Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

装う快楽

 アメリカの大統領選挙は、誤解を恐れずにいうと4年に1度、オリンピック以上に人々を熱狂させるエンターテインメントではないか、と私は思っていて、1980年代、カーターさんが大統領になったころから毎回興味深く追っかけています。
 今回はバイデン大統領が選挙戦から撤退するまで興味があまりわかなかったのですが、ハリス副大統領が候補になってからがぜんおもしろくなって、毎日のようにNHKBSのニュースを追いかけ、ネットで記事を読み、はてはXまで見ちゃったりしてます。ほかの国の選挙を追いかけないで、自分の国の総裁選に興味持てよ、と反省はするのだけれど、エンターテインメント度やドラマ性からみると、アメリカの大統領選のほうがおもしろいです。すみません。
 そのためハリスさんとトランプさんの初のテレビ討論会をとても楽しみにしていた私は、昨日は朝からテレビの前に座り、NHKの同時通訳つきライブ放送を見ながら、タブレットでも英語の放送を聞いていました。
 そこで私が一番衝撃を受けたのは、トランプさんの「オハイオ州では移民がペットの犬や猫を食べている」といって司会者に「それは事実ではありません」とたしなめられた場面ではなく、ハリスさんが初対面だからとトランプさんに自己紹介しながら握手を求めた演出でもありません。
 それは「テレビは年齢を残酷なばかりに映しだすんだ」ということでした。
 ハリスさん59歳、トランプさん78歳。19歳の年齢差は顔のシワ、表情、声、姿勢、立ち方、歩き方にいたるまでにはっきりとあらわれてしまう。それをテレビはくっきりと映し出してしまうのです。
 バイデンさんとの討論会では、バイデンさんの老いがあまりに顕著でトランプさんの年齢にあまり気づかなかったのだけれど、今回はハリスさんと並ぶことで78歳を感じてしまいました。
 
 昨日から私の頭のなかをしめているのは、政策論争とか支持率の行方などではなく、老いを受け入れ、老いる自分を愛おしむことのたいせつさです。老いていくことを恐れるあまり、自分の老いを認めようとしないのはみっともないのではないか。これからいよいよ老いに本格的に足を踏み入れていく自分に、老いを受け入れて、品よく老いていくんだぞ、と言い聞かせています。
 実はそれがとってもむずかしいのだけれど。
 
 

 先日、またまた老いに関する本を読んでいたら、「はて?」(寅子さんの真似が最近のマイブーム)という箇所があった。そのまま引用するのは気が引けるので、要約すると
「年齢にふさわしい服装をしましょう。あきらかに70歳を超えているのに、30代と同じような若造りでTシャツにジーパンにスニーカーという格好をしているのはイタイ人です」というの。
はて????
 違う方向でツッコミを入れておくと、ジーパンといっている時点で、著者(医師)が服に興味がない人なんだろうなあと推察する。わからんけれど。
 また美容院で読んでいた週刊誌に「いい歳してロックバンドの追っかけをして、ロックTシャツを着ている中高年女性はイタイ」というような文言があった。
はて???????
 たぶん私はこういうことを書く人たちの視点を通せば、とってもイタイばーさんと見えるだろう。
 ロックバンドじゃないけれど、推し(もちろんガンバ)のレプリカユニを着てますけれど、イタイですか?
 ジーパン(苦笑)ではないけれど、40代から履いているデニム地のパンツをいまもはいていますけれど、何か?
 70代に突入して私は肩の荷をおろしたみたいにホッとしたところがある。
 その理由のひとつが、自分が着たいものを着ることに躊躇がなくなった点だ。
 派手と思われないかな? 70代らしくない? 背伸びして若造りしていると思われる? 
 そして「こんな服着てイタイ人と思われないかな?」
 ……というような躊躇がなぜか消えましたです。
 だって気に入った服に出会って感動し、「わ〜〜この服着たい!」と思えるのってとてもすごいことじゃないだろうか?
 そしてすてきな服を入手できるだけの経済力があって、体力があって、姿勢も体型もほどほどに維持できていることもすごいことだと自分で思ってる。
 よく「そんな服を着ていくところがない」という人がいるけれど、着ていくところをつくればいいことだと私はひそかに思う。おしゃれをしたいけれど、あれこれ周囲からいわれるのがいやだという人たちをSNSでこっそり集めて、オフ会でも開いてファッション話で盛り上がる場をつくるのでもいい。まあね、いうのは簡単だけれど、実際に実行するにはエネルギーがいるからそう簡単ではないだろうが。
 私? 1週間に2回くらい気に入った服を着て、ふだんよりちょっとがんばってお化粧して、「今日は特別なお出かけなんですぅ」と気合いを自分に入れて、電車にのって都心に出て、映画見たり美術館にいったりしている。ひとりで。
 服に興味がないし、おしゃれなんて別にしたくない、というのも立派な選択だから、そういう人のスタンスは尊重している。
 だから何歳になってもおしゃれしたいという人のことも放っておいてほしい。
 まあね、イタイといわれても別にいいやと思えるようになった70代万歳!
 あたしは痛くもかゆくもない、と気張っておこう。

