今日は雛祭り、そして私の誕生日です。
いよいよ60代最後の1年を迎えました。
50代最後の年には、ひとりで生きられる訓練をしよう、とか、まだまだこれからやれるはず、と自分を鼓舞することを書いたような気がします(未確認)
それから10年たって思うのは、まだまだ私はやっていけるな、という自信と余裕がこの間に生まれたな、ということ。それと同時に、自立心だけでなくまわりの人たちの助けを借りて暮らしていく勇気を持つのがつぎの10年の目標だということ。自分の目に入る範囲だけでなく、知らないところ、気がつかないところでもお世話になっている人たちへの感謝の気持ちを忘れないようにして毎日を過ごしていきたいな、ということです。
人は誰かの、または何かの助けを借りないで生きていくことはできない。それはもう自明のこと。でも「自立」とか「自己責任」ばかりが叫ばれるこの世の中。それがあやまった方向に進んでしまうと、誰か、または何かの役に立っていない人はこの社会の邪魔者という発想が生まれかねない。(ナリタ何某みたいな暴言が蔓延しかねない)
若くても、健康でも、十分な収入があっても、家族に恵まれていても、人は誰かのお世話になり、ときには誰かに迷惑をかけ、誰かを傷つけたりもしている。その自覚を持ったうえで、できるだけ人の役に立ちたい、という意欲を持つことができる69歳をめざしたいです。
と同時に、人のお世話になることをおそれない、人に迷惑をかけてしまうこともこわがらない自分でもいたい。それは「人の役に立ちたい」以上に勇気を必要とし、生きる力を発揮せねばならないことだと思っています。
そうなってこそ、生きることがより楽しくなるのではないか。
今年も娘たちからすてきな花束をもらいました。「ガンバカラー」です。気が利いていますね。
よい一年を過ごそう、という鋭気をもらいました。
いよいよ60代最後の1年を迎えました。
50代最後の年には、ひとりで生きられる訓練をしよう、とか、まだまだこれからやれるはず、と自分を鼓舞することを書いたような気がします(未確認)
それから10年たって思うのは、まだまだ私はやっていけるな、という自信と余裕がこの間に生まれたな、ということ。それと同時に、自立心だけでなくまわりの人たちの助けを借りて暮らしていく勇気を持つのがつぎの10年の目標だということ。自分の目に入る範囲だけでなく、知らないところ、気がつかないところでもお世話になっている人たちへの感謝の気持ちを忘れないようにして毎日を過ごしていきたいな、ということです。
人は誰かの、または何かの助けを借りないで生きていくことはできない。それはもう自明のこと。でも「自立」とか「自己責任」ばかりが叫ばれるこの世の中。それがあやまった方向に進んでしまうと、誰か、または何かの役に立っていない人はこの社会の邪魔者という発想が生まれかねない。(ナリタ何某みたいな暴言が蔓延しかねない)
若くても、健康でも、十分な収入があっても、家族に恵まれていても、人は誰かのお世話になり、ときには誰かに迷惑をかけ、誰かを傷つけたりもしている。その自覚を持ったうえで、できるだけ人の役に立ちたい、という意欲を持つことができる69歳をめざしたいです。
と同時に、人のお世話になることをおそれない、人に迷惑をかけてしまうこともこわがらない自分でもいたい。それは「人の役に立ちたい」以上に勇気を必要とし、生きる力を発揮せねばならないことだと思っています。
そうなってこそ、生きることがより楽しくなるのではないか。
今年も娘たちからすてきな花束をもらいました。「ガンバカラー」です。気が利いていますね。
よい一年を過ごそう、という鋭気をもらいました。
コメント
コメント一覧 (2)
人に迷惑をかけるのをこわがらない。
人に謝ることのないように、つい頑張りすぎてしまうことに少し疲れていました。
もしかして、「ごめんなさい」ではなくて「ありがとう」と言えばよかったのかもしれません。
人に迷惑をかけないで生きている人はいない。そのことを肝に命じておかなくちゃなあといつも思います。
ともあれ、60代最後の年を楽しみたいです。