Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

ランチョンマット

2ヶ月に及ぶ外出自粛生活にようやく終止符が打たれたようで(一応)、「新常態」での日常が戻ってきます。マスク着用、2メートルの社会的距離をとる、三密はやっぱり避ける、など「新常態」の条件が出ていて、まだ恐る恐るではありますが、ともあれ日常生活が始まります。
巣篭もり日記を終えて、さて、この時期に何を書こうかなと考えていました。「新常態日記」(変態日記みたい)、「AC(アフターコロナ)日記」(あまりに露骨で芸がない)などタイトルをあげてみたものの、そんなタイトルでは前向きなことは書けないなとあきらめ、ベタではありますが「巣立ち日記」で始めてみることにします。
この2ヶ月、人と顔を合わせることがほとんどなく、同居の夫とでさえ挨拶程度しか話をしませんでした。そのおかげかどうか、ひさびさに自分自身との会話時間が長くとれたように思います。これからどうなるのか、私はどうすればいいのかといろいろと自問自答を重ねた2ヶ月が終わって、いま一番強く自分自身に言い聞かせているのは、「2ヶ月前と同じ思考回路で、同じ生活態度で生きていってはいけない」ということです。
 これまで「普通」だと思いこんでいたことが、普通ではなくなりそうで、当然続いていくと信じていたことが終わってしまうかもしれない時代がやってきます。これまでの経験とか実績とか知識とか、そんなものがまったく役に立たなくなるでしょう。頭も、心も、からだも、そんな大きな変化に対応できるような柔軟性と強靭さが求められています。ちょっと大げさですが、私はこれからあらたな羽ばたきを覚えて、勇気を持って巣から飛び立っていかねばならない。だから「巣立ち日記」なわけです。
66歳でもう一回巣立ちか〜と思うと、3分の1の私は「やれやれ」とため息をつき、3分の1は不安を覚えているのですが、あとの3分の1はワクワクしています。できればワクワクを半分くらいには持っていきたいです。何回も羽ばたいては転がり落ち、羽ばたいているつもりなのに少しも飛び上がれないことが続きそうですが、どうか無事に巣立ちができますように!

5月25日(月)
いよいよ関東圏や北海道も緊急事態宣言が解除された。
午前中に美容院へ。昨年の年末から髪を伸ばしっぱなしだ。肩にかかってはねてしまうので気にはなっているのだけれど、やりたい髪型が思いつかない。
もう20年近くお世話になっている美容師さんに相談したら「髪を伸ばしていきたいのですか? 伸ばしていくにせよ、いまは毛先が傷んでいるので、せめて3センチでも切ったほうがいいですよ」と言われた。
3センチ切りそろえるだけなんて中途半端なことはしたくない。切るんだったら、思い切って10センチは切りたい。
せっかく切るのだったら、過激な髪型にしたいのだけれど、今は過激に走るだけのエネルギーが湧いてこない。巣篭もり疲れなのだろうか?
結局、シャンプーブローだけにしてしまった。
読んだ本
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社)上巻を読み終わる。
『JIN~仁』5、6巻

夕飯はいわしのパン粉焼き(巣篭もり中に4回も作ってしまった。今回はドライトマトでアクセントをつけてみた)、野菜スープ
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5月26日(火)
 ガンバが練習を再開したらしい。Twitterに動画が上がっていたので、食いついて見た。
https://www.gamba-osaka.net/news/index/no/11027/
選手たちも宮本監督も元気そうでうれしい。7月にはパナスタで試合観戦ができるのだろうか? サッカーだけではないが、スポーツ観戦の形も変わっていくのだろうなあ。


 巣篭もり期間中に痛感したのは、誰かが何かをしてくれると待っていても、その何かが起こることはないし、何かは手に入らない、ということだ。
 マスクが品切れだ、なんとかしてくれとドラッグストアの店員に迫っても、出てくることはなく、アベノマスクが送られてくるだけだった(ああ、血税の布マスク……涙)。
 自粛期間が終わったら、ひいきのレストランが閉店し、お気に入りのミニシアターが閉館し、好きなアーティストが廃業してしまっていたら……どうしよう、誰かどうにかして! というだけでは、どうしようもないことがわかった 。
 ネットを眺めているだけではどうしようもない。行動を起こさなければ、アフターコロナの社会はとてつもなく味気ないものになってしまう。私ができることは何かをいま模索中だ。
 その一つとして、Facebookで教えてもらった、生産者と飲食業(レストラン)を支えるためのお取り寄せ企画にのってみた。遊ぶたという北海道の養豚業者と、その豚肉でソーセージやハムを作って出しているレストラン、ブーシェルの手作り加工品、そして北海道のおいしいチーズ製造業者の製品を購入した。大満足。
お取り寄せで夕飯はボルシチ、パテドカンパーニュとハムのゼリー寄せ、パプリカとマッシュポテト添え
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読んだ本:『LIFE SHIFT~100年時代の人生戦略』リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット著(今更ですが、ベストセラーを読んでみました。うーん、ちょっとしんどかったなあ。100年、できれば85年くらいで人生を終えたいですよ〜) 

