Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

ささやかな日常

気がつくと1ヶ月近くブログをごぶさたしていました。
ガンバの成績がパッとしないということもありますが、私生活でも凹むことがあって、PCの前に座って仕事以外の文章をつづる気力が失せていました。いや、凹むといっても大したことじゃないんですけれどね。
毎年ですが、春は花粉症もあって体調&メンタルを崩しがちで、今年は気をつけていたのだけれどやっぱり低空飛行になりました。ガンバの成績みたいだ(←しつこい)
でも、気候がよくなると毎年私の体調もガンバの成績も復活するので、それを期待します。
それにしても、春は睡眠の季節なのか、ベッドに入って本を読もうと思っても、2ページ読んだら本かタブレットをどこかに落っことして眠ってしまっているってどうなんだ? 私は寝つきが悪いと親から言われていたし、自分でもうまく眠れないことが原因で体調を崩すのだと思い込んでいたのですが、最近はベッドに入ると即眠ってしまって朝まで目が覚めない。 これはどうしたことか? 年をとったからなのか? それとも何か原因があるのか?

と思っていて出会ったのがこの本。


これが読み物として抜群におもしろいのです。山口県の山間の自然が豊かな地で生まれ育った著者(研究者)は幼稚園のころから身の回りの生き物の生態観測や実験に夢中だったそう。そのころからの願いは「大きくなったら研究者になりたい」。小学校にあがるとクロアゲハチョウの生態を観察し、自由研究でまとめた記録が山口県のみならず全国のコンテストで優勝したりした。そしてしだいに関心は「睡眠」へとしぼられていく。生物はなぜ眠るのか、眠らないと生物はどうなるのか、眠るというのはどういう状態を指すのか。それを研究したいと願ったのだそう。
でも勉強は嫌いで苦手で、それでも「研究をして生きていきたい」という一心でとりあえず受験勉強はして九州大学に進学。大学1年のときから「生物の研究をしたい」と教授に頼み込んで、ヒドラという「怪物」(体長が0.5から1センチほど)に出会って、脳がないこの生物が眠るのかどうか、眠っているときには体内がどのような状態になるのかを知りたいと睡眠研究にまっしぐら。
この本を読んで「睡眠」というものをあらたな目で見るようになりました。
朝起きたときから時間の経過とともにたまっていく「睡眠圧」(眠らせようとする力)から、生物のDNAにある「体内時計」(起こそうとする力)を差し引いたものが眠気なのだそうです。朝起きてすぐに眠れないのは、睡眠圧がなくなっていて、体内時計が働いているから。そして睡眠圧とはどういうものなのか、まだはっきりしていないのだけれど、睡眠をつかさどる体内時計DNAはある程度解明されているそう。
たぶん私の体内時計は夜間に7時間半眠るようにセットされていて、ベッドに入るまでに睡眠圧がゼロまで減じていたら、いやだ、今日は徹夜するぞと思っていても眠ってしまうのだ、と納得しております。
夜に寝床に入ってからなかなか寝付けない人、昼に眠くなってしまって困っている人、この本を読んでみてはどうでしょう?

どうしてもコメントが書けないのはなぜなのか? 原因究明を試みるもついにわからないので、ここでお返事を書きます。(hanaboさんにはメールします)
いはらりえ様、コメントをいただいて、頭のなかにわーっと記憶がよみがえり、赤面しました。エラソーに翻訳を教えていたときのことですね。もうね、何様じゃい、と過去の自分にツッコミを入れたくなりましたが、そこはそれ、いはらさんのようにあの授業を聞きながらも翻訳を続けていらっしゃるかたもいるのだ、と私は赤面が引いたあとにホッとしています。
翻訳って楽しいですよね。翻訳という作業は苦しくもあるけれど、楽しい。脳のなかのいろいろな部分が刺激される心地よさがある、だけでなく、自分も世界の一員であり、歴史を生きているのだ、ということが実感できる……ような気がします。
あ〜〜またエラソーだ。
翻訳、といえば、トランプさんが大統領に就任して以来、選挙中から何度も叫ばれるMake America Great Againの訳語が気になっています。「アメリカを再び偉大に」というのがたぶん正当(proper)な訳語なんでしょうが、うーん、しっくりきません。トランプさんと支持者が連呼するたびに、「アメリカを再び偉大に」という訳語でいいのだろうか、とざらりとしたものを感じます。
偉大とは、日本国語大辞典によれば「すぐれて大きいさま。非常にりっぱなさま」だそうです。
でも、新英和大辞典でgreatの意味として一番にあがっているのが「大きい、たくさん、際立った、強い、高度の」です。とにかく大きく、強く、高いことをgreatと表現する。「偉大な、すぐれた、すばらしい」という意味は口語で使われる、とある。そういえばトランプさんは演説で支持者のことをgreat peopleとよく呼んでいて、すばらしい人々、と訳されていることが多い。
でもあげられている例文を見るかぎり、どうも親しい間柄で褒める会話で使う言葉みたいです。
You're really great guy! きみはほんとにすごいやつだ! みたいな感じ。
アメリカのような大国の大統領が国民を持ち上げるのに、greatでいいのか、という気がしないでもないが、それはさておき、MAGAのgreatをトランプ2.0の世界を生きていく一員の気持ちとして訳すと「アメリカを再び誰も逆らえない超大国にするぞ」かな。アメリカよりも優れた強みを持つ国や地域は許さん。あれこれ文句を言ったり、逆らったりするやつは、断固踏み潰してやる。なんてったって、俺らはgreat=大国なんだからな。
ところで、もし「偉大」という意味でいくとすると、トランプさん一派がノスタルジーを持つアメリカが偉大だった時代っていつなのでしょうか? 「大きいことはいいことだ」「量が豊富なことが豊かなことだ」が通用した時代なのかなあ?

