ワクチン接種1回目が終わった実川です。大手町で接種したのですが、入ってから出てくるまで約1時間。私は甲殻類アレルギーがあると問診のところに書いたので、打ってから30分の待機時間がありましたが、それがなかったらおそらく40分弱じゃなかったでしょうか。実にシステマティックに運営されていました。ちなみにまだ副反応はありませんし、注射そのものはチクッとしたかな? くらい。2回目は7月中旬。夏休みは少しは気楽に過ごせるでしょうか。
という報告はさておきまして、先月からまた映画館で映画を観賞することを再開しています。NetflixでもAmazonプライムでもたぶん観られないだろうなあと思うような映画は、映画館に足を運ばねばなりません。その中から「観てよかった❤️」と感動した作品の感想を書いておきます。
『海辺の彼女たち』
藤元明緒監督の長編2本目(1本目についてはのちほどふれます)。新聞で映画評を見て、即チケットを予約しました。ベトナムから技能実習生として日本にやってきた3人の女性たちが主人公。ベトナムにいる家族を養うために日本に出稼ぎに来た3人は、「技能実習」とは名ばかりで、残業代はおろか給与もまともに支払われないのに休みがずっとなしで1日10時間労働みたいなブラックな職場で働かされ、たまらずブローカーの手引きで青森県の漁村で住み込みで働くことになります。そして1人がベトナムにいる恋人の子供を妊娠していることがわかり、でも恋人とは連絡がとれず、どうしたらいいのか途方に暮れる中で彼女だけでなくほかの2人も追い詰められていきます。
すごく暗いストーリーではあるのだけれど、決して絶望的な悲劇を描いているわけではない。また日本社会が抱えている「技能実習生なしに成り立たないのに、搾取をまるでなかったように無視する」という暗部をえぐっているのだけれど、つばを飛ばして告発しているというのでもない。かといってベトナム人女性のたくましさが素晴らしい、というのでもない。
生き抜くために必死ではあるのは彼女たちだけでなく、ブローカーのお兄さんたちや漁村のおじさんたちも病院のスタッフもみな真剣に(あがくほどに真剣に)生き抜こうとしている。必死になるほどに哀しみも増していくのだけれど、それでも生活は続いていく(まさにLife Goes On)
ある意味やりきれなさも感じたのですが、見終わって席を立つときには、ほんの少しあたたかいものを感じていました。最後のシーンが、外では冷たいミゾレまじりの風が吹き付ける中、3人が寝ぐらにしている漁師小屋をぼんやりと照らす電気ストーブが、若い彼女たちのエネルギーを象徴しているように思えたからかもしれません。
『僕の帰る場所』
藤元監督の長編1作目。建築の専門職を志してミャンマーからやってきたアイセ、夫を追って2人の息子を連れて日本にやってきたケイン、長男のカウンは小学5年生だが生後8ヶ月で来日して日本の保育園から小学校に進学したので、普通に日本語を話し、自分は日本人のつもりでいます。弟のテッは日本で生まれていま小学2年生。まだまだ父親にも母親にも甘えてわがまま言い放題。父アイセは難民申請をしてもしても認められず、ついに入国管理局に連れていかれてしまいます。母は夫が不在の生活に不安を覚えて精神が不安定になり、 ある日ついに「ミャンマーに帰る」と決意しました。
息子2人を連れ、夫を日本に置いてミャンマーの実家に帰ったケインはしだいに落ち着きを取り戻し、テッもミャンマーの生活になじんでいくのですが、一人カウンだけは言葉が通じず、生活習慣が日本とは大きく異なるミャンマーになじめません。電話で父に「いつ日本に帰れる?」「日本に帰りたい」「ぼくは日本人だ」と訴えるのだけれど、難民申請が認められず不法滞在者のレッテルをはられた父アイセには息子を日本に呼び戻す力はないのです。 ついにカウンは一人で日本に帰ろうと決めて飛行場を目指して家出をするのですが……。
映画初出演の子役たちと実のお母さんの演技があまりにも自然で、ついドキュメンタリーだろうかと思うほど。実の親子だからこその甘え方や反抗っぷりがこの映画の主題である「日本の難民政策がかかえる大きな矛盾とそれが生む悲劇」をより鮮やかに浮かび上がらせています。父親役のアイセだけが(シロートではあるけれど)本物の父親ではないそうで、パンフレットで「子供たちが最初はどうしてもアイセをお父さんと呼べなかった」というエピソードを読んで微笑ましく思いました。父も息子たちも頑張ったな、と。