どうやら来週月曜日、5月25日には東京も緊急事態宣言が解除されるようなので、今回で(当初の希望どおり)巣篭もり日記は終了します。4月半ばに書き始めた当初は、「100年に一度」とか騒がれるこの感染症による外出規制で在宅を余儀なくされ、自分自身がどうそれを受け止めるのかを分析してしておこう、日記形式で日々何をやって、どんなことを感じ、考えたかを書き留めておこう、というつもりでした。
当初はマスクや消毒液がまったく出回っていなかったり、スーパーやドラッグストアでの買い占めが話題になっていたり、外出規制にもかかわらず遊びにいく人への非難が高まったりしていましたが、5月連休明けからは、「経済の立て直し」「新常態」とかACの話題が多くなってきています。
そこで、気が向いたらですが、アフターコロナの生活について、ビフォーコロナと比べながら考える日記を書いてみようかない、と考えています。でも、ま、ほんと気が向いたら、ですが。

5月18日(月)
 ガンバの試合に関する記憶は、20年間にわたってかなりしっかりしていると自信があるのだけれど、学校に通っていたころの記憶が失われてしまっている。今年度、小学校から高校まで通った学校の同窓会幹事が回ってきたので名簿の整理をやったのだけれど、申し訳ないことに名前を見てもその顔が思い出せる人が3分の2しかいない。
最後に同窓会に出席したのは6年前、還暦を記念して開かれた会だったのだけれど、そのときも「あの人誰?」状態で、親しくしている人にこっそり聞いて教えてもらうことたびたび。それからもう6年同窓会に顔を出していなくて、しかも幹事になったんだから今度こそ出席するぞと楽しみにしていたのに、今年同窓会を開くのはむずかしそうだ。記憶はどんどん薄れていく。
妹から「お姉ちゃんは思い出を大切にしていない」とよく非難(?)される。私が昔の写真とかをぱっぱと捨ててしまったり、学生時代のことをほとんど覚えていなかったりするからだ。 私が大切にしたいのは過去ではなく、現在と未来なんだ、と非難されるたびに言い返していたのだが、その気持ちは巣篭もり状況になってからますます強くなっている。
過去を思い出すのではなく、現在と未来のことを考えたい。昨日より今日、今日より明日をもっとよくするために、何が私にできるか、もしくは何をしてはいけないか(次世代のために、未来のために)と考えて行動しないと、コロナ禍に呑みこまれてしまいそうで不安なのだ。

と、テーマからいきなりずれてしまうけれど、過去の思い出深いYouTubeをアップしてしまおう!
試合開始から監督胴上げまで、全てが記憶に刻まれている。何回見ても泣けてくる。



夕飯は、ほうれん草&ケール&新玉葱と豚肉炒め卵とじ、レタスやベイリーフのサラダ、野菜スープ

 5月19日(火)
図書館が休館になるぎりぎりのタイミングで借りた本の返却のために外出。返却ポストに入れながら、外回りを掃除していた警備員さんに「開館はいつごろになりそうですか?」とダメもとで聞いたのだけれど、案の定「さ〜今月いっぱいは閉まっているんじゃないの? 私じゃわからない」と素っ気なく言われてしまった。
図書館が休館してしまうと、デジタルの資料にしかあたれなくなってしまって本当に困る。 つぎにロックダウンがあるときには、HPで予約した書籍や資料の貸し出しくらいはぜひできるようにしてほしい。電子化されていない資料を必要としている人は、決して少なくないはず。
もしかしたら、あそこにあるかも……とかすかな期待を持って、雨の中をとぼとぼと2キロほど歩いて古書店に行ってみたのだけれど、そこも閉まっていた。本と出会えない生活。それが私には一番こたえているのかもしれない。そんな贅沢で呑気なことを言っている場合じゃないのだろうけれど。

夕飯は、ナスの煮浸し、青椒肉絲、豆腐と大根の味噌汁、煮豆、野菜スープ(残り物の惣ざらえ)

