以前からここでも書いているように、私はオリンピックというか今のIOCという組織に対する不信感があるので、東京でオリンピックを開催することについても誘致段階から歓迎する気にはなれなかったし、ましてや「東日本大震災からの復興の証としての〜」とか「コロナ禍を克服した証としての〜」なんて掲げられた目標?については、冗談じゃない、どこが復興だ、どこが克服だ、と鼻白む思いだった。
 そこにもってきての森女性蔑視発言である。以前から自民党の政治家たちの女性蔑視(もう蔑視とかの段階ではなく、女性を人間として認めていないことを露呈するトンデモ発言だと常々思っているが)の姿勢には怒りを通り越して、精神構造がどこかおかしいんじゃないかと疑うほどになっていたので、森発言騒動についても「ああ、またか」と驚きはない。オリンピック憲章に反するような発言である、ということが辞任の理由とあるが、いやいや、オリンピック憲章以前にあそこまで性差別の発言を公の場でスピーチとして言ってしまって、しかもその場にいた人たちが誰も止めないで笑っていた(たとえ苦笑としても笑ってたんですよね)という時点で、もう2021年に生きている社会人として終わっちゃってるでしょう、というのが私の今の気持ちである。 
 でも今ここで書きたいのは、今回の森発言騒動やオリンピックのことではなく、こういう性差別発言があったときに、発言した本人がよくいう「またそんなこと(性差別発言)を言ってと妻に叱られた」とか「私にも娘がいるので、男女差別をしないように常々心がけている」という言い訳(?)である。私はそれを聞くたびに、ムカーッと腹が立つのだ。なぜそこで自分の身内の女性たちを引き合いに出すのか。もしかして「私は家庭内では妻や娘たちを大事にして敬っている。だから性差別主義者ではない」と言いたいのだろうか? 
 パートナーを大事にするとか敬う、というのは、パートナーがどんな考えをもっているかを知っていて、その主張や思想を尊重することだ、と私は思う。たとえその主張や思想が自分とは違うと思っても、頭ごなしに「そんなのはおかしい」という前にまずは耳を傾けることだ。また、自分とは意見が異なると思ったときも、その違いが「性差」によるものだと決めつけないことだ。「女はそういうことを言いがちだよな」とか、「世の中のことがよくわかっていない(おんな)だからそう考えるんだ」と言って、黙らせたりしないことだ
だが、公の場で性差別発言をしたりセクハラをする人は、自分のパートナーに何か意見があるということさえも考えない。森さんのパートナーがどんな方か私は全く知らないが、パートナーと議論はもちろん、対等に話をしたことが本当にあるのだろうか? 娘が何を考え、どんなことを求めているかを考えたことがあるのだろうか? 家庭内であっても、女性たちの意見に耳を傾けず、そもそも聞く気などまったくないからこそ、公の場でも「悪気もなく失言してしまう」(無意識の差別発言っていうのは悪気ない失言のことをさす)のではないか? 
 そもそも無意識に、悪気なく、軽い冗談のつもりで、性差別発言をしてしまう人は、家庭内でも「大切にしている」はずのパートナーや子どもたちに向かっても同じように、無意識に、悪気なく、軽い冗談のつもりで、性差別発言をしているのではないか、と私は思っている。そういう発言をしてしまう背景には、パートナーや子どもたちを自分とは異なる考え方をする一個の人間であると考えていないのではないか?
 家族は一心同体ではない。別々の心とからだを持った一個の人間の集まりだ。自分とは違う考えを持つ一個の人間として相手を見ることで、初めて信頼関係が生まれるし、相手を敬うといっていいのではないか。自分とは違う人間と「家族」を形成していると言っても、その違いを安易に「性差によるもの」と決めつけないで、ただ「自分とは違う人間なんだ」と考えることだ。
パートナーが自分とは違う一個の人間と見ていない人は、家族も支配/被支配の関係で考えがちである。「うちはカカア天下(死語)でして、女房に頭が上がらないんですよ(妻を支配者として立てることで甘えている)」とか「家の中のことは妻に任せていますので、私は何にもわかりません(ウチのことは妻、自分は外の=公の世界で生きているからね、という上から目線)」とか(自慢げに)言う男性がよくいるけれど、そもそもそれこそがパートナーや子どものことを対等に見ていない性差別発言だと私は思っている。いまどきの男性はそういうことは言わないと思いたい。
 性差別意識は家庭からスタートする。私も家族を支配/被支配関係におかないように、本当に気をつけたい。でないと、外の世界でも差別発言をしてしまいそうだから。