Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

ささやかな日常

 できるかぎり長く自立した社会生活を送り、できるだけ長く働き、健康寿命を伸ばすために、やれることはやろう。そのために規則正しい生活を送り、運動習慣を身につけ、からだによい食事を心がける。
 そう思って残り少ない60代の日々を送っています。
 でもどれだけ強く願って、どれだけだけがんばったとしても、いつかできなくなる日が来る。そう覚悟を決めなければいけないな、と思うことが最近続いています。
 たとえば、どれだけ塩分を控えて、タンパク質摂取を心がけ、必死になって運動しても、血圧のコントロールがむずかしくなっている。
 ウォーキングばかりでは負荷が軽いかなと思って、先日ジョギングをしてみたら、なんと足がもつれて転びました(Apple Watchが警報を鳴らした……とほほ)。以前は時速6キロでウォーキングしていたのだけれど、最近はせいぜい時速5キロでしかできない。
 夕方になると目がかすんで、スマホどころかPC画面の文字でさえも読むのがむずかしくなった。
 集中力が自慢だったのだけれど、最近はせいぜい1時間しか集中力が続かず、仕事のスピードが落ちた。
 「めんどくさい」と思うことを極力減らそうとしてきたのだけれど、2日に1回、その日のスケジュールを確認しながら「着替えて、化粧して、出かけるのがめんどくさいな」と思うようになった(思うだけでなく、普段着のまま、化粧もせずに出かけたりすることに抵抗がなくなっている)。
 外出でそれだから、旅行となると心が弾むのとめんどくさくて気が重くなるのが半々くらいになっています。
 いつか来るだろう、と覚悟していたはずなのに、そのいつかが迫っていることに気づいて、愕然とはしないまでも、ゆううつになることがあります。
 いつか、ジョギングどころかウォーキングだってできなくなる日がくるかもしれない。
 いつか、集中力が10分しか続かなくなる日がくるかもしれない。
 いつか、仕事をあきらめなくてはならなくなる日がくるかもしれない。
 いつか、旅行に出かけるのがめんどくさくなってやめる日がくるかもしれない。
「かもしれない」ではなく、確実に「くるだろう」。それも間近に。
 いよいよ腹をくくるときが迫っているのでしょう。
 いつか来る日がやってきたとき、つぎの新しい展開を楽しめるように、自分を納得させていけるように、その準備の最終段階に入ったのでしょう。
 だからこそ「今日だけ」を考え、今日をたいせつに楽しんで乗り切ろう、と思っています。
 いつか来る日のことは考えないで。
  
A6B6863E-8C66-4F32-BF83-83A8AFA33D6B

先日
訪れた六義園。小雨のなか、新緑が美しかったです

振り返ってみると、昨年まで2年続いた「60代最多忙な日々」の反動が来てしまっているのかもしれませんが、今年に入ってから気持ちがダウン気味で、PCの前に座って頭を使うことをするのがちょっと億劫になっていました。
2月はじめに3人目の孫が生まれて、娘夫婦のところに毎日ごはんを持って通うとかしていた疲労もたまったのかも。
探せば原因はいろいろとあるけれど、原因を探したところで好転するわけではない。
メンタルを切り替えたほうがいいなとうすうすと気づいてはいたのだけれど、だから何かをしようという気にもならず、毎日NetflixとWOWOWとPrimeVIdeoをめぐって、配信ドラマや映画を見るともなくぼんやり視聴する日々を送っていました。(ガンバ の試合も見直したい気持ちになるのはなかったし、とほほ)
そして4月はじめのある晴れた日、洗濯物を干しているときに空を仰いだら真っ青。
あ! 春から初夏へと季節が動いてる〜と気づいたその瞬間「この機を逃したら、春の印象が何も残らないで2023年が終わってしまう!」……と、クローゼットに駆け込んで登山グッズを引っ張り出し、大急ぎで着替えて、前の晩の残り物をお弁当箱につめ、本を一冊リュックに放り込み、高尾山をめざしました。
その日は夕方から用事があったので、時間とエネルギー節約のためにロープウェーで登ってリフトでおりてこようと思ったのですが、高尾山口駅から山桜と新緑がグラデーションを織りなす山の景色を見てあっさり出かける用事をあきらめました。申し訳ないなと思いつつも、「今日はごめんなさい、うかがえません」と先方にメール。
時間の余裕ができたおかげで、ゆっくりと歩いて登って、道草しながらのらくらと歩いておりました。鳥の声と花を楽しみながら。
そして翌朝、おそらく40日ぶりくらいに「お、今日は快調!」とすっきりと目覚めることができたのです。以後、わりに快調で、やっとなんの薬も飲まないで過ごせるようになりました。

