またもや緊急事態宣言が延長される中、ワクチン接種のお知らせが届くのを首を長くして待っている高齢者の私です。届いたら、ネットで予約をとることに最低でも1日は潰さねばならないと予想しているので、いま仕事のスケジュール表をにらんでいるところです。どうも来週には届きそうなので、来週は予定をもろもろキャンセルしてワクチン接種予約との闘いだな……って、そんなことに高齢者のエネルギーを使わせないでほしいわ、ほんと。
→と書いた直後にワクチン接種券が送られてきて、ネットで予約したら、拍子抜けするくらいあっさりと予約できました。といっても7月末が第一回です。モデルナ製かな?  無事接種できますように。

 高齢者施設にいる母は施設側が手配をしてくれたそうで、私は役所から送られてきた必要な書類を作成してケアマネージャーさん宛に届けただけ。本当にありがたいです。何回言ってもコロナウイルスが感染症であることはもちろん、コロナウイルスという名称も記憶できない(娘の名前もしばしば忘れているくらいだから、新参者のウイルスの名称なんてそりゃ無理です)後期高齢者には、行政や施設が迅速にまとめて対応することは必須ですね。
 私はできるかぎり長く今住んでいる家で暮らしていきたいのだけれど、パンデミックや災害が起きたときのことを考えると、施設に移り住むことも考えた方がいいのかもしれません。 他人の手を借りないで自立して生きて死にたいという願いは願いとして、現実にはそんなことは不可能だと今回のパンデミックで思い知らされたので、いかに「自立」の期間を引き伸ばすかだけでなく、行政やプロ、渋々だけれど家族の助けをどうやって借りたらいいのかを考えている時期に来ています。
 「自立」は成人して以降、私の人生の最大といってもいいほどの大きなテーマで、21年前(そう、ブログ創設21年経ちました)からこのブログで何回となく書いてきましたが、65歳を過ぎ、そしてこのパンデミックで行動が制限される中で、私のこれまでの「自立」のイメージは大きく揺らいでいます。何よりも大きく変わったのは、「人の助けを借りなければ人は生きていけない。誰に、どのような助けを借りるのかを真剣に考えることも自立した人間のやること(やるべきこと)だ」ということです。
 もちろん助けに対する対価(金銭を含む)は支払わねばならないのですが、でも「カネ払ってるんだから、これだけやってもらって当然」なんていう考えは自立した人間には許されることではないし、また「前に助けてあげたんだから、今度は私が助けてもらう番(子供が高齢の親の面倒を見るのはあたりまえ、という発想にも通じますね)」という考え方も自立した人間には許されないことだ、と思っています。
 かといって、「迷惑かけてごめんね」とへこへこする必要もない。正々堂々と「これこれを助けてほしい。ここまでは自分でできたけれど、それ以上は無理だ。お願いしたい」と頭を下げて交渉すること。これが自立した大人のやり方ではないか、と。
 ポイントは「ここまではできる」という範囲をできるかぎり広くとっておけるように今から準備することかな、と思っています。たとえば、ワクチン接種の予約をとることも、すでに予約できた人にどうやったかを聞いて(PCを使った方がいいのかとか、時間帯は何時ごろがいいか、とか)、まずは自分でやってみる。でもどうしても繋がらずに予約ができないようであれば、そういう予約に強い人にお願いする、というのも手ではないかと(スポーツやコンサートのチケット争奪戦でいつも勝っている人、くらいの意味で、転売業者とかではありません)
 高齢者(私を含む)とカテゴライズされると、「あれもできない」「これも無理」とレッテルを貼られてしまうのだけれど、一人ひとり背景も能力も考え方もちがうから、当然、自立度もちがえば、そもそも「自立」の概念もちがうでしょう。現在88歳になる母は、70代に入ったときから「私はもう年寄りだからこれはできない、あれもできない、面倒臭い、あんたやって」と家事はもちろん、家の管理や金銭管理まで全部私に丸投げしてきました。でも自分は社会的に自立した大人だと主張し、自分で自分のことを年寄りと言っておきながら、私を含めた他人から高齢者扱いされると烈火の如く怒ります。いまだに。
 年齢や性別でカテゴライズしてしまったら、見えなくなってしまうことがいっぱいあるけれど、「自立した生活」の概念は人によって大きく異なることを、まずは心しておかねばならない、と自戒しています。
 それを踏まえた上で、私の「自立した人間として生きて死んでいく」目標達成のための第一歩は、ワクチン接種をできるかぎり早くすませることだな。