ところで、ポレポレ東中野でこの映画を見終わってから、藤元監督にサインをいただいて少しだけお話する機会を得ました。実はこの映画を見に行った動機の一つに、日本に滞在しているアジア系の人たちの支援に今私自身が少しだけかかわっているということがあるからで、そのことについても少しお話できました。 いまミャンマーは本当にたいへんなことになっています。自分には何ができるだろうかといつも考えているのだけれど、たとえばこの映画のパンフやMakingのDVDを購入することくらいならできるし、ブログでこうやって映画のことを書くこともできる。藤元監督とお話しして、できることから少しずつやっていきたいとあらためて思いました。
『ファーザー』
フローリアン・ゼレール監督作品。
アンソニー・ホプキンスはもちろんすごい俳優だということはよくわかっていたのですが、この作品の認知症の演技には圧倒されました。何がすごいって、認知症の進行具合を「目」で示しているのです。よく小説で「目に不安が宿っている」「目がうつろ」「目が泳いでいる」という表現が書かれているけれど、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるたびに「それはこういう目のことを言うのか」と分かったのです。ラストシーンでの彼と介護士のキャサリンとのやりとりは、認知症患者の現実と妄想の間を揺れ動く不安定な精神状態をどんな本よりも如実に語っている、と思いました。
アンソニー・ホプキンスはラストシーンで初めて助けを求めます。「ママ、助けて」(私もしょっちゅう母に「お母さん、助けて」と言われる)「もう何がなんだかわけがわからない」(これもしょっちゅう母から聞く言葉)と介護士に向かって助けを求めるときの彼の目は、まるでガラス玉のように内面からの光をまったく感じさせていませんでした。全編を通して、認知症の人が「見えている」ものが、実はとてもぼんやりとゆがんでいる像でしかないことをカメラワークが語るのですが、同時にアンソニー・ホプキンスが、あるはずのものが見えず、ないはずのものが見えることを目で語るのです。娘役のオリビア・コールマンもすばらしい演技なのだけれど、アンソニー・ホプキンスに、というか彼が演じる父親の存在感にちょっとかすみがちでした。
これを観たからといって、母の認知症のことが少し分かった、ということありません。でも妄想と作話が不安から来るもので、認知症ではない人(と思っている介護人)が「おかしい」「言っていることはまちがっている」と否定するほどに認知症者の不安が増していくということはよくわかりました。
という報告はさておきまして、先月からまた映画館で映画を観賞することを再開しています。NetflixでもAmazonプライムでもたぶん観られないだろうなあと思うような映画は、映画館に足を運ばねばなりません。その中から「観てよかった❤️」と感動した作品の感想を書いておきます。
『海辺の彼女たち』
藤元明緒監督の長編2本目(1本目についてはのちほどふれます)。新聞で映画評を見て、即チケットを予約しました。ベトナムから技能実習生として日本にやってきた3人の女性たちが主人公。ベトナムにいる家族を養うために日本に出稼ぎに来た3人は、「技能実習」とは名ばかりで、残業代はおろか給与もまともに支払われないのに休みがずっとなしで1日10時間労働みたいなブラックな職場で働かされ、たまらずブローカーの手引きで青森県の漁村で住み込みで働くことになります。そして1人がベトナムにいる恋人の子供を妊娠していることがわかり、でも恋人とは連絡がとれず、どうしたらいいのか途方に暮れる中で彼女だけでなくほかの2人も追い詰められていきます。
すごく暗いストーリーではあるのだけれど、決して絶望的な悲劇を描いているわけではない。また日本社会が抱えている「技能実習生なしに成り立たないのに、搾取をまるでなかったように無視する」という暗部をえぐっているのだけれど、つばを飛ばして告発しているというのでもない。かといってベトナム人女性のたくましさが素晴らしい、というのでもない。
生き抜くために必死ではあるのは彼女たちだけでなく、ブローカーのお兄さんたちや漁村のおじさんたちも病院のスタッフもみな真剣に(あがくほどに真剣に)生き抜こうとしている。必死になるほどに哀しみも増していくのだけれど、それでも生活は続いていく(まさにLife Goes On)
ある意味やりきれなさも感じたのですが、見終わって席を立つときには、ほんの少しあたたかいものを感じていました。最後のシーンが、外では冷たいミゾレまじりの風が吹き付ける中、3人が寝ぐらにしている漁師小屋をぼんやりと照らす電気ストーブが、若い彼女たちのエネルギーを象徴しているように思えたからかもしれません。
