Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

装う快楽

80歳を過ぎるころから、母の口癖は「私には関係がない」になりました。75歳くらいまでは毎朝新聞をなめるように読み、外出すれば週刊誌を購入して往復の電車の中で目を通し、世間でベストセラーになっていると聞けば本を購入するなど情報収集に余念がない母でした。そのお陰かどうか、あらゆることに自分の意見があって、自分の意見に反対するようなことをいう人(特に夫や娘たち)には、論破するまで声高に自説の主張を演説し続けるという困ったところもあったのですが、この5年ほどはどんな話題をふっても「だって私、きっとあと10年後にはこの世にいないから関係ない」と投げやりです。たぶん情報収集も討論もエネルギー不足で面倒になっただけでなく、今世界で起こっていることに自分が関与することはないと決めて、区切りをつけているのだろうと思います。
80代も半ばとなった母の世代の人たちが、「私には関係がない」と政治や経済、社会の問題に背を向けて、内向きの自分ファーストになってしまうのは「老化」のせいで、ある意味ではしかたないのかもしれません。
ですが、私の世代から自分ファーストになってしまったら、次世代がとっても困るのではないでしょうか。ときどき私が熱く社会問題や世界情勢などを語ってしまうと、「そんな遠い世界の出来事は日本人には関係ないんじゃないか?」とか、「私のまわりにはそんな人はいないから関係ない」とか、教育費の無料化や子供の貧困を救うという話題には「私には子供がいないから関係ない」と言われることが多いです。でも、世界の果てのように思えるたとえばシリアとかイラクのような国の紛争が、日本にも及ぼす影響は大きいし、自分の子供はいなくても、50年、60年生きてきて、次世代と何かしらのつながりがないと言い切れる人なんてこの世の中にはほとんどいないはず。50、60代は自分の老後のこと以上に、次に続く世代のことを心配しなくてはならない世代なんだと思います。
憲法改正はもとより、子供の貧困問題、世代間、社会間格差の問題、外国人実習生の労働環境、AIが変える職場、地球規模での気候変化、沖縄をはじめとする米軍基地問題、東アジア情勢などなど、私たちの社会には今手を打たないと明日の生活さえも大きく(悪い方へと)変わってしまう問題が山積しています。
そんなことを考えたのは、仕事部屋の整理をして10〜20年ほど前の新聞や雑誌の切り抜きを見返していたら、「あのときに手を打っていればこんなことにはならなかったのに」ということが山ほどあると気づいたからです。一番強く思ったのは原子力発電所の地震対策です。阪神淡路大震災のときに懸念する声はあったのに、「阪神間には原発がなくてよかったね」で終わってしまった。あのときに耳を傾けていたら、福島の惨事はここまで大きくならなかったはず。次世代どころか、十世代後までの大きな負の遺産となってしまった責任は、私も含めて当時現役真っ只中だった、現在の50、60代にあると思います。
私はこの10年以上、テレビの地デジ、特に民放テレビ番組をいっさい見なくなってしまい、また週刊誌を読まなくなってしまったのですが、その理由がタレントや政治家の不倫や噂話やいい加減な健康情報、旅やグルメ情報ばかりで辟易するからです。もしかしてテレビと週刊誌は日本人を思考停止させるための「国策」として不倫・健康情報だけに絞っている? うっかり地デジをつけてそんな番組を見るたびに、私は絶叫してしまいます(心の中で)。「私には関係ない!」
そんな見知らぬ他人の不倫話以外、世界で起こっていることで自分に関係がないことなどない! というのが私の主張です。
だから「どうせ私がなんか言っても世の中変わらないから」とか白けて目を背けないで、選挙には行きましょう! と最近では会う人ごとに念を押しています。明日の世界がどうなるかは、私たち一人ひとりにかかっているのだと信じているから。民主主義の社会に生きている私たちが明日の世界のためにできる、そしてやるべき最低限のことは、投票です!
ふ〜〜〜熱く語ってしまいました。 衆院選投票日まであと4日。

