高校生の頃だったでしょうか。
担任の先生が「 親からよく言われていることはなんですか?」というような質問をして、クラス全員に答えさせたことがありました。(注:私は私立女子校に通っていました)
ほとんどの生徒が「人に迷惑をかけないように」、もしくは「人の役に立つことをしなさい」と答えたように記憶しています。まあね、高校生女子は「親や先生が期待している当たり障りのない答え」を心得ていますし、何と言っても「忖度症候群」に大半の生徒がかかっている私立女子校。いかにも親が言いそうなことを忖度し、周囲の反応も忖度して先生に答えるものです。
私も「人の役に立つことをしなさい、と言われています」とか答えたような気がします。
そして今、一億総忖度症候群にかかっているかのような日本社会になってしまったのは、「人に迷惑をかけるのは悪」「人の役に立つことをすることこそ善、もしくは義務」という教えが浸透しすぎてしまったからではないか、と思っています。
そもそもどんなことが「迷惑」なのか?
「役に立つ」とはどういう行為や人をいうのか?
それ以上に、「人」とは誰のことを指すのか?
そんなことがかなーりあいまいなままに日本社会に浸透してしまったために、「迷惑な人や行為」を過剰なまでに敵視し、「役に立つ」ことをしない人を「役に立たない人」と蔑視して排除しようとする社会になってしまったのではないか。
公共の場である電車やショッピングセンターでちょっとでも赤ちゃんが泣いたら顔をしかめ、バギーが邪魔だと言って赤ん坊と母親を睨みつけ、よろよろと杖をついて歩いているお年寄りの後ろで舌打ちする。
そういう光景を見るたびに、「迷惑をかけないように」「人の役に立つように」と耳タコで聞かされてきた自分も、似たようなことをやってしまっているのではないか、と我が身を振り返って反省します。
「迷惑」や「役に立つこと」の判断は、ときと場合によって異なるはずです。私にとって迷惑なことが、隣の人にとっては何にも気にならないことかもしれない。あなたが役に立つと思って一生懸命やったことを、相手は迷惑に感じるかもしれない。それをひとからげに「人はこういうことを迷惑と感じる」「人はこういうことを役に立つとして賞賛する」としてしまうのは乱暴なんじゃないか。
それ以上に、人に迷惑をかける人、人の役に立たない人、と自分の判断で人を非難、排除するのは、とてもこわいことじゃないかと最近思っています。
「私なんか、生きていても何の役にも立っていない」「みんなに迷惑かけるばかり」とかいう人(とくに高齢者)がいるけれど、それも「迷惑かけないこと」と「役に立つこと」に過剰に価値を置きすぎているせいではないかと。
生きている、それだけでもう十分ではないでしょうか。
赤ちゃんも、お母さんも、からだが不自由な人も、健康な人も、働いている人も、働いていない人も、高齢者も、若者も、生きている、というだけで胸張って生きていけばいいんじゃないかと。
担任の先生が「 親からよく言われていることはなんですか?」というような質問をして、クラス全員に答えさせたことがありました。(注:私は私立女子校に通っていました)
ほとんどの生徒が「人に迷惑をかけないように」、もしくは「人の役に立つことをしなさい」と答えたように記憶しています。まあね、高校生女子は「親や先生が期待している当たり障りのない答え」を心得ていますし、何と言っても「忖度症候群」に大半の生徒がかかっている私立女子校。いかにも親が言いそうなことを忖度し、周囲の反応も忖度して先生に答えるものです。
私も「人の役に立つことをしなさい、と言われています」とか答えたような気がします。
そして今、一億総忖度症候群にかかっているかのような日本社会になってしまったのは、「人に迷惑をかけるのは悪」「人の役に立つことをすることこそ善、もしくは義務」という教えが浸透しすぎてしまったからではないか、と思っています。
そもそもどんなことが「迷惑」なのか?
「役に立つ」とはどういう行為や人をいうのか?
それ以上に、「人」とは誰のことを指すのか?
そんなことがかなーりあいまいなままに日本社会に浸透してしまったために、「迷惑な人や行為」を過剰なまでに敵視し、「役に立つ」ことをしない人を「役に立たない人」と蔑視して排除しようとする社会になってしまったのではないか。
公共の場である電車やショッピングセンターでちょっとでも赤ちゃんが泣いたら顔をしかめ、バギーが邪魔だと言って赤ん坊と母親を睨みつけ、よろよろと杖をついて歩いているお年寄りの後ろで舌打ちする。
そういう光景を見るたびに、「迷惑をかけないように」「人の役に立つように」と耳タコで聞かされてきた自分も、似たようなことをやってしまっているのではないか、と我が身を振り返って反省します。
「迷惑」や「役に立つこと」の判断は、ときと場合によって異なるはずです。私にとって迷惑なことが、隣の人にとっては何にも気にならないことかもしれない。あなたが役に立つと思って一生懸命やったことを、相手は迷惑に感じるかもしれない。それをひとからげに「人はこういうことを迷惑と感じる」「人はこういうことを役に立つとして賞賛する」としてしまうのは乱暴なんじゃないか。
それ以上に、人に迷惑をかける人、人の役に立たない人、と自分の判断で人を非難、排除するのは、とてもこわいことじゃないかと最近思っています。
「私なんか、生きていても何の役にも立っていない」「みんなに迷惑かけるばかり」とかいう人(とくに高齢者)がいるけれど、それも「迷惑かけないこと」と「役に立つこと」に過剰に価値を置きすぎているせいではないかと。
生きている、それだけでもう十分ではないでしょうか。
赤ちゃんも、お母さんも、からだが不自由な人も、健康な人も、働いている人も、働いていない人も、高齢者も、若者も、生きている、というだけで胸張って生きていけばいいんじゃないかと。
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