自分の過去を振り返ってみて、あのとき(本当のところ)何があったのか、を検証しよう、という試み第一弾です。
第一回目、記憶として鮮明に残っている一番古いころの話から始めます。幼稚園年長組にいた1959年から60年にかけてのことです。なぜそのころの記憶が残っているのかとここ数日考えていて思いついた理由の1つ目は5歳になって字が読めるようになったこと、2つ目に家にテレビがやってきたことです。文字と映像は記憶をあとあとまで鮮明に残すんじゃないでしょうか。脳科学者ではないからしかとはわからないけれど。
生まれたのは尼崎市でしたが、1958年私が4歳、妹が2歳のときに、両親が母方の祖父母に私たちを預けて外国に行ったために、芦屋市に引っ越しました。前にも書きましたが、母方の祖父が非常に癇性な人で、ちょっと何か気に触ることがあると額に文字通り青筋を立てて怒鳴りまくり、ものは投げるは、机を叩くは、食卓をひっくり返すは(卓袱台返し、ですね)、で子どもの私はとても恐れていました。
 だから、芦屋の家に連れてこられたとき、玄関に出迎えた祖父の顔を見たとたん、恐怖におののいて、泣いてわめいて暴れて手がつけられなかった……ということも覚えています。家の玄関前にかえでの大木(子どもの目には大木に思えた)があり、そこにしがみついて家の中に入ることを断固抵抗した、という記憶まで残っています。親においていかれて不憫だと思ったのでしょうか、今にも祖父が切れそうになるところを、祖母が必死に「子どもは泣くだけ泣いたら気がすむんじゃけえ、放っておきなせえ」(岡山弁)ととりなしてくれました。
 両親はどこに行ったのか? アメリカです。なぜかというと、医者の父が奨学金をもらって(だか、給費生か何かに選ばれたのかも)アメリカの大学で学ぶことになったからです。為替レートは固定制で1ドル360円、外貨持ち出し制限がある時代でした。だから幼い子どもを日本に残して、何も母まで一緒に行かなくても、と今の私は思いますが、父が「どうしても連れて行きたい」と母なしでは行かないとごね、せっかくのチャンスをふりかねなかったのと、母も母で「何もかも日本より進んでいる(らしい)アメリカに行ってみたい」と思ったのでしょう。
ちなみに父と母の出会いの場は「英会話教室」でした。英語を学ぶ動機は父の場合は留学でしたが、母はアメリカへの憧れからでした。「戦争中は英語がいっさい使えなくて、ちょっとでも英語っぽい言葉をしゃべったら『おまえ、非国民や』とそしられたのに、戦争が終わったとたんにハロー、イングリッシュ、カモンカモンやったからなあ」と言っていたのは父です。(えーっと、両親ともに英会話はいま一つでした。一緒に海外旅行に行くと、ガイド役も交渉役も私か夫でした。親には悪いけれど、留学しても英語がぺらぺらになるわけではないのだなあ、と思ったりして)
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(こんな船でアメリカはニューヨークに渡ったのです。片道7日間。中央で手を振っているのが父です)
 当時はとくに医学に限ったことなく、工学、法学、文学なんでも「アメリカに留学せんと使い物にならん」(祖父の弁)と考えられていたのです。箔をつける、というだけでなく、何事もアメリカさまに学ばなくては日本の戦後復興はありえない、という時代でした。アメリカは日本人みんなの憧れ、アメリカ人は賢くて金持ち、アメリカは進んでいる、だから英語が話せなくてはこれから日本で生きていけない、というくらいアメリカ信奉が大人から子どもまで蔓延していた、ように思います。少なくとも幼い私の周囲では。
