今、岩波ホールでジョージア(旧グルジア。ジョージアという言い方がどうしても慣れない)とアブハジアの紛争を取り上げた2本の映画が公開されています。初日の昨日、2本とも見てきました。
「とうもろこしの島」
2014年 ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督 作品
「みかんの丘」
2013年 ザザ・ウルシャゼ監督作品

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 今年5月〜6月にかけて行ってきたアブハジアの紛争をめぐる映画がこの時期に日本で公開されるとは! 何という偶然……なのか?
1992年、アブハジアがジョージアから独立宣言してからジョージアとの間に大規模な軍事衝突が勃発。アブハジアにロシアがついたことで対立は激化。1994年に停戦合意が成立した後も、対立は続いている、とのこと。ジョージア、アブハジア双方に「民族浄化」が起こり、一説では3万人が死亡、25万人が難民になったとか。特にアブハジアで暮らしていたジョージア人が難民化した、と聞きました。当地に10日ほど滞在しただけでは紛争の実態はわからなかったし、ロシアとアブハジア側からしか見えなかったので、映画を観て、特にジョージア側からの見方が少しだけうかがえました。
 あらすじを書くとネタばれになってしまうのであらましだけを紹介しておきます。

「とうもろこしの島」
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現在、ジョージアとアブハジアの「国境」(もちろんジョージアは今もアブハジアを自分たちの領土だと見なしているので「国境」とは認めていませんが、ジョージア側とアブハジア側には検問があります)近くを流れるエングリ川。コーカサス山脈から黒海へと注ぎ込む川は、春の雪解け時に山々から流れてくる大量の肥沃な土砂により、河口付近にいくつもの中州ができていました。周辺の住民は春になると中州にとうもろこしの種を撒き、秋に収穫してそれを冬場の食糧にしていたそうです。現在はエングリ川上流にダムができたので、とうもろこし畑ができるほどの中州がなくなり、その習慣は失われたとか。
それはさておき、川をはさんでアブハジアとジョージアの兵士たちがにらみあい、ときおり軍事衝突を繰り返して時期に、アブハズ人の老人が孫娘をともなって中州に小屋を建て、とうもろこしを栽培します。セリフがほとんどなく、聞こえてくるのは鳥や獣の鳴き声、風と雨の音、川が流れる音、ボートを漕ぐ音、そしてときおりの銃声のみ。老人と十代前半の孫娘はほとんどしゃべらず、2人でもくもくと畑を耕し、川で魚をとり、それをさばいて焼いて食事する。
季節は春から秋へと移り変わり、 その間にいろいろなことが起こるのですが、何が起こったかは映画を観る人たちが想像しなくてはならない。
少女の両親はどうしたのか? 
老人たちはどこに住んで、何を生業にしているのか?
少女は祖父のことをどう思っているのか?
アブハズ人とジョージア人はどこが違って、なぜアブハズ人は独立を求めているのか?
そんなことを小さな中州から360度見渡す水と空と山々の映像と、音だけで想像しながら考える。 
想像しているうちに、ストーリーが浮かび上がってくる。スクリーンにはあらわれない情景、語られない感情、ひと言もふれられない主人公2人の過去と未来、それが見えて、聞こえて。わかってくる。
映像の一コマ一コマが実に雄弁。少女から大人へと踏み出す少女の性の目覚め。死を身近にして、少女の将来を案じる老人の不安とあせり。そんなすべてが煌煌と畑を照らす月や、突然襲ってくる豪雨が語るのです。
35ミリで撮られた映像は、妙な言い方ですが「真実」を写し取っている、という印象を与えました。忘れられない映画になりそうです。

「みかんの島」
アブハジア西部に100年前からエストニア人が住む集落があったそうです。紛争勃発でその大半がエストニアに帰国したのですが、残った2人のエストニア人が、戦闘で負傷したロシア側傭兵のチェチェン人とジョージア人を救ったことからストーリーは思わぬ展開を見せます。
と、これ以上は書けない。ネタばれだから。
ただ、私は「とうもろこしの島」ほど感動しませんでした。「なぜアブハジアとジョージアが戦うのか?」「紛争に意味があるのか?」という問いに対する答えが、あまりに饒舌に語られ過ぎる。紛争当事者同士にはそれぞれ言い分があるだろうし、言い分とは別に個人的に戦う理由、戦わない理由がある。それを全部語ってしまっては、その先はないんじゃないかと思いました。

チェチェン人が出てきたことで、もう1本、少し前に観た映画についても紹介しておきます。
「あの日の声を探して」
2014年 ミシェル・アザナビシウス監督
ロシアのチェチェン弾圧を、チェチェン人の一家、無理やり兵士に駆り出されるロシア人の若者、EUの人権委員会から派遣されたフランス人、国際赤十字でボランティア活動にあたるアメリカ人の4つの視点から描いた映画です。親を殺されたチェチェン人の少年が主人公なので、お涙頂戴のメロドラマになってしまうのを、ロシア人の若い兵士の視点が斬り込んでいます。が、所詮はフランスやアメリカの「西欧的視点」による切り口であることは否めない。ストーリーもロシアやチェチェンに対してちょっと上から目線すぎないか、とか思ってしまいました。
それに比較すると(比較できるものではないけれど)、「とうもろこしの島」については紛争と弾圧についての斬新な描き方を感じました。紛争と弾圧に巻き込まれた人々を描く、というのは、巻き込まれた理不尽と悲惨だけに焦点を当てればいいってもんじゃないと思います。銃弾が行き交う中でも、過酷な自然に対峙して生活を営んでいく(いかねばならない)人々の精神的な強靭さと、簡単に殺し合い傷つけ合う人々の脆さを対比させることで、見えてくるものがある。銃弾ではなく、人間を映しとらないと、紛争は描けないのではないか、と思いました。