Glamorous Life

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装う快楽

高校生の頃だったでしょうか。
担任の先生が「 親からよく言われていることはなんですか?」というような質問をして、クラス全員に答えさせたことがありました。(注:私は私立女子校に通っていました)
ほとんどの生徒が「人に迷惑をかけないように」、もしくは「人の役に立つことをしなさい」と答えたように記憶しています。まあね、高校生女子は「親や先生が期待している当たり障りのない答え」を心得ていますし、何と言っても「忖度症候群」に大半の生徒がかかっている私立女子校。いかにも親が言いそうなことを忖度し、周囲の反応も忖度して先生に答えるものです。
私も「人の役に立つことをしなさい、と言われています」とか答えたような気がします。
そして今、一億総忖度症候群にかかっているかのような日本社会になってしまったのは、「人に迷惑をかけるのは悪」「人の役に立つことをすることこそ善、もしくは義務」という教えが浸透しすぎてしまったからではないか、と思っています。
そもそもどんなことが「迷惑」なのか?
「役に立つ」とはどういう行為や人をいうのか?
それ以上に、「人」とは誰のことを指すのか?
そんなことがかなーりあいまいなままに日本社会に浸透してしまったために、「迷惑な人や行為」を過剰なまでに敵視し、「役に立つ」ことをしない人を「役に立たない人」と蔑視して排除しようとする社会になってしまったのではないか。
公共の場である電車やショッピングセンターでちょっとでも赤ちゃんが泣いたら顔をしかめ、バギーが邪魔だと言って赤ん坊と母親を睨みつけ、よろよろと杖をついて歩いているお年寄りの後ろで舌打ちする。
そういう光景を見るたびに、「迷惑をかけないように」「人の役に立つように」と耳タコで聞かされてきた自分も、似たようなことをやってしまっているのではないか、と我が身を振り返って反省します。
「迷惑」や「役に立つこと」の判断は、ときと場合によって異なるはずです。私にとって迷惑なことが、隣の人にとっては何にも気にならないことかもしれない。あなたが役に立つと思って一生懸命やったことを、相手は迷惑に感じるかもしれない。それをひとからげに「人はこういうことを迷惑と感じる」「人はこういうことを役に立つとして賞賛する」としてしまうのは乱暴なんじゃないか。
それ以上に、人に迷惑をかける人、人の役に立たない人、と自分の判断で人を非難、排除するのは、とてもこわいことじゃないかと最近思っています。
「私なんか、生きていても何の役にも立っていない」「みんなに迷惑かけるばかり」とかいう人(とくに高齢者)がいるけれど、それも「迷惑かけないこと」と「役に立つこと」に過剰に価値を置きすぎているせいではないかと。
生きている、それだけでもう十分ではないでしょうか。
赤ちゃんも、お母さんも、からだが不自由な人も、健康な人も、働いている人も、働いていない人も、高齢者も、若者も、生きている、というだけで胸張って生きていけばいいんじゃないかと。
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世間は夏休み。フリーランスには「夏だから休む」という特典はないのですが、1年のいつでも「このときは休む」と決めれば休める(ほんとに?)という特典があります。いや、正直、休もうと一大決心しないと休めない不自由業なのですがね。
それはさておき、学校が夏休みに入ったとたんに新聞広告で目につくのが「パック旅行」です。テロで物騒と恐れられているのか、海外パック旅行の人気の行き先は様変わりしていて、今は欧州ならポルトガルや北欧(フィンランド)、アメリカなら相変わらずハワイ、その中でもハワイ島、アジアではスリランカ、オーストラリア、ニュージーランドも人気みたいです。うーん、私は今ひとつ気持ちが動かないかも。名所旧跡や美しい景色もいいけれど、石を投げられるのを承知で言ってしまうと、もう見て回るだけの観光旅行はいいかな、と思ったりしています。 
もう少し若かったときには、海外、国内を問わず、ガイドブックに掲載されている観光資源を実際に自分の目で見て回る旅がすごく楽しかったのですが、年齢を重ねて経験も積むと、情報を消化するようなそんな旅にかける時間とお金がとても惜しくなってきました。
旅は体力と気力を要します。そして年齢とともに体力が衰え、体力が衰えるほど気力も衰えていきます。残っている体力と気力をどれだけ旅につぎ込めるか、と考えると、観光旅行はちょっともったいないかも、と思ってしまうのです。
それでは体力・気力がまだあるうちにどんな旅をしたいか、と考えたとき、自然と浮かんできたのが「バックパック背負っての世界のスタジアム巡り」でした。
2年前、セルビアからハンガリーに向かう飛行機でロストバゲージとなり、リュック1個で3日間を過ごしたのですが、これがめっちゃ楽でした。毎日、着ている服を洗濯しなくてはならない、というのはちょっとめんどくさかったけれど、そのほかは別にどうってことない。 PC、一眼レフカメラ、ビデオカメラ、三脚、WiFiルーター、ノートなどの仕事用具一式に、着替えを1日分、化粧道具3日分程度なら余裕でリュックにおさまりました。なんだ、リュック1個で十分なんじゃないか、と思いましたね。
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(ハンガリー東部の街、デブレッツェンのスタジアムで開催されたCONIFA欧州選手権を取材に行ったのでした。リュック1個で)
バックパックなら着替え3日分に化粧道具10日分くらい入りそう。仕事用具をこんなに持って行かなきゃいいんだし。スタジアム巡り(言ってみれば一人観戦ツアーですね)ならば、靴も雨でも平気なスニーカー一足で事足りる。
思いついてから、行ってみたいスタジアムをチェックしたり、バックパックを検索したり、すでに旅気分。しかし、早めに実現しなければなりません。これは体力との時間勝負になりそうです。 
まずは日本国内のスタジアム巡りからですね。 
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(日本のスタジアムで私が一番よく通ったのが、もちろん万博記念競技場です。万博は何と言っても夕焼けが素晴らしい! 万博記念競技場の思い出、と題して、雑誌に夕焼けのことを書いたことがあります)
 
