2020年8月31日、母の病院付き添いの帰りの新幹線車内でひっきりなしにかかってくる母からの電話をついに着信拒否して自責の念にかられ、「このままでは自分がダメになる」というような思いに取り憑かれ、その日からウォーキングをはじめました。
いま振り返ると、なぜ電話着信拒否がウォーキングにつながったのかわかりません。そもそもなぜ「自分がダメになる」と思ったのか? なぜそれが歩けばなんとかなると思ったのか? いや、もうほんと説明のつかない思いにかられて、その日から歩き続けること2年。先日、めでたく(なのか?)3年目に突入しました。
この2年間でウォーキングしなかった日は、2021年に2度目のワクチンを打ったあとに発熱したときと、先日旭川でなぜか体調を崩したとき(よりにもよって、ウォーキングを始めた8月31日におなかを下しました)。2日は歩行距離が4キロとなりましたが、そのほかの日は、ウォーキングは6キロ、歩行距離全部入れるとだいたい8〜10キロを記録。昨年9月8日にApple Watchをつけてからは、ますます歩く距離が伸びています。
しかし、しかしですよ。いまではなんのためにこんなに意地になって歩いているのか、まずそこがわからなくなりました。とくに先日、暴風雨のときに雨合羽に長靴をはいて、汗と雨とでずぶぬれになりながらも6キロ歩いて帰ってきたとき、これ、意味ないどころか、危険行為なんじゃないかと自分にツッコミ。少なくとも「健康にいい」はずはない。
「〜をせずにいられない」症候群に私はどうやらかかりやすいらしい、ということはわかりました。「夕飯にビールを飲まずにはいられない」が、ある日突然「夕飯後にウォーキングに出かけずにはいられない」に一変し、そりゃビール飲むより歩いたほうが健康にはいいだろうけれど、それでもこれは異常です。
そんな私のバイブルは、「歩くこと(ウォークス)」を社会学、人類学、美術史、宗教、文学、社会運動、革命論、女性問題と多方面から分析したレベッカ・ソルニットの
です。歩きながらふとそのなかの一節が頭に浮かんで、ああ、ソルニットはこういうことを言っていたのだなと思い当たることがあり、それはたぶん歩いてなかったら実感できないこと(少なくともPCの前に座っていてはわからない)だと思うので、そういうときにはウォーキングの効用を見出します。たとえばこんな一節。
「徒歩はいまでも自動車や建物を結ぶ、あるいは屋内における短距離の移動手段ではあるが、文化的な営みや愉しみとして歩くこと、あるいは歩きまわることは姿を消しつつあり、それとともに身体と世界と想像力が取り結ぶ古く奥深い関係性も失われつつある」
どこかに行くための移動手段ではなく、健康のためにからだを動かすためでもなく、ただぶらぶらと自由に歩き回ることで、自分の身体がこの世界にあることを実感する——それが歩くことの「意味」ではないかと。
でも738日歩いて実感するのは、実はそんな形而上学的なこと以上に「脚力がついた」ことです。時速5キロで2時間休まずに歩ける。坂道もペースを落とさずに登れる。片足立ち3分も楽々。以前とはあきらかに変わりました。3年目も無事に歩き続けられますように!
夜歩く楽しみは、月と星の観察。昨晩(9月10日)は中秋の名月でした
いま振り返ると、なぜ電話着信拒否がウォーキングにつながったのかわかりません。そもそもなぜ「自分がダメになる」と思ったのか? なぜそれが歩けばなんとかなると思ったのか? いや、もうほんと説明のつかない思いにかられて、その日から歩き続けること2年。先日、めでたく(なのか?)3年目に突入しました。
この2年間でウォーキングしなかった日は、2021年に2度目のワクチンを打ったあとに発熱したときと、先日旭川でなぜか体調を崩したとき(よりにもよって、ウォーキングを始めた8月31日におなかを下しました)。2日は歩行距離が4キロとなりましたが、そのほかの日は、ウォーキングは6キロ、歩行距離全部入れるとだいたい8〜10キロを記録。昨年9月8日にApple Watchをつけてからは、ますます歩く距離が伸びています。
しかし、しかしですよ。いまではなんのためにこんなに意地になって歩いているのか、まずそこがわからなくなりました。とくに先日、暴風雨のときに雨合羽に長靴をはいて、汗と雨とでずぶぬれになりながらも6キロ歩いて帰ってきたとき、これ、意味ないどころか、危険行為なんじゃないかと自分にツッコミ。少なくとも「健康にいい」はずはない。
「〜をせずにいられない」症候群に私はどうやらかかりやすいらしい、ということはわかりました。「夕飯にビールを飲まずにはいられない」が、ある日突然「夕飯後にウォーキングに出かけずにはいられない」に一変し、そりゃビール飲むより歩いたほうが健康にはいいだろうけれど、それでもこれは異常です。
そんな私のバイブルは、「歩くこと(ウォークス)」を社会学、人類学、美術史、宗教、文学、社会運動、革命論、女性問題と多方面から分析したレベッカ・ソルニットの
です。歩きながらふとそのなかの一節が頭に浮かんで、ああ、ソルニットはこういうことを言っていたのだなと思い当たることがあり、それはたぶん歩いてなかったら実感できないこと(少なくともPCの前に座っていてはわからない)だと思うので、そういうときにはウォーキングの効用を見出します。たとえばこんな一節。
「徒歩はいまでも自動車や建物を結ぶ、あるいは屋内における短距離の移動手段ではあるが、文化的な営みや愉しみとして歩くこと、あるいは歩きまわることは姿を消しつつあり、それとともに身体と世界と想像力が取り結ぶ古く奥深い関係性も失われつつある」
どこかに行くための移動手段ではなく、健康のためにからだを動かすためでもなく、ただぶらぶらと自由に歩き回ることで、自分の身体がこの世界にあることを実感する——それが歩くことの「意味」ではないかと。
でも738日歩いて実感するのは、実はそんな形而上学的なこと以上に「脚力がついた」ことです。時速5キロで2時間休まずに歩ける。坂道もペースを落とさずに登れる。片足立ち3分も楽々。以前とはあきらかに変わりました。3年目も無事に歩き続けられますように!
夜歩く楽しみは、月と星の観察。昨晩(9月10日)は中秋の名月でした
コメント
コメント一覧 (2)
いいですね。
聖路加国際病院の名誉院長。
日野原重明先生と、同じ考え方。
私も、早朝に歩いています。
6千歩くらいですが。
日野原先生も歩いておられたのですね。
私も早朝に歩くこともトライしてみたのですが続かず。起床はできるのですが、朝ごはん作ってからにしよう、洗濯機をまわしてから出よう、ゴミ出しまでには帰らなくては、とかしているうちに出そびれて続きませんでした。
夜に歩くのはいろいろと危ないかなとも思うのですが、夜だから続いているのかもしれないと思ったり。