Glamorous Life

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ささやかな日常

今日から3月です。
朝方は雨が降っていたけれど、いまは春の陽光が部屋を照らしています。
気持ちが弾み、るんるんらんらんしたくなるところですが、そういうときにかぎって何かが起こる。
数日前には母が転倒して、またもや病院に搬送されたという出来事があり、今週は大阪に行ってきました。転倒の怪我は大したことがなく、私が駆けつけたときには母は転倒したことも病院に運ばれたこともすっかり忘れてました。痛みを感じなくなっているのは、危なくもあるのだけれど、本人にとっても周囲の介護をしている人たちにとっても少し救われるところもあるのかも。
しかし、施設のほうからは、予期していたもののショックな近況も知らされました。
からだはとても元気で、そこはいいのですが、認知症はますます進んでしまったようです。来週、また施設やケアマネと相談するために大阪に行くことにしています。

親の介護のために関西通いをするようになって、今年で19年目を迎えます。こんなに長期にわたって、老いていく親とつきあうことになるとは、通い始めた50代のころは正直想像もしていませんでした。
私が関西に通っているというと、「遠距離介護は大変でしょう?」とよく言われます。たしかに往復の交通費や、実家を処分したあとは宿泊費もかかるようになって、金銭面の負担はあります。こちらも歳をとっていくので、最近は移動にかかる労力やとられる時間も負担に感じつつあります。
が、私の場合、もし親がすぐ近くの施設に入っていたら、訪問回数は月1回ではとてもすまずに何かと呼び出されただろうと思うのです。そうなるとおそらく遠距離介護以上に労力も時間も割かねばならなかっただろうし、交通費だけでなくそのほかの金銭面も同じくらいかそれ以上にかかっていたのではないか。
幸いにして東京と大阪なので、新幹線が使えるおかげで日帰りが可能なのです。以前、東京の施設に母を移そうかと考えてあちこち探したのですが、近いところは高額で手が出ず、affordableな施設だと東京から少し離れた近郊となり、電車とバスを乗り継いでいかねばならず、ものすごく接続がうまくいっても片道3時間以上かかるところしかありませんでした。
18年間、親の老いとつきあっていて思うのは、物理的に距離があるからこそやってこられた、ということです。私が守らねばならないのは、第一に自分で、つぎに自分の家族(夫や子どもたち)で、親はその次になります。親に何かあって駆けつけられるのは、夫や子どもが元気で日常生活を送っているからこそ。そしてもちろん私自身が元気だからこそです。
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(緑が濃くなってくると、ハイキングに行きたくなります。今年は東京近郊で行ったことがないところを遠足してみようと思っています。こんな景色に会いに)

 好事魔多し。るんるんらんらんと思いっきり活動していると、自分が健康を崩したりして、親や家族が肝心のときに手助けできないことがあるかもしれない。いつ何が起こっても、「大丈夫、いってあげるから」と駆けつけられるように、80%くらいまでエネルギー出力を落として日々を送ろう、なんてことを春のはじめに考えています。

年齢とともに衰える記憶力を活性化するために、2月の総まとめを書いておきます。
2月1日から友人と岡山旅行にいってきました。
東京から岡山まで飛行機で、パスと列車を乗り継いで津山へ。津山ではまず奈義町現代美術館を見学。磯崎新さんの建築で太陽、月、大地と名付けられた三つの展示室から成り立っており、建物自体が作品です。奈義テラスという集会所や図書館も礒崎建築。見応えがありました。1日目は津山宿泊。
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(「太陽」では荒川修作➕マドリン・ギンズによる「龍安寺・建築する身体」という作品が常設で展示されています横向きの龍安寺)

翌日に津山洋学資料館館見学。津山藩の宇多川玄随という医師が「解体新書」を翻訳したメンバー(杉田玄白、前野良沢など)と知り合う機会を得て、西洋医学に関心を持って知識を深め、のちに「西説内科撰要」を著して津山藩の洋学への道を開いたのだそうです。宇多川家は洋学といってもオランダ医学の研究者だったのですが、江戸から明治へと時代が移ろうとする時、箕作阮甫という藩の医師は、幕府の外交交渉の通訳・翻訳者として活躍します。いまとちがって辞書もなければ先生もいないところでの翻訳。しかも人の生命と国の運命を左右する翻訳者たちの軌跡を見ました。