誕生日、といっても先日で、なんかばたばたしているうちに誕生日はあっさり過ぎてゆきました。70代の大台に乗った昨年に比べると、感慨はそれほどなく。
50代になったときから「母はいまの私の年齢のときにどうだったかな?」と振り返ることが多くなりました。誕生日には71歳の母はどうだったか、と当時の様子を思い出していました。
母は骨が弱くて50代の閉経時からあちこち骨折し、60代後半には骨粗鬆症と診断されて、薬を服用していたら胃をやられて、71歳で胃がんの手術を受けたということがあり、遺伝的に私もそうなるんじゃないかと、とても怯えていました。
だから骨密度のダウンをできるだけ食い止めようと運動に励んでいるわけですが、そのおかげなのか、それともその点は母の体質を受け継がなかったのか、これまで一度も骨折をしたことがないし、70代超えたいまも骨密度は平均より上を維持できています。
70代の1年目を過ごしてみて思っているのは、50代、60代のときに考えていた70代と、いまの自分はかなりちがっているな、ということです。61歳のときに父が亡くなり、母が施設に入り、実家を始末したころは、老いることが不安でたまりませんでした。70代になったら、きっと体力も気力もどんと衰えて、仕事もできなくなって経済的に苦しくなるかもしれない。家事もいい加減になって、汚部屋で暮らしてしまうかもしれない。マイナス発言ばかりの愚痴愚痴バアさんになって、友だちも減っていってしまうんじゃないか。そうなったらどうしよう、と夜に目が冴えて落ち込む、ということもしばしばでした。
そこにもってきてコロナです。不安に拍車がかかった感がありました。
でも、69歳のときに気力を奮い立たせて断捨離をして、自分の身にもしものことがあったときのための準備をあれこれしてから(いわゆる終活ですね)、不安はぐっとやわらいだ気がします。だから70歳の1年間は比較的心穏やかに過ごせました。
世界はきっと⚪︎⚪︎(→暗い想像)になるにちがいない、とか、きっと私は××で苦しむ、とか不安にかられても、先のことは本当にわからない。
そんな不安に怯える時間があったら、いま自分が持っている身体的、精神的、人的、社会的、時間的、経済的資源をできるだけ有効に使って、毎日をできるだけ気分よく過ごしていきたいな、というのが71歳の思いです。
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毎年、誕生日には自分へのエールをこめて、ちらし寿司を作ることにしています。
来年の誕生日にもまた元気においしく作って、自分へのエールが贈れますように。


