Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

ささやかな日常

Amazonで本を購入するのをやめてそろそろ2年。本屋に行く時間がなくて、でもどうしても読みたい本があるときにはまず図書館で検索し、本屋をまわり、それでもなかったらやむなくhontoを使うことにしています。
なぜならAmazonからのおすすめがわずらわしくて、かつ評価マークが信用できない、と思っているから。もちろんhontoもおすすめしてくるけれど、せいぜい同じ著者の新刊だったりするので、まあ許せる。でもAmazonが薦める本はひねりを入れて来て、しかも「うーん、そこですか?」という球を投げてくることが多いのです。それ以上に「その本だけは薦めてほしくなかった」ということがあって、私が嫌いで読みたくないと思う作家や学者の本を、売れているからというだけで薦めてくるのがいやでした。
Amazonでの購入をやめて2年経ち、ようやくおすすめメールがこなくなってほっとしています。プライバシーに踏み込むな、とかいう以上に、勝手に私の読書傾向を判断してくれるなよ、私がその本をAmazonで購入した動機をAIが判断した、とか言うのだったら、AIあんたは間違ってる、私の意図と動機をあんた(AI)が判断するのは50年早い〜〜〜という腹だたしさのほうが先に立ちます。
それはともかく、私はベストセラーをあえて読まないと決めてから25年がたちます。きっかけは「失楽園」でした。日経朝刊の連載小説だったときにはときどき読んでいたのですが、うーん、神経が逆撫でされるというか、「女を馬鹿にしとんのか!」と怒りがこみ上げるというか、とにかく嫌いだったのです。ところが超ベストセラーになり、え? 何それ? と裏切られたような気持ちになって以来「ベストセラーには手を出すのをやめよう」となったわけです。
本だけでなく、テレビも視聴率が高い番組は意図的に見ないし、映画も観客動員数最高とか言われると見る気が一気に失せます。NHKの朝ドラを最後に見たのは1996年の「ふたりっ子」だったかなあ。「あまちゃん」の話題についていけなかったときは、ちょっとさびしかったけれど、別に見なかったことで困ったことはこれまでありません。紅白歌合戦も何十年も見ていないし、流行歌にもうとい。ラジオを聴くので、あれ?いまの歌、すごいいい! ということはときどきあって調べたりするけれど、それが流行っているかどうかまでは調べないです。
コロナ禍の自粛期間中にNetflixに入ってドラマや映画を見るようになりましたが、「愛の不時着」にはついにハマれなかったのは、たぶん「流行っているもの、みんなが見ているもの、おすすめされるもの」への忌避感があるからではないかと自己分析しています。
(ちなみに私がNetflixでずっとハマり続けているのが、イ・ウジョン脚本、シン・ウォンホ監督の一連の作品。「賢い医師生活」「刑務所のルールブック」「応答せよ、1994」「応答せよ、1997」です。賢い医師生活のシーズン2の公開が待ちきれません)
そんなこと言っていても、GAFAのAIマーケティングにいつまで私が抵抗できるのかはわかりませんが、とにかく「ベストセラーは読まない」「一番人気には手を出さない」「視聴率トップは見る必要がない」ついでに「いいね! とか星がたくさんついているものは疑ってかかる」ことをもうしばらくは続けていくぞ、と決めています。おもしろいもの、はまるものは自分で探す。それをしばらく座右の銘にしておきます。
(と思っていたら、日経朝刊にこんな記事がありました。そうかGAFAのマーケティングはこんな風に問題なんだ、とうなずいたので画像を貼っておきます)
 
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 今日はvs札幌戦が予定されていますが、今日もまたプライベートな予定が入っていて視聴できるかどうか微妙です。うーむ。
 プライベートな予定、それは入院中の母の対応です。これまたうーむ。きのうも夕方から10時近くまで電話かけまくり、頭下げまくりの4時間に加えて、なんでこうなってしまったのかと悩むこと数時間を過ごしました。
 父が亡くなったときにはそれほど老いについて深く考えなかったのですが、父亡き後急激に老いていく母を見ていると、自分自身も老いていってるんだということを痛感させられます。たぶん「老いること」にも何かいいことがあるのだと思うのですが、少なくとも母の老いに翻弄されている今の私には老いのいいことが見つけられない。そこで自分の老いの下り坂を少しでもゆるやかにするために、そして周囲にかける「迷惑」をできるだけ明るいものにするために、 いま私が心がけていることを箇条書きで書いてみようと思います。