倉敷に移動して、美観地区を中心に観光。母方のルーツは倉敷にあって、私も子どものときにはよく母や祖母に連れられて倉敷に行きました。久しぶりに訪れた倉敷は、まずJRの駅からして昔のおもかげなし。美観地区もすっかりきれいになって居住地というよりも観光地となって外国人観光客が大勢訪れていました。
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2月は映画も3本見ました。
「キャロル・キング」
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「クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル」
「パトリシア・ハイスミスに恋して」
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1970年代が青春時代だった私にとって、キャロル・キングの「タペストリー」は心のよりどころでした。(カーペンターズは心の友かな)。彼女が生まれ故郷のNYセントラルパークで1972年に開催したフリーコンサートの模様を追いかけた映画で、どっと当時の自分がよみがえりましたね。
それに引き換え、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのロンドン公演をおさめた映画では、あまり時代が蘇らなかった。CCRで一番覚えているのは、映画「地獄の黙示録」で流れていたスージーQなんだけれど、映画を見て「あれ?歌える!」と気づいたのは「雨を見たかい?」でした。
でもって、今年すでに7本映画を見たのですが、一番よかったのは地味な映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」でした。書いた本がつぎつぎ映画化されて大ヒット。ベストセラーを量産したハイスミスの同性愛者として生きた人生をたどった映画は、モノ書く女の端くれである私の琴線にふれましたね。

久しぶりに会った友人と会食したり、セミナーに参加したり、サッカーも2試合見たし、この1ヶ月はとても充実した楽しい時間が過ごせました。
と思っていたら、母が転倒して頭を打つ、なんてこともあり、好事魔多し、を実感しました。

 あと少しでいよいよ70代突入です。カウントダウンですね。
 この1ヶ月ほど、60代は私にとってどんな10年だったかなと考えることが多くなりました。
 60歳になったとき、できるかぎり自分のことは自分でやれるようにしようと決意。見知らぬ土地をめぐるひとり旅に挑戦しました。それがもう楽しくて、味わったことのないほどの解放感ですっかり自信をつけ、その後も何回も国内外を問わずひとり旅に挑戦しています。コロナ期間中は自粛していましたが、昨年は久しぶりに海外ひとり旅にも出ました。
 仕事だけでなく、日常生活でもやってみたかったけれど、自分には向かない、やれないと思い込んでいたことも60代のうちにやってみうようと思って、新しいタイプの仕事にも挑戦したし、梅干しや味噌など保存食作りもやってみました。コロナ自粛期間中はなんと一番苦手な裁縫にも挑戦しましたよ。やっぱり苦手ですぐにやめましたが。
 そして60代は親と家族との関係を再構築する10年でもありました。北欧ひとり旅から帰国してまもなく実家を訪れたとき、父が私をこっそりと呼び「なんかあったら、お金関係の書類はここに入っている。知らせる人の名簿もあるから、頼むわ」と引き出しの書類入れの場所を教えました。どうもそのころに余命を告げられていたらしいとわかったのは、その8ヶ月後に亡くなったあとでした。
 私が50代半ばのころ、母が何回か入院することがあり、関西の実家に定期的に通っていろいろと実家のあれこれを手伝うようになりました。そうなって気がついたのは、お金のことや親の人間関係についてまでも、私が親にかわって決める立場になったことでした。つまり年老いた親を守るのは子どもなのだ、とわかったのです。子どもの自分が親に守ってもらうことを当然と思っていたのに、「え? 親子逆転か?!」と愕然。
 母は自分が40代のころからしつこいほど私に「お父さんに何かあったら、あんたが私を守ってくれるんだよね」と念を押し、そのたびに私は重い気持ちで「そうだね。大丈夫だよ」と答えていました。父はそこまで露骨に守ってほしいとは言いませんでしたが、それでも余命宣告を受けたころから「いろいろと世話をしてもらわなならん。頼むわ」と私に言うようになりました。
 私が「自分のことはできるかぎり自分で決めて、自分でやれるようにしなくては」と決意を固めた背景には、自分が親を守る立場に置かれたと気づいたことがあります。
 もうね、60代のテーマソングはユーミンの「守ってあげたい」でしたよ。

 You don't have to worry, worry, 守ってあげたい〜〜
 あなたを苦しめるすべてのことから
   Cause I love you
 
 正直、重かったですね、愛しているなら守ってあげたくなるはずだ、守ろうとしないのは愛してないからだ、と突きつけられているみたいでね。口ずさむたびに胸のなかがもやもやして、どんよりしていました。
 でもっていま、私は親のつぎに夫を守らねばならない立場になったのか、と思うことが多くなりました。60代は親の「守ってくれ」攻撃(してるわけじゃないだろうけれど)に対して親子関係をどうとらえればいいのかと悩んだけれど、70代は配偶者との関係にあらためて悩むのかといまは気が重い。もうユーミンの歌はありえませんからね(Cause I love youの箇所が)
 家族間の人間関係を「守ってあげたい/守ってもらいたい」を超えてどう再構築していくか。
 ケアをする/されるときの距離をどうとるか。70代はそれを考え、葛藤する10年になりそうです。