そこで気づいたこと。
人によるのだろうけれど、私の場合は「からだを動かさないと力(やる気)は出ない」ということ。
なんとなく不調、やる気が出ない、ごろごろしたい〜〜という気持ちにまかせてだらだら過ごすのも大事なのでしょうが、ある時点で意識的にからだを動かさないといつまでも不調が尾を引く。
その勢いで、先週は水戸芸術館で開催中の「ケアリング/マザーフッド」展を鑑賞しにいって、偕楽園内の好文亭で日本最古のエレベーターを見てきました。
GWもできるだけからだを動かすことを意識しよう、と思っています。
IMG_4328
高尾山からは桜に富士山。まるで風呂屋の書割りのような……
IMG_4398
昨年末に亡くなられた磯崎新さん建築による水戸芸術館の三角タワー
IMG_4414
偕楽園、たしか小学生のときに水戸に住んでいた母方の親戚に連れられていって以来でした
 

 実はここ最近体調を崩していました。
 寝込むほどではないのだけれど、朝「う、不調だな、今日も」という感じで起き上がる日々がもう3週間ほど続いています。
 はじまりはやはり花粉症。鼻水がとまらない、目がかゆい、くしゃみ連発、そのうち夜に喉が痛くて何度も目が覚めて寝不足になり、したがって起床時にぼーっとしてしまう。
 つぎにまた湿疹が出て、おなかや背中の発疹が次第にあがってきて頭皮にきて、最後に顔。顔が真っ赤に腫れ上がるまで耐えたのだけれど、このままだと外を歩けないという段階でついに皮膚科にお世話になることに。
 そうこうしているうちに頭痛までしてきて、こりゃ風邪ひいたかなと思って、軽い気持ちでパブロンを飲んだらあっという間に血圧があがりました。
 服薬の素人判断はよくないどころか危険です、と医師にお叱りをうける。高血圧体質の高齢者は風邪薬にはとくに要注意なんだそうです。
 花粉症の薬に加えて、皮膚科でもらった薬、そこに市販の風邪薬が重なって、ますます具合が悪くなるという本末転倒事態です。自業自得かも。
 で、こういうときに必ず言われる言葉。
「無理はいけない」
 すみません、誰か教えてほしい。何をどこまでやると、「いけない無理」なんでしょうか?
 この程度はまだ「がんばり」であって「無理」ではないだろうと私の判断でやっているのですが、もしかするとがんばりがいつの間にか無理の領域にいってしまっているってこと?
 何が、どう無理なのか。どこまでやったら限界を超えてしまうのか。それが私にはどうしてもわからないのです。
 発熱したり、動けないほど痛みを感じたり、どうしてもからだが動かないということでもあれば、ああ、そうか「無理領域」に踏み込んじゃったのだなと寝込めばいいのだけれど、いま感じているのは、家事や仕事ががんばれないほどの不調ではない。
 かといって、さ〜〜今日も元気はつらつ〜〜〜からはほど遠い。
 それこそ、ちょっと無理すれば日常業務はこなせてしまうのです。
 その「ちょっと無理」がすでに「だいぶ無理」領域に入ってしまっているってことでしょうか。
 考えてみれば、「もうちょっとがんばろう」と毎日自分を励まして69年生きてきて、いまさら「もう無理はいけないから休んで」と言われてもそれこそ「無理」なんだけれどな〜〜。
 
 とはいうものの、朝起きたときに感じる不調感はどうにかしないといけないので、今週末は仕事をしない、家事をしない、書道をしないと決めました。(そのかわりにさっきまで家事にいそしんでしまったのだけれど)
 明日は久しぶりにサッカー観戦だ! 
  