1)時間がたつと老いは進行して、後戻りするということがない——老いの不可逆性についてつい忘れがちな私に、医師やケアマネが何回となく言いきかすこと。それは「以前のようになることはありません」「年齢を巻き戻すことはできません」「下り坂を後ろ向きに登ることはできません」ということです。 一度減った骨量が増えることはないし、記憶力が30代、40代のころに戻ることもありえない。それを受け入れることが老いと上手につきあっていくための第一歩です。
でも、ただ一つだけ、わずかではあっても歳をとっても増やすことができるものがある、ということも繰り返し言われます。それは……「筋肉」です。何歳になろうと、筋肉だけは鍛えることができるそうです。 
父のリハビリにつきあっていたときに、理学療法士から何回も耳タコくらいに「動かすことでからだは錆びない。歳とってもからだが動けば、心身ともに健康に老いていけます。諦めちゃだめです」言われて、でもまだ50代だった私は「ほんまかいな?」とあまり取り合っていませんでした。
しか〜〜し、 50代から骨折を繰り返し、骨折するたびに「運動して筋肉を鍛えなさい。そうでないと体のあちこちに不調が出て、しまいに認知症になりますよ」と言われても「大丈夫、私は本も新聞も毎日読んでいるし、ボードゲームで頭を鍛えているから」とがんとしてやらなかったツケがまわった人を前にして、あの理学療法士の言っていたことはほんまやった、と実感しています。
老いの衰えをゆるやかにするために必要なのは、脳トレではなく、筋トレです。
貯金も大切だけれど、貯筋しないと貯金はあっという間に目減りします。
新聞読んだらウォーキングです。
歳をとるほどに運動は必要になります。
筋肉は裏切らない。使い古された格言だけれど、真実です。
 
2) 緊張感を失うと一気に老いる——これまた医師に言われ、スーパー老人に言われて実感することです。出口治明さんのベストセラー「還暦からの底力」に「一番の親孝行は、親に楽をさせないこと」という言葉があって、ぱーんと膝を打ちました。「今日、しなければならないことがある」「○日までに仕上げなくてはならないことがある」という緊張感を保ち続けること。でもそこまではいかずとも「夕飯を作らないと。そのために買い物に行こう」というだけでもいい。何もかも人任せにしてしまい、緊張感を失ってしまうと、老いは急坂を転げ落ちるスピードで進行してしまいます。
上げ膳据え膳、掃除も洗濯も他人任せ、どこに行くか何をするかも他人(家族も含めて)が決めてくれてそれに乗っかるだけ、みたいな「安易」な暮らしをしてはいけないのです。
それにまた、「悠々自適」「安心安全」を優先して緊張感を失った生活に身を置いてしまうと、老いの日々はぼんやりと灰色の煙の中にいるみたいになってしまい、虚しさと寂しさしか感じない……そうです。

3)孤独に耐える心身を作る——前々からこのブログでも書いているように「ひとりでできるもん」精神を日々養っていくことがたいせつなんだと思います。
ひとりで外食できる。
ひとりで旅行に行ける。
サッカーのひとり観戦も大丈夫。
行きたいところ、やりたいことは、まずひとりで行く、ひとりでやることを考えて、その上で誰かを誘ってもよし、断られてもひとりで喜んでやる。
人間、最後は一人で死んでいかねばなりません。大勢に囲まれていても、死ぬのはひとりきりです。
ひとりがこわくない。ひとりが楽しい。そう思える強さを養っていきたいです。
 
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5月
に植えた朝顔がいま満開です

先日、月に1回通っている歯医者に行ったとき、医師から「60歳でぽろぽろ歯が抜けてしまうだろうと思っていたら、予想外に長持ちしていますね。これも月に1回必ず通院し、日々の手入れを怠らずに続けてこられたからです」とお褒めの言葉をもらいました。
猛烈な歯痛と顎関節症に悩まされて歯医者に駆け込んだのは、49歳の時でした。それから歯茎が腫れて(しょっちゅう腫れた)ウミを出してもらったり、歯茎と歯の隙間を切開して消毒して薬を入れてもらったり(保険がきかない高額治療で泣いた)、マウスピースを作ったり、10年間はまあいろいろと治療に明け暮れました。治療を受けるたびに「また歯茎が下がった」「歯がぐらぐらしている」などいろいろと言われて医師と一緒にため息をつき、60歳になろうとするとき「今後、もしも歯が抜けてしまったらどうするか?」を真剣に話し合ったりしていたのです。
と・こ・ろ・が、、、、この7年間ほどは、いわゆる「治療」は一度もしないですんでいます。それでも診察と口内の清掃のために月1回通院することは続けています。「歯がぼろぼろ抜けてしまうだろう」という呪いの言葉に縛られて(まさに呪縛ですね)、どんな仕事よりも優先して歯医者です。痛みもなく、不調もなく、行ったところで医師に診てもらって「どうですか?」「はい、別に何もありません」という会話(?)をかわし、診察して清掃してもらうだけですが、それでも月に1回、あの椅子に座らないとかえって不安。食べたら歯を磨かないと不安。
話変わって。2018年9月からほぼ毎日太極拳をしています。仕事が忙しくなると週に1、2回になったりしたこともありますが、基本的に毎日、少なくとも八段錦という準備体操みたいなのや一部だけでもやっています。今年はコロナ禍で外出ができずに少し余裕ができたこともあり、3〜6月は毎日全コース、7、8月は暑さでまた一部になりましたが、9月からはまた全コースやっています。太極拳もまた、毎日やらないと不安になってしまうのです。
いったい何が不安なのか? 自立した生活が送れなくなるかもしれない、という不安です。歯が悪くなると、認知症になる確率がものすごく高くなることは、身近なところでも何例も見てきました。足腰が弱くなると、転んで骨折して、そのまま寝たきりという例もいくつも見てきました。
いくらがんばったところで、あと20年もしたら、いや20年もしないうちに歯がぼろぼろ抜けて、足腰が弱くなって外出できなくなる日が来る可能性は高いです。やったって無駄かもしれない。何はさておいても歯医者の予定を優先し、食べたら強迫的に歯を磨き、毎朝汗水たらして太極拳をして、いったいそれが何の役に立つのか、と思うこともしばしばです。
「いったいなんのために?」と思うたびに、「でもやらないと、もっとひどいことになるかもよ」とささやく不安さまの声が聞こえてきて、やっぱりやるのです。
続けていくことに意味がある。続けていけば、なんかいいことがあるはず。そう信じて。

