キッチンの窓から隣や向かいの家の木立にやってくる鳥たちが見えます。
雀、ヒヨドリ、メジロ、ジョウビタキ、オナガ、シジュウカラ、キジバト、ハシブトガラスなどなど。季節によって、時間帯によって、やってくる鳥はさまざま。木立で何かをせわしなくついばむ鳥がいるかと思うと、ときには人間(私)の目の前で朝っぱらから恥ずかしげもなく愛を交わしたり(私が恥ずかしげもなくと思うだけ)、ちがう種類で激しいケンカを繰り広げたり(仲裁にいきたくなる)、カラスなどは「はよ、ゴミ出せや! 生ゴミ満載で出してもらおか!(なぜか大阪弁)」と燃えるゴミの日に電線にとまってこちらを威嚇したりする。その様子を眺めるのが大きな楽しみです。
洗濯物を干すときに、隣の家の木やアンテナにとまって、ときに声高に仲間に呼びかけているさえずりに耳を傾けるのも楽しみです。物干し竿に堂々ととまっているカラスに「グワーグワー」と威嚇されると、喧嘩売られている気がして、思わず私も「なんやとー、あっちいけや〜〜」とすごんじゃうんですけれどね。でもシジュウカラあたりが美しい声でさえずっていると、しばし聞き惚れてしまう。もし解読アプリがあるのならぜひダウンロードしたいところなのだけれど、泣き声から種類を調べるアプリはあっても、鳥語の解説までしてくれるアプリはいまのところ見つかりません。
でもって、何が言いたいかというと、 そんな鳥の姿を観察しながら野菜を刻んだり、洗い物をしたり、洗濯物を干したりしているときに、私はなんとも言えないほどの幸福感に充たされるのです。
鳥のことが好きだから、とか、鳥の姿やさえずりに慰められるから、とかいうのとはちょっとちがう。
鳥の姿を見つけ、さえずりに耳を傾ける余裕があること。鳥の姿を愛でて、何をしているんだろう? どんな呼びかけをしているのかな? といろいろ想像してひとりごとをつぶやいたり、にまにま笑ったりできることに、満足しているためかもしれません。
または気まぐれ(なつもりはあちらにはないだろうが)な野鳥をたまたま見つけることに新鮮な喜びがあるのかもしれません。
以前は「こんなつまらんことで幸福感に充たされるなんて、私ってほんと小物だわ」とか思ったりしたこともあったのですが、最近では、ま、いっか、これで幸せが感じられるのも私なのだろう、と思うようになりました。
幸福感って、ほんとどんなことで感じられるか人それぞれなんだなと思います。
おいしいものを食べたときとか、家族団欒とか、仕事がうまくいったときとか、すてきなプレゼントをもらったときとか、そういうときに幸福感を感じる人もいる。
でも○○だから幸福度が高い、とか、幸福度をデータ化する、とかそれはできるのでしょうか?
北欧諸国が幸福度が高いという記事を読むたびに、うーん、本当に? そもそもその幸福度をはかる要素って、ほんと人それぞれなんじゃないの? と思ってしまう。
ま、そんなことを思いながら窓をあけると、ベランダのフェンスに堂々とキジバトのつがいがとまっていて、またまたうれしくて幸せになった今朝でした。
雀、ヒヨドリ、メジロ、ジョウビタキ、オナガ、シジュウカラ、キジバト、ハシブトガラスなどなど。季節によって、時間帯によって、やってくる鳥はさまざま。木立で何かをせわしなくついばむ鳥がいるかと思うと、ときには人間(私)の目の前で朝っぱらから恥ずかしげもなく愛を交わしたり(私が恥ずかしげもなくと思うだけ)、ちがう種類で激しいケンカを繰り広げたり(仲裁にいきたくなる)、カラスなどは「はよ、ゴミ出せや! 生ゴミ満載で出してもらおか!(なぜか大阪弁)」と燃えるゴミの日に電線にとまってこちらを威嚇したりする。その様子を眺めるのが大きな楽しみです。
洗濯物を干すときに、隣の家の木やアンテナにとまって、ときに声高に仲間に呼びかけているさえずりに耳を傾けるのも楽しみです。物干し竿に堂々ととまっているカラスに「グワーグワー」と威嚇されると、喧嘩売られている気がして、思わず私も「なんやとー、あっちいけや〜〜」とすごんじゃうんですけれどね。でもシジュウカラあたりが美しい声でさえずっていると、しばし聞き惚れてしまう。もし解読アプリがあるのならぜひダウンロードしたいところなのだけれど、泣き声から種類を調べるアプリはあっても、鳥語の解説までしてくれるアプリはいまのところ見つかりません。
でもって、何が言いたいかというと、 そんな鳥の姿を観察しながら野菜を刻んだり、洗い物をしたり、洗濯物を干したりしているときに、私はなんとも言えないほどの幸福感に充たされるのです。
鳥のことが好きだから、とか、鳥の姿やさえずりに慰められるから、とかいうのとはちょっとちがう。
鳥の姿を見つけ、さえずりに耳を傾ける余裕があること。鳥の姿を愛でて、何をしているんだろう? どんな呼びかけをしているのかな? といろいろ想像してひとりごとをつぶやいたり、にまにま笑ったりできることに、満足しているためかもしれません。
または気まぐれ(なつもりはあちらにはないだろうが)な野鳥をたまたま見つけることに新鮮な喜びがあるのかもしれません。
以前は「こんなつまらんことで幸福感に充たされるなんて、私ってほんと小物だわ」とか思ったりしたこともあったのですが、最近では、ま、いっか、これで幸せが感じられるのも私なのだろう、と思うようになりました。
幸福感って、ほんとどんなことで感じられるか人それぞれなんだなと思います。
おいしいものを食べたときとか、家族団欒とか、仕事がうまくいったときとか、すてきなプレゼントをもらったときとか、そういうときに幸福感を感じる人もいる。
でも○○だから幸福度が高い、とか、幸福度をデータ化する、とかそれはできるのでしょうか?
北欧諸国が幸福度が高いという記事を読むたびに、うーん、本当に? そもそもその幸福度をはかる要素って、ほんと人それぞれなんじゃないの? と思ってしまう。
ま、そんなことを思いながら窓をあけると、ベランダのフェンスに堂々とキジバトのつがいがとまっていて、またまたうれしくて幸せになった今朝でした。
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