前のエントリーがあまりに物悲しい内容となってしまったので、気持ちを切り替えるために別のトピックを書きます。
(10月は1回しか書かなかったのに、11月は5日目にして3つ目。極端だな。)
母は9月で91歳となりました。コロナがようやく5類に移行してくれたおかげで、この春からまた月1回施設を訪問しているのですが、少なくともこの半年は驚くほど健やかに、気持ちも穏やかに過ごしています。
昨年の今頃、大腿骨骨折のリハビリから退院して施設に戻ってきたとき、生活が変わることにおびえてか、いきなり怒りを爆発させて私にモノを投げつけたり、泣き出したりしたことを思い出すと、いまも波はあるとはいえどもずいぶんと落ち着いたなとちょっとほっとしています。ケアマネさんやヘルパーさんのおかげなのですが、それに加えて、日々変わらない日常を淡々と送っていることが幸いしているとみています。
朝、決まった時間に起床して、前日にヘルパーさんが用意しておいてくれた服を着て、洗面をすませて、迎えに来てくれた人と食堂にいき、ヘルパーさんとデイサービスにいくという日課。デイサービスや施設での行事に参加することはたまにあるそうだけれど、それでも1年365日、決まった時間に起きて、食べて、決まった場所に行って、決まった時間に寝ることは変わらない。
もちろん認知症が進行しているため、「ここはいったいどこなの?」「あなたは誰なの?」に始まり、つぎに何をするのかがわからず「私はどうしたらいいの?」とひっきりなしに聞いているそうですが、それでも以前に比べると不安感、焦燥感はずいぶん減っているようです。それはおそらく、長年にわたって習慣となった行動だけを繰り返す毎日を送っているからでしょう。
朝起きて、着替えて、洗面して、食事して……ということを母は長年習慣にしているので、認知症重度と診断されたいまでもやれる、というか、やらずにはいられない。やろうとしてできないことも多くなってきましたが、それでもやろうとする意志はしっかりある。基本的な生活習慣をしっかり身につけていたことは大切だし、私も見習わないといけないな、と思っています。
反対に母がどうしても習慣化できなかったことがあります。それはモノをあるべき場所に置く/戻すことです。たとえばマグカップにミルクを入れて寝る前にベッドサイドに持ってきてそのまま何日も起きっぱなしにするとか、外出時につけていたアクセサリーを外して洗面所に置きっぱなしにするとか、通帳やハンコをバッグに入れたままにするとか。母は若いころから「○○がない。あんた知らない?」と探すことに長い時間をかけ、はては「あんたがとった」と夫、子どもたちや同居していた祖母、お手伝いにきていた人たちを責めることに費やしていました。あるべき場所に置く生活習慣はついに身につかなかったことです。
認知症と診断される前後からは、おおげさでなく起きている時間の半分以上をモノを探すことに費やし、とくに通帳やお金がないといっては部屋じゅうをひっくり返し、誰かが盗んだという妄想にかられて大騒ぎし、私や妹にひっきりなしに電話をかけて「どうしたらいい?」と泣いていました。
母が大腿骨骨折で入院している間に、私は施設の母の部屋を片付け、必要最低限のモノしか置かないようにしました。冷蔵庫も食器棚もほとんど空にし、貴重品はすべて持ち帰りました。本棚の本や書類も全部処分して、本棚に日常着るものだけをひと目見てわかるように並べておきました。
とにかくモノをできるかぎり減らし、見える化することが、母にはとても重要だと思えたのです。母がいま落ち着いて暮らせているのは、ひとつには必要なモノがすべて見えるところにあって、しかもモノがとても少ない空間にいるおかげではないかと私は思っています。
そして我が家にも、まったく整理整頓ができずに汚部屋で暮らしていた人がいます。夫はなくしてはいけないモノほどなくすし、それ以外のモノもしょっちゅう探しまわって、見つけることができなければつぎつぎと買ってよけいに収拾がつかなくなることを繰り返しています。夫には探しモノのストレスからできるだけ解放されてほしいし、モノがないことで私を責めるのはやめてほしいと思いました。
モノをあるべきところに置けない/戻せない人が、心穏やかに安心して暮らすためには、モノを極力持たないこと、そして見える化することだと思います。夫の部屋にあったたんすも本棚もデスクなど、モノを見えなく/見えにくくする家具類はすべて処分しました。衣服は点数をしぼり、セーターもシャツもすべてハンガーにかけ、下着類や小物はカゴに入れてひと目で見えるようにしました。本は電子書籍で読むようにと命じ、大事な書類は私が管理する、と宣言しました。(IT企業で長年働いてきて、ペーパーレスをあれほど主張してきたのに、なぜ45Lのゴミ袋に70袋も床に書類を積み続け、溜め込んできたのか。私にはナゾです)
生活の基本を習慣化することは、もしかすると30代のころからやっておかねばならないのかもしれませんし、70歳を間近に控えて「習慣化しよう」と思うのは遅すぎるのかも。
それでもやらないよりマシ。このままだとモノに家庭も人間関係も人生もつぶされてしまうと、大袈裟でなく恐怖にかられました。たぶん整理には年末までかかるでしょう。でもモノが少なく、見える化されて、どこに何があるのかがわかる日常は、きっと時間がゆったりと使えて、心豊かなはずだと信じてがんばります。