 

 この記事を公開するかどうかで悩みました。父が5年前に亡くなってから、ずっと考え続け、何回となく書いては消し、を繰り返してきた内容の記事です。母の「私の面倒見て! 家族なんだからもっと尽くして!」という要求に応えられない自分への言い訳ではないか、きれいな言葉でカッコつけているだけじゃないか、家族愛にあふれている人には耳障りな意見だろう、家族のプライバシーや尊厳を傷つけるのではないか、所詮たいして介護をしていない人間のあまっちょろい意見だ、と考えたのですが、思い切って公開することにします。なぜいま思い切ったか、その理由は自分でもわかりません。
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 今、母が入院しています。どうも長引きそうですし、たとえ退院できたとしても、もう以前のように自立した生活を送るのはむずかしいでしょう、と医師たちから宣告されました。退院後(早くて3ヶ月後かな?)の生活をどうするか、入居している高齢者施設とケアマネージャーと相談しながら、ケアプランを立てているところです。
 ケアマネさんや病院のソーシャルワーカーの方々から母の生活歴等についての聞き取り調査を受けながら、 老いることについて、そして介護における家族の愛とはなんだろうか、と考え悩み続けています。
そんなときに、ベテランのケアマネさんから言われてハッとした言葉がありました。
「介護に、こうあるべき、とか、こうするべき、という規範はありません。一人ひとり老いのあり方はちがいますし、生きてきた道もこれからたどる老いの道も一人ひとりちがうのです。家族のあり方もさまざまで、老いていく人に家族が○○しなくてはならない、などという決まりはありません」
 またソーシャルワーカーの方から「 介護者の資源(経済的、時間的、労力的な資源)には限度があります。被介護者の要求に全部こたえることは無理だし、あれして、これしてという要求にこたえることが「家族の愛情」ではありません。ご自分に無理がなく、できる範囲のことだけをなさればいいのです」とも言われました。
 また別のソーシャルワーカーの方からは「こと介護の場面において、いわゆる家族愛の美談はテレビや映画の中だけにしか存在しないのですよ」とも言われました。
 介護の主体は、被介護者ではなく、介護者だ、ということはもう何回となく、介護の現場にいる人たちから私は言われています。プロの介護者であれば、そういう割り切り方が実践できるのでしょうが、むずかしいのは被介護者が家族である場合です。家族の自分はどこまで資源を注ぎ込めばいいのか、注ぎ込みが足りない(=愛が足りない)から悪化しているのではないか、こんなに自分を犠牲にしている(つもり)なのに、なぜ被介護者は感謝をあらわしもせずに、もっと要求をつきつけてくるのか、、、、、、そんな思いにとらわれ、また腹を立てたり苛立ったりする自分に対して自己嫌悪と自責の念にかられる。思えば私は、母が胃がんの手術をしたことをきっかけに実家に通って家事を肩代わりするようになった16年前から、ずっとそういう思いにとらわれ、何回となく逃げ出しては(仕事を口実に会いにいかない、仕事を口実に海外に逃げる)母に責められ、腹が立つとともに逃げ出したことに対して自責の念にかられてきました。
 自分の中にあるどろどろとした感情をどうすればいいのか。「家族愛」という絶対真実、絶対美みたいな言葉を突きつけられたとき(自分で勝手に突きつけているだけ、というところもありますが)、そのどろどろした感情があまりに醜く見えて、ますます自己嫌悪に陥ります。
 そして私が今一番恐怖していること、それは自分の娘たちが老いた私の介護者となったとき、私がいま味わっているこういう思いに苦しむのではないか、ということです。それだけはなんとしても回避したい……と思っても、それは無理な願いなのかも。
 80歳、90歳をすぎてもかくしゃくとしているスーパー老人の姿がメディアで取り上げられ、「いまのお年寄りは元気だ!」と「美談」として報じられることが、家族の介護にプレッシャーをかけているような気がします。「老いて介護を受けて、家族に「迷惑」をかけているのは、その人の努力が足りなかったせい」と思わせてしまうのは、介護者と被介護者を苦しめるだけではないでしょうか?
 ケアマネさんが言われたように「老いの道は人それぞれ」であり、介護のあり方も家族それぞれ、なのです。そもそも介護する家族がいない人も大勢いるし、たとえ家族がいても介護拒否されてしまう人も大勢いる。そして介護拒否する人を、少なくとも私は責められない。
 自分はぜったいに介護を受けたくない、だから毎日ウォーキングして、食事に気をつけてる、という緊張感をもって生活することはもちろんいいことなのだけれど、だからといってその人(たとえば私)が明日要介護にならないという保証はまったくありません。せめて自分にできることは、「家族が介護者になるべき」とか「親なんだから、面倒見るべき」という「べき論」を介護に持ち込む必要がないのだよ、ということを子どもをはじめとする周囲に言い続けることくらいしかないのではないか、と思っています。
 きれいに締めくくる文章はまったく思いつかず、結論も何もないけれど、勇気をもって「投稿する」ボタンを押します。