前のエントリーがあまりに物悲しい内容となってしまったので、気持ちを切り替えるために別のトピックを書きます。
(10月は1回しか書かなかったのに、11月は5日目にして3つ目。極端だな。)

母は9月で91歳となりました。コロナがようやく5類に移行してくれたおかげで、この春からまた月1回施設を訪問しているのですが、少なくともこの半年は驚くほど健やかに、気持ちも穏やかに過ごしています。
昨年の今頃、大腿骨骨折のリハビリから退院して施設に戻ってきたとき、生活が変わることにおびえてか、いきなり怒りを爆発させて私にモノを投げつけたり、泣き出したりしたことを思い出すと、いまも波はあるとはいえどもずいぶんと落ち着いたなとちょっとほっとしています。ケアマネさんやヘルパーさんのおかげなのですが、それに加えて、日々変わらない日常を淡々と送っていることが幸いしているとみています。
朝、決まった時間に起床して、前日にヘルパーさんが用意しておいてくれた服を着て、洗面をすませて、迎えに来てくれた人と食堂にいき、ヘルパーさんとデイサービスにいくという日課。デイサービスや施設での行事に参加することはたまにあるそうだけれど、それでも1年365日、決まった時間に起きて、食べて、決まった場所に行って、決まった時間に寝ることは変わらない。
もちろん認知症が進行しているため、「ここはいったいどこなの?」「あなたは誰なの?」に始まり、つぎに何をするのかがわからず「私はどうしたらいいの?」とひっきりなしに聞いているそうですが、それでも以前に比べると不安感、焦燥感はずいぶん減っているようです。それはおそらく、長年にわたって習慣となった行動だけを繰り返す毎日を送っているからでしょう。
朝起きて、着替えて、洗面して、食事して……ということを母は長年習慣にしているので、認知症重度と診断されたいまでもやれる、というか、やらずにはいられない。やろうとしてできないことも多くなってきましたが、それでもやろうとする意志はしっかりある。基本的な生活習慣をしっかり身につけていたことは大切だし、私も見習わないといけないな、と思っています。
反対に母がどうしても習慣化できなかったことがあります。それはモノをあるべき場所に置く/戻すことです。たとえばマグカップにミルクを入れて寝る前にベッドサイドに持ってきてそのまま何日も起きっぱなしにするとか、外出時につけていたアクセサリーを外して洗面所に置きっぱなしにするとか、通帳やハンコをバッグに入れたままにするとか。母は若いころから「○○がない。あんた知らない?」と探すことに長い時間をかけ、はては「あんたがとった」と夫、子どもたちや同居していた祖母、お手伝いにきていた人たちを責めることに費やしていました。あるべき場所に置く生活習慣はついに身につかなかったことです。
認知症と診断される前後からは、おおげさでなく起きている時間の半分以上をモノを探すことに費やし、とくに通帳やお金がないといっては部屋じゅうをひっくり返し、誰かが盗んだという妄想にかられて大騒ぎし、私や妹にひっきりなしに電話をかけて「どうしたらいい?」と泣いていました。
母が大腿骨骨折で入院している間に、私は施設の母の部屋を片付け、必要最低限のモノしか置かないようにしました。冷蔵庫も食器棚もほとんど空にし、貴重品はすべて持ち帰りました。本棚の本や書類も全部処分して、本棚に日常着るものだけをひと目見てわかるように並べておきました。
とにかくモノをできるかぎり減らし、見える化することが、母にはとても重要だと思えたのです。母がいま落ち着いて暮らせているのは、ひとつには必要なモノがすべて見えるところにあって、しかもモノがとても少ない空間にいるおかげではないかと私は思っています。
そして我が家にも、まったく整理整頓ができずに汚部屋で暮らしていた人がいます。夫はなくしてはいけないモノほどなくすし、それ以外のモノもしょっちゅう探しまわって、見つけることができなければつぎつぎと買ってよけいに収拾がつかなくなることを繰り返しています。夫には探しモノのストレスからできるだけ解放されてほしいし、モノがないことで私を責めるのはやめてほしいと思いました。
モノをあるべきところに置けない/戻せない人が、心穏やかに安心して暮らすためには、モノを極力持たないこと、そして見える化することだと思います。夫の部屋にあったたんすも本棚もデスクなど、モノを見えなく/見えにくくする家具類はすべて処分しました。衣服は点数をしぼり、セーターもシャツもすべてハンガーにかけ、下着類や小物はカゴに入れてひと目で見えるようにしました。本は電子書籍で読むようにと命じ、大事な書類は私が管理する、と宣言しました。(IT企業で長年働いてきて、ペーパーレスをあれほど主張してきたのに、なぜ45Lのゴミ袋に70袋も床に書類を積み続け、溜め込んできたのか。私にはナゾです)
生活の基本を習慣化することは、もしかすると30代のころからやっておかねばならないのかもしれませんし、70歳を間近に控えて「習慣化しよう」と思うのは遅すぎるのかも。
それでもやらないよりマシ。このままだとモノに家庭も人間関係も人生もつぶされてしまうと、大袈裟でなく恐怖にかられました。たぶん整理には年末までかかるでしょう。でもモノが少なく、見える化されて、どこに何があるのかがわかる日常は、きっと時間がゆったりと使えて、心豊かなはずだと信じてがんばります。