 ところが、前のエントリーで書いたように、ある日私は祖母と一緒にバスに乗っているとき「安保反対!」と叫ぶデモ隊に出会うのです。そういえば、家にやってきたブラウン管テレビのニュースでも、「あんぽはんたいうんどう」と盛んに言っています。祖母は「あんぽんたんのエラい人が、あんぽんたんの国の言いなりになっとるんじゃ」と吐き捨てるように言いましたが、祖父などはテレビに岸信介首相が出てきて安保について何か話し始めると、きききーと歯ぎしりをして、額に浮き出るほど青筋を立て、手にしていた盃を大事な大事なテレビの画面に向かって投げつけ、「あほんだらが! アメリカの言いなりになって日本をどないしよるんじゃ!」と喚くのです。(盃はなぜかたいていテレビ画面から明後日の方向に外れて飛んでいったし、盃に酒は一滴も入っていませんでした。テレビは「家宝」だったし、酒も貴重品だったから)その時点で私はもう恐くて涙目になってしまいます。早く「あんぽ」の話が終わってほしい。心底そう願いました。
 そしてもう一つ子ども心に不思議に思ったこと。あれほど「アメリカは進んでいる、アメリカにはなんでもある、アメリカはすごい、日本が戦争に負けたのも当然じゃ」とアメリカを信じ奉っている祖父母なのに、なぜか「安保」の話になるとアメリカを罵り、アメリカを信じたら日本は潰されてしまう、というのか? パパやママが行っている国なのに、大丈夫か?
 長じて「日米安保体制」とはいかなるものかがわかったとき、戦争を経験し、米軍占領時代を経てきた祖父母のアメリカに対するアンビバレントな気持ちがようやくわかったように思いました。祖父母ともに死ぬまで強烈な戦争反対主義者でした。とくに祖父は少しでも戦争の気配を感じると、それだけで恐怖を感じていたようです。子どものときの記憶が日露戦争から始まり、第二次世界大戦では満州で戦い、病気になって内地に戻ってきたものの、そのまま特攻隊の基地に送られて終戦を迎えた祖父にとって、戦争は憎むべきもの、何もかも破壊してしまう怪物のようなものだったのでしょう。
 自分が生まれたときから戦争をしていた日本が、さあこれから軍隊を持たない、2度と戦争をしない国になるよう憲法で定めた、といっても祖父はすんなりと信じられなかったのかもしれません。だから朝鮮戦争をきっかけに日本の「再軍備」がアメリカ主導で始まり、アメリカ軍の基地が日本のあちこちに置かれている現状に、大いに危機感を募らせていました。55年体制になったとはいえ、同じ党の中でも派閥があり、護憲派と改憲派で揺れていて、テレビで流れる国会中継はつねに怒鳴り合い罵り合いで何一つ決まらないのを見るたびに、祖父はぶるぶるとからだをふるわせ「そげなことばっかりやっとって、また戦争に巻き込まれたらどないするんじゃ!」と政治家に怒りを爆発させました。
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(「日本20世紀館」小学館より。このデモの前、全学連主流派が国会に乱入し、警官隊と大乱闘になって樺美智子さんが犠牲になりました。私は今でも「安保」と聞いた瞬間に、樺さんの遺影を掲げたデモが頭に浮かびます)


 そして岸首相がアメリカに行って、吉田茂首相が1951年にアメリカの言うままに結んできた日米安全保障条約を、今度は「日米が対等の立場で結び直した」と言っても、祖父たちはまったく信じられなかったに違いありません。あらたにとは言っても、基地はこのままアメリカに貸すし、アメリカに協力する(日米地位協定ですね)といい、何かあったらアメリカは日本をぜったいに守ってくださいね、という内容だと知ったとき、不安が一気に高まったのではないでしょうか。「アメリカは日本に原爆を落とした国やぞ。なんでその国が護ってくれると思うんじゃ! このどあほうが!」。祖父の怒りがこちらに向かないうちに、私はそそくさとごはんをかきこんで、逃げたものです。
  アメリカは憧れの国。アメリカは進んだ国。アメリカは自由の国。
 でも、アメリカは日本に原爆を落とした国。
 あのころの私の家では、というか私の中では、アメリカの存在はとても複雑でした。