あけましておめでとうございます。
と書こうとした日に地震が起こり、被災された方々、また救助にあたっている方々のことを思うと、とてもおめでとうと書けなくなりました。そして翌日には羽田の航空機事故が起こり、海上保安庁航空機に乗っておられた方々が亡くなられ、ますますおめでたい気分からほど遠くなっていまに至っています。
でも、新しい年が明けたことは間違いのないことで、たとえそれが昨日と変わらない1日だとしても、新しい何かの始まりだと特別な意味づけを私はしたいです。
2024年は個人的に「切替の年」だと位置付けています。
70歳、古希を迎えることがひとつ。これまでと同じ体力で突っ走れるわけがありません。老いを受け入れるためには、からだとこころの管理についても頭を切り替えなくてはならないでしょう。
もうひとつは、「空間の切り替え」です。できるかぎりいまの家で生活することをやっと決意し、そのための第一歩として断捨離と自宅の改装をしたのですが、今後どうしたらそれが可能か手探りながら考え、実行に移していくことになります。自宅を閉じた空間にするのではなく、開かれた空間にいすること。これまでのように家族中心ではなく、もっと広い人間関係を受け入れる空間づくりへと切り替える年になるかなあ、と。
地震だけでなく、昨年の猛暑や洪水など自然災害が多くなることが予想されています。気候変動に自分ができることは何かを考えることもたいせつだと思っているし、いつ自分や身近な人たちが被災するかわからないことも想定して準備しなくてはとも考えています。いざというときに、助けを求められる自分になることと、家族や親戚だけでなく地域の人たちになんらかの助けができる存在になれるように、物理的にも精神的にも準備を進めていきたいです。
どれだけ準備しても、もちろん完璧ということはありえないし、想定外のことは起こるものです。というか、想定していないことがあたりまえに起こるに違いありません。あのときあれをやっておけば、こうしておけばと悔やむことも多いはず。
でも、それはそれ。あきらめを受け入れることも覚えなくては。
とかいろいろとエラソーなことを並べましたが、正直、70代をどうすごしたらいいのかとちょっと怯えています。
サッカーの試合では失点したときに「切り替え! 切り替え!」とよく叫ぶのですが(ガンバではそうでもしなくては試合観戦できなくなるほど失点が多いし)、今年はそれを繰り返し自分に言い聞かせる年になるかな。

というところで、唐突ですが、今年もどうぞグラマラスライフをよろしくお願いいたします。
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1月1日に母を訪問しようと早朝新幹線で大阪に向かいました。車窓からは見事な富士山が見えて、こりゃ今年は幸先いいわと思ったら、帰りの新幹線に乗ろうとして新大阪のプラットフォームに上がった途端に、立っていられないほどの大きな揺れ。なんとか無事に帰京しましたが、帰りは不安で気持ちが沈みました。

2023年が終わろうとしています。1年を振り返って、世界も日本国内もざわざわと落ち着かず、各地での紛争や気候変動による災害などのニュースに心を痛める日が多かったかなと思います。
それでも毎日明るい出来事を探し続けた1年でした。
コロナが5類に移行し、海外からやってくる人たちが増えて、私もキウィ=ニュージーランドとシンガポールに旅行しました。人の往来はコロナ前の水準に近づきましたが、それでもコロナをはさんで街の雰囲気はガラリ、とまではいかなくても変わったなと感じます。それがいいとか悪いとかいうのではなく、アフターコロナを生きていかざるをえないのだろうなと思っています。
私自身は来年いよいよ70代に突入です。60代も慌ただしく過ぎて行きましたが、70代も忙しい日々が続くのでしょうか? ともあれ70代の10年は、60代のそれとはちがうのだろうなと覚悟、いや期待しています。
一応、断捨離が終わり、70代からはできるだけモノを増やさず、モノと大事につきあっていきたいと心しています。モノだけでなく、自分自身を大事にすることも覚えなくては。2024年は、からだも、こころも、人間関係も、「大事にいたわっていく」年月の始まりかな。

来年もグラマラスライフをどうぞよろしくお願いいたします。
どうぞよいお年をお迎えください。

2024年、皆様の健康とご多幸をお祈り申し上げます。
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