1月には区が主催する2つのセミナー(トークイベント)に参加しました。
1つは世田谷市民大学が主催した、阿古真理さん(日本の生活史・食文化研究家)による「家事は誰が行うべきなのか?——ジェンダーの視点で家事について考える」というテーマでの講義です。
2つめは世田谷文化生活情報センター主催の「対話の効能——<わたし>と<あなた>のあわい」で、熊谷晋一郎さんの「当事者研究」の講演&トークイベントでした。(「対話の効能」は一昨年行われたVol1のときから参加しています。昨年12月に開催された小松原織香さんの「修復的正義」のトークも聴きました)
ここでは阿古さんの家事についての話がおもしろかったので記録しておきます。
まず、家事は世間では(社会的に)「仕事」とは認識されていない。家族(主体的に担っているのはほとんどが母親や妻や娘という女性)が家事をしても「働いている」「仕事をしている」と家族も家事担当者も考えない。「仕事」とはお金をもらってやるものであり、家事は無償労働だから。そして家事は簡単で誰でもできるものだと考えられている。
といった世間の「常識」を、阿古さんは具体的にデータを上げながらそれが思い込みに過ぎないとくつがえしていきます。
その話のなかで私がうんうんと何度もうなずいたのが、10年くらい前から言われている「名前のない家事」がいかに労力と時間をとっているか、という話でした。
たとえばゴミの処理ひとつとっても、いくつもの「名前のない家事」がからみます。自治体が指定するゴミ袋を用意する。分別する。資源ごみのたとえば瓶ならきれいに洗ってから出す。再利用が可能な牛乳パックなどもきれいに洗って切り開いて乾かしてから出す。ペットボトルもきれいに洗い、ラベルをはがして蓋は別にする。生ゴミの水をしっかり切る、などなど。
一つひとつはささいなことだけれど、時間も手間も経験も知識も必要です。ゴミの分別くらいは名前がつくけれど、ほかの作業には名前がつきません。でもゴミの袋を「はい」と渡されて、収集場所まで持っていくことはゴミの処理の最終段階におけるほんの一部でしかありません。
よくお父さんたちが「ゴミ出しはぼくの役割」とかいって胸を張っているけれど、いやいや、それはほんのほんの一部だから。
どうしても家事は家族のなかの一人(たいていは女性)が全面的に負担するようになってしまうのだけれど、家族みんなでシェアしたほうがぜったいにいい、と阿古さんは主張なさいます。
家事を分担することによるメリットは、たとえば家事の分担について話し合うことを通して家族の関係を深めるよいチャンスになること(我が家の場合はちょっとでも分担について話し出すと喧嘩になって家族関係は悪化しますが)。家事を通すと世の中がよくみえるようになること(そうだよ、家事は政治経済に直結していますよ)。環境を整えないと始められない家事が数多くなると知って生活面でお互いへの配慮が学べること。……はい、もうそのとおり。でもそのメリットは家事を担っている人を慰めるものでしかないかも。
そして家事には経験と技術が必要で、経験を積んで技術を磨かないと家事はまわっていかない、という言葉にもうなずきました。経験を積み、技術を磨いた人には敬意を払って欲しいもんだ、と心のなかでつぶやきながらですが。
最後にとどめのひと言。それが「仕事は生活を支える、家事は命を支える。どちらも欠かせない人間の営み」。もうね、ほんとその通りですよ。
ただね、こういう言葉が響かない人(多くは男性)のほうがずっと多いんですよね。そうか家事は大事だな、よし、明日からせめて朝ごはんくらいは自分で作ろう、ゴミの分別くらいはしよう、自分の部屋の掃除くらいはしよう、と腰を上げる人はほんのほんの一部だろうと思います。
阿古さんのお話は家事を担ってきた人にとっては響くことばかりなんだけれど、これまで家事を何一つやってこなかった人にとっては、響かないどころか理解不能だろうと推察します。
話を聞いて帰ってきてから、同居人のごはんをぶつぶつ言いながらもやっぱり作ってしまい、洗濯物をたたんでしまう私にとって、このセミナーは自分をなぐさめるだけだったような気がしないでもありませんでした。
でも私は阿古さんのお話を聞いてより強く思いました。
家事はつまらない「仕事」ではない。生きていくうえで欠かせない営みであるばかりではなく、人を人間的に成長させ、人生を豊かにするものだ、ということを。
これからどれだけの時間、今のように家事ができるかわからないけれど、自分の命を支えるために家事をしているという意識を持って暮らしていきたい、とそう思っています。

(ようやく梅の花が咲き始めました)
