観たい観たいと思いながら、時間とチャンスがなかった映画2本を最近観てきました。
「スリー・ビルボード」 (マーティン・マクドナー監督 主演のフランシス・マクドーマンドがアカデミー賞で主演女優賞、警察署長を演じたウッディ・ハレルソンが助演男優賞、で話題)
「女は二度決断する」(私が敬愛するファティ・アキン監督作品。カンヌ映画祭でパルム・ドール賞を惜しくも逃すも、主演のダイアン・クルーガーが女優賞を受賞)
まずは「スリー・ビルボード(Three Billboards)」(えーっと細かいこと言うようだけれど、ビルボーズ、と複数にしない理由がビルボーズだったらわかりにくい、というのだったら、「3枚の広告板」とか直訳にしたほうがまだ意味が伝わるのでは?)
ネタバレしない程度にあらすじを書いておくと、ミズーリ州の田舎町で、娘がレイプされた上に焼き殺されたにもかかわらず、7ヶ月たっても捜査がいっこうに進展しないどころか、周囲も警察も過去の事件にしてしまうのではないかと怒った母ミルドレッドは、町外れの道路脇の大看板3枚を借り受けて警察署長あてのメッセージを掲出した。
「私の娘はレイプされて焼き殺された」「 まだ犯人はつかまっていない」「どうして、ウィロビー署長?」
車で町にやってくる人の目に、いやでも入る赤の地に黒ででかでかと書かれた強烈なメッセージ。
それで娘を殺された母親に対して同情が集まるだろう、と思いきや、ミルドレッドは町中の人たちから「ウィロビー署長に対してなんてひどいことをするんだ」「いくらなんでもやりすぎだ」と非難される。
なぜなら、ウィロビー署長は人望厚く、美しい妻に子どもたちがいる理想の家庭を築いていて、しかも癌で余命がさほど長くないとみんな知っていたから。
なぜなら、ミルドレッド自身が気が強いおばはんで、娘は品行方正というわけではなかったし、ミルドレッドの夫は自分の娘と変わらない女の子と浮気して家を出ていってしまっていて、家庭は崩壊していたから。
人格者の警察署長 対 気が強く愛想がないかわいげのない女
女に勝ち目はありませんね。娘が惨殺されたのだから同情が集まってもよさそうなものだが、田舎町の人たちはミルドレッドと彼女がやったことに対してごうごうたる非難を浴びせるのです。
それどころか、看板の製作を引き受けた会社に警察官が押し入って、ミルドレッドに言われるままに看板を立てたという理由で、青年社長をぼこぼこにしてしまう。なのに、警察官はおとがめなし。
おまけに、ミルドレッドが働いている土産物店の女性店長(ミルドレッドの唯一の友人)は、ミルドレッドに加担したという理由で逮捕され、留置所に入れられてしまう。
だが、この映画がすごいのは、田舎町の狭いムラ社会の人間関係はコワイね、とかそういう話に落とし込んだりしないところです。ハリウッド映画にはめずらしく、クライマックスもなければ、ハッピーエンドもない。
観客はひたすら問いかけられ、考えさせられます。
善人とは何か? 正義とは何か?
ミルドレッド自身も途中でその答えが見つからないことに気づきます。ウィロビー署長も、彼を慕うあまりに署長に楯突く人たちに暴力をふるっていた警察官も、あれ? 自分たちがやっていることは、正義なのか、いいことなのか、と疑問が湧いてくるのです。
自分が拠り所にしていた善悪の判断、正義不正義の境目が揺らぐことで、町は恐怖に陥れられます。
そして、娘の復讐のために正義の闘いを挑んだはずだったミルドレッドでさえも、最後には自分が拠り所とすべきものを探す闘いの旅に出る、、、、。ま、私のうがった見方ですが。
そして「女は二度決断する」。これまた「闘う女」が主人公なのですが、実はこの映画をどうとらえたらいいかまだ結論が出ていません。
ファティ・アキン監督が描きたかったのは、ドイツの移民問題でもなければ(移民問題は物語の背景、だと思いますが)、家族を奪われた女性の復讐ではなく、もっと人間の本質に迫る普遍的なテーマだったのではないかと思います。
あらすじを簡単に書いておくと、ドイツ北部の町、ハンブルク。ドイツ人の女性カティヤは、トルコ系移民(というかクルド人)の夫と6歳の息子と暮らしていました。ある日、息子を夫の会社に預けて臨月の女友だちと遊びに出かけて会社まで帰ってきたら、夫たちがいたビルが爆弾テロで吹き飛ばされ、夫も息子も殺されたことを知らされます。なぜ? どうして? と悲しみのどん底に突き落とされるカティヤ。
やがて警察の捜査で、ネオナチの若い夫婦が犯人として逮捕されるのですが、裁判で決定的な証拠がないことと、カティヤと夫が学生時代に麻薬をやって刑務所に入っていたことが心証を悪くしたこともあって、ネオナチ夫婦は無罪放免になってしまいます。そしてカティヤは犯人夫婦がギリシャに潜んでいることを突き止め、後を追う、、、、あとはネタバレになるので書くのをやめておきます。