 今日8月11日は全国的に猛暑日で、群馬県や埼玉県では40度以上を記録した町もあるようです。東京でも37度。体感気温は44度。もしコロナ禍で中止されなかったら、東京オリンピックはこういう猛暑の関東圏で開催されていたわけですね。まあ、オリンピック期間は猛暑日続きというのはもともとわかっていたことだから、対策はあったんでしょうが(ミスト出すとか?)素人考えですが、この気候って外を歩くだけでも熱中症の危険があるくらいだから、スポーツをするなんて体にいいとはとても思えないんですけれど。まあ、素人考えでしょうが。
 できるだけ長く「自立」した生活を、いま暮らしてる家で送りたいと願っている私が最も気をつけているのは、健康です。でも、コロナ禍の真っ只中の今、そして気候変動で真夏に世界的に殺人的な猛暑が襲ってくる現代、私が求めている「健康」とはいったいどういうものなのだろう? とこの頃よく考えます。どんな本を読んでも、健康のために必要なのは、栄養バランスの良い食事と適度な運動とあるのですが、食事はともかく、「適度な運動」ってどの程度にからだを動かすことを意味しているのでしょうか?
 私くらいの年齢(初心高齢者)に必ず勧められるのがウォーキングで、私も極力歩くようにしているものの、猛暑日になると夜になっても30度近くあるのでかえって健康に悪いんじゃないか、いや、危険じゃないか、と不安になります。昨晩、書道教室にお稽古に行った後、40代の書友さんに誘われて、家まで45分歩いたのですが、汗ぐっしょりになり帰宅してすぐにシャワーを浴びないと塩を吹きそうな勢いでした。お稽古にも歩いていったこともあり、久々に1万歩を超えたのですが、なんかそれってどうなんだ? からだにいいことしている感じがしなかったです。
 たとえ体力がありあまっていて、高齢者よりもはるかに「健康」であろう若者たちも、こういう日にスポーツをするのは危険じゃないでしょうか?  オリンピックに出場できるほどの頑健な選手だって、こういう気候のもとに、「体力と精神力の限界まで勝負する」なんてことが健康にいいはずがない、とこれまた素人は考えてしまいます。
 健康のために「適度な運動」が必要なのはわかるけれど、ではスポーツは健康にいいのかと言われると、私は最近「???」と首を傾げてしまうのです。健康を考えるのであったら、感染症の不安があるいま、少なくとも猛暑日にはスポーツはやっちゃいけないよ、と言いたい。 
  私が考える「健康」とは、朝目覚めたときに「 今日は朝ご飯に何を食べようか?」が頭に浮かぶことです。どこか具合が悪かったり、心がざわついていたら、目覚めが悪いし、空腹ではあっても食べることも、ましてや作ることも考えられない。目覚めたときに感じる食欲は、私にとって身体的/精神的健康をはかるバロメーターだし、気持ちよく目覚められるように、気持ちよく眠りたいし、そのためには疲れすぎない程度にからだを動かし、嫌なことはさっさと忘れることが大事だと思っています。

 そこでいきなり話が飛びます。だからね、ガンバが気持ちよく勝ってくれないと、私の健康は維持できないってところもあるわけですよ。明日は消化試合だけれど 、気持ちよく勝ってほしいし、若手の活躍を期待しています。

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