5月20日(水)
今回の記念に、マスクを縫ってみた。ガーゼとゴムがセットになったキットを購入して、ミシンがないので手縫い。
私はものすごく不器用で、特に裁縫が大の苦手。高校のとき、家庭科でパジャマとかエプロンとかブラウスとかスカートを作らされたが、全部母親にやってもらって提出した。雑巾だってまともに縫えない人に、そんな高度な衣服なんて無理ですよ。
その後も裁縫トラウマは続き、娘たちの保育園では布団カバー(敷き布団とかけ布団の両方)、汚れもの袋、着替え袋、防災頭巾全てを同じ柄の布地で縫わされるという苦行があり、ミシンがないために全部手縫いした。子どもを寝かしつけた後に徹夜して作りましたね。頭の中で「かあさんがよなベーをして〜〜布団カバー縫ってくれた〜〜」が脳内リフレイン。でもあの頃は、認可保育園にやっとこさ入れた喜びで、その苦行にも耐えられました。
娘たちも「同じ柄で布団カバーやらを作る」ことは保育園から言われたが、なんと! 最近ではネットで請負販売するプロがいっぱいいるのだとか。しかも安い! そうだよね。ミシンがない家庭が多くて、時間も労力も限られている働くお母さんに、手作りしろ、それが母親の愛情なんて押し付けはまったくおかしい。
でも、自分のものを趣味で作るのだったら楽しい。型紙とって裁断、手縫い、というので2時間弱で出来上がり。これもコロナ記念ってことにしよう。
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夕飯は、豚肉ともやし、玉葱、きのこの中華炒め、春雨ときのこのスープ

5月21日(木)
検察庁法改正案が今国会で見送りになったと思ったら、なんと黒川東京高検検事長が、緊急事態宣言期間中に新聞記者と賭け麻雀をしていたと週刊文春がすっぱぬき、それをきっかけに黒川さんは辞任届を出した。検察庁法改正についても、記者クラブの在り方についても、文春砲についても、言いたいことは山ほどあるが、それはさておき。
私にはわからないのが「なぜ検事長になるほどの世知たけたやり手の検事が、自分が渦中の人物であることがわかっていて、三密を避けるために自粛を強いられているこの時期に、違法である賭け事をしたのか?」ということだ。ギャンブルの中毒性は検事長の理性を失わせるほど強いものなのか? 
このコロナ禍が起こってからも、パチンコがやめられない人たちのギャンブル依存症が話題になった。その前にもIR(統合型リゾート)にカジノが入ることに対して、ギャンブル依存症で家庭を壊された人たちから反対の声が上がり、挙句に賄賂もらっていた議員が逮捕されたりした。
パチンコも麻雀も競馬も、人生で1、2回しかやったことがない私には、わからない。ギャンブルの面白さも、なぜ人生を棒に振ってまでのめり込んでしまうのかも、まったくわからない。わからなくて幸せだと思っている。たぶんアドレナリンがドバーッと出て、それが快感で、クセになるのだと想像しているのだけれど。
もしかすると、ですよ、それはガンバが2点差をひっくり返す逆転勝ちをして、しかもそのゴールが後半93分だったときの痺れるような興奮なのだろうか? ああ、それならわかります。私もその興奮が忘れられず、きっとまた強いガンバが見られるだろうと、万博やパナスタの階段を登ってしまうんですよ。……ってなんでギャンブル依存の話からガンバ依存症へと話が移っちゃったんだ? 早くJリーグ再開しないかなあ。

夕飯は、おでん(季節外れのメニューだけれど、寒いんだもの)、大根ときゅうりとレタスの梅干し和え豆腐のせ、枝豆
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5月22日(金)
4月12日から書き始めた巣篭もり日記を今日で終えることにする。(別の名前の日記を始めるかもしれないけれど)
私が巣篭もりを始めたのは、3月28日からだ。3月27日に打ち合わせのために渋谷に行ったのを最後に、公共交通機関を利用していない。徒歩と自転車で行ける範囲でしか行動していなくて、夫と近所の人(太極拳の師匠と美容師さんを含む)以外と直接顔を合わせて話をしていない。2ヶ月あまりで話をしたのは合計6人だ。
でも、ビデオ会議や飲み会はやっているし、娘や孫たちとはビデオ電話はしているから、人と話をしていない、という感じはまったくしていない。暇だからSNSへの投稿やブログの更新は以前より頻繁なので、むしろ「最近よく喋ってるな、私」とさえ思っている。
巣篭もり期間中の変化をあげると
ー早寝早起きになった(6時前に起床、10時すぎにベッドに入る)
ーNetflixとVimeoで映画を見るようになった(15本くらい観た)
ー手紙を書くようになった(ほぼ毎日誰かに手紙を書いている)
ー消費を控えるようになった(別に控えたいと思っていたわけではないのだけれど、買い物に行かなくなったし、生協は欠品ばかりだし、ないならないでなんとかしようと思っているうちに巣篭もり前から消費金額が半分以下に減った)
ーじっと座り、できるだけ何も考えない時間が少しずつ長く持てるようになった(まだ瞑想まではいかないのだけれど)
巣から出て、さて、この期間中に得たもの失ったものを今後どうするのか、ということについてはまだ考えられない。
ただ、体調も精神面も健やかに巣篭もりができたことは、とても恵まれていた、ありがたいことだと心底感謝している。