2月に入ってイライラをここでぶつけているような内容に反省し、気持ちが少し上向くようにどうでもいいことを書いてみます。
先日、わりに最近仲良くなった方に「元子さんは子どものころに何になりたかった?」と聞かれました。10代のころは本屋になりたかったです。本屋の店先に座って、お客さんから探している本のことを聞かれたら、さっと立ち上がってその本が並んでいる棚を教えて、ついでに関連するおすすめの本なども教えてあげられるような本屋さんになりたいと思っていました。
私は実は出来の悪い子どもで、学校の成績はぱっとせず、運動神経がないから運動もだめでのろま。不器用で、忘れ物ばかりして、先生にも親にも叱られてばかりでした。でも、本を読んでいれば現実の情けないみじめな自分を忘れることができました。
子どものころ、お誕生日のプレゼントでは本をねだりました。父方の祖母が「本ならなんぼでもこうたるわ」と言ってくれたので、お小遣いでは手が出ない岩波書店の小学生向け単行本を買ってもらいました。ドリトル先生シリーズ、リンドグレーンの名探偵カッレくんシリーズ、メアリー・ポピンズ、アーサー・ランサムのつばめ号とアマゾン号シリーズなどを夢中になって読みました。それが高じて「大人になったら本屋さんになろう。そしたらいくらでも本が読める」と思ったのです。あまいね。
モデルにしていたのは、2駅先にあった小さな本屋さんで、そこのおじさんが無愛想なんだけれど、どれだけ長いこと立ち読みしても知らん顔で、たまーに私が本を買うと、ぼそっと「この作家なら、私ならこちらを薦めるね」とか言ってくる。高校時代に安部公房に夢中で、「燃えつきた地図」の単行本が欲しかったのだけれど高くて手が出ず、函入りでパラフィン紙が巻いてあるので立ち読みをするのもはばかられ、どうしたものかとほぼ毎日学校の帰りに本屋で手に取って眺めていたことがあります。年が明けてお年玉をはたいて思い切って買ったら「よかったなあ、やっと買えて」とか言ってもらいました。おじさんの笑顔を初めて目撃したときでした。
しかし長じて「本屋になってしまったら、思いっきり本が読めなくなる」と知り、本屋勤めも本屋開業もあきらめました。
大学卒業後はアパレル会社につとめ、外資系の会社で秘書をやり、繊維関係の広報機関で働き、その後フリーランスの翻訳業とライターになったのですが、本当になりたかったのはなんだったのだろうか? とときどき考えます。いまさらですが、思いっきり本が読めたら職業はなんでもよかったのかな、とか思ったりもするのです。でもライターの仕事で一番長く続いたのが、書評とか本の紹介だったし、翻訳をやるにあたっても資料として本が読めたので、結局私はなりたかったものになっているのかもしれません。

ああ、でも死ぬまでに一回くらい、本屋さんの店員をやってみたいなあ。

 私は同居人のごはんを1日2食準備している。
 一方で、同居人は365日家で私が用意したごはんを食べる。
 たまに「今日は友人と食事をしてくる」というので、つい目を輝かせて「じゃ、ごはん作るのは1食でいいかな?」というと、「いや、夕飯は外食するけれど、あとは家で食べるから用意してくれるかな」という。ため息をつきながら、一汁二菜を作る。料理は好きで、実は作ることはそれほど苦ではないのだけれど、なぜか同居人の食事を作るのは苦行でしかない。
 会社勤めをしていたとき、同居人は会社で昼食をとり、夜にはたまに外食をすることもあった。「今日は夕飯いらない」と同居人から聞くと、朝から心もからだも軽く、鼻歌まじりで自分用に豪華な夕飯を作ったりしたものだった。自分のためのごはんを作るのはちっとも苦じゃないのだ。
 先日、同居人が朝食をとりながら「今日は夜に友人と食事をする約束がある」というので、学習能力が欠如している私は目を輝かせて「じゃ、今日あなたのごはんを作らなくていいね」というと、「いや、夕方からだから昼食は家で食べたい」とほざく、じゃなくて、おっしゃる。
 がっくりと肩を落として不機嫌になる私。同居人はあわてたように「テキトーでいいよ、適当に用意してくれたらいいから。夜はディナーで豪勢に食べるから」
 思わずかっとなった。
 「テキトーってなに、それ? もしそのテキトーっていうのが、まったく手間をかけないという意味なら、そんな食事はありえないから。たとえ卵かけご飯でも、ごはんをといで炊いて、卵を買ってきて割って、醤油を添えるとかそういう準備がいるんだよ。カップラーメンだって、買ってきてお湯を沸かして注ぐという手間がいる。そして私は卵かけご飯だけとか、カップラーメンをぽんと置いとくだけとかの食事をあなたには出したことがないでしょ。あなたのテキトーに作れる食事って何? その定義から聞かせてください!」
 沈黙する同居人。朝食の食卓に吹き渡る冷たい風。一気に朝食も凍りつく。
 それでどうなったかというと、はい、作りましたよ、同居人の昼食を。野菜たっぷりの豚肉入りあんかけ焼きそばにほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁という私基準の「テキトー」なメニューです。ふんっ(鼻息)

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(ある日のテキトーに作った同居人のための食事)


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