映画の中で私がとても印象に残ったシーンが2つあります。
1つは、裁判で検死官の女性が淡々と夫と息子の検死報告書を読み上げるシーン。幼い息子が亡くなったときの模様を、身体の破損状態(熱風を吸い込んで喉が焼けただれ、爆弾に仕込まれた釘が全身に刺さり、、、、)で知らされるカティヤ。私はこのシーンで、自分の身体にも痛みを感じました。喉や腕に疼痛を感じたほど。カティヤは読み上げられている最中にふらふらと立ち上がり、裁判が行われている部屋を出ていき、廊下であえいで苦痛に身体を震わせました。
2つ目は、裁判が終わったあと、タトゥショップで刺青に大きく刺青を入れるところです。(しかも刺青の絵柄が「サムライ」って!)その前に女ともだちに「気が遠くなるほど痛いんだけれどね」と言っていたはずの刺青を、まるで自分への罰のように入れるカティヤ。
この2つのシーンだけでなく、衝撃的なストーリーをアキン監督は言葉以上に身体で描いている、身体に語らせている、と思いました。
痛みや苦しみの表現だけではありません。ドイツ人とクルド人、ギリシャ人などの民族による「相違」、男性・女性の性的身体の「相違」、テロリストの若者とその親という世代的「相違」など、「相違」を身体で表現することによって、問題は「相違」にあるのではないことに気づかされます。
うーん、うまく言えない。もう少し消化が必要です。
私が若いころには、女性は対男性、対男性が既成化した社会に闘いを挑んでいたのだけれど、闘う対象は少し違ってきたのではないか、という印象を持った2本の映画でした。
ただ一つだけ言えるのは、闘い続ければいつかは必ず勝つのだということ。闘いを放棄した時点で、みじめな敗残者になってしまうのだ、ということ。それを教えてくれた映画でもありました。
「スリー・ビルボード」 (マーティン・マクドナー監督 主演のフランシス・マクドーマンドがアカデミー賞で主演女優賞、警察署長を演じたウッディ・ハレルソンが助演男優賞、で話題)
「女は二度決断する」(私が敬愛するファティ・アキン監督作品。カンヌ映画祭でパルム・ドール賞を惜しくも逃すも、主演のダイアン・クルーガーが女優賞を受賞)
まずは「スリー・ビルボード(Three Billboards)」(えーっと細かいこと言うようだけれど、ビルボーズ、と複数にしない理由がビルボーズだったらわかりにくい、というのだったら、「3枚の広告板」とか直訳にしたほうがまだ意味が伝わるのでは?)
ネタバレしない程度にあらすじを書いておくと、ミズーリ州の田舎町で、娘がレイプされた上に焼き殺されたにもかかわらず、7ヶ月たっても捜査がいっこうに進展しないどころか、周囲も警察も過去の事件にしてしまうのではないかと怒った母ミルドレッドは、町外れの道路脇の大看板3枚を借り受けて警察署長あてのメッセージを掲出した。
「私の娘はレイプされて焼き殺された」「 まだ犯人はつかまっていない」「どうして、ウィロビー署長?」
車で町にやってくる人の目に、いやでも入る赤の地に黒ででかでかと書かれた強烈なメッセージ。
それで娘を殺された母親に対して同情が集まるだろう、と思いきや、ミルドレッドは町中の人たちから「ウィロビー署長に対してなんてひどいことをするんだ」「いくらなんでもやりすぎだ」と非難される。
なぜなら、ウィロビー署長は人望厚く、美しい妻に子どもたちがいる理想の家庭を築いていて、しかも癌で余命がさほど長くないとみんな知っていたから。
なぜなら、ミルドレッド自身が気が強いおばはんで、娘は品行方正というわけではなかったし、ミルドレッドの夫は自分の娘と変わらない女の子と浮気して家を出ていってしまっていて、家庭は崩壊していたから。
人格者の警察署長 対 気が強く愛想がないかわいげのない女
女に勝ち目はありませんね。娘が惨殺されたのだから同情が集まってもよさそうなものだが、田舎町の人たちはミルドレッドと彼女がやったことに対してごうごうたる非難を浴びせるのです。
それどころか、看板の製作を引き受けた会社に警察官が押し入って、ミルドレッドに言われるままに看板を立てたという理由で、青年社長をぼこぼこにしてしまう。なのに、警察官はおとがめなし。
おまけに、ミルドレッドが働いている土産物店の女性店長(ミルドレッドの唯一の友人)は、ミルドレッドに加担したという理由で逮捕され、留置所に入れられてしまう。
だが、この映画がすごいのは、田舎町の狭いムラ社会の人間関係はコワイね、とかそういう話に落とし込んだりしないところです。ハリウッド映画にはめずらしく、クライマックスもなければ、ハッピーエンドもない。
観客はひたすら問いかけられ、考えさせられます。
善人とは何か? 正義とは何か?