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もう一つ、地元商店街を支えるために、できるだけ地元で消費するようにしている。毎週花屋さんに通って、花を買うようになったのも巣篭もり期間中の「習慣」の一つ

夕飯は、甘鯛のアクアパッツァ、アスパラガスとトマトもサラダ
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ついに(9)まで来てしまいました、巣篭もり日記。できれば(10)で終わって欲しい。いや、たぶん終わりますね。終わらせましょう! あともうひと息。

5月14日(木)
5月11日付の日本経済新聞朝刊、エコノミクストレンドを読んで暗澹たる気分になった。
慶大教授の鶴光太郎さんという人が「AI時代のスキル見極めを」というタイトルで、人生100年、人工知能=AIが大幅に進化してこれまで人間がやっていた職を奪ってしまうという時代に、それでは人間はどんなスキルをつけたら生活していけるか、という話を書いている。いま世の中にある職業のほとんどはAIでまかなえる、大半の人間が「失職」してしまうのだからベーシックインカムを真剣に考えよう……それってディストピアじゃないか! と思ったので、こわごわ読んだ。
記事の内容は、経済産業研究所が2019年に実施した「全世代的な教育・訓練と認知・非認知能力に関するインターネット調査」をもとに、学力テストで測れる「認知能力」と、外向性や勤勉性、協調性などの個人の性格の特徴である「非認知能力」の両方について、賃金との相関関係を分析している。
大学の偏差値が高いほど賃金が高いのは、男性の50代以上のみ。50歳未満はあまり関係ない。賃金との正の関係があるのは、言語能力よりも数的な能力の方。非認知能力では、賃金との正の関係があるのは「外向性(社交性・積極性)」そして「自尊心」だが、「協調性」は負の関係になる。つまり協調性の高い人は、自分のことより他人のことを優先してしまいがちなので、賃金は低くなる……って、つまり俺様やろうのほうが高い賃金をとっているってこと? 
だが、そんなこたぁたいした問題じゃない! 私が問題と思ったのは、女性についての分析だ(ほんの数行しか触れていないところにも怒りが!)
女性は働きだしのしょっぱなから男性の7割弱の賃金しかもらえず、どれだけいい大学を出ても、どれだけスキルをつけても、その賃金格差は職業人生の最後まで広がるばかり、という分析結果である。(太字にしておく!)もちろん平均賃金だから、一部の女性たちは男性並みの賃金を得ているかもしれない。だが、平均すると女性の賃金は生涯にわたって男性の7割以下。当然ながらそれは受け取る年金額にもはっきりと出る。
学校生活にかぎってかもしれないけれど、総じて女子のほうが男子よりも平均的に優秀だ、という。でもいったん働く場にでたら、がんばって身に付けた能力も性格のよさもまったく問題にされない。問題にされるのは、性別だけってことだ。あげくにワンオペでへとへとだもんなあ。
フェミニズムが必要だ、とあらためて痛切に思った。AIがどんなに進化しても、男女平等にはならないのだから。

夕飯は焼き餃子、のみ。夫が通勤している間は、食事時間がずれるので餃子やステーキのような焼きたてじゃないとおいしくないものは作らない。だから、在宅勤務期間には餃子がすでに二回目の登場。
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エゴノキの花が満開! この時期にエゴノキの花が満開になるってことに初めて気がついた。

5月15日(金)
巣篭もり期間に入ってから、急に漫画が読みたくなった。
『アルテ』(大久保圭)から始まって、
『アシガール』『ごくせん』(森本梢子 今頃そんなもの読んでるのかってあきれられますね)
『裸一貫! つづ井さん』(つづ井)
『王様ランキング』(十日草輔)(これはあまりというか、全然おもしろくなくて途中でやめた)
『アンサングシンデレラ 病院薬剤師葵みどり』(荒井ママレ/富野浩充)と来て、
今は『ミステリと言う勿れ』(田村由美)。
これまでのところ『アルテ』に一番はまったな。早く続きが読みたい。
そうそう『雪花の虎』(東村アキコ)の新刊も読んだな。ずっと周囲から男性と思われて生きてきて、結婚もして、でも亡くなって埋葬するときに実は女性だとわかったっていう人は歴史上もよくいたらしい。上杉謙信が実は女性だっていうのも、頷ける。男性のほうがずっと生きやすい世の中だものね。

