(スタメン発表から試合終了まで無力感と怒りしか覚えなかったvs湘南戦から中3日で迎えたvs鳥栖戦についてはつぎのエントリーで書きます。まだ後半しかDAZN観戦していないので。ガンバ忘れる週とか言っておきながら見てるんかい、書くんかい、のツッコミはなしでお願いします)

え〜〜〜連休前半、晴天のGW(→ガンバ忘れる週ではなく、本物のゴールデンウィークを意味している)は日光鬼怒川近くの温泉旅館にこもって書道錬成合宿に参加しておりました。
2008年ガンバがACLを制覇したとき、このまま世界へと突き進んでほしい、そのためには芸術的ゲーフラを書いて世界のスタジアムに掲げなくちゃ、という思いに駆られて書道教室の門を敲いてから(→その発想は今書くと意味不明)はや10年目を迎えております。
いまやゲーフラ製作よりも作品製作へと目的が変わってしまった書道ですが、最近ますます脳裏をかすめるのが「私は何のために書道に打ち込んでいるのだろう?」という疑問です。
書道を始めて3年くらい経ったとき、先生から「書は線だね。線が引けるようになるまで、早くても10年かかる」と言われたのですが、 その10年目を迎えて、まだ線が引けない私です。いや、たまーーーーに「いい線だね」と言われる線が引けることがあるのだけれど、たまーに、じゃね。それも「こうすれば(必ず)いい線が引ける」というマニュアルみたいなものが、少なくとも私の中にまだ確立されていない。筆や紙など道具の選び方、詩文、作品構成、姿勢、体の動かし方、力の抜き方、リズム、気持ち、 気分、そんな要素すべてに気を配っても、まだ引けない。一生引けないかもしれない。がんばっても引けないけれど、がんばらなくては引けない。
時間もお金もエネルギーも相当に注ぎ込んでいる書道ですが、それじゃ私は書家になりたいのか、と問われれば、ぶるんぶるんと首を横に振ります。書家と呼ばれる方々が、どれほどのきらめく才能を持ち、どれくらい書に賭けているかを知っている私としては、口が裂けてもそんなことは言えませんし、思ってみることさえおこがましい。
それでは趣味(職業や専門としてでなく、楽しみとして愛好するもの。by「日本国語大辞典」)なのか、と言われると、それも違うような気がします。趣味と専門(職業)の間にくっきりと線が引けるものなのでしょうか? その間に区分けできないゾーンがあるのではないか。とくに書道などの芸術に関しては。ただ「書くことが好き」というだけではなく、また「生きがい」とかいう陳腐なものでもなく、もう少し深い思いを抱いて書と向き合っている、ような気がします。
10年目を迎えた今年、錬成合宿に参加しての帰り道、「全身がばりばりいっている」「もうへとへと」(書くのって実は汗だくになってしまうほど体を動かすんです)と疲労困憊し、「ぜんぜんできない」と落ち込みながらも、同時に「書と出会えて本当に良かった」、そして「健康に気を配って体力を維持し、気持ちを切らすことなく、できれば生涯書いていきたい」としみじみ思いました。
(絵に打ち込んでいた父が、亡くなる直前まで絵筆を握っていたことを思い出します。父にとっての絵画も、たぶん趣味とか専門を超えたところにあったのではないか、と)