今朝(2017年4月16日)の日経文化面に、作家の平野啓一郎さんが「「カミナリおやじ」は誰?」というエッセイを寄せられている。それを読みながら、私は不意に母方の祖父を思い出して、胸が締めつけられた。祖父は平野さんが書いているように、まさに戦争によるPTSDに苦しめられた一人だったのだ。

母方の祖父は1904年に生まれた。日露戦争が勃発した年である。亡くなったのは1998年、大量破壊兵器を所有しているという名目で、イラクを米英が攻撃した年である。なぜ戦争のことで生年と死亡年を記すかというと、祖父の生涯に、戦争が大きな影を落としていたからだ。
私は5歳から18歳まで祖父母と暮らした。私の記憶にある祖父は、今の言葉で言えば「キレる」人だった。いつ何時怒りを爆発させるかわからない。その怒りたるやすさまじく、青筋を立てていきなり物を投げる、テーブルをバンバン叩く、怒鳴り散らし、ちゃぶ台ならぬテーブルの上をムチャクチャにすることもしばしばだった。まれではあったが、私たち孫に怒りを向けることもあった。祖父が大事にしている陶器や置物を割ったりしたときだ。
もちろん、祖母や母、叔父たちが怒鳴り返したり、なだめたりしていたが、私の目から見ると「なぜそんなにおじいちゃんに甘いんだ」というなまぬるいなだめ方だった。親や学校の先生は「癇癪を起こしてはいけない」「暴力をふるうのは絶対にだめだ」とあれほど言い聞かせて子どもをしつけるのに、なぜ祖父の怒りの暴発が許されるのか、と歯がゆかった。
なまぬるさの理由がはっきりわかったのは、ずいぶん後になってからだ。

祖父は第二次世界大戦のとき、将校として中国戦線に送られた。すでに結婚して子供がいたし、戦争にはぜったいに行きたくないとひそかに思っていたし、よもや自分が行くことはないだろうとたかをくくっていた((祖父から聞いた)のに、あれよあれよという間に万歳で送り出されてしまった。しかも、読書を通じて自分が敬愛する国、中国に。
「日本軍や日本人が、どれだけ中国人にひどいことをしたか。人間はあそこまで残酷になれるんやと思い知らされた」と祖父は後年よく言っていた。そして自分が残酷なことをする側に立ってしまったことで、自分を許すことができなかった。
だから、中国での戦場で病んだ。病んで日本に送り返され、療養生活を送った。後ろめたく思いながらも少し安堵して、ようやく自宅に帰ってきた祖父を待っていたのは、なんと特攻隊の基地への赴任命令だった。終戦の前年である。そこで自分の息子たちの年代の青年を、死にに行かせる役目を負った。
祖父の何かがあのとき壊れたのだ、と後年になって母たちは言う。父の思いを知っていた祖母をはじめとする家族は、だから祖父がキレてもどこか許していた。PTSDという言葉はなかったけれど、祖父がどれほど戦争で傷ついていたのか、よくわかっていて、だから「カミナリおやじ」も許していたのだ。

戦後、祖父は強烈な反戦論者になった。
「人間として最低なのは、金儲けしようと戦争を企てるヤツらだ。そしてそれに加担する政治家は、極悪人じゃ!!」と言っていた。
今、文章にするとぬるく聞こえるだろうが、青筋を立てて、手をぶるぶる震わせて反戦の言葉を吐く祖父の口調は、地獄の底から響いてくるほどの迫力で、子供心にも本当に恐ろしかった。そしてその祖父に「おまえが極悪人じゃ!!」と名指しされ、登場するとテレビ画面に盃を投げつけられる政治家たち(思えばそのほとんどが、現政権の父親や祖父たちだ)には、軽く同情さえ覚えたほどだ。

私はずっと祖父が怖かった。今のおじいさんが孫をかわいがるようにかわいがってもらった記憶がほとんどない。それでも祖父に連れられてよく旅行したし、元ちゃん、元ちゃんと呼ばれた声は今も記憶しているのだから、疎まれてはいなかったと思う。でも旅行中も、私はいつ何時祖父がキレるかとヒヤヒヤしていて、一緒にいてあまり楽しめなかった。ほぼアル中、ニコチン中の祖父が酒を飲みまくりタバコを吸い続けて、それを祖母が注意したときに、いよいよ「カミナリ」が落ちるかなと身をすくませたら、祖父が不承不承タバコを消したので驚いたくらいしか覚えていない。旅行中で人目があるときは、祖父も自制がきいたのだ。
ところが、家の片付けをしていて見つけたアルバムの中で、私と一緒に旅行中に写っている祖父は笑顔を浮かべているではないか。それどころか、青年時代の祖父はなかなかの美男子で、はつらつとしている。新婚時代に、祖母とえらく仲良さそうに寄り添っている写真もある。母たちが幼いときに、とろけそうな父親の顔をしている家族写真もあった。
いきいき、はつらつとした笑顔が消えるのは、やはり軍服を着た写真のころからだ。終戦後には、いつも不機嫌なしかめ面で、憂鬱そうにうつむき、カメラのレンズを睨みつけている写真が増える。
晩年になり、ようやく笑顔が戻ってきたときにも、祖父の表情はどこか虚ろだ。少なくとも私にはそう映る。

祖父は教養の人だった。自分でも書画を描き、俳句を詠み、驚くほどの読書家で、歴史や文学に通じていた。美術品の目利きでもあり、まださほど有名ではない若手作家の絵や陶器を収集していた。自分の家に飾って「映える」絵を選ぶ眼識があった。私が新居に引っ越したとき、部屋の広さや間取りを聞いて贈ってくれた絵は、今も我が家の「家宝」だ。
そして食通だった。日本各地の美味を訪ねる旅にもよく出かけた。関西の料亭やレストランでも「顔」で、何かお祝い事があると私たちもよく祖父に連れて行ってもらって下へも置かぬ接待を受けた。行った先はどこも一流だったことを後で知る。そもそも中学生で京都の有名なすっぽん料亭に行ったなんて、とんでもなかったかもしれない。
そして旅行先では陶器や掛け軸を購入した(そして届いた請求書の額に祖母がキレた)。集めた美術品を、祖父は惜しげもなく人にあげた。ときおり、祖母たちが「なんであないに高いもんを、人にあげてしまうんですか!」と怒っていた。相変わらず「うるさい!」と祖父が一喝して終わったが、今思うと、自分が美しいと思うものをわかる人たちと共有したかったのだろう。
今両親の家を片付けてみて気づいたのは、祖父のコレクションが見事に何も残っていないことだ。祖父は子孫に、いわゆる金目のものを残さなかった。

祖父が今生きていたら、きっと怒り狂う毎日だろう、と思う。盃をテレビに投げつけるくらいではすまないほど怒って、私たちはビクビクしながら過ごしているに違いない。
「政治家が何をさておいても一番にやらないけんのは、戦争をせんことじゃ。若いもんを戦場に送らんことじゃ。それを日本に原爆を落としたアメリカと一緒になって、基地じゃ軍備じゃて何事じゃ!」そして祖父が吐く罵り言葉の中でも最高位となる罵倒が響きわたる。
「おまえらは、ドアホウじゃ!!」
「今、生きていたら祖父が言ったであろう言葉」ではない。安保闘争、基地問題、原子力空母の寄港のニュースが流れたときの言葉である。
時代が変わったから憲法を改正する? 違うだろう! 時代は変わっても変えてはいけないものがある。死守しなくてはならないことがあるはずだ。
祖父が残したのは、 そんな教えだった。大事にしなくてはならない。