夕飯は冷やし中華、五目豆、ポテトサラダ。だんだん同じメニューが続いてしまう。

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数ヶ月前に植えた球根?宿根?から芽が出て、2、3週間でにょきにょき伸びて花が咲いた。何を植えたか忘れてしまったので、写真を撮って花屋さんに見せたら「グロキシニアじゃない?」とのこと。イワタバコ科の一種らしい。

5月16日(土)
 今年小学校に上がったけれど、1日も授業を受けていないお孫1号。何回か宿題のプリントやらをもらってきて、親がつきっきりで教えてやらせているそう。
 娘(長女)から「国語でお話を読んで、おもしろかったことを書きなさいっていう宿題に手こずっている。おもしろかったことってどういう意味? と聞かれて、どう説明したらいいかわからないんだけれど、どうしたらいい?」という質問がLINEで来た。
 えええ! 私にそれ聞く? そもそも自分が経験したことがないことを、お話を読んだだけで「おもしろい」と感じるのなんて無理じゃない? 感性や感情は自然に身につくものじゃなくて、経験を言語化していくうちにだんだんわかってくるもの。人生経験が6年しかない子どもに、お話を頭の中で情景として描かせて、おもしろいとか、悲しいとか感情移入させたりするのはかなりむずかしい、というかそんなこと可能なのか? そんな子どもに「この話はここがおもしろいんだよ」と経験からわかっている大人が先走って教えるのはどこか変。 
 とか返事を送ったら「ママの言うことはよくわかるけれど、それじゃ宿題は終わらない」と言われた。 
 そしたら次女がLINEに入ってきて「私が読んだ育児本に、子どもが泣いたときには『悲しいんだね? 悲しいから泣いているんだね?』と幼児のころから感情を言語化して教えるように、とあったから私はそうしている」と言い出したものだから、長女は「今から言語化するように心がけても、宿題には間に合わないよ」状態に。
 ああ〜〜〜早く学校始まってくれ〜〜〜! 学校という集団の社会生活でしか学べない感情や感性があるんだから〜〜〜!

夕飯は、ビビンバ、残り物のアジのフライ、豆腐と油揚げの味噌汁

5月17日(日) 
 雨が上がって夏の晴天。でも早朝太極拳道場の公園には、ラジオ体操後にはほとんど人がいなくなった。鳥の声しか聞こえないところで、花盛りのエゴノキの木の下で気持ちよく一人太極拳。
 世界が感染症で揺れていることを、しばし忘れるほどの平和なひとときだった。
 だが、昼から買い物に行った夫が「スーパーも商店街も人があふれていてとても入れない」とメールしてきた。「いいよいいよ、もう別に買わなくていいから、早く帰ってきて」と返事をする。
 日曜、早朝の公園には人がいないけれど、昼間のスーパーや商店街には人があふれる……BC(before Corona)の「日常」に戻ったってことか? 東京はまだ緊急事態宣言中のはず。大丈夫なのかなあ。

夕飯は、青椒肉絲、ナスの煮浸し、五目豆
 
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5月7日(木)(前の日記と日が重なっているけれど、内容は別)
午前中、自宅で太極拳レッスン。振り返ると3月半ばから何かから逃れるように毎日太極拳のお稽古をしている。COVID-19の感染におびえ、外出を自粛し、コロナウィルス関連のニュースに暗い気持ちになることが多いこの数ヶ月だが、もし得たよいものをあげるとすると、からだの使い方に少し進歩があったことかもしれない。
 もともと体力には自信があったのだが、50歳を過ぎる頃から小さな不調に悩まされるようになった。人に話すと「ああ、私もよ!」「それが老化ってもんですよ」とか言われるだけなのだが、それまで「無敵」だった私にすれば、痛みをはじめとする不調に悩む自分が歯痒いし、腹が立つし、不安になる。
たとえば53歳になったと同時に五十肩になり、一度上がらなくなった右肩はそれから2年間も、動かすたびに痛みが走った。やはり50歳になったときから歯痛にも悩まされ、いまも毎月歯医者に通う。肩こりと腰痛はもはや持病で、腰痛にいたっては運動すればするほど腰が痛くなるという始末。ジムで筋トレをやったことが原因で筋肉を傷め、日常生活にも支障をきたすこともひんぱん。ランニングをすればなぜか腰痛になって整体のお世話になる。そういやヨガでも腕と肩の筋肉を傷めたっけ。
そこで出会ったのが太極拳だったのだが、まじめに取り組むようになったのは、始めてから7年ほどたった2018年からだ。
きっかけは、筋トレをまたやっていると言ったときの師匠の一言だった。
「むきむきの筋肉をつけることがいまの元子さんに必要なこと? 年齢を重ねていくうえで必要なのは、からだの使い方を覚えることではないの?」
ああ、そうか、と目が開いた。
からだの使い方がわかっていないから、筋トレや運動をするとどこかを傷めていたのだ。
無理なく正しい姿勢で立つこと。同じく正しい姿勢で座ること。
重心の移動を意識して、膝や腰に負担をかけないで歩くこと。
片足でもふんばらずに立つこと。(これが歩行の基本になる)
それができるようになったら、いま私が目標としている「80歳になっても自立した生活を営む」ことが可能になるはずだ。
今日もみっちりお稽古して、太腿裏と内転筋に心地よい筋肉痛を感じながら1日を過ごした。

