22年前、この家に引っ越してきたとき、最寄駅の駅前には小さいながらも書店が1軒ありました。歩くと8分の隣駅にも2軒ありました。今では隣駅の駅ビルの中に1軒あるだけです。本当に寂しい。歩いて20分のところにある書店も昨年閉店しました。書店は生き延びられない運命にあるようです。
 私は書店が好きです。いや、もう「好き」という段階を超えて、愛している、いや、もっとだ、書店なくしては私は生ける屍、と言ってもいいほどです。何を大げさな、と言われるでしょうが、8歳のときから私にとって書店は「第二の自分の部屋」みたいにくつろげて楽しい場所だったし、なくてはならない居場所でした。
 電車通学だった私は、学校からの帰り道に隣駅まで寄り道して書店に立ち寄るのが楽しみでした。15歳まではお小遣いが少ないので、買うでもなく、立ち読みするでもなく、ただ、本の背表紙を眺め、ぱらぱらとめくり、あああ、大きくなったら本屋さんになろう、と思うだけでしたが、高校生になると「何を買おう」と思ってよけいに心躍る場所になりました。
 お小遣いはほぼ本に消えました。「大人の本」として初めて自分で買った箱入りの単行本は、安部公房の「無関係な死」でした。値段は覚えていないけれど、1ヶ月分のお小遣いはすっ飛びました。いや、足りなかったかも。でも、うれしかった。「幽霊はここにいる」の舞台(田中邦衛主演)を見てから、安部公房に取り憑かれていたから、どうしても彼の本が欲しかった。「図書館で借りなさい」と言われても、それじゃダメなんだと思いました。そして文庫本しか並んでいなかった自分の書棚に、赤い函に入って、薄紙のカバーがついた憧れの作家の本が並んだときは、もう誇らしくて身震いしました。
 私が通いつめた「宝盛館」という阪神芦屋駅前の書店は、今もあります。実家に帰省したとき、たまに立ち寄って存在を確かめたりしていました。
 書店ラブな話を書こうと思ったのは、昨日の日経最終面の文化ページに、作家の小野正嗣さんが寄稿なさった「書店という文芸共和国」という文章を読んだからです。
 胸、どころか、胃袋にまでしみわたるようないい文章で、最後の数行に私はとくに感動しました。ちょっと長いけれど、引用します。
「自己や他者、そして世界とよりよく向き合うために、書物を、とりわけ異国で書かれた作品を読むことを必要とする人々が確実に存在する。既知に安住することなく、異なるものへたえず好奇心を向ける読者たちが、本への愛と情熱を共有する場所としての書店。そこには、国家間の力関係からは自由な、想像力と共感を紐帯に人々が平等に交流しあう<文芸共和国>が開かれている」
 記事の内容は、出版総数に翻訳書が占める割合が3%にすぎないアメリカにあって、翻訳書を中心に扱っている書店が全国にあちこちある、という話です。うらやましい。「異なるものへたえず好奇心を向ける読者」がそれだけ存在していることがうらやましいだけではありません。そういう読者を発掘しようとする書店員の努力があり、異国の作家を呼んで読書の夕べを開く文化があること、それがうらやましいのです。
 日本の書店も相当の努力をなさっています。それでも、<文芸共和国>として経営が成り立っていく書店が、いったい日本に何軒あるでしょう? いや、それ以上に、学校帰りに子どもが気軽に立ち寄って、見知らぬ世界に存分にふれる機会をあたえてくれる書店は全国にどれくらい残っているのでしょうか?
 本は勉強のため、知識を得るための道具ではない、と私は思います。そして書店は、情報や知識や時間つぶしのための消費財を置いているスーパーではないのです。少なくとも、私にとって書店は、昔も今もワンダーランドです。何に出会えるのかわからなくて、でもきっとすてきな経験へと導いてくれる予感でわくわくと胸が高まる不思議の国、それが書店です。行ったことがない国、食べたことがない食べ物、味わったことがない感動、そんなものに出会えるワンダーランド。
 書店のない国には住みたくないです。