1980年、長女を出産した夜、病院にやってきた母に「8週後には職場復帰(当時、勤めていた会社は育休制度を取り入れていなかった。産休制度も同僚たちからの嘆願書で導入された)。授乳も含めていろいろと考えなくちゃ」と私が言ったとき、母が言いました。
「私ができるだけ手伝ってあげるから、会社での仕事を続けなさい。でも、子どもを育てるというのも、人間としてとてもたいせつな仕事よ。外でお金をもらう仕事ばかりが仕事じゃない。家族が健康に生活して、子どもが安心して育つ場を作ることは、それ以上に重要な仕事じゃないかしら」 
そのときは、若くして結婚し外で働いた経験がなく、専業主婦として家庭を切り盛りすることに専念してきた母が、自分の人生の意義を強調しているのだ、とか思ったのですが、今になるとその言葉がずしんと響きます。
母の手助けがあったおかげで、私は外での仕事を続けながら2人の娘を育てられました。そして娘たちは2人とも結婚し、子どもを育てながら外で仕事をしています。私たち夫婦と同じ「共働き家庭」です。
孫が生まれたとき、一番に考えたのは「私はどんな形で、どこまで娘たち夫婦の手助けをすべきか?」ということでした。正直、無償労働でも有償労働でも現役で目一杯働いている私は、母が私を手伝ってくれたようにはとてもできそうにないし、やりたくもない。おばあちゃんの手助けなしには日常生活が回っていかないようでは、共稼ぎ家庭はサステイナブルではないのではないか。でも、そう思う反面、母が言っていたように、次世代育成こそ人としての一番大きな仕事ではないか、と思ったり。葛藤は今も続いています。
それにプラスして、夫婦二人だけになったのに、なぜか家事労働がまったく軽減されないこと、いや、軽減するどころか時間的、労力的にも増大していることに疑問と不安を感じています。自分もですが、夫の介護はどうするんだ? 娘たちには絶対に負担をかけたくない。そのためには働き方、暮らし方を変えなくてはならないのではないか。
ここ2ヶ月ほど、どうしたらいいのかという答えを求めて、以下のような本を読みました。

「家事労働ハラスメント——生きづらさの根にあるもの」
竹信三恵子著 岩波新書
家事・育児・介護という家庭内の無償労働のほとんどを女性がこなしていて、それが有償労働における男女の賃金格差を生む原因になっていることを解き明かした内容。なぜ女性たちが子どもを産みたいと思っても産むことをためらうのか、それは家事労働が無償であるがゆえに価値がないものとして、もしくは「家族の絆」とかいう情緒的な言葉で包んで圧力をかけ、女性に押し付けているからだ、という内容。家事労働の価値をどこに見いだすのか、そもそも家庭を運営することに、ビジネス産業界の論理を当てはめることに問題があるのでは、というところに頷きました。

「お母さんは忙しくなるばかり——家事労働とテクノロジーの社会史」
ルース・シュウォーツ・コーワン著 高橋雄造訳 法政大学出版
家事のための道具がどんどん便利に使いやすくなったことが、家事労働者(女性)への負担をより重くしている、ということを科学史の専門家がわかりやすく説いた内容。家電製品が安価に普及したことで、かつては男性の手を借りなければやっていけなかった家事が、女性だけでこなせるようになった。男は外で働き、女は家で家事育児介護、という近代家族が成立するのは、そういう道具が安価に普及したこともある。だが、そのうち女性が外での有償労働に関わるようになると、家事に関わらない(関われない)男性は家庭で疎外され、そのうち家庭にいる意味さえも失われていった……という話。
道具が発達しても家事労働はいっこうに楽にならず、しかも女性は家事を手放さない、というくだりに、ああ、私も手放したくないんだ、家事をより高度化することで、夫を疎外しているんだと思いましたね。

「結婚と家族のこれから——共働き社会の限界」
筒井淳也著 光文社新書
これが一番「腑に落ちた」内容でした。共働き家庭が増えて、男女が有償労働でも無償労働(家事育児)でも対等に分担するようになると、より社会格差を増大させ、子どもを産み育てにくくなる、という一見矛盾した論理(調査結果)に頷くことしきり。以下に頷いたところを引用しておきます。

「『伝統的な家族の価値観を大事に』という主張をする人たちがいますが、このような状況(注:仕事が家族のリスクになり、家族が仕事のリスクになり、この両方が人生のリスクになる、というのが日本の現状。つまり家族に最後のセイフティ・ネット機能を求めようとすればするほど、人は家族から逃げる)を踏まえれば、むしろ大切なのは『家族主義からの離脱』なのです。家族が最後のセイフティ・ネットになるような社会では、家族が失敗した時のリスクが大きくなります。ですから、安定した家族を形成できる見込みがない限り、人々は家族形成、つまり結婚を引き延ばすでしょう」
「家族の負担を減らすこと、つまりある意味での家族主義から脱することによって、人々は進んで家族を形成できるようになるのです。『家族を大事に』というのならば、家族から負担を減らして、家族のいいところだけを楽しめるような社会を目指すべきでしょう。逆説的ですが、そのような社会では私たちは家族という枠を超えた親密性の世界に生きているかもしれません。というのは、家族に頼らずとも生活していくことができるからです

 もちろん家族に特別な感情はあることは認めます。でも、家族だから家事も育児も介護も引き受けろ、それも無償で、と言われたら、そりゃ家族への感情が愛情ではなくなってしまう可能性は高い。
 共稼ぎのパパママの代わりに孫の面倒をみるおばあちゃんの気持ちに、いずれは娘や息子が自分を介護してくれるだろう、という期待がないとは言えないでしょう。私の母も「これだけ孫の面倒をみてあげたんだから、私の老後の面倒はあなたに頼むわ」と言い続けました。(そしてそれが私の気持ちを重くさせていたのは否めません)
 私は「孫の面倒をみるから、自分の老後の面倒をみて」という形で子どもたちに無償労働のお返しを期待したくないのです。だからというわけではないけれど、おばあちゃんとして孫の育児に関わることはもちろん、娘たちの家庭の家事手伝いも、本当に困っていてヘルプ要請がないかぎりやらないようにしよう、と思っています。
 家族が愛情という絆で結ばれ続けるためには、家事育児介護の無償労働を、家族だけでなく社会とも分担することが大事ではないでしょうか。どのように、どうやって分担するのか。そういう社会設計を今こそ政府に考案してもらいたいところです。