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(公園での太極拳も、往復で初夏の花々をめでるのも楽しい。バラはつぼみから満開へ、そしてそろそろ終わりを迎える)

5月8日(金)
早朝太極拳道場、今日は一人きりなので、少し早めに行ったのだけれど、6時40分ですでに先客が6人。ノートパソコンを持ってきて何やらやっている女性が一人、アンパンをかじりながらスマホを見ている学生らしき男性、ランニングウェアでコンビニ食を食べている若い男性が一人、そしてお母さんと2人の子連れ。皆さんの視線をできるかぎり脳内から追い払って、八段錦からフルコースでお稽古をした。
と、いきなり響く男の子の声。
「お母さん、あの人何やってんの〜〜〜?」
お母さん「しっ! お邪魔しちゃダメでしょ!」
男の子「え? 何? 何やってんの?」(しつこいっ!)
お母さんもね、「しっ!」ってそれではお子さんの疑惑は深まるばかりですよ。あやしいことをやっている、あやしいオバハン疑惑を晴らしてやってくださいよ。何か言ってやろうと思ったけれど、自粛しました。
それにしても、なぜ6時40分の早朝にこんなに大勢(でもないけれど)が公園にお出ましなんだろう? って、あ、私もですけれどね。早朝だから人はいないだろうと期待している人たちなのかもしれないけれど。
8時前に終えての帰り道、出勤するらしき人たちと大勢すれ違った。外出自粛要請の期限は延長されたけれど、休んでいられない人は大勢いる。私も自宅でだけれど、7日から仕事を平常モードに切り替えた。
太極拳
(やはり早朝の公園で一人太極拳は不審者かも)

夕飯は焼肉と野菜のオリーブオイル焼き、トマトサラダ、ミネストローネ(焼肉は1人4枚ずつ、と言っておいたのに、私がミネストローネをよそおって食卓についたときに、先に食べ始めていた夫が6枚目を口に入れようとしていたところで、私の怒り爆発! 一口食べた残りを私の皿に戻したので、怒りが3倍に加速。これもコロナウィルス のせいだ。たかが肉で心が狭くなり、いじましくなる)

5月9日(土)
4月からVOGUE のWEBサイトでフェミニズムを学ぶ講座の連載をしている。
今日は第二弾がアップされた。
第二弾はフェミニズムがたどってきた歴史を振り返っての「フェミニズムの4つの波〜『フランケンシュタイン』から#MeTooまで」
VOGUE Change 
https://www.vogue.co.jp/change/article/feminism-lesson-vol2
私はフェミニズム第二波を青春時代に経験したのだが、そのあと『バックラッシュ』でフェミニズムとは何かがわからなくなり、1990年代からの第三波のガールパワーも「え? それがフェミニズムですか?」とはっきりととらえきれず、近年の#MeTooをはじめとする第四波になってようやくおぼろげながら輪郭が感じ取れるようになってきた、というところ。
お話をうかがっている清水晶子さんのフェミニズムに対するスタンスというか姿勢が、私にはとても受け入れやすく、胸をはって「私もフェミニストです!」と言える自信が持てそうになっている。

夕飯は、ふろふき大根、大根葉のゴマ炒め、大根の千切りと豆腐の味噌汁、大根と鮭缶詰のサラダ、トンテキのブロッコリ添え。
散歩に出かけた夫が、近所のミニ農園をやっている方から大根一本をいただいてきた。堀りたてのみずみずしい大根を丸ごといただいてしまおうというので、急遽大根づくし。トンテキはだからメインではなく添え物ですね。
大根づくしメニュー


5月10日(日)
お孫2号(2歳6ヶ月)とときどきビデオ電話でおしゃべりする。
保育園が休園になって1日中親と過ごすようになってから、急に語彙が大人っぽくなった。
理由は、テレビとNetflixとYouTubeにお守りをされることが多くなったかららしい。
いまの彼のマイブームは「ちょっとニュース見て良いかな?」とリモコンをとってテレビをつけて、「あれ、今日もアベさんはマスクつけてるね。お口のバイキンがまだきれいきれいになってないからかな」と確認することなんだとか。
そのあとで胸を張って「○ちゃんは食べたらちゃんと歯を磨くよ。だからバイキンはいないよ」とアベさんに向かって自慢する。
歯磨きも○○掃除もしようね、アベさん。