ミルドレッド自身も途中でその答えが見つからないことに気づきます。ウィロビー署長も、彼を慕うあまりに署長に楯突く人たちに暴力をふるっていた警察官も、あれ? 自分たちがやっていることは、正義なのか、いいことなのか、と疑問が湧いてくるのです。
自分が拠り所にしていた善悪の判断、正義不正義の境目が揺らぐことで、町は恐怖に陥れられます。
そして、娘の復讐のために正義の闘いを挑んだはずだったミルドレッドでさえも、最後には自分が拠り所とすべきものを探す闘いの旅に出る、、、、。ま、私のうがった見方ですが。
そして「女は二度決断する」。これまた「闘う女」が主人公なのですが、実はこの映画をどうとらえたらいいかまだ結論が出ていません。
ファティ・アキン監督が描きたかったのは、ドイツの移民問題でもなければ(移民問題は物語の背景、だと思いますが)、家族を奪われた女性の復讐ではなく、もっと人間の本質に迫る普遍的なテーマだったのではないかと思います。
あらすじを簡単に書いておくと、ドイツ北部の町、ハンブルク。ドイツ人の女性カティヤは、トルコ系移民(というかクルド人)の夫と6歳の息子と暮らしていました。ある日、息子を夫の会社に預けて臨月の女友だちと遊びに出かけて会社まで帰ってきたら、夫たちがいたビルが爆弾テロで吹き飛ばされ、夫も息子も殺されたことを知らされます。なぜ? どうして? と悲しみのどん底に突き落とされるカティヤ。
やがて警察の捜査で、ネオナチの若い夫婦が犯人として逮捕されるのですが、裁判で決定的な証拠がないことと、カティヤと夫が学生時代に麻薬をやって刑務所に入っていたことが心証を悪くしたこともあって、ネオナチ夫婦は無罪放免になってしまいます。そしてカティヤは犯人夫婦がギリシャに潜んでいることを突き止め、後を追う、、、、あとはネタバレになるので書くのをやめておきます。
映画の中で私がとても印象に残ったシーンが2つあります。
1つは、裁判で検死官の女性が淡々と夫と息子の検死報告書を読み上げるシーン。幼い息子が亡くなったときの模様を、身体の破損状態(熱風を吸い込んで喉が焼けただれ、爆弾に仕込まれた釘が全身に刺さり、、、、)で知らされるカティヤ。私はこのシーンで、自分の身体にも痛みを感じました。喉や腕に疼痛を感じたほど。カティヤは読み上げられている最中にふらふらと立ち上がり、裁判が行われている部屋を出ていき、廊下であえいで苦痛に身体を震わせました。
2つ目は、裁判が終わったあと、タトゥショップで刺青に大きく刺青を入れるところです。(しかも刺青の絵柄が「サムライ」って!)その前に女ともだちに「気が遠くなるほど痛いんだけれどね」と言っていたはずの刺青を、まるで自分への罰のように入れるカティヤ。
この2つのシーンだけでなく、衝撃的なストーリーをアキン監督は言葉以上に身体で描いている、身体に語らせている、と思いました。
痛みや苦しみの表現だけではありません。ドイツ人とクルド人、ギリシャ人などの民族による「相違」、男性・女性の性的身体の「相違」、テロリストの若者とその親という世代的「相違」など、「相違」を身体で表現することによって、問題は「相違」にあるのではないことに気づかされます。
うーん、うまく言えない。もう少し消化が必要です。
私が若いころには、女性は対男性、対男性が既成化した社会に闘いを挑んでいたのだけれど、闘う対象は少し違ってきたのではないか、という印象を持った2本の映画でした。
ただ一つだけ言えるのは、闘い続ければいつかは必ず勝つのだということ。闘いを放棄した時点で、みじめな敗残者になってしまうのだ、ということ。それを教えてくれた映画でもありました。
コメント