先日、お孫ちゃん2号が誕生し、今日からまた我が家は5人家族です。なかなか夫婦二人暮らしを満喫する、というわけにいかず、しばらくはまたおばあちゃん稼業にも精を出すことになりそう。ある意味、本当にありがたいことだと感謝していますよ、はい。この少子化の時代に、すでに孫2人。まだまだじいちゃんばあちゃん元気で現役で、孫の面倒も見られるのだから、この幸せを噛み締めなくちゃね。
とはいうものの、孫が何人生まれようが、私たちがこれから心身ともに老いていくことは確実です。いくら若作りしたってダメ。孫一人につき5歳若返るってわけにはいかない。
今年は実家の片付けと処分に奔走したのですが、そのときにしみじみ思ったのが、「我が身の始末をつける年齢に入った」ということでした。老後、なんてずいぶん遠い先のことのように思っていたし、まだ10年以上現役で働き続けるつもりではありますが、それでも始末をつけねばならない年齢になっているのはまちがいのないところです。私も確実に老いていき、その先には死が待っているのです。若いときは死ぬのが怖かったし、考えることさえもタブーにしていたところがありますが、孫が生まれ、親が亡くなり、生まれ育った家を手離すというこの4年ほどの変化の中で、私と死との距離はぐっと近くな理ました。
以前に比べると、死ぬこと自体はそれほど恐ろしくない。恐ろしいのは、始末をつけないで死ぬことです。
始末をつけるとはどういうことか? いつ死んでもいいように、身辺を整理することだと今の私は思っています。いつか読むから、いつか仕事に役立つはずだから、と思って大量の書籍を手放さずにいたのですが、その「いつか」はもうたぶん来ないのです。 あとみっちり働けるのは10年もない。その間に「役立つ」本はそれほど多くありません。そしてもし私が明日死んだら、この本の始末に苦しむのは子供や孫でしょう。
似合わなくなっても、(体形が変わって)着られなくなっても、もったいないからとクローゼットにしまっておいた服も始末しなくてはなりません。今、似合わず、今、着られない服はもう一生着ることがないのです。
今はまだお客さんも来るし、娘たち家族が集まってにぎやかにわいわいやる機会があるから、食器もそれなりに揃えていますが、あと10年もしないうちに不要になるでしょう。好きで集めていた食器、テーブルクロス、キッチン用品なども、始末をする時期が早晩やってきます。
母がいま介護ケア付きホームに入っているのですが、持っていける身の回りのものはほんのわずかだし、わずかですんでいることで母は精神的に穏やかです。たくさんのものを持つ、持ちたいという欲求は、せいぜい70歳までではないか。
身の回りのもの、そして自分自身の始末をつけること。それがこれからの私のテーマなのだと思います。何かを残そうとするのでなく、これまでのことを少しずつ消滅させていくこと。子供や孫に自分の始末の負担をかけないこと。実家の始末を終えて、2人目の孫が生まれた今、そんなことを強く感じています。