夕飯はいわしのパン粉焼き、きのこと大根のベーコンスープ、麩チャンプル

5月4日(月)
3月半ばにスマホの電源を外出時以外は切ることを決断した。緊急事態宣言が出て不要不急の外出をやめたらスマホの必要性をあまり感じなくなったこともあり。このままスマホを解約しちゃうかも(てなことはたぶんないでしょうが)。
スマホの電源を入れるのは早朝太極拳道場に行く間、およそ2時間ほどだけ。家ではタブレットがあるので、メールやLINEやメッセージは読めるし、Zoomやスカイプでビデオ打ち合わせもできる。外出時だけ、もしものことがあってはと電源を入れて持参するけれど、在宅勤務を徹底したら、はたしてスマホはどこまで必要なのだろうか? 電話もLINEでできるわけだし。
スマホの電源を切るようになったのは、母との電話がお互いにストレスになったからだ。電話で話していると意志の疎通に困難を感じるようになったのが2年ほど前。30秒前に言ったことを忘れてしまい、5分間の電話で同じ話を10回は繰り返し、挙句に「なんで私が聞いたことにちゃんと答えないのか!」と怒る。夢と現実がごっちゃになってしまうのか、朝6時すぎの電話で私への恨みつらみを聞かされてうんざりすることが続き、ついに外出時以外はスマホの電源を入れないことにしたのだ。
かわりに母に手紙を書くことにした。1日おきに1通書き、たまに服や花を贈って、「今は会いにいけないけれど、忘れているわけじゃないし、こちらはみんな元気だ」というメッセージを送り続けている。親孝行なわけではない、決して。電話では気持ちが伝えられず、会いにも行けないこの状況で、なんとも歯痒く後ろめたい気持ちをごまかしているだけだ。
母は最初は電話をかけ続けて、通じないことに怒りのメッセージを留守電に入れていたようだが(それも聞かないことにした)、一週間たってやっと諦めたのか、母も手紙をくれるようになった。
そうしたら驚くなかれ、話が通じることがわかったのだ。電話で会話している人と同じ人物とは思えないほどで、書かれている内容はつじつまがあっているし、文章もちゃんとしている。妄想ももちろん書かれていない。周囲への感謝と気遣いも感じられるし、新型コロナウィルスという言葉も書かれている(電話では「風邪」と言い続けていた)。実際に顔を見て話をしているときも、話が通じないことが多くてまいっていたのだが、手紙だと「話が通じている」とほっとする。私が出した手紙の内容も理解して、問いかけにたいしてちゃんと返答を書いてくるのだ。
これは何を意味しているのだろう? 音からの情報では混乱するけれど、文字になれば頭が整理できるのだろうか? 
というわけで、今日は母への手紙だけでなく、お孫たちや友人たちにも手紙を書いて投函した。

夕飯はいわしの生姜煮、ポテトサラダ(まだ終わらない)、白菜そのほか野菜のベーコンスープ

5月5日(火)
外出規制が出されて以来、メディアでは「孤独感」が取り上げられることが多くなった、ような気がする。感染者数の多い東京など大都会では、一人暮らしの人も多く、コミュニティの結びつきが希薄で、孤独感が強まる、という趣旨のトピックがネットでもよく見られる(私はテレビをみないので、メディアというときには新聞かSNSなんだが)
その解消法として、SNSやネットの利用、オンラインでビデオ会話して、と提案されている。SNSやオンラインビデオなどを利用していれば、たしかに自分は一人ではないことが実感できて、不安はやわらぐ。私もFacebookやTwitterに投稿して、反応があるとほっとする。とくに一人旅に出ているときには、こんなことした、あんなもの食べた、おもしろかった、ショックだった、といちいち自分の活動を投稿して、存在を確かめ、孤独感を癒している。
だが、最近「一人になりたい〜!」というぜいたくな願いが湧き上がってくることがある。夫が在宅勤務になってからというもの、「頼む! 私はいないものと思ってくれ!」と切実に願うようになり、それはたぶん夫も同じなので、日中はできるだけ顔を合わさないように、声も聞こえないように、お互い気配も消して生活している(でも、水を飲んだり、トイレに行ったりするとどうしても顔を合わせてしまうのだけれど)
孤立は精神衛生上よくないが、孤独は精神衛生上必要なのではないか。
3月末の緊急事態宣言以降、スマホの電源を入れず、タブレットそのほかを全部別の部屋に置いて一人でどこか(私の場合は3畳のもと物置)に数時間閉じこもる、という日を意図的に作るようにしている。閉じこもって何をしているかというと、ぼーっと外の景色を眺めるでもなく眺めていたり、瞑想まがいのことをしてみたり。
SNSを断ち、音楽を聴かず、人の声も聞かず、活字からも離れ、ただ自分のからだの声に耳を澄ますだけ。世界に自分一人だけしかいないような感じがしてくる。
今日はそんなぜいたくな気分を数時間味わってみた。