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(スウェーデン、ウステルシュンドのスタジアム。CONIFAワールドフットボールカップの取材で行きました。街から歩いて30分以上かかる丘の上のスタジアムでしたが、夜10時過ぎにようやく日が落ちる中を、のんびり花を摘みながら帰ってくる毎日は楽しかったな)
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(未承認国家、アブハジアの首都スフミにあるスタジアム。CONIFAワールドフットボールカップのアブハジア戦の熱気は忘れられません)
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(UEFA欧州選手権のために新設したというリヨンのスタジアム。すばらしい設備で、いるだけで気持ちが大いに盛り上がりました。雨が激しく降っていたにも関わらず)
 

 私が18歳まで暮らした家の「子ども部屋」には、尚美堂という会社のカレンダーがかけてありました。尚美堂は海外の雑貨を輸入する会社だと私は長らく思っていたのですが、今調べたら主たる業務は外食、ホテル、レストランなど飲食用”紙製品”総合メーカーとあります。なぜそんな思い込みが生じたかというと、尚美堂のカレンダーには欧米をはじめとする海外のエキゾチックで美しい景色の写真が使われていて、てっきり海外に関係する業務の会社に違いないと思ったからです。確かに今も海外輸出入業務もやっているらしいけれど、メインは紙製品を製造・販売することだそうです。
それはともかく、今でも鮮明に覚えているのは、スイスアルプスでモンブランをバックに屋根にソフトクリームみたいな雪を乗せた山小屋が立っている写真です。スイス、モンブラン、雪、山小屋……写真に添えられたコメントを読みながら、うっとりとカレンダーに魅入っていた10歳の私。
「大人になったら、こんな景色を自分の目で見たい!」
そのころから「将来の夢は?」と聞かれると、「外国に行くこと」と答えるようになりました。そして私の中でむくむくと「外国への憧れ」が湧き起こってきたきっかけは、尚美堂のカレンダーと世界文学全集……だと思っていました。
ところが、昔のアルバムを整理しているうちに気づいたのは、父方の家族が代々海外留学していたことです。医師だった曽祖父は明治30年(1897年)から33年までドイツに留学していました。
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(曽祖父夫妻と長男である大伯父。ドイツに留学する大伯父の見送り? 大正時代の洋行の華やかさが感じられます)