先日、母のところを訪れたときに、夏物と冬物の衣替えをしてほしいと頼まれたので箪笥の中のものをひっくり返して入れ直すのをやってきました。
母は84歳になったのですが、着ているものがとても80代とは思えない派手さ。本人は「派手なものは着られないのよ、ここ(→介護ケア付きマンション)では」と言うのですが、いやいやいや、世間一般の「派手基準」からすれば、母の服はどれも派手度+7くらいは行ってますね。(派手度0が世間一般の基準からすると派手でも地味でもないところ)でもって、ホームで母と仲が良い方々も皆結構派手です。皆さん、地味な色とされるグレーやベージュなどの服を着ていても、カーディガンはライトグリーンやライトブルー。カーディガンが黒とかグレーなら、その下のシャツは柄物(カラフルな花柄など)。なぜか皆さん、ラメがお好き。ストライプのニットのどこかがラメ、とかね。
「みなさんも十分派手だからこれくらいなら気にしなくていいよ。そもそもお母さんの服で地味と言えるものは一着もないしね」と私が言うと、「あら、そうかしら? これなんか地味だと思うけれど」とつまみ上げたのは、ペプラム部分がゴールドのラメで縁取りしてある黒のニット。
まあね、黒ですけれどね。そもそもペプラムがついているだけで相当に派手。というか、なんでシンプルなデザインと色の服がないんだ? なぜ何かプラスしてあるんだ? 刺繍とか、ストライプなどの柄とか、フリルとかをつけないとおさまらないのか?!
そう私が突っ込んだら、母は憤然として言い返しました。
「あんたの着ているものの方がずっと派手や! だいたい60歳過ぎた女が着る服とは思えん!」
まあね、そこは認めましょう。私もファッションには何かをプラスしたくなるんです。くすんだ色は嫌いだし、黒やグレーならば必ずコントラストをつけた原色の何かをポイントにしたい。白黒ストライプとか大好きで、「また黒白か!」と自分でも思うほどついそこに落ち着いてしまう。トルコブルーやピスタチオグリーン 、フーシャピンク、レモンイエロー、オレンジなんかも大大大好きで、ショーウィンドウにそんな色の服やバッグを見つけると遠くからでも走り寄る。お値段がかわいければ、つい買ってしまう。やっぱりね、遺伝したんですよ、「派手好き」が。
この派手好きは、実は関西、特に神戸ファッションで育った女性たちの「性(さが)」なんじゃないかと思ったりします。60歳になっても、80歳になっても、どうしても地味にシンプルになれない。シックと言われなくたって、それが何?
関東ではupper60sの服売り場って地味でシックなんです。色使いがあざやかであっても、関西で好まれる色とは違う。だからつい若者の売り場に行ってしまうのだけれど、かなしいかな、60を過ぎて体形が崩れつつある私のサイズはない。そしてやっぱり似合わなくなりつつあるんですよ、若者向けは。
私がすごく気に入っているセレクトショップ、DELTA@代々木上原でも、着られる服が少なくなってきつつあります。
60代にふさわしいファッションで我慢すべき? それともダイエットしてウエストを絞り、若作り〜〜とか言われても頑張るべき?
白のパンツにトルコブルーのツインセットを着た母と一緒に出かけた日、私が着ていたのはレモンイエローと白のチェック柄のシャツにカーキ色のパンツ、そしてオレンジ色のソックス。80代と60代の母娘は、梅田でも十分に目立っていましたとさ。

気がつくと9月も半ばが過ぎ、その間にガンバはナビスコ杯はなんとか勝てたものの、リーグ戦では神戸に負け、大宮にもやっと引き分け。長谷川体制が今季で終了で、来年からはブラジル人のJリーグ経験者を中心に交渉している、という日刊スポーツの記事に一喜一憂するという、すでにシーズンが終わってしまったかのような日々です。明日の天皇杯が不安だわー。
実は私、めずらしく締切に追われております。締切はもっと前からわかっていたんだから、もっとしゃかりきになってやっておけばいいのに、だらだら資料を読んだり、メモを取ったりするだけで書き始めたのが先月末から。いい加減にしろよ、何年モノ書きやってんだよ、と自分を叱りつけながらパソコンに向かっています。えーん。
書道の方も、今週末が師範試験の締切(もう師範試験なんですよ。順調にいっても師範を取るまでに四年かかりますが)。こちらも、先生に「あともうちょっと書けないかね」とか言われております。えーん。
というわけで、ブログ更新にまで気持ちの余裕がなく。
先週、遅めの夏休みを取って(締切前なのによく休めるよな、という声は無視)奥入瀬渓流に行ってきたので、その写真で久々の更新をごまかします。
私たちが訪れる1週間前?に「ブラタモリ」で奥入瀬が取り上げられたそうです。テレビを見ない私は知らなかったのだけれど、行った仲間たちはちゃんとチェックしていて、奥入瀬渓流の成り立ちとか、いろいろと教えてくれました。
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(奥入瀬らしい景色も雨で水量が増してこそ、と濡れながら自分を慰めました)

2泊3日で行ったのですが、肝心の中日は雨。雨か〜〜と落ち込み気味でしたが、ガイドさんが「奥入瀬はどんな天気も美しい。雨のときでしか楽しめない奥入瀬がある」という言葉に励まされました。雨の日こそ楽しめる奥入瀬、その一つが苔の観察です。雨の日しか苔は開かないそうで、苔の美しさを愛でるには何と言っても雨の日なんだとか。借りたルーペで苔観察しまくりましたよ。
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(岩に張り付いて
コケ観察に余念がないご一行様)
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(ルーペにiPhoneをくっつけて接写撮影しました)
 

