2ヶ月にわたる断捨離とリフォームが一段落して、朝7時30分にピンポンと業者さんが来なくなって2日たちました。
取り憑かれたように整理しまくったおかげで、家の中はすっきりと片付きました。少なくとも私の目の届く範囲の空間には、すがすがしい空気が流れています。
ところが、私はなんだかとても疲れてしまってこの2日間、家の中でごろごろしています。怒涛の断捨離で体力を一年分使ってしまったような気分。
業者さんが入れ替わり立ち替わり入るので家をあけられない期間中に「あれもしよう、これもしたい(具体的に言うと、映画館で映画を見よう、展覧会を見に行こう、おしゃれして出かけよう)」と思っていたのに、いざ誰も来なくなって家にいる必要がなくなったら、あらあら、腰が上がりません。それともこれまで執着してきたものを処分するという断捨離のおかげで、物欲が減じた? いや、残念ながらそれはないな。「これを捨てて、あれを買いたい」とか考えているものな。単に疲れているだけですね。片付け疲れ、断捨離疲れ。
と言っておきながらですが、頭の芯がしびれるほどの疲労感とともにかすかに湧き上がってくるのが解放感です。ああ、この10年気持ちを引っ張っていた重石がやっと軽くなって、自由になったな、という感じ。これで明日から、私は心置きなくどこにでも行けます。極端なことを言ってしまえば、それこそあの世にも思い残すことなく行けそうです。

 ぼーっとしながら思っているのは、「今でなくては断捨離はできなかった」ということです。もう少し若いと、日々の仕事に追われて家の整理なんかやってられなかったし、そもそも「老後を迎えるために整理をしよう」という発想も湧いてこなかったでしょう。
 明日も今日と同じような毎日がやってくると信じていられたのは、私の場合は父が亡くなった60歳のときまででした。「そうか、私だって明日はどうなるかわからないんだ」ということが現実感をもって迫ってきたときに初めて、後仕舞を真剣に考えるようになったのです。
 昨年親の家を片付けたときに、「自分の子どもたちには親の家の整理をさせたくない。子どもたちのエネルギーや時間を私たち親の後始末に使ってもらいたくない」と切実に思ったのが、今回自分の家の断捨離決行のエネルギーになりました。でも、もしあと数年ぐずぐずしていたら、そんな自戒などすっかり忘れ、断捨離エネルギーは霧散していたでしょう。
 そしてあふれるほどのモノに囲まれながらも、整理をしていないために「あれがない、これがない、仕方ない、また買おう」とかなってますますモノを増やして足の踏み場もなくなり、ゴミ屋敷認定されていたかも。想像するだけでゾッとします。

 親を見ていて思うのは、70の坂を越えたら、次世代のことを考えて自分の身の後始末をつけることは、体力的気力的にとてもむずかしくなってしまい、自分たちの日々の生活を送るだけで精一杯になる、ということです。それに70年以上積み重ねてきた自分の生活スタイルを変えるエネルギーはもう無くなってしまうし、変える必要性も感じなくなる。
 両親ともに70代になってから、2人で高齢者向けの施設をあちこち見学に行ってました。ところが、私から見ると「すてきじゃない!」と思うような施設でも、あれこれ気に入らないところをあげては「このまま行くところまで行く」という結論に達して、結局動きませんでした。老夫婦2人にはどう考えても大きすぎたし、管理がむずかしくなってきた家から動けなかったのは、「この家をたたむ元気がない」ことが一番大きな理由でした。「片付けないと他所には行けない」とモノが溢れている部屋を見わたし、「とっても片付けられない。だからこのままここで暮らしかないのね」とため息をつくことが10年以上続きました。
私はできればモノと家に縛られずにこれから生きていたいです。
明日、とは言わなくても、1ヶ月あればたためる家にしておきたい。
「ここではないどこか」へ行くことが、現実として考えられる状態にしておきたい。
その「どこか」が外国であっても「うん、行けるよ!」と言えるようにしておきたい。

でも、まずはその前に疲労を取らないとね。
久しぶりに走ってこようかな。