念ながら、ConIFAからの送られてくる文書もConIFAとのやりとりもすべて英語で、FCコリアにも琉球にもそれほど英語が得意な人はいない。ConIFAから送られてきた何十ページもある契約書や申請書類を日本語に訳しながらも、「私はどういう立場にいればいいのか?」と迷いは消えなかったが(今も消えていない)、ええいっ、もう今はそういうことを考えずに前に進もう! と振り払った。
そして12月、ソンさんからは「監督と相談して、在日コリアンズだからこそ南も北もない統一コリアとして加盟する。だから協会の名称はUnited Koreans in Japan FAにする」と連絡があり、琉球FAともにサインされた契約書とWFC出場希望を無事にConIFAに送ったのだった。
ConIFA 事務局のデュエルコップから、2協会の加盟受諾の連絡とともに、年次総会の案内が送られてきた。そして公式文書とは別に、彼から「これは私的なアドバイスなんだけれど」と送られてきたメールには「実はWFC出場希望を出しているチームは24ある。それもホストであるアブハジアをのぞいてだから、11の枠を24で争う激戦となる。どうしても出場したい、というのなら、年次総会に出席してプレゼンしたほうがいい。急なことで無理かもしれないけれど」とあった。
(年次総会のディナーで披露されたワールドフットボール「カップ」。わー、このカップ掲げた日本チームが見たい〜と俄然やる気になった)
ソンさんには「無理です」と言われた。いや、そりゃそうだ、1月7日からイタリア、ベルガモで開催される会議に出席しろと、12月に言われてもそりゃかなりむずかしい。
ところが宮城さんは「行きます」とおっしゃるではないか。イタリアまで行く、という発想がまったくなかった私だが、宮城さんのそのひと言で「それじゃ私も行きましょうか?」とつい言ってしまった。なぜならプレゼンは英語でしなくてはならない、宮城さんの英語力が私はあまりわからなかったが、悪いけれどプレゼンできるほどとは思えない、私がやらなくちゃいけないだろう、と思ってしまったわけだ。
最終的に、宮城さんはお子さんが生まれる予定日が1月頭で会議と重なってしまう、というので渡伊をやめられ、私は2協会の出場をかなえるべく、1月7日に日本を飛び立った。飛行機の座席についてPCを広げてプレゼンの仕上げをしながら、私の中にまたもやふつふつと疑問がわいてきた。
「いったいどうして私がイタリアまで出かけてプレゼンするんだ? 当事者でもないのに」
しかし、待ち合わせ場所のベルガモ駅前で、顔見知りのConIFAメンバーや理事たちから「わー、よく来たねー!!」「MOTOKOと再会できて、やっとハッピーニューイヤーだな」とかハグされてキスされるうちに、そういう疑念なんかどうでもよくなった。
(ベルガモ駅で待ち合わせてチッタアルタという丘のてっぺんまでみんなで上り、ピザを食べた)
そして年次総会に出席したことによって、私はConIFAメンバーの信頼を勝ち取って人脈を築けただけでなく、日本とConIFAとの関わりを一歩前進させた、と思う。先日のワールドフットボールカップで、少なくともConIFAメンバーの間では「ああ、彼らがきみのプレゼンによる在日コリアンズのチームだね」と最初から認めてもらえていたし、「きみが推薦したチームだから」と信頼を寄せてもらえた。
会議だが、日本の2協会についてプレゼンし、その後の投票でUnited Koreans in Japanは出場権を勝ち取った。結果論だが、会議出席者の前でプレゼンしたチームのほうが圧倒的に得票に有利だった。琉球には申し訳ないけれど、 United Koreansについては2年越しの根回しが効いた、とも言える。
3日間の会議と打ち合わせが終わって、私は「成果」にかなり満足して帰路についた。
(会議終了後の記念撮影@イタリアベルガモ)
しかし、United Koreans in Japanが無事にワールドフットボールカップで試合をするまでの道のりはまだまだ遠かったし険しかった。出場権獲得は富士山のふもとにたどりついただけ。それからきつい上り坂が待っているとは予感はしていたものの、想定外の出来事が次々起こって、私はアブハジアに向けて出発するまで何回もブチ切れ、へたりこみそうになったのだった。
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