同じく医師であった祖父は、英国留学に祖母と幼い息子たち(伯父と父)を同伴しています。
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(英国留学時代の祖父母と伯父。下宿先でしょうか?)
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(明治時代に留学していた曽祖父の影響か、長女だった祖母は「モダン」でした。昭和初期、祖父の留学に同行して帰国後に撮った写真らしいけれど、あまりのモダンさに圧倒されます)

父の兄である伯父の一家もアメリカで暮らしていましたし、父も母を伴ってアメリカに留学しました。父方の家系は欧米留学がマストだったのか? と思いたくなるほどです。私が「海外留学したい」と言い出したとき、両親はもちろん、祖父母も「女の子が一人で海外なんて」と反対するどころか、「ぜひ行け」と励ましてくれたのは、こういう家系だったからなのですね。
曽祖父はもちろん、祖父母から父母が留学した昭和30年代まで、外国には船で行くものでした。両親は幼かった私たちを母方の祖父母に預けて、夫婦2人だけでアメリカに2年間留学したのですが、当然のように船で1週間かけて太平洋を渡りました。神戸の港で、母の弟である叔父に肩車してもらい、船から投げられた紙テープを握ってデッキにいる両親を見送ったのを、おぼろげではありますが覚えています。
(アメリカに留学する両親を見送ったとき。親戚の女の子も一緒に写っています)
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(両親がアメリカに渡るとき、神戸の港まで見送りに行ったのをかすかに覚えています。甲板で写真を撮ったのは覚えていないのですが)

アメリカにいる両親からときおり送られてくるカードやプレゼントの人形や絵本や文房具や服が、日本ではまず見かけない彩り鮮やかでおしゃれなものばかりで、ああ、ガイコクはすごい、ガイコクに行けばこんなものであふれているんだと幼心に思った……と言えればいいのですが、実はそんなことはあまり考えませんでした。たとえ両親が滞在していたとしても、ガイコクはあまりにも遠い異世界で、子どもの頭ではとても想像が及ばなかった、というところでしょうか。
ただ唯一記憶に残っているのは、カードも含めてアメリカから送られてきたものには独特の匂いがしたことでした。私たち姉妹はそれを「ガイコクの匂い」と呼んでいたのですが、いったいあれは何のにおいだったのでしょう。日本の製品には決してないにおい。私にとっては、そのにおいこそがガイコクだったと思います。
その後、母方でも叔父がアメリカに留学し、母の妹夫婦も一家でアメリカに何年も暮らしました。海外から届く便りに、私の外国への憧れはかきたてられるばかり。世界文学全集をむさぼり読み、英語の習得にも力が入り、同級生が父親の転勤で海外に行くと聞くと激しい嫉妬にかられるほど。
いつか、日本ではないところに住んでみたい。ここではないどこかへ行きたい。高校生になるころには、その思いは単なる夢にとどまらず、「どうすれば実現できるか?」と必死に知恵をしぼる段階にまで至りました。
そして大学4年生でついに夢は実現し、フランスに1年間留学したのです。夢のような1年間でした。
でも、帰国したときにやっと気づいたこと、それは「洋行帰り」だけではどうしようもない、ということでした。外国に行って、何を得て、その経験や得たものをどう還元するのか。
曽祖父は、祖父母は、両親は、「洋行」をその後の人生にどう生かしたのでしょうか?
アルバムをめくりながら、問いかけています。


