Glamorous Life

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ささやかな日常

 めったに病気をしないというのも考えものだな、とインフルエンザ・ショックで痛感した私です。自分は健康だ、自分は病気しない、自分は丈夫だ、というのは過信だし、ある意味傲慢だなと思い知らされた2025年の年明けです。それに気づくためにも、たまには病気したほうがいいのかも(いや、病気したくないけれど)
 熱を出して寝込んでいるとき。起き上がるのも立ち上がるのもひと苦労で、自分では歩いているつもりでもふらふらしてひっくりかえりそうになり、お恥ずかしい話、這うようにしてトイレまで行き、また這うようにしてベッドに戻ることを繰り返した2日間でした。ただ熱が出てからだがだるいというだけでなく、からだがうまく使えない苦しさも思い知ったことも、今後へのよい教訓だったかも。
 自分のからだが自分の思うように使えない、というのはかなりショックなことでした。頭(脳)にいちいちおうかがいを立てて、「右足をおろします」「左足もおろします」「上半身を起こします」「さて、立ち上がりましょう」とか命令しないと動けないし、ひとつ一つの動作にえらく時間がかかる。ふだんは何も考えずに動かせるからだが、考えないと動かせないとは! 考えて動かせるのだったらいいけれど、いくら記憶に頼って動かそうとしても動かない日がくるかもしれない。たかがインフルエンザで1週間寝込んだくらいで、ここまで考えてしまいました。
 太極拳の師匠に、年明け最初のおけいこでいいことを教わりました。太極拳では始めたころは「重心をこうやって移動させて、肩の力を抜いて、きわみを作らないで……」と考えながら動いていくのだけれど、それは中枢神経を働かせての動き。長く続けていくうちに末梢神経にまで動きが落とし込まれて、考えなくても自然に動けるようになる、とのこと。
 日常の立つ、歩く、しゃがむ、といった動作にも同じことが言えるのではないか、と気づきました。具合が悪くて寝込んだりして、からだをしばらく動かさないでいると、それまで末梢神経にまで落とし込まれていた日常の動作が中枢神経からの指令がないとできなくなる……ような気がします。
 最近、廃用機能という言葉を耳にするようになりました。「長期間の安静や運動量の減少によって、身体機能が低下した状態を指す。生活不活発病ともいう」そうです(AIが教えてくれた)。つまり使わないでいると末梢神経に指令がいかなくなって、身体機能は衰えてしまう。だから日常生活のなかで、いろいろな動作を繰り返していくことがたいせつなのは、からだに廃用機能を作らないため、なのだそうです。できるだけ長くからだと脳を使うために、めんどくさがらず無理なく動かそう、というのが2025年の決意です。
 それで何をやったかというと、年賀状を書きました。え? そこ? と言う声が聞こえましたが、そう、そこなんです。年が明けてだいぶたってからわざわざ印刷をするのもどうかと思ったので、手書きです。年賀状をおしまいにするのが時流だというのに、しかも年が明けてしばらくたっているのに、年賀状を書くなんてね。字を書くのもからだの機能を使うことのひとつ。一年に一回くらいは万年筆で近況を手書きするのも末梢神経を働かせる(さぼらせない)ことの一つではないかと。
 今年は廃用機能を作らないように、末梢神経にまで日常動作が落とし込めるように、しっかり動くことを続けていきたいです。 

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明けましておめでとうございます。
2025年、安心して穏やかに過ごせる日々がたくさんありますように。
2025年、心が痛むニュースを見ることが減りますように。
2025年、「私にできることがあったら言って」と誰にでも言える勇気が持てますように。
2025年、心が躍るプレイがたくさん見られますように(ガンバサポ向け)
2025年、目覚めたときに、あ〜よく寝た、さ、今日もがんばるぞと起き上がる日がたくさんありますように(高齢者向け)
2025年、がんばりすぎないことを覚える年になりますように(自分向け)