 今日は雛祭り、そして私の誕生日です。
 いよいよ60代最後の1年を迎えました。
 50代最後の年には、ひとりで生きられる訓練をしよう、とか、まだまだこれからやれるはず、と自分を鼓舞することを書いたような気がします(未確認)
 それから10年たって思うのは、まだまだ私はやっていけるな、という自信と余裕がこの間に生まれたな、ということ。それと同時に、自立心だけでなくまわりの人たちの助けを借りて暮らしていく勇気を持つのがつぎの10年の目標だということ。自分の目に入る範囲だけでなく、知らないところ、気がつかないところでもお世話になっている人たちへの感謝の気持ちを忘れないようにして毎日を過ごしていきたいな、ということです。
 人は誰かの、または何かの助けを借りないで生きていくことはできない。それはもう自明のこと。でも「自立」とか「自己責任」ばかりが叫ばれるこの世の中。それがあやまった方向に進んでしまうと、誰か、または何かの役に立っていない人はこの社会の邪魔者という発想が生まれかねない。(ナリタ何某みたいな暴言が蔓延しかねない)
 若くても、健康でも、十分な収入があっても、家族に恵まれていても、人は誰かのお世話になり、ときには誰かに迷惑をかけ、誰かを傷つけたりもしている。その自覚を持ったうえで、できるだけ人の役に立ちたい、という意欲を持つことができる69歳をめざしたいです。
 と同時に、人のお世話になることをおそれない、人に迷惑をかけてしまうこともこわがらない自分でもいたい。それは「人の役に立ちたい」以上に勇気を必要とし、生きる力を発揮せねばならないことだと思っています。
 そうなってこそ、生きることがより楽しくなるのではないか。
 今年も娘たちからすてきな花束をもらいました。「ガンバカラー」です。気が利いていますね。
 よい一年を過ごそう、という鋭気をもらいました。
IMG_3868

先週、私にとっては3人目となる孫が誕生しました。
母子ともに元気で、無事に生まれてきてくれたことに感謝です。
上の子どもがいることもあって里帰り出産をしない選択をしたので、産院から退院後はおばあちゃんである私が毎日ごはんを持って通っています。コロナのために、何もなければ産んで3日目に退院で、母乳が十分じゃないんじゃないか〜〜〜とか、赤ちゃんの体重が増えてないんじゃないか〜〜〜と不安そうな若夫婦には、やはりオババさまの手助けがいるかと。っていうか、私が新生児を抱っこしたい、すりすりしたいというのが大きいかな。
とはいうものの、赤ちゃんの世話はパパママにお任せして、オババはもっぱら上の子どもの相手をする係です。 赤ちゃんが家族に加わって、とてもうれしい半面、パパママの関心がどうしても赤ちゃんに向いてしまうことで、ちょっと複雑な上の子。ママパパにとって、きょうだいの誰もが一番大事なんだよ、もちろんおばあちゃんにとってもね……ということを伝えることも大事かと。
人間はなぜ生殖年齢をすぎても長々と生き続けるのか? ということについて、「運動の神話」(ダニエル・E・リバーマンほか2名著 中里京子訳 早川書房)という本に「のちの世代が生き延びられるよう手助けをするため、という説がいまは通説になっている」と書かれているのを読んで、そうか、私がせっせと食事をつくって運んでいるのも、人類を継続させていく一環かも、とか思ったり。 
何はともあれ、ひと足早く春が来ています。
 
IMG_3595

↑このページのトップヘ