「カラーテレビを買うたんは、ここいらあたりじゃウチが一番早かったんじゃ」
祖父のこの自慢をいったい何回聞かされただろう。1964年、東京オリンピックをカラーテレビで見るために、祖父は奮発した。初めてカラーテレビが実家にやって来た日、学校から小走りで帰宅すると居間にテレビがあり、祖父母や母が興奮したのか立ったまま眺めていたのを思い出す。今までの白黒テレビよりはるかに大きく、音も鮮明。カラーになると、一気に番組が華やいだように見えた。
「カラーテレビ買いはったんやって」とご近所や親戚がわざわざ見物にやってくることもあり、祖父は鼻高々だった。当然ながら、チャンネル権は祖父が握り、子どもたちが観たい番組を観せてもらうことは滅多にない。居間の隅に追いやられた白黒テレビでさえも、スイッチを入れるためには大人たちの許可が必要だった。テレビは魔法の箱と言われたが、子どもにとっては魔の箱だと実家では認識されていたのだ。
子どもが決して観てはいけない番組、それは大人たちが「テーゾク」のレッテルを貼ったものだ。お笑い系、歌謡番組、プロレスはテーゾクの最たるもの、とレッテルを3枚くらい貼られて「視聴禁止命令」が出る。つぎに夜8時には就寝させられたので、夜の番組も視聴禁止。基本、テレビではNHKとニュースしか観せてもらえない、という修道院のような家庭で私たち姉妹は育った。
しかし観てはいけない、と言われるとよけいに観たくなるのが子ども心。学校で友だちの話題にもついていけなくなる。近所でもっとも早くカラーテレビを購入した家だというのに、私たちは時代の波に乗れていないと歯がゆかった。小学4年生以後の子どもにとって、「まじめ」「カタブツ」のレッテルを貼られるのは拷問である。お笑いのギャグを知りたい、流行歌を口ずさみたい、アイドル(という言葉は当時はなかったが)が動いている姿を見たい……どれだけ願っただろう。
全面的ではないにしろ、願いがかなう日はまもなくやってきた。私たちが小学校高学年になってから、母も祖母も土曜日に外出をするようになった。祖父も父も仕事に行っている(当時土曜日が半ドン(→死語)の会社は少なかった)
学校から息急き切って帰ってくると、まず白黒テレビをつけて観るのが「吉本新喜劇」である。今調べたところ、12時からはうめだ花月劇場での公演が毎日放送で「花月爆笑劇場」として、13時からはなんば花月での公演が朝日放送で「お笑い花月劇場」としてテレビ中継されていた、とある。
私たちが観ていたのは13時からの放送だ。大村崑、白木みのる、財津一郎、ルーキー新一、花紀京などが、毎回お決まりのギャグを連発して、人情もののコントを演じる、という内容だった。テーゾクのレッテルを貼られるのがもっともな番組ではあったが、大人にとやかく言われずにテレビが見られるその時間は、子どもにとってのドリームタイム。土曜の昼ごはんは毎回レトルトのボンカレーと決まっていた。いそいそとそれをを温めて冷たいご飯にかけて食べながら観る吉本新喜劇。幸せ!(ちなみに私はカレーに生卵を落としたのが好きだった)
 日曜日の夕方からは、吉本の芸人たちが出演する「てなもんや三度笠」がテレビ放送されていて、これも観たかったけれど、もちろんテーゾクと一蹴されて観せてもらえなかったから、「花月爆笑劇場」はよけいに貴重だった。
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(日曜夕方6時から放送されていた「てなもんや三度笠」藤田まことと白木みのるはアイドルだった)

中学に進学すると、母親が外出することが増えたから、子どものテレビ独占タイムはぐっと増えた。中間や期末テストで早めに帰宅したときには、テスト勉強もそっちのけで昼間のテレビを見まくった。私がとりわけ楽しみにしていたのは、旧い邦画の放送だった。私が生まれた1950年代前半に制作された映画には、今も語り継がれるほどの名作が多く、1960年代後半によくテレビで放送されていたのだ。
「無法松の一生」「名もなく貧しく美しく」「次郎物語」「にあんちゃん」「喜びも悲しみも幾歳月」「青い山脈」「二十四の瞳」……今もすらすらとタイトルが出てくるだけでなく、印象に残った場面がくっきりと思い出せる。「名もなく貧しく美しく」で、聴覚が不自由な高峰秀子が、聴くのも話すのも不自由な小林桂樹に電車の窓ガラス越しに手話で愛を伝えるシーンは、今思い出しても泣ける。
映画を見たのがきっかけで、原作となった本も愛読書になった。下村湖人の「次郎物語」や安本末子の日記「にあんちゃん」や石坂洋次郎作品は取り憑かれたように読みまくった。テレビがきっかけで本を読む、というのが当時の私の読書パターンだったのだ。
テーゾクのレッテルを貼られず、親と一緒に観られる番組もあった。その中で一番よく覚えているのが、「ベン・ケーシー」だ。日本では1962年から1964年までTBS系列で放送された、とある。脳神経外科医の ベン・ケーシーが、医師として成長していく物語だったが、なぜ8〜10歳の私にこの番組の視聴が許されたか、というと、父が医師だったからにちがいない。日本でも視聴率が50%を超えるほどの超人気ドラマで、放送の翌日には学校の友だちと前夜の内容を反芻するのが楽しみだった。ベン・ケーシー医師が来ているスタンドカラーの白衣がたまらなくカッコよくて、父に「あれを着てほしい」と頼んだけれど「くだらん」と一蹴された。
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(ベン・ケーシーは医療ドラマの原型だったと思う。私はその後も「ER」にハマったし、今も「シカゴ・メッド」を録画している)