年の瀬も押し迫ったときに具合が悪くなり、医院の年内診療最終日に予約をとって診察を受けたらインフルエンザでした。20年ぶりにかかってしまいました。
すぐに薬を飲んで熱が下がったので、ま、大丈夫かなと翌日にお正月の準備とかうっかりやったのが大きな間違いでした。自分の体力を過信するという私のちっとも治らない愚かさです。
結局、恒例の家族の大晦日会は延期となり、途中まで作ったおせちを30日夕方に取りにきた娘からこわーい顔で「いい? もうおせちなんて作らなくていいんだからね。掃除もなし。洗濯もしちゃだめ。明日は1日ベッドのなかでなーんにもしないで過ごすんだよ」と厳命されました。
その晩から熱が40度超え。体温計を何回も確かめました。40度を超える熱なんて少なくとも私の記憶では前回のインフルでも経験していないはず。これがもう、苦しかった。全身が痛くてだるい。目を開けてもつぶっても頭がずきずき痛む。「これはからだがウイルスと闘っているんだ。辛抱して闘おう、もう少しで打ち負かせる」と自分に言い聞かせても、痛みやだるさは去っていかない。だんだん負けるんじゃないか、いや、もう負けてもいいかと悲観的になっていき、「これは何かの罰なんだ。なんの罰なのか?」とこれまでの自分の数々の愚行愚言を振り返り始める。そのうち思考も理性もすっ飛んでしまって「なんとかしてくれー」と寝返りを打つだけ。
娘の命令通り、大晦日は1日の大半をトイレと水を飲む以外うとうとと眠って過ごし、夜は紅白が始まる前に眠りに落ちて、1月1日の朝5時まで熟睡しました。
カーテンを開けたらまだ真っ暗。目を開けても痛くない。そのままぼんやりと2025年の初日の出を拝みました。「今年はがんばりすぎない、いや、がんばらない私でいられますように」と祈りましたよ。

 そんなわけで今年は自分のからだをたいせつにすることを覚える一年にしたいと思っています。
 今年もグラマラス・ライフともどもよろしくお願いいたします。

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 70歳になって1年目の今年。誕生祝いをしてくれた友人から「元子さんは自己評価が低すぎる。もっと自分を褒めなさい」と忠言をいただきました。自分でもそれは薄々感じていたので、70歳になったのを契機に自分を褒めることにしました。さあ、褒めるぞ〜。
 今年1年、私は本当によくがんばったと褒めたいです。何をがんばったかというと、まず毎日2食ご飯を作ったこと。何回も書いてしまうけれど、昨年秋に仕事から完全リタイアした同居人(夫)がほぼ24時間在宅するようになりました。いずれ来るとは覚悟していましたが、いざその日が近づくにつれて夫在宅ストレス症候群に陥りました。いまだに日々の生活の変化に慣れることになかなか苦労しています。
 まず憂鬱になったのは夫の食事問題。最初のころは夫の分も3食作ってましたが、それはストレスが倍増するばかりで無理と悟り、今年からは2食にしました。あと1食は同居人が自分でなんとかする、ということで無理やり同意を取り付けました。そして口約束でも取り交わした以上は、とほぼ毎日作り続けました。私が旅行に行くときにも、たとえ早朝家を出なければならないときでもその日の朝食ともう1食は盛り付けまでやって置いておき、冷蔵庫にその後の3日分くらいの調理済みの食事を入れておきました。
 それが苦痛だったのはほんの数日で、すぐに慣れました。というか楽しくなってきました。最近では1週間分の献立を考えて、食材を準備して、1汁2、3菜を手早く調理できる自分が誇らしい。自分で言うのもなんですが、献立作り→食材選び→調理→片付けの手際がよくなり、食材を余らせることがぐっと減りました。ここは自分を褒めたいところ。
 褒めたいところの2つ目が、自分を甘やかすことが少し上手くなったことかな。やりたくないことをやめたり、やりたいことを諦めたりすることが少なくなりました。今日は掃除やりたくない、と思ったら埃が目についてもやらない。この映画が見たい、ここに行ってみたい、と思ったら即腰をあげる。「やらなくちゃならないことがあるから、やりたいことを諦める」とか「やらなくちゃいけないと思うから、やりたくなくてもやる」とか、そんなことをやめました。
 おかげでサッカーの試合を近年になくたくさん観戦したし、泊まりがけの旅行にも青森から岡山まであちこち行ったし、思い立つと日帰りで東京近郊散歩に出かけました。
 以前はお楽しみのお出かけになんとなく後ろめたさがあって、まわりや自分に言い訳をしていましたが、今は少しずつ後ろめたさが消えつつあります。堂々と好きなことを好きなようにやれるまでにあと一歩。そこも褒めたいところ。
 ほかに褒めるところがないかと昨日から考えているのですが、これ以上思いつかないので「自分を褒める大作戦」はまだまだ道半ばですね。
 来年はもっと自分を褒められるところを増やしたいものです。
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先日はふと思い立って、皇后杯女子サッカー5回戦日テレベレーザvsジェフ千葉市原レディースを観戦しに平塚のレモンガススタジアムに出かけたら、なんと、富士山が夕日に照らされている姿を見て感激。お出かけするといいことがいっぱいです。

