この一年、いやそれ以上かな、テレビを見ていません。もともとテレビはあまり見なかったのだけれど、それでもニュースとサッカーの試合くらいは観ていたのに、サッカー関連がDAZNに移行して、ニュースもSNSで見るようになると、もうテレビをつけることさえなくなりました。夫が見ているのをたまに一緒に見るくらいかな。「ブラたもり」とかNHKのニュースとか。以前はドキュメンタリーを観ていたのだけれど、それもNHKオンラインで見られるとわかってからは、もう必要がない。
テレビを見なくなってから、最近2つほど「そうか、こういう情報に疎くなるのか!」と気づいたことがあります。
1つは、興味がない話題や情報は、ネットを見ているだけでは引っかかってこない、ということがわかりました。
気づいたのは、眞子さん&小室さんのことがこれほど大きな話題になっていることをつい最近まで知らなかった自分に愕然したときです。コロナで電車に乗る機会が減ってしまい、電車の週刊誌の中吊り広告を見なかったこともあり、いや〜〜知らなかった。どこで知ったかというと、夫が見ていたNHKのニュースをチラ見して、誰、それ? え? 結婚したんだ〜で、ニューヨークって何? なんでみんな大騒ぎしているの? おめでたい話なのに、てなもんです。
テレビを見ていたらきっともう少し情報共有できていたかもしれないけれど、ネットオンリーになると日本の8割くらいの人が知っていることに無知だってこともあります。ネットは自分が興味のある情報を意図的に探して見るしかなくて、興味がないことは存在さえ知らないですんでしまう。以前は「みんなが知っていることは私も知っておかなくちゃ」と思ってテレビをつけていましたが、今は「みんなが知っていてくれるから、ま、私はパス」という気分になっている。
2つ目に、日本のエンターテイナー(俳優、歌手、コメンテイターを含む)に疎くなって、広告やSNSのニュースに出てくる芸能関連の話題が分からなくなることです。その人が何をやっている人なのか、そもそも芸能関係者なのかスポーツ選手なのかもわからない。それでも私の生活に支障はないのですが、子どもや孫たちの話題にはついていけません。ついていく気もあまりないので、ま、いっかと思っていますが、こうやって「時代遅れの年寄り」レッテルを貼られるのだろうなあと少し寂しい気が……しないわ、やっぱり。
振り返ると、ネットがこれほど普及していなかったときには、日本(だけではないでしょうが)では情報がもっと多くの人に共有されていて、「常識」というものが存在していたような気がします。あくまでも「気がする」程度で、なんら裏付けはありませんが。でも、今ではみんなが知っている、の「みんな」はいったい何%くらいなのか。50%は切りそうな気がします。これは常識っていうことも、おそらく30%くらいにしか通用しないのではないか。
「みんなが常識として知っていること」どころか「みんなが当然だと思っている常識」さえも揺らいでいるのは、マスメディアから個メディアに移行していった結果なのか。
いずれにせよ、テレビを見なくなったことで私が感じているのは、テレビがなくてもなんら不自由はしないし困らない、ということです。少なくとも今のところは。
2004年に購入したテレビの調子が悪くて、ときどき映らなくなり、夫はいらいらしながら「そろそろ買い換えよう」というのですが、どうしますかね。いっそテレビのない生活にしてしまうのも、ありかもしれないとも思うのですが。
いま我が家は固定電話が使えなくなっているのですが、それでも回っている。テレビもいずれ我が家から消えそうです。メディアはますますマスから個へ。もしかすると、これって家族の形も変えるかもしれません。
テレビを見なくなってから、最近2つほど「そうか、こういう情報に疎くなるのか!」と気づいたことがあります。
1つは、興味がない話題や情報は、ネットを見ているだけでは引っかかってこない、ということがわかりました。
気づいたのは、眞子さん&小室さんのことがこれほど大きな話題になっていることをつい最近まで知らなかった自分に愕然したときです。コロナで電車に乗る機会が減ってしまい、電車の週刊誌の中吊り広告を見なかったこともあり、いや〜〜知らなかった。どこで知ったかというと、夫が見ていたNHKのニュースをチラ見して、誰、それ? え? 結婚したんだ〜で、ニューヨークって何? なんでみんな大騒ぎしているの? おめでたい話なのに、てなもんです。
テレビを見ていたらきっともう少し情報共有できていたかもしれないけれど、ネットオンリーになると日本の8割くらいの人が知っていることに無知だってこともあります。ネットは自分が興味のある情報を意図的に探して見るしかなくて、興味がないことは存在さえ知らないですんでしまう。以前は「みんなが知っていることは私も知っておかなくちゃ」と思ってテレビをつけていましたが、今は「みんなが知っていてくれるから、ま、私はパス」という気分になっている。
2つ目に、日本のエンターテイナー(俳優、歌手、コメンテイターを含む)に疎くなって、広告やSNSのニュースに出てくる芸能関連の話題が分からなくなることです。その人が何をやっている人なのか、そもそも芸能関係者なのかスポーツ選手なのかもわからない。それでも私の生活に支障はないのですが、子どもや孫たちの話題にはついていけません。ついていく気もあまりないので、ま、いっかと思っていますが、こうやって「時代遅れの年寄り」レッテルを貼られるのだろうなあと少し寂しい気が……しないわ、やっぱり。
振り返ると、ネットがこれほど普及していなかったときには、日本(だけではないでしょうが)では情報がもっと多くの人に共有されていて、「常識」というものが存在していたような気がします。あくまでも「気がする」程度で、なんら裏付けはありませんが。でも、今ではみんなが知っている、の「みんな」はいったい何%くらいなのか。50%は切りそうな気がします。これは常識っていうことも、おそらく30%くらいにしか通用しないのではないか。
「みんなが常識として知っていること」どころか「みんなが当然だと思っている常識」さえも揺らいでいるのは、マスメディアから個メディアに移行していった結果なのか。
いずれにせよ、テレビを見なくなったことで私が感じているのは、テレビがなくてもなんら不自由はしないし困らない、ということです。少なくとも今のところは。
2004年に購入したテレビの調子が悪くて、ときどき映らなくなり、夫はいらいらしながら「そろそろ買い換えよう」というのですが、どうしますかね。いっそテレビのない生活にしてしまうのも、ありかもしれないとも思うのですが。
いま我が家は固定電話が使えなくなっているのですが、それでも回っている。テレビもいずれ我が家から消えそうです。メディアはますますマスから個へ。もしかすると、これって家族の形も変えるかもしれません。
コメント