政治家が口に出してはいけない言葉がある、と私は思っている。その一つが「自己責任」だ。失業した、住む家を失った、病気になった、などなど、困難を抱えた人たちに「それはあなたの努力が足りないからだ。もっと頑張ればよかったのに、頑張らないでそうなったんだから、それはあなたの自己責任だ」ということを、もし政治家が言ってしまったら、それは政治をあずかるものとしての資格がない。それどころか、政治家としての存在理由さえ失ってしまうのではないか。そもそも自己責任がとれない人たちが生きていけるような社会をつくるのが、政治家の仕事ではないか。
 自分で自分の生活に責任がとれる、何が起こっても自己責任で行動できる人たちは、社会的強者だ。教育を受けるチャンスを与えられ、努力ができる、もしくは努力が報われるチャンスにも恵まれ、不当なことや理不尽と思えば声をあげられる、といった力を持っている人は、社会的強者だ。
 そして今の政治家は圧倒的な力を持つ強者の集団になってしまった。ダントツの「勝ち組」だ(勝ち組負け組という言葉も私は大っ嫌いだが、ここではやむなく使う)。そして困ったことに、生まれたときから強者の集団にいて、強者の集団にどっぷりつかって教育を受け、仕事をしている人たちは、自分の価値基準でしか人を判断できない。人は努力すれば報われる、弱者も強者になれる、だから頑張れ、困ったことがあれば声をあげればいい、支援を求めればいい、と平気で言ってしまう。それができないから、困っているというのに。
 努力する、もしくは頑張るチャンスにも力にも恵まれなかった人たちが困窮した姿を見て、手を差し伸べることは、圧倒的強者である政治家の使命だと私は思っている。それなのに、何世代にもわたって強者の価値基準でしか判断してこなかった政治家たちは、弱者を切り捨てる。「自己責任だ」という冷たい(言ってはいけない)ひと言で。
 21世紀に入ってから、いや、バブルの頃からか、政治家がやっていることは社会的強者をもっと強くし、弱者が弱者になったのは「自己責任だ」と突き放すようなことばかりだ。
 これは世界的な傾向らしい。「チャヴ〜弱者を敵視する社会」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳、海と月社)は英国の労働者階級がなぜ英国社会で嘲笑され、敵視されるようになったかについて書かれた本だ。
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 チャヴとは、英国の労働者階級を侮蔑的に呼ぶ言葉だが、もとは(欧州から中東まで差別の対象となってきた)ロマ族の言葉で子どもを指す「チャヴィ」から来ているそうで、つまり激しく差別的な呼称である。ところが英国ではチャヴのファッションや生活をおもしろおかしく取り上げるテレビ番組やサイトが堂々と放送、公開されて人気を博していたり、自身は私立校出身の大金持ちのコメディアンがチャヴの口調を真似して笑いをとったりしているそうだ。
 オーウェン・ジョーンズという英国の歴史学専攻の若者が20代だった2011年に書いたこの本は、世界的ベストセラーとなり、政治運動、社会運動に一石を投じた。著者自身はオックスフォード大学のエリートという社会的強者であるが、強者であることを自覚している。自覚している、と言うのは、強者が持っている力が強者自身の努力で手にしたものでないことをわきまえている、ということだ。だからチャヴという、いまや下層階級になってしまった労働者階級に対する見方が、上から目線ではない。同情とか手を差し伸べなくては、とかいう上からの姿勢ではない。チャヴが困っていること、チャヴの人生の喜びと希望を、チャヴの側に立ってかなり公平に冷静に分析している。
 サッチャー政権時代以来、労働者階級の人々が大切にしてきた価値観はズタズタにされた。英国が厳然とした階級社会であるという現実を無視して、「がんばれば努力が報われる社会にします」(はい、どこかで聞いたことがありますね、このセリフ)とか言って、社会設計を大きく変更した。福祉を大幅に切り捨て、困っている人たちには「がんばれ」とエールだけ送り、自助努力と自己責任という言葉で斬り捨てた。
 階級のトップに立つ人たちにとっての「階級」とは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした仕事につき、まじめに働いて金を稼げれば、すいすいと階段をのぼっていけるような感覚なのだろう。だが、「ちゃんとした」教育や仕事の概念が、中産階級と労働者階級とでは異なることを、政治家たちはまったく気づかなかった。労働者階級の中には、階級の階段をのぼりたくない、いまの生活で十分ハッピーだ、という人たちだって大勢いるのだ。というか、そちらのほうが多数派だ。「自助努力で中産階級に這い上がれ」といくら鼓舞したところで、価値観が根本から違うのだから動かないし動けないし、動く気がまったくない。そういう人たちの仕事(鉱山や工場の閉鎖が1980年代から相次いだ)を奪い、若者たちの人生の選択肢を狭め、「落ちこぼれ」「負け組」とレッテルを貼って嘲笑している。それがチャヴを笑いものにしている今の英国社会だ、と著者は言う。
「労働者階級の人々を悪者扱いすることは、不合理な制度を正当化する恐ろしく合理的な手段である。そうやって彼らを敵視し、彼らの関心事を無視したうえで、いまのはなはだ不公平は富と権力の分配は、人の価値や能力を公平に反映していると正当化する。だが、この敵視には、さらに悪質な意図がある。労働者階級の特定のコミュニティをむしばむ貧困、失業、犯罪といった社会問題全般に、自己責任の原則を当てはめるという意図だ。「ブロークン・ブリテン」においては、被害者はつねに自分を責めるしかない」(引用終わり)
 今年出会ったベスト本の1冊である「子どもたちの階級闘争」(ブレイディみかこ著、岩波書店)で知った本書「チャヴ」であるが、読みながら「え? これって日本の話じゃないのか?」と思う箇所がいくつもあった。と言うか、本書はまさに日本社会に当てはまる内容だ。2011年に英国で現実だったことは、2017年の日本でも現実だ(2017年以前からもちろん現実である)。生活保護受給者へのバッシング、在日外国人(特にアジア)労働者の敵視、難民受け入れの拒否……どれも根っこのところは同じだ。弱者への敵視。弱者になったのは、弱者自身の「自己責任」だとして、その人たちが何を考え、求めているかをちゃんと見ようとしない。
 政治や社会問題なんてむずかしそう。英国は階級社会だろうけれど、日本は一億総中流社会(→いつの時代だ? そもそもそんな社会だった時代が日本にあったのか?)だから関係ない。そう言わないで、ぜひぜひ読んでみてほしい。強者/弱者、富めるもの/貧しいもの、と社会が極端な形で二分されている現実から目を背けて、弱者を敵視(「ああはなりたくない」「お友達になりたくない」という意見も含まれる)しているうちに、自らが敵視される社会になってしまう……かもしれないのだから。