もう12月に入って3日も過ぎました。
11月はとにかく30日があっという間に過ぎ去っていきました。
11月にいったい私は何をやっていたのか、と脳内で振り返ってみたのですが、思い出せるのは
1)書道の公募展、創玄展の作品制作に励んだ(締切は12月26日なのでまだ書かなくちゃいけない)
2)出版社に振られ続けている本をなんとかしようと悪戦苦闘中(まだなんともできていない)
3)どうも何かからの逃避欲求が高まったせいでやたらと料理を作った
くらいしかない。

でも本はあれこれ読みました。
「いずれくる死にそなえない」名郷直樹著 生活の医療社
高齢者を診察している精神科医が説く「下り坂の哲学」。この本で著者が言いたいのは「(高齢になって病気になり、やがて死ぬことを)先送りにするかしないかとういことではなく、どんなに先送りにしても、やがてやってくる下り坂、そして死について、どう向き合い、どう下っていくか、どう死ぬかということなのである」。曰く死ぬことを恐れず、死をタブーにせず、死に方とか老い方の理想を追いかけない。寝たきりになってもそれを本人も周囲(介護者)も受け入れる、あじゃなくて寝たきりを「望む」こと……などなどが書かれていたのだけれど、ついつい「周囲に迷惑をかけないようにもっとがんばれ」とか思ってしまう健常者の私には、え? そうなの?と疑問に思うところと、まあそうだよな、と納得するところが半々。
患者の自己決定が優先されるこの時代に、どんな生き方死に方を選択するか、それについてはこの医師の迷いや経験を踏まえての「死にそなえない」心持ちは腑に落ちた。自分で選択して決定しているようで、実は周囲のことを考えて道を選んでいることがほとんど。子どもに迷惑かけたくないから、とか。それならどういう心持ちで自己決定すればいいのか? 
そういうことを著者が考えるようになったきっかけは「中動態の世界:意志と責任の考古学」(國分功一郎著 医学書院)だったというので、さっそく図書館で借りて読んでみました。副題のとおり、自分の意志で選んだのだから、そこには自己責任が生じる、ということになっているけれど、本当に私たちは自分の意志でたとえば生き方や死に方を選んでいるのか? もしくは選ばされた選択には自分に責任は生じないのか? ということを論じた本です。哲学の本なので、哲学者がこんなこと言った、こういう学説がある、ということもたくさん書かれているのですが、そこは國分さん、私たちの誰もが人生で出会う「意志と責任」の場面が具体的に書かれていて、とてもおもしろかったです。
この世の中は、自分の意志で選ぶことができる(能動)/周囲や他人に選ばされる(受動)だけでなく、死や老いなど意志によって選択することなどできない「中動態」がある、と國分さんは書いています。うーむ、これは納得ですね。
そこでまた國分功一郎さんと熊谷慎一郎さんの共著である「<責任>の生成—中動態と当事者研究」(新曜社)という本に出会い、これまたなーるほどとうなる本でした。来年、熊谷さんの講演を聞きにいくことにしたので、理解を深めたいと思います。
「テヘランのすてきな女」(金井真紀著 晶文社)は、「別れを告げない」(ノーベル文学賞受賞者、ハン・ガン著 斎藤真理子訳 白水社)と並んで2024年のトップにあげたい本でした。たたかう女、はたらく女、スポーツする女、居場所をさがす女たち、みてきた女、とテヘラン(とその近郊)で著者が出会った女たちは悩みを抱え、差別に怒りながらもはつらつとして魅力的。圧倒されました。
ほかにも読んだのだけれど、11月のメイン読書は中動態とテヘランの女たちでした。

