もう12月に入って3日も過ぎました。
11月はとにかく30日があっという間に過ぎ去っていきました。
11月にいったい私は何をやっていたのか、と脳内で振り返ってみたのですが、思い出せるのは
1)書道の公募展、創玄展の作品制作に励んだ(締切は12月26日なのでまだ書かなくちゃいけない)
2)出版社に振られ続けている本をなんとかしようと悪戦苦闘中(まだなんともできていない)
3)どうも何かからの逃避欲求が高まったせいでやたらと料理を作った
くらいしかない。

でも本はあれこれ読みました。
「いずれくる死にそなえない」名郷直樹著 生活の医療社
高齢者を診察している精神科医が説く「下り坂の哲学」。この本で著者が言いたいのは「(高齢になって病気になり、やがて死ぬことを)先送りにするかしないかとういことではなく、どんなに先送りにしても、やがてやってくる下り坂、そして死について、どう向き合い、どう下っていくか、どう死ぬかということなのである」。曰く死ぬことを恐れず、死をタブーにせず、死に方とか老い方の理想を追いかけない。寝たきりになってもそれを本人も周囲(介護者)も受け入れる、あじゃなくて寝たきりを「望む」こと……などなどが書かれていたのだけれど、ついつい「周囲に迷惑をかけないようにもっとがんばれ」とか思ってしまう健常者の私には、え? そうなの?と疑問に思うところと、まあそうだよな、と納得するところが半々。
患者の自己決定が優先されるこの時代に、どんな生き方死に方を選択するか、それについてはこの医師の迷いや経験を踏まえての「死にそなえない」心持ちは腑に落ちた。自分で選択して決定しているようで、実は周囲のことを考えて道を選んでいることがほとんど。子どもに迷惑かけたくないから、とか。それならどういう心持ちで自己決定すればいいのか? 
そういうことを著者が考えるようになったきっかけは「中動態の世界:意志と責任の考古学」(國分功一郎著 医学書院)だったというので、さっそく図書館で借りて読んでみました。副題のとおり、自分の意志で選んだのだから、そこには自己責任が生じる、ということになっているけれど、本当に私たちは自分の意志でたとえば生き方や死に方を選んでいるのか? もしくは選ばされた選択には自分に責任は生じないのか? ということを論じた本です。哲学の本なので、哲学者がこんなこと言った、こういう学説がある、ということもたくさん書かれているのですが、そこは國分さん、私たちの誰もが人生で出会う「意志と責任」の場面が具体的に書かれていて、とてもおもしろかったです。
この世の中は、自分の意志で選ぶことができる(能動)/周囲や他人に選ばされる(受動)だけでなく、死や老いなど意志によって選択することなどできない「中動態」がある、と國分さんは書いています。うーむ、これは納得ですね。
そこでまた國分功一郎さんと熊谷慎一郎さんの共著である「<責任>の生成—中動態と当事者研究」(新曜社)という本に出会い、これまたなーるほどとうなる本でした。来年、熊谷さんの講演を聞きにいくことにしたので、理解を深めたいと思います。
「テヘランのすてきな女」(金井真紀著 晶文社)は、「別れを告げない」(ノーベル文学賞受賞者、ハン・ガン著 斎藤真理子訳 白水社)と並んで2024年のトップにあげたい本でした。たたかう女、はたらく女、スポーツする女、居場所をさがす女たち、みてきた女、とテヘラン(とその近郊)で著者が出会った女たちは悩みを抱え、差別に怒りながらもはつらつとして魅力的。圧倒されました。
ほかにも読んだのだけれど、11月のメイン読書は中動態とテヘランの女たちでした。

ガーナに孤児院を作るための寄付集めを目的としたフットサル大会@味の素スタジアムで久しぶりにフットサルをやったり、いうまでもなく天皇杯決勝を観戦したり、サッカーも楽しんだかな。
とこう書いて振り返ると、何もやっていないとはいえない、というか結構充実した1ヶ月でしたね。
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11月も終わるころになると、冬の大三角がとてもきれいにみられるようになり、ウォーキングがいっそう楽しくなっています。