5年前のちょうど今頃、父の死期が迫っていることを医師から告げられた私たち娘は、母にそれをどう伝えようかと悩んだ。話し合った末に、主治医から母にやんわりと伝えてもらうことにしたのだが、それでも母が受けたショックは予想を超えて大きく、しかも私たちが思ってもみなかった反応だった。
母の第一声は「私には家族がいなくなる!」だったのだ。
「お母さんは私たち子どもを家族と思っていないの?」と聞く私たちに、母はきっぱりと答えた。
「あなたたちにはあなたたちの家族がいるでしょ? でも、お父さんがいなくなったら、私には家族はもういない。私の面倒を見て大事に思ってくれる家族はもういなくなるのよ。私は一人になってしまう」
以来、私は「母にとって家族とは何か?」に始まり、「私にとって家族とは何なのだろう?」と考え続けている。なぜなら、母と私の関係がぎくしゃくし、葛藤を生んでいるのが「家族観の違い」に起因することがわかってきたからだ。
母にとって家族とは「価値観と規範を共有し、互いに絶対の信頼を置くべきで、何があっても助け合うべき人間関係」を意味している。親の価値観や規範を子は踏襲すべきで、それは子が成人しても、自立しても、自分の家庭を築いても変わらない。それが母が考える「あるべき家族像」だ。
私は50歳を超えてもなお、事あるごとに母から「あんたの言うことはおかしい。間違っている。親の私の言うことを聞きなさい」と叱られていた。そして馬鹿正直に「いや、お母さんの言うことのほうがおかしい。私のことだから私の思うようにする」と言っては喧嘩になり、それが度重なっていくうちに、私は母から「家族」と認められなくなってしまったわけだ。
それでは私にとって「家族」とは何か。家族とは、究極のセーフティネット、と私は考えている。できるかぎり自立して生きていくのが基本だけれど、いよいよどうしようもなくなったときに、頼り、頼られる存在、それが家族。
母の家族観と一致しているのは「互いに信頼を置き、助け合うべき人間関係」という点だ。
だが、価値観や規範の共有は家族には必要ないし、むしろ異なって然るべしだと私は思っている。価値観なんて、育った環境や世代によって異なる。たとえ子どもといえども、成人して自立した生活を営んでいる人に、親だからという理由だけで、私と同じように考え、同じような規範に従って行動すべきだ、とはまったく思わないし、強制なんかしたくない。むしろ、子どもには私とは異なる価値観を持ってほしいし、できるならもっと柔軟で多様な価値観を持っていてほしいと願う。
ただ、人生、思うようにいかないことのほうが多いし、生きてりゃ失敗の連続だ。いよいよ行き詰って立ち往生してしまったときに、たとえその人のやったことが自分の規範に照らして間違っていると思っても、「私の言うことを聞かなかったあなたが悪い」「そんなのは自業自得だ、自己責任だ」と見捨てるのではなく、「もうしょうがないね」とため息をつきながらでも手を差し伸べる関係が「家族」ではないか。
究極の事態におけるセーフティネットとなるためには、日頃の関係構築が必要だと私は思っている。そして「この人なら信頼がおける」と互いに思える関係を築くには、距離の取り方が肝心。自立した大人同士として互いの生活を尊重し、互いの領域にやたらと踏み込まず、価値観や規範を押し付けあわないこと。相談されたら「私ならこうする」と言っても、「あなたはこうするべきだ!」とは言わないこと。
それは家族だけでなく、他人との人間関係ではないか、家族ならもっと親密でなくては、と言う人もいるだろう(母のように)
だが、血縁だけを根拠として、もしくは法律に基づいて「家族」を定義し、「家族ならこうするべきだ!」と言うのはなかなかにむずかしくなっている、と思うのだ。
日本は未曾有の高齢化社会となり、私より上の世代でも単身世帯が急増している。若者たちの雇用も不安定で、安心して子どもが産めて、育てられる環境にあるとは言いづらい。そんな時代を踏まえた上での「家族観」が必要になっている。
おそらくあと20年経って、私が母と変わらない年齢になったとき、私にもセーフティネットとしての「家族」が必要となるだろう。もうそれは避けられないこと。セーフティネットとなるのが子どもたちである可能性は今のところは高いけれど、でも、子どもにかぎらなくてもいいと思う。友だちとか地域の人とか、もしくはその道のプロだったらもちろんのこと、子どもだったとしても、日頃から信頼関係を築く努力が必要になる。セーフティネットとなってくれる人と、「家族」関係を築く努力を続けていくことーーそれこそ、21世紀を生きる上で心しておかねばならないことかもしれない。