『僕の帰る場所』
藤元監督の長編1作目。建築の専門職を志してミャンマーからやってきたアイセ、夫を追って2人の息子を連れて日本にやってきたケイン、長男のカウンは小学5年生だが生後8ヶ月で来日して日本の保育園から小学校に進学したので、普通に日本語を話し、自分は日本人のつもりでいます。弟のテッは日本で生まれていま小学2年生。まだまだ父親にも母親にも甘えてわがまま言い放題。父アイセは難民申請をしてもしても認められず、ついに入国管理局に連れていかれてしまいます。母は夫が不在の生活に不安を覚えて精神が不安定になり、 ある日ついに「ミャンマーに帰る」と決意しました。
息子2人を連れ、夫を日本に置いてミャンマーの実家に帰ったケインはしだいに落ち着きを取り戻し、テッもミャンマーの生活になじんでいくのですが、一人カウンだけは言葉が通じず、生活習慣が日本とは大きく異なるミャンマーになじめません。電話で父に「いつ日本に帰れる?」「日本に帰りたい」「ぼくは日本人だ」と訴えるのだけれど、難民申請が認められず不法滞在者のレッテルをはられた父アイセには息子を日本に呼び戻す力はないのです。 ついにカウンは一人で日本に帰ろうと決めて飛行場を目指して家出をするのですが……。
映画初出演の子役たちと実のお母さんの演技があまりにも自然で、ついドキュメンタリーだろうかと思うほど。実の親子だからこその甘え方や反抗っぷりがこの映画の主題である「日本の難民政策がかかえる大きな矛盾とそれが生む悲劇」をより鮮やかに浮かび上がらせています。父親役のアイセだけが(シロートではあるけれど)本物の父親ではないそうで、パンフレットで「子供たちが最初はどうしてもアイセをお父さんと呼べなかった」というエピソードを読んで微笑ましく思いました。父も息子たちも頑張ったな、と。
ところで、ポレポレ東中野でこの映画を見終わってから、藤元監督にサインをいただいて少しだけお話する機会を得ました。実はこの映画を見に行った動機の一つに、日本に滞在しているアジア系の人たちの支援に今私自身が少しだけかかわっているということがあるからで、そのことについても少しお話できました。 いまミャンマーは本当にたいへんなことになっています。自分には何ができるだろうかといつも考えているのだけれど、たとえばこの映画のパンフやMakingのDVDを購入することくらいならできるし、ブログでこうやって映画のことを書くこともできる。藤元監督とお話しして、できることから少しずつやっていきたいとあらためて思いました。
『ファーザー』
フローリアン・ゼレール監督作品。
アンソニー・ホプキンスはもちろんすごい俳優だということはよくわかっていたのですが、この作品の認知症の演技には圧倒されました。何がすごいって、認知症の進行具合を「目」で示しているのです。よく小説で「目に不安が宿っている」「目がうつろ」「目が泳いでいる」という表現が書かれているけれど、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるたびに「それはこういう目のことを言うのか」と分かったのです。ラストシーンでの彼と介護士のキャサリンとのやりとりは、認知症患者の現実と妄想の間を揺れ動く不安定な精神状態をどんな本よりも如実に語っている、と思いました。
アンソニー・ホプキンスはラストシーンで初めて助けを求めます。「ママ、助けて」(私もしょっちゅう母に「お母さん、助けて」と言われる)「もう何がなんだかわけがわからない」(これもしょっちゅう母から聞く言葉)と介護士に向かって助けを求めるときの彼の目は、まるでガラス玉のように内面からの光をまったく感じさせていませんでした。全編を通して、認知症の人が「見えている」ものが、実はとてもぼんやりとゆがんでいる像でしかないことをカメラワークが語るのですが、同時にアンソニー・ホプキンスが、あるはずのものが見えず、ないはずのものが見えることを目で語るのです。娘役のオリビア・コールマンもすばらしい演技なのだけれど、アンソニー・ホプキンスに、というか彼が演じる父親の存在感にちょっとかすみがちでした。
これを観たからといって、母の認知症のことが少し分かった、ということありません。でも妄想と作話が不安から来るもので、認知症ではない人(と思っている介護人)が「おかしい」「言っていることはまちがっている」と否定するほどに認知症者の不安が増していくということはよくわかりました。
コメント