幼稚園から小学校にかけて、私は母親や学校の先生たちから、何かヘマをして、叱責されるたびに言われたのが、1)だらしがない、2)不器用、3)粗忽、4)鈍臭い、5)物覚えが悪い、この5つでした。
 もうね、耳タコでこの5つの叱責を繰り返されて、私は割に最近まで自分のことを「整理整頓ができず、何をやらせても不器用で、おっちょこちょいで早とちりの粗忽者で、運動神経がなくて鈍臭く、人の3倍努力しないと何事も覚えられない人間」だと信じ込んでいました。人の言うことを素直に、というか鵜呑みにして信じてしまう「鈍臭い」性格なので、とくに母親から二言目には言われる「あんたはだらしがない」「あんたは人の3倍努力しないと人並みになれない」という言葉を鵜呑みにして「私ってこういう人間だから、しかたないよね〜〜」とか思っていました。
 でもさすがに40歳をすぎるころから「いやいや、そういう決めつけはおかしいよね」「本当の私はそれほどひどくはないのではないか」とか思い始め、はやりの「自分探しの旅」を愚鈍にやり続けてきた気がします。
 とくに60歳を迎えたときに、なんとか整理整頓ができるように、スケジュール管理をしてできるだけ「やらなくてはならないことをやること」を心がけ、不器用なりに時間をかけても習得することを自分に課してきました。幼少時から叩き込まれてきた「鈍臭い私」におさらばしたかったのです。
 5年間がんばってきて、ふと気づいたこと。
 鈍臭くて不器用でだらしがないのも「本物の私」だけれど、整理整頓を愚直にやって、不器用を努力で補って、粗忽者にならないようにゆとりをもって行動することを心がけるのも「本物の私」だと言うことです。
 つまり、世間さまが決める「本物の私」なんてものは、ない! 他人様に「あなたらしい」「あなたらしくない」と言われても、いやいや、他人様にとっては「らしくない」と見えるところも、実は私なのです。他人(親きょうだい夫子どもを含む)が期待する「私」になることも、ときには大事かもしれないけれど、ある程度の年齢に達したらもういいんじゃないか。人間ってのは、さまざまな面があって、世間に見せている表面だけを見ての人物評価ではまったく十分ではない。掘り下げれば掘り下げるほど自分自身でもとらえきれないほどさまざまな「自分」がいる。
 そういうさまざまな「自分」を素直に外に出していけるのが、たぶん高齢者の特権だろうと思うことにしたのです。
 そう思わせてくれたのが、芥川賞作家、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」の主人公、日高桃子さんでした。
74歳の桃子さんがある日気づくこと。
「老いると他人様を意識するしないにかかわらず、やっと素の自分が溢れ出るようになるらしい」
 素の自分、でもそれは万華鏡のように光の当て具合、動かし方によってさまざまな変化するのです。自分の見方によってさまざまに変化することこそが「素の自分」
 私と同い年の若竹さんが描いた73歳の日高桃子さんが私に、自分探しの旅なんてやめちゃいなよ、と言ってくれたような気がします。
fullsizeoutput_7b1c