あと半年足らずで60代が終わります。
断捨離をやろうと思ったのは、70代に突入する前に「これまでの人生」に片をつけておきたかったから。
あのころは良かった、と過去を振り返りたくなかったから。
これまでの「実績」や「思い出」にすっぱりと片をつけてしまいたいから、です。
60歳になったときも思いました。他人(家族も含む)の顔色をうかがって、やりたくても我慢したり、あきらめたりすることをすっぱりやめて自分ファーストで生きていこう、と。
でもどうしても振り切れないままずるずると60代を過ごしてしまいました。端から見ると、やりたいことを好き放題やっているように見えるかもしれませんし、たしかにやりたいと思ったら「今しかない」と飛びついてやってきた10年でした。
それでもどこかに後ろめたさがありました。
こんなことやっていて、子どもに、夫に、親に申し訳ないなとつねに後ろ髪をひかれていました。
でも、もういいんじゃないかと。
大事なのは、やりたいことがあって、やるだけの体力と気力を維持し続けることではないかと。
こわいのは、とくにやりたいことがなくて、あああ、あのときもっとやっておけば良かったな、とか悔やみつづけることではないかと。
昔のアルバムをめくって、思い出にふける時間があったら、新しいアルバムをつくることにエネルギーと時間を使いたい。そう思って、1割だけ残して写真はすっぱり捨てています。
先頃91歳の誕生日を無事元気で迎えた母は、施設に持っていった昔のアルバムを見ても、誰が誰だか、いつのことだかわからなくなってからずいぶん経ちました。世界中を父と旅してまわったことも、まったく記憶にない、どころか父のこともよくわからないままです。楽しかったという気持ちだけでも覚えておいてくれたら、と一緒に旅した外国のアルバムを一緒にめくろうとしても、混乱するのか嫌がります。
おそらく私も20年たったらそうなるのでしょう。
それならば、思い出はいらない。
今日やりたいことをやれたら幸せ。
やりたいことがあって、それがやれるように、毎日を過ごしていきたい。
そのためにはまず過去と訣別しようと汗ふきふき断捨離に励んでいます。 

 新刊案内を見るのが半分仕事で半分趣味です。自分がいまどんなことに興味を持っているのかを知ることもできるし、反対に私には関係がない、興味もないと思っていたけれど、実はとても重要なことなんじゃないかと知ることもできる。
 たとえば60代に入った当初に私の視線が止まったのが「終活」関連と「認知症」関連の本なのですが、読みあさってのいまの心境は「老後にどれだけ備えても予想もしなかったことが起きる、なるようにしかならない。とりあえずいまを生き延びるしかない」ということです。60代前半で「老後の資金」「老後の健康」「終のすみか」とか必死に情報を集めて考えたのですが、コロナで引きこもっているうちに「何が起こるかわからないし、そもそも私の老後っていつからと想定したらいいのかがわからない」と気づきました。
 母からもう耳タコくらい聞かされたのが「まさか私がこんなみじめな老後を送るなんて(泣き崩れる)」です。少なくとも金銭面では「老後のために」と備えに備えていて、それほど大きな病気もせず、医者の夫(私にとっては父)に健康面の管理をばっちりしてもらって、恵まれすぎるほど恵まれた環境で80代以降を過ごしていると私は思っているのですが、それは親子といえども他人の娘の私が思っているだけ。母にとっては「予想もしなかったみじめな老後」なわけです。お金はないよりもあったほうがいいし、面倒を見てくれる子どももいないよりはいたほうがいいとは思いますが、なんかそれだけで満足のいく老後生活が送れるわけではなさそうだと気づいたこの5、6年。
 というわけで、老後に関する本にすっかり興味が薄れてしまった私が、趣味の読書で最近読み耽っているのが(というほどではないけれど)宇宙に関する本です。中沢弘基さんの
をコロナ期間中に読んだのがきっかけかな? そして佐藤勝彦さんという宇宙物理学者に出会い、でも結構むずかしくて途中で投げ出していたのだけれど、子ども向けに書かれた
を図書館で見つけて、すごくおもしろかったので増補改訂版は購入しました。
そしてその延長で漫画
に熱中しました。終わってしまってほんと残念。これはヨーロッパでの天動説VS地動説を題材にしているけれど、ぜひ中国やアラブ世界の宇宙観漫画が読みたいなあ……。
 宇宙のことを考えていると、私の老後でうつうつと悩むなんてほんとアホらしくなってきます。夜にウォーキングに出かける前に
をチェックして、上を向いて歩いていれば、思い悩んでいいのは今日のことだけ、と思えてくるのです。
  

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