先日、母のことについて、かかりつけの医師に相談に行ってきました。その際に、はっと胸をつかれることを医師に言われて、以来自分の中でその言葉を噛み締めています。
 母は若いときから運動が苦手で嫌いで、からだを動かすことに消極的でした。いまもそうです。いまいるホームでは、たくさんの運動プログラムが用意されていて、さかんに勧められるのですが、1、2回は顔を出しても、なんやかやと言い訳をこしらえてやめてしまいます。 
 今回、私が心配でお医者さんに会おうと思ったのは、母が薬をちゃんと服用していないことに気づいたからです。というか、前々から私が「さあ、食後の薬を飲んで」といって薬の封を破ってコップとともに渡さないと飲まない。しぶしぶ飲んだあとに決まって「こんな薬飲んでも、なんの効き目があるのかわからない」という。 介護保険を利用して、お薬カレンダーを毎週届けてもらっているのだけれど、それでも飲み残しはいっこうに改善されない。
 そのことをお医者さんに訴えて、「先生から薬をちゃんと飲むように、運動もするようにと言ってもらえませんか?」と頼んだら、医師から「それはできません」とはっきり言われました。
「いま処方している認知症のためのお薬は、劇的に物忘れが直ったりする効果があるのではなく、現状をできるかぎり維持するためのものだ、ということは診察のたびに申し上げています。また運動機能が衰えて歩行困難になると、一気に老化が進みます、と運動もおすすめしています。でも、薬をのむのまない、運動するしない、というのはご本人の意志にかかっています。望むような効果があるわけではなく、副作用もあるのだから薬をのまない、というのも1つの選択ですよ。また歩くと足が痛くなるし、疲れる、だから歩かない、というのもご本人の選択です」
 そうかぁ〜と私はいたく感じいりました。
 メディアではしょっちゅう、80代、90代で矍鑠と活動し、老いなんかなんのその、自立して社会的にも活躍しているスーパー老人が取り上げられます。それが高齢化社会における老い方の理想像とされているところもあります。
 でも、スーパー老人になんかなりたくない、ぼけてわけわからなくなったっていいじゃないか、という老い方を選択する人がいたっていいはずです。 自分の衰えを素直に受け入れ、老いにあがらわずに老後を送るのだって一つの理想としていいはずです。老い方の選択肢がいくつもあるほうが、高齢化社会は豊かだと言えるのではないか。
 家族に看取られて、苦しまずに穏やかに死ぬことが老人の死に方の理想とされているけれど、みんながみんなそういう死に方を本当に望んでいるでしょうか? 1人で死んでいった人を、みじめだ、かわいそう、とあわれむのは生きているものの傲慢ではないか。
 生き方に関しても、もしかすると社会が押し付けた理想に振り回され、それにそぐわないことで悩んだり苦しんだりしている人もいっぱいいる
 人それぞれ、与えられた寿命もちがえば、生まれ育った環境もちがっています。こういう生き方、老い方、死に方をしたい、と願ったところで、それがかなえられる人なんてほとんどいないのではないか。選択したくなくても選ばされることだってある。意識的にせよ、無意識にせよ、何かしら「選択」できる人は、平和で安全な社会に生きていて、ある程度健康で経済的にさほど困窮していないということで、その意味で幸せで恵まれているのだと思います。
 そして医師の言葉を反芻しているときに気づいたのですが、老い方、死に方の選択は、生き方の選択の延長線上にある、ということです。つまり、自分の意志で選んでいった道の先に老いと死があるのだ、ということ。 今日の私の選択が、80歳、90歳の私に深く影響しているのです。そう心して、やっぱり私は日々の運動と食事に気を配る健康ばあさんでいようと思いました。
  
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