1つは世田谷市民大学が主催した、阿古真理さん(日本の生活史・食文化研究家)による「家事は誰が行うべきなのか?——ジェンダーの視点で家事について考える」というテーマでの講義です。
2つめは世田谷文化生活情報センター主催の「対話の効能——<わたし>と<あなた>のあわい」で、熊谷晋一郎さんの「当事者研究」の講演&トークイベントでした。(「対話の効能」は一昨年行われたVol1のときから参加しています。昨年12月に開催された小松原織香さんの「修復的正義」のトークも聴きました)
ここでは阿古さんの家事についての話がおもしろかったので記録しておきます。
まず、家事は世間では(社会的に)「仕事」とは認識されていない。家族(主体的に担っているのはほとんどが母親や妻や娘という女性)が家事をしても「働いている」「仕事をしている」と家族も家事担当者も考えない。「仕事」とはお金をもらってやるものであり、家事は無償労働だから。そして家事は簡単で誰でもできるものだと考えられている。
といった世間の「常識」を、阿古さんは具体的にデータを上げながらそれが思い込みに過ぎないとくつがえしていきます。
その話のなかで私がうんうんと何度もうなずいたのが、10年くらい前から言われている「名前のない家事」がいかに労力と時間をとっているか、という話でした。
たとえばゴミの処理ひとつとっても、いくつもの「名前のない家事」がからみます。自治体が指定するゴミ袋を用意する。分別する。資源ごみのたとえば瓶ならきれいに洗ってから出す。再利用が可能な牛乳パックなどもきれいに洗って切り開いて乾かしてから出す。ペットボトルもきれいに洗い、ラベルをはがして蓋は別にする。生ゴミの水をしっかり切る、などなど。
一つひとつはささいなことだけれど、時間も手間も経験も知識も必要です。ゴミの分別くらいは名前がつくけれど、ほかの作業には名前がつきません。でもゴミの袋を「はい」と渡されて、収集場所まで持っていくことはゴミの処理の最終段階におけるほんの一部でしかありません。
よくお父さんたちが「ゴミ出しはぼくの役割」とかいって胸を張っているけれど、いやいや、それはほんのほんの一部だから。
どうしても家事は家族のなかの一人(たいていは女性)が全面的に負担するようになってしまうのだけれど、家族みんなでシェアしたほうがぜったいにいい、と阿古さんは主張なさいます。
家事を分担することによるメリットは、たとえば家事の分担について話し合うことを通して家族の関係を深めるよいチャンスになること(我が家の場合はちょっとでも分担について話し出すと喧嘩になって家族関係は悪化しますが)。家事を通すと世の中がよくみえるようになること(そうだよ、家事は政治経済に直結していますよ)。環境を整えないと始められない家事が数多くなると知って生活面でお互いへの配慮が学べること。……はい、もうそのとおり。でもそのメリットは家事を担っている人を慰めるものでしかないかも。
そして家事には経験と技術が必要で、経験を積んで技術を磨かないと家事はまわっていかない、という言葉にもうなずきました。経験を積み、技術を磨いた人には敬意を払って欲しいもんだ、と心のなかでつぶやきながらですが。
最後にとどめのひと言。それが「仕事は生活を支える、家事は命を支える。どちらも欠かせない人間の営み」。もうね、ほんとその通りですよ。
ただね、こういう言葉が響かない人(多くは男性)のほうがずっと多いんですよね。そうか家事は大事だな、よし、明日からせめて朝ごはんくらいは自分で作ろう、ゴミの分別くらいはしよう、自分の部屋の掃除くらいはしよう、と腰を上げる人はほんのほんの一部だろうと思います。
阿古さんのお話は家事を担ってきた人にとっては響くことばかりなんだけれど、これまで家事を何一つやってこなかった人にとっては、響かないどころか理解不能だろうと推察します。
話を聞いて帰ってきてから、同居人のごはんをぶつぶつ言いながらもやっぱり作ってしまい、洗濯物をたたんでしまう私にとって、このセミナーは自分をなぐさめるだけだったような気がしないでもありませんでした。
でも私は阿古さんのお話を聞いてより強く思いました。
家事はつまらない「仕事」ではない。生きていくうえで欠かせない営みであるばかりではなく、人を人間的に成長させ、人生を豊かにするものだ、ということを。
これからどれだけの時間、今のように家事ができるかわからないけれど、自分の命を支えるために家事をしているという意識を持って暮らしていきたい、とそう思っています。

(ようやく梅の花が咲き始めました)
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