また紅葉のシーズンにはまだ早く、夏休みが終わった9月始めは、観光客が少なくて、ホテルは満員でしたが渓流トレッキングは静かでよかったです。 奥入瀬は遊歩道を歩いてなんぼですね。歩けるうちに行かないと。
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(遊歩道が整備されていてトレッキングが楽しいんです。歩いている途中でいきなり晴れて木漏れ日が落ちてきたりして)
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(滝に立ち寄ってはマイナスイオンを浴びる、というのもお楽しみ)

三内丸山遺跡にも立ち寄りました。感想。縄文人は、家の作りといい、狩猟の道具作りといい、土器や装飾品の文様の豊かさといい、ほんっと器用で創造力があるんだな〜。私、縄文の時代に生まれていたら、きっと「何もできない女」として蔑まれていたかも。そう言ったら「栗を大量に拾うとか、何か役に立っていたよ」と慰められましたが。 
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(みんなで縄文の衣服を着て集会所の前で記念撮影)

青森初上陸でしたが、今回は青森市と奥入瀬をちょろっとのぞいただけ。まだ探検できそうなところがありそうです。 
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(津軽海峡夏景色です)

あ〜〜もうちょっと頑張ろう、仕事。 

高校生の頃だったでしょうか。
担任の先生が「 親からよく言われていることはなんですか?」というような質問をして、クラス全員に答えさせたことがありました。(注:私は私立女子校に通っていました)
ほとんどの生徒が「人に迷惑をかけないように」、もしくは「人の役に立つことをしなさい」と答えたように記憶しています。まあね、高校生女子は「親や先生が期待している当たり障りのない答え」を心得ていますし、何と言っても「忖度症候群」に大半の生徒がかかっている私立女子校。いかにも親が言いそうなことを忖度し、周囲の反応も忖度して先生に答えるものです。
私も「人の役に立つことをしなさい、と言われています」とか答えたような気がします。
そして今、一億総忖度症候群にかかっているかのような日本社会になってしまったのは、「人に迷惑をかけるのは悪」「人の役に立つことをすることこそ善、もしくは義務」という教えが浸透しすぎてしまったからではないか、と思っています。
そもそもどんなことが「迷惑」なのか?
「役に立つ」とはどういう行為や人をいうのか?
それ以上に、「人」とは誰のことを指すのか?
そんなことがかなーりあいまいなままに日本社会に浸透してしまったために、「迷惑な人や行為」を過剰なまでに敵視し、「役に立つ」ことをしない人を「役に立たない人」と蔑視して排除しようとする社会になってしまったのではないか。
公共の場である電車やショッピングセンターでちょっとでも赤ちゃんが泣いたら顔をしかめ、バギーが邪魔だと言って赤ん坊と母親を睨みつけ、よろよろと杖をついて歩いているお年寄りの後ろで舌打ちする。
そういう光景を見るたびに、「迷惑をかけないように」「人の役に立つように」と耳タコで聞かされてきた自分も、似たようなことをやってしまっているのではないか、と我が身を振り返って反省します。
「迷惑」や「役に立つこと」の判断は、ときと場合によって異なるはずです。私にとって迷惑なことが、隣の人にとっては何にも気にならないことかもしれない。あなたが役に立つと思って一生懸命やったことを、相手は迷惑に感じるかもしれない。それをひとからげに「人はこういうことを迷惑と感じる」「人はこういうことを役に立つとして賞賛する」としてしまうのは乱暴なんじゃないか。
それ以上に、人に迷惑をかける人、人の役に立たない人、と自分の判断で人を非難、排除するのは、とてもこわいことじゃないかと最近思っています。
「私なんか、生きていても何の役にも立っていない」「みんなに迷惑かけるばかり」とかいう人(とくに高齢者)がいるけれど、それも「迷惑かけないこと」と「役に立つこと」に過剰に価値を置きすぎているせいではないかと。
生きている、それだけでもう十分ではないでしょうか。
赤ちゃんも、お母さんも、からだが不自由な人も、健康な人も、働いている人も、働いていない人も、高齢者も、若者も、生きている、というだけで胸張って生きていけばいいんじゃないかと。
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