夕飯は白菜と豚バラの重ね蒸し、白菜のおひたし、白菜そのほか野菜のベーコンスープ(やっと白菜を食べ終わった。白菜4分の1玉を2人で食べきるのにえらく苦労した)
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(お孫製作の鯉のぼり画像が送られてくるまで、子どもの日だってことをすっかり失念していた。子どもたちが元気にスクスクと成長する世界にするのが大人の責任ですね)

5月6日(水)
4日に外出規制が5月末まで延期することが政府から発表された。これで3回目の延期。
外に出かけるなと言われても、出かけないと仕事にならない人たちのほうが多く、仕事をしないと生活が成り立たない人が大半のいまの日本社会では、補償なしの外出規制は酷だ。たぶん明日から普通に仕事に戻る人が多いだろうなあ、と思いながら雨の街をひとめぐり。

5月4日にNHKBS1で放送された「北京の春 市民たちは〜コロナ危機を生きる」というドキュメンタリーを録画で見た。4月30日に外出規制が解かれた後も、まだマスクは外さないし、恐る恐るの市民たちではあるけれど、コロナ後を見据えての経済活動をどうまわしていくかを必死に考えて行動している人たちに注目した内容だった。
もちろん中国は広いし、格差も大きいというから、北京に住んでいるある意味特権的な人たちの話かもしれない。それにしても、登場する人たちが皆、とにかくたくましくて、ポジティブなのだ。つぎの感染拡大も見据えて、コミュニティの見直しや、デジタルでの健康管理(そこまで個人情報を官憲に渡してしまっていいのかとそこはちょっと引いたけれど)、これまでやってきたビジネスが先行きあやしいと思ったら、それを捨てて新しいビジネスに切り替えるいさぎよさとか。
以前に『台湾海峡一九四九』(龍應台著、天野健太郎訳 白水社)を読んだときも思ったけれど、中国の人たちのへこたれなさというか、生き抜こうとするそのたくましさに圧倒される。転んでも、転ばされても、ただでは起きないし、転ばした相手への恨みのエネルギーをポジティブに転換するところもすごい。
理不尽だ〜とか嘆くのは誰かに任せて、とりあえず自分はつぎ行くよっ❗️ という姿勢は見習わなくては。
夕飯はめずらしくラザニアもどきを作ってみた。鶏肉やきのこ類、ブロッコリをトマトソースで煮込んで、マカロニと混ぜ合わせ、ベシャメルソースとチーズをのせてオーブンで焼いた。キャベツ、にんじん、きゅうりと新玉ねぎの塩もみサラダ

5月7日(木)
私は長らく家で仕事をしていて、ステイホームが常態なので、家にいる時間が長いと退屈したり、運動不足になったり云々ということを言われても今ひとつよくわからない。
でも、友人がNetFlixで『コンテイジョン』(Rikaさんからのご指摘で間違いに気づきました。コンテイジョンをみようと思ってNetFlixに入ったのに、その前にヒョンビンに行っちゃったのが間違えた原因ですね)という映画を観て、今の世界の感染状況が予言されてたことに驚いた、という話を聞き、やっと重い腰をあげてNetFlixに登録してみた。
それで最初に観たのが、 『愛の不時着』という韓国ドラマ。 という韓国ドマ韓国のばりばりのビジネスウーマンが、パラグライダーで竜巻に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまって、北朝鮮の国境を守る美形中隊長と恋に落ちる、というストーリー。まだ1回しか観ていないので、はたしてどうなるのかわからないけど、たぶんこのまま観続けてしまいそう。
なんでよりにもよって初のNetFlix体験にこのドラマを選んだかというと、ヒョンビンが主演だから。『私の名前はキムサムソン』以来、ヒョンビンのファンなんです。
おもしろそうなドラマなんだけれど、このタイトルだけはどうにかしてほしい。『愛の不時着』って、なんともべたつくし、こっぱずかしい。

夕飯は買ってきた握り寿司、豆腐とナスとネギの味噌汁、塩もみサラダ
作るのはまだしも、自分で作ったものを食べることに飽きてきたので、たまにはいいよね。
 

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