ガーナに孤児院を作るための寄付集めを目的としたフットサル大会@味の素スタジアムで久しぶりにフットサルをやったり、いうまでもなく天皇杯決勝を観戦したり、サッカーも楽しんだかな。
とこう書いて振り返ると、何もやっていないとはいえない、というか結構充実した1ヶ月でしたね。
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11月も終わるころになると、冬の大三角がとてもきれいにみられるようになり、ウォーキングがいっそう楽しくなっています。


一年続いたらこのブログでも打ち明けようと決めていたのですが、なかなか打ち明ける勇気がなくていまに至ってしまいました。
実は、昨年からタップダンスを習い始めました。友人の娘さんがプロのタップダンサーで、もう10年以上教えてもいらっしゃるのですが、友人から「初心者クラスの生徒を募集しているのだけれど、やってみない?」と誘いを受けました。私はダンスというものを生まれてこのかた一度もやったことがありません。リズム感はないし、からだは固い。ましてやタップダンスなんて、舞台を見たことはある程度で自分がやるなんて考えたことさえありませんでした。
でも、友人から「ちょっとでもやりたいなと思ったらやろうよ! もう歳だから無理とか言わないで、無理かどうかやってみないとわからないじゃない。なんてったって人生で今日が一番若いんだから、今日やりたいことをやらないと、明日はどうなるかもっとわからないよ」と言われて、そうか、まずはやってみようか、と入門したわけです。はい、おっちょこちょいだからね。
そして1年たったわけですが、上達も何も、まだ「タップダンスをやっている」と口にするのさえはばかられるほど何もできません。初心者クラスといいながら、タップは初めてでもジャズダンスを長年やっている、とか、バレエをやっていた、とかそんな人たちばかりで、私はひとり、ついていけるのはアップまで、という状態。ステップをつぎつぎと習うのですが、クラスではまったくついていけず、送ってもらった動画を帰ってから何回も見直さないとどんなステップだったかもわからない。先生が最初に「タップは頭を使います。頭で理解しないとなかなかできない」と言われたのですが、まったくその通り。タップに限らずダンスみたいな身体芸術って頭を使うものなのかも。
それでも1年続きました。なぜなら、楽しいから。できなくたって楽しい。いや、ちがうな。できないから楽しいのかも。この歳になると、ついついできることばかりをやってしまうのだけれど、できないことを少しでもできるようにすることはすごく新鮮で楽しいんだな、としみじみ(負け惜しみと言い訳もあるけれどね)クラスが終わって汗だくへろへろになりながらも、帰り道は爽快でうきうき気分です。
いまさらタップダンスなんか習って何がしたいんだ? という声もあるでしょうが(自分のなかからでさえそんな声が聞こえてくる)、楽しければいいんだと思うんです。何も舞台に立ちたいとか、誰かに見せたいとかそういうことが目標(目的)ではない。
なんてったって、楽しいことがたくさんあるほうが人生の満足度は上がるはず。2025年の今頃も、まだタップを楽しんでいることが目標といえば目標です。
それにしても、なんでこうも思ったようにからだが動かないんだかね。

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