1960年代後半から1970年代初めにかけて、テレビは未知の世界に開かれた窓だった。地方都市に暮らすティーンエイジャーにとって、学校や家庭以外に世界があることを教えてくれるのは、テレビと本だった。ここではないどこかへ行きたい、知らないことを知りたい、そういう衝動を与えたのがテレビだった。洗濯機や冷蔵庫など、その時代に実家にやってきた家電はあるけれど、「新しい時代」を感じさせたのはテレビだったと思う。
だが、チャンネル主導権は常に他の家族が握っていた。実家にいたときには祖父が、独身時代は寮で暮らしていたから寮母が、結婚してからは夫か子どもがチャンネル権を握っていて、私が観たい番組を観ようとすると、たいてい抵抗にあった。「好きな番組を好きなだけ観たい」と願い続けたが、40歳くらいのときに録画機を購入すると、憑き物が落ちたようにテレビへの執着が消えた。今もテレビを見るが、見るのはサッカーと録画して見る映画くらいだ。
家電としてのテレビの役割や力も大きく変わった。「テーゾクだ!」と当時の大人たちは情報を遮断する力があったが、インターネット時代にそんな権力行使は使えない。そもそもテレビは一人に一台の時代となって久しいし、子どもたちは観たいものを観たいときに、誰にも邪魔されずに好きなだけ観られる……でも、それってあまり幸せな環境でないように思う。 知りたいという気持ちも削がれるし、未知の世界への夢も描けなくなるのではないか。まあ、そんなことは昭和の生き残りのたわごとですね。

妹は動物好きだ。子どもの頃からさまざまな動物をペットとして飼っていた。鳥はカナリアや文鳥をつがいで飼って雛をかえしていたし、学校が休みのときはクラスで飼っていた九官鳥を家に連れ帰って世話をしていた。
金魚も飼っていたが、すべて近所の商店街の金魚屋さんがやっている金魚すくいで妹が「稼いできた」ものばかりだった。いま記憶をたどってみても、はたしてそこが「金魚屋」だったかはわからないのだが(駄菓子屋だった?)、店先には真冬以外、金魚の水槽が出ていて、夜店に行かずとも金魚すくいが楽しめた。代金は1セット10円、100円で11枚綴りの券が買えた。小学生だった私たちの1ヶ月のお小遣いは300円だったから、たったの数分で終わってしまう金魚すくいはたいへんに贅沢な娯楽だったといえる。
ところが妹は、ほとんど「ただ」で毎日のように金魚すくいを楽しんでいた。金魚屋は、10匹すくうと金魚1匹、もしくは1枚券をプレゼントしてリピーターを増やそうとしていた。妹は1ヶ月分のお小遣いをつぎこんで毎日のように練習し、たちまち腕をあげて、すぐにやすやすと10匹すくってはもう1枚券をもらうまでに上達した。1ヶ月後には、毎日ただで金魚すくいがやれるまでの腕前となり、「金魚すくいあらし」の異名をとったのだった。
金魚屋のおばさんは内心閉口していたのかもしれないが、妹が友だちを連れてきたこともあって「特待生」として扱ってくれた。そのうち金魚すくい用の水槽にいる金魚ではなく、店の奥から特別に出してきた丈夫な金魚を分けてくれるまでの特別扱いとなり、家の瓶にはひたすら巨大化する立派な金魚が泳ぐようになった。

