Prideという言葉をランダムハウス英和辞書で引くと、一番に出てくるのが「(心に抱く)うぬぼれ、思い上がり、(行動に現れた)横柄さ、傲慢」です。誇りとか自尊心というプラスの意味が出てくるのは3項目目。ジェイン・オースティンの « Pride and Prejudice »という有名な小説の日本語タイトルは「高慢と偏見」が一番有名。「自負と偏見」とか「自尊と偏見」とかもあるけれど、小説の内容からすると「高慢と偏見」が一番しっくりだと思います。
ここ10年ほど、両親のことがあって、高齢者の方と、または介護にかかわる方たちとおつきあいをすることがあるのですが、そこで非常によく耳にするのが「(高齢者の方の)プライドを傷つけないことに気をつかう」とか「誤ったプライドがリハビリの、または介護の邪魔になる」といった言葉です。特に長く社会で活躍した男性の方々と接するときには、「プライド」が重要になるとのことで、ちょっとした言葉や態度でいったんプライドを傷つけてしまうと、その後のコミュニケーションがまったくうまくいかなくなる、という話を介護や理学療法士の方からよく聞きました。
父のつきあいでときどきリハビリ教室を見学していたのですが、和気藹々と楽しそうにリハビリに励んでいるのは9割がおばあさまたちで、おじいさまたちはむすっとして車椅子に座ったまま立ち上がりもしないか、もしくは理学療法士の先生が「危ないからやめてください」と制止するのもきかないで一人で黙々と歩行訓練をしていて、みんなと一緒に行動しようとしない。たしかに集団でのリハビリは、ちょっとお遊戯みたいな感じがしないでもないのですが、でもせっかくなんだから一緒に楽しめばいいのに、とか私は思いながら見ていました。
お調子者の父はリズム体操がワンテンポツーテンポ遅れることをおばあさまたちにからかわれながらも、休憩時間におばあさまたちに囲まれておやつをもらったりして「人生、最終盤でモテ期が来た」とか楽しんで通っていました。見栄っ張りで、かっこを気にする父でしたが、若い理学療法士の「もうちょっとがんばりましょう」「いいですね。よくできました」とかいう言葉にも結構嬉しそうに反応していました。でも、帰り道で「ああやって子供扱いされることで、プライドが傷つく男性が多いんや」と言うから、「お父さんはプライドが傷つかへんの?」と聞いたら、「そんなとこでええかっこしーしてプライド振り回してどないすんねん。かっこつけんのはほかでやったらよろし」と言ってました。父にとってプライドとは、「やらんでもええところで、ええかっこしーをすること」を意味していたようです。
実は私も見栄っ張りです。でも、還暦を過ぎてから「まあ、こんなところで見栄張っても無駄に疲れるだけでいいことないなあ」と思うようになってきて、できないことはできないと認めるようになりました。たとえばフルマラソンはもうできないし、ランニングもちょっとがんばってしまうと膝が痛くなります。もうサッカーはできないし、徹夜も無理だし、大酒も飲めないし、外食が2日続くとたちまち胃をやられる。でも、ゆっくりだらだらとだったら10キロは歩けるし、太極拳もできる。ちょっと気をぬくとすぐに太るし、なかなかやせられない。でも、ありがたいことにだぶついたお肉を隠すような服を選べばいい、と開き直れるようになった。自分の子どもくらいの年齢の人にあれこれ意見されても、あきらかに自分のミスや力不足だと思えば「ああ、まったくそのとおりです。ほんとごめんなさい」と言ってしまう。以前は言えなかったし、腹を立てていた。プライドが消えたとは言わない。むしろ違うところで、父のいう「ええかっこしー」をするようになった気がします。
それでも言いたい。
私はプライドという言葉が嫌いです。
邪魔なプライドはさっさと捨てたい。
プライドを捨てたら、気持ちよく老いられる気がしています。
そんなことを思っている今夜はフルムーン
ここ10年ほど、両親のことがあって、高齢者の方と、または介護にかかわる方たちとおつきあいをすることがあるのですが、そこで非常によく耳にするのが「(高齢者の方の)プライドを傷つけないことに気をつかう」とか「誤ったプライドがリハビリの、または介護の邪魔になる」といった言葉です。特に長く社会で活躍した男性の方々と接するときには、「プライド」が重要になるとのことで、ちょっとした言葉や態度でいったんプライドを傷つけてしまうと、その後のコミュニケーションがまったくうまくいかなくなる、という話を介護や理学療法士の方からよく聞きました。
父のつきあいでときどきリハビリ教室を見学していたのですが、和気藹々と楽しそうにリハビリに励んでいるのは9割がおばあさまたちで、おじいさまたちはむすっとして車椅子に座ったまま立ち上がりもしないか、もしくは理学療法士の先生が「危ないからやめてください」と制止するのもきかないで一人で黙々と歩行訓練をしていて、みんなと一緒に行動しようとしない。たしかに集団でのリハビリは、ちょっとお遊戯みたいな感じがしないでもないのですが、でもせっかくなんだから一緒に楽しめばいいのに、とか私は思いながら見ていました。
お調子者の父はリズム体操がワンテンポツーテンポ遅れることをおばあさまたちにからかわれながらも、休憩時間におばあさまたちに囲まれておやつをもらったりして「人生、最終盤でモテ期が来た」とか楽しんで通っていました。見栄っ張りで、かっこを気にする父でしたが、若い理学療法士の「もうちょっとがんばりましょう」「いいですね。よくできました」とかいう言葉にも結構嬉しそうに反応していました。でも、帰り道で「ああやって子供扱いされることで、プライドが傷つく男性が多いんや」と言うから、「お父さんはプライドが傷つかへんの?」と聞いたら、「そんなとこでええかっこしーしてプライド振り回してどないすんねん。かっこつけんのはほかでやったらよろし」と言ってました。父にとってプライドとは、「やらんでもええところで、ええかっこしーをすること」を意味していたようです。
実は私も見栄っ張りです。でも、還暦を過ぎてから「まあ、こんなところで見栄張っても無駄に疲れるだけでいいことないなあ」と思うようになってきて、できないことはできないと認めるようになりました。たとえばフルマラソンはもうできないし、ランニングもちょっとがんばってしまうと膝が痛くなります。もうサッカーはできないし、徹夜も無理だし、大酒も飲めないし、外食が2日続くとたちまち胃をやられる。でも、ゆっくりだらだらとだったら10キロは歩けるし、太極拳もできる。ちょっと気をぬくとすぐに太るし、なかなかやせられない。でも、ありがたいことにだぶついたお肉を隠すような服を選べばいい、と開き直れるようになった。自分の子どもくらいの年齢の人にあれこれ意見されても、あきらかに自分のミスや力不足だと思えば「ああ、まったくそのとおりです。ほんとごめんなさい」と言ってしまう。以前は言えなかったし、腹を立てていた。プライドが消えたとは言わない。むしろ違うところで、父のいう「ええかっこしー」をするようになった気がします。
それでも言いたい。
私はプライドという言葉が嫌いです。
邪魔なプライドはさっさと捨てたい。
プライドを捨てたら、気持ちよく老いられる気がしています。
そんなことを思っている今夜はフルムーン
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