5月31日から6月9日までロンドンで開催されたCONIFAワールドフットボールカップが終了し、一昨日帰国しました。
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(優勝したのは、ウクライナ国内のハンガリー語を話す人たちのチーム、カルパタリア。監督が胴上げされていました)

楽しいこと、感動したこと、嬉しかったことがいっぱいあった反面、腹が立ったこと、疑問に思ったこと、イラついたことなどもいっぱいあり、でいささか疲れました。
大会についての感想はもう少し落ち着いてから書くことにしますが、こういった国際大会やら会議に参加するたびに思うのは、立場や考え方が異なる人たちの意見に耳を傾けつつも、自分の意見をびしっと伝えることがいかに重要か、ということです。
日本社会で育ち、日本語を話す人たち同士で話し合っていると、つい「これくらいは常識として通じるだろう」とか、言葉が多少足りなくても「私が思っていることは伝わるだろう」と期待しがちです。相手の意見についても、表情を読んでなんとなく察してしまったり、場の空気を読んでしまったりする。「つまりこういう結論に持っていきたいってことね」と察すると、そこであえて反対することがむずかしくなったりします。親子や夫婦の会話でも、会社の会議でも、日本では共感と同調がよしとされるし、共感と同調を呼び覚ますような「根回し」が重要です。
ところが、CONIFAのようなマイノリティやら未承認国家やらの一癖も二癖もある人たちと話し合いをするとなると、一から十まできっちり説明し、顔色なんかうかがわずにびしっと言わないとまったく伝わらない。私の常識は相手の非常識。場の空気、読めません。そもそも場の空気なるものが存在するのかどうかもわからない。「ええええ〜〜〜???!!!」という意見が出てくるわ出てくるわ! それにまた賛成と反対の間にあるグレーゾーンの範囲が広すぎる。最終的に多数決で決めるのだけれど、賛成、反対、どちらに手を挙げるにせよ、なぜ賛成なのか、どれくらい反対なのか、こういう条件がつけば賛成するなのか、反対する場合の代替案はあるのか、など何かしら意見を言わないといけない。主張と協調が問われるのです。
どちらが民主的か、とかそんなことははかりようがないのだけれど、CONIFAの会議では少なくとも共感と同調を期待してはいけないんだ、ということはここ何年かで悟りました。あとから「それはいやだ」ということが出てきても「あのとき意見を言わなかったじゃないか」と言われたらもう反論ができない。
そんなわけで、疲れました。主張し、協調するのって、共感し、同調するのとはまったく別のエネルギーがいるんです。共感同調の栓を閉めて、主張し協調に持っていくためのエネルギー栓を開け続けていたもんで、ふだんとちがったエネルギーを倍くらい噴出させてました。
しばらくは共感同調の栓をゆるゆると開けながら暮らしたいです。

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(ハーフタイム
にゆるゆると地元のお子ちゃまたちが芝で遊ぶ、というのもイングランドらしいです)