(10月は1回しか書かなかったのに、11月は5日目にして3つ目。極端だな。)
母は9月で91歳となりました。コロナがようやく5類に移行してくれたおかげで、この春からまた月1回施設を訪問しているのですが、少なくともこの半年は驚くほど健やかに、気持ちも穏やかに過ごしています。
昨年の今頃、大腿骨骨折のリハビリから退院して施設に戻ってきたとき、生活が変わることにおびえてか、いきなり怒りを爆発させて私にモノを投げつけたり、泣き出したりしたことを思い出すと、いまも波はあるとはいえどもずいぶんと落ち着いたなとちょっとほっとしています。ケアマネさんやヘルパーさんのおかげなのですが、それに加えて、日々変わらない日常を淡々と送っていることが幸いしているとみています。
朝、決まった時間に起床して、前日にヘルパーさんが用意しておいてくれた服を着て、洗面をすませて、迎えに来てくれた人と食堂にいき、ヘルパーさんとデイサービスにいくという日課。デイサービスや施設での行事に参加することはたまにあるそうだけれど、それでも1年365日、決まった時間に起きて、食べて、決まった場所に行って、決まった時間に寝ることは変わらない。
もちろん認知症が進行しているため、「ここはいったいどこなの?」「あなたは誰なの?」に始まり、つぎに何をするのかがわからず「私はどうしたらいいの?」とひっきりなしに聞いているそうですが、それでも以前に比べると不安感、焦燥感はずいぶん減っているようです。それはおそらく、長年にわたって習慣となった行動だけを繰り返す毎日を送っているからでしょう。
朝起きて、着替えて、洗面して、食事して……ということを母は長年習慣にしているので、認知症重度と診断されたいまでもやれる、というか、やらずにはいられない。やろうとしてできないことも多くなってきましたが、それでもやろうとする意志はしっかりある。基本的な生活習慣をしっかり身につけていたことは大切だし、私も見習わないといけないな、と思っています。
反対に母がどうしても習慣化できなかったことがあります。それはモノをあるべき場所に置く/戻すことです。たとえばマグカップにミルクを入れて寝る前にベッドサイドに持ってきてそのまま何日も起きっぱなしにするとか、外出時につけていたアクセサリーを外して洗面所に置きっぱなしにするとか、通帳やハンコをバッグに入れたままにするとか。母は若いころから「○○がない。あんた知らない?」と探すことに長い時間をかけ、はては「あんたがとった」と夫、子どもたちや同居していた祖母、お手伝いにきていた人たちを責めることに費やしていました。あるべき場所に置く生活習慣はついに身につかなかったことです。
認知症と診断される前後からは、おおげさでなく起きている時間の半分以上をモノを探すことに費やし、とくに通帳やお金がないといっては部屋じゅうをひっくり返し、誰かが盗んだという妄想にかられて大騒ぎし、私や妹にひっきりなしに電話をかけて「どうしたらいい?」と泣いていました。
母が大腿骨骨折で入院している間に、私は施設の母の部屋を片付け、必要最低限のモノしか置かないようにしました。冷蔵庫も食器棚もほとんど空にし、貴重品はすべて持ち帰りました。本棚の本や書類も全部処分して、本棚に日常着るものだけをひと目見てわかるように並べておきました。
とにかくモノをできるかぎり減らし、見える化することが、母にはとても重要だと思えたのです。母がいま落ち着いて暮らせているのは、ひとつには必要なモノがすべて見えるところにあって、しかもモノがとても少ない空間にいるおかげではないかと私は思っています。
そして我が家にも、まったく整理整頓ができずに汚部屋で暮らしていた人がいます。夫はなくしてはいけないモノほどなくすし、それ以外のモノもしょっちゅう探しまわって、見つけることができなければつぎつぎと買ってよけいに収拾がつかなくなることを繰り返しています。夫には探しモノのストレスからできるだけ解放されてほしいし、モノがないことで私を責めるのはやめてほしいと思いました。
モノをあるべきところに置けない/戻せない人が、心穏やかに安心して暮らすためには、モノを極力持たないこと、そして見える化することだと思います。夫の部屋にあったたんすも本棚もデスクなど、モノを見えなく/見えにくくする家具類はすべて処分しました。衣服は点数をしぼり、セーターもシャツもすべてハンガーにかけ、下着類や小物はカゴに入れてひと目で見えるようにしました。本は電子書籍で読むようにと命じ、大事な書類は私が管理する、と宣言しました。(IT企業で長年働いてきて、ペーパーレスをあれほど主張してきたのに、なぜ45Lのゴミ袋に70袋も床に書類を積み続け、溜め込んできたのか。私にはナゾです)
生活の基本を習慣化することは、もしかすると30代のころからやっておかねばならないのかもしれませんし、70歳を間近に控えて「習慣化しよう」と思うのは遅すぎるのかも。
それでもやらないよりマシ。このままだとモノに家庭も人間関係も人生もつぶされてしまうと、大袈裟でなく恐怖にかられました。たぶん整理には年末までかかるでしょう。でもモノが少なく、見える化されて、どこに何があるのかがわかる日常は、きっと時間がゆったりと使えて、心豊かなはずだと信じてがんばります。