鳥と金魚程度までは許可が下りたものの、犬を飼うまでには紆余曲折があった。祖母が犬嫌いだったし、母もペットにまったく興味がなかったからだ。
だが、父が犬好きだったことから、妹の「犬を飼いたい」という懇願についに母や祖母が折れ、ある日紀州犬が我が家にやってきた。
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真っ白い優美な姿から、紀州のお姫様犬だね、ということで「多鶴(たづ)」と命名。血統書まで付いていたので、さぞかし品と行儀のいい成犬となり、立派な番犬となるだろうと期待は高かった。
ところが、である。躾をしなければ、血統書なんか何の意味もない、ということを私たちはすぐに思い知る。裏庭に立派な犬舎を作ってもらったたづは、やがてそこで惰眠をむさぼるばかりになる。学校から帰って、さあ、散歩に行こうと犬舎に行くと、木でできた屋根付きの犬小屋から、半身をコンクリ床の方に出して眠っている。寝相が悪いから、起き上がっても手足が痺れているらしく、すぐには歩けなかったりする。だから犬舎から私たちを見て尻尾は振るものの、すぐに駆け寄ってくるわけではない。
ようやく手足のしびれがとれるやいなや、今度は一気にハイテンション。犬舎の中で何とか鎖をつけるものの、いったん外に出たとたん、私たちを振り切って裏の畑に突進。祖母が丹精して育てている野菜畑を縦横無尽に駆け回り、用を足して気持ちが落ち着くと、鎖をジャラジャラ言わせながら戻ってきて「さあ、外に行こう!」と催促する。その時点で私たち姉妹は、今日はたづはどんなことをやらかすだろうか、とすでに不安に駆られるのだが、やむなく鎖をとって外に出る。
たづは最初の10分は鎖を、というか、私たち姉妹をめいっぱい引っ張って、「早く、早く、あっちに行こう! いや、こっちだ!」と振り回す。白目をむき、舌を出して、ゼーゼーゼー言いながら全身で私たちを引っ張る、いや、引きずるのである。さほど人通りはないとはいえ、一応は公道。たまに人と行き交うと「あらあら、ワンちゃん、そんなに引っ張られてずいぶん苦しそうね」とか言われる。違うっ! 引っ張られているのは私たちだ! と言いたいところだが、そんな余裕はなし。思春期まっただなかの私たちはたまらなく恥ずかしい。優雅に犬を散歩させている令嬢たちでいたいのに、犬に引きずられまくってオタオタしているガキだ。血統書が聞いてあきれるよ! いや、躾がまったくできなかった私たちがいけないのだが。
ところが、である。たづは自分も犬のくせに犬嫌いなのだ。というか、犬が怖いのだ。むこうから犬がやってくると、先ほどまでの勢いはどこへやら、いきなりしおしおと私たちのかたわらにやってきて、横目で相手の犬をチラチラ見ながら影に隠れようとする。尻尾は完全に下向き。自分よりずっと小さい犬にまで怯えて、こそこそと電信柱の影に隠れてやり過ごそうとする。
吠えられでもしようものなら、もうたいへん。私たちを見上げて、「ちょっとぉ、あの犬、私に向かって吠えてるんだけれど、叱ってやって」と言わんばかりにからだをすり寄せる。もうっ、根性なしっと腹が立つが、実は私も犬がこわいのでやむなくしゃがんでおんぶしてやるのだ。
子犬だったとき、大きな犬に吠えられて、怯えるたづをおんぶしたのが大きな間違いだった。しかも、おんぶした私が、たづの代わりに吠えてきた犬に吠え返したのだ。
相手の犬、私の吠え声に衝撃を受けてしばし沈黙。犬の飼い主も仰天。
若き乙女 犬をおぶって 犬と吠え合う
お粗末、っていうかなんの冗談か!
以来、吠えられたら私たちがおんぶしてくれる、と思い込んでしまったお犬様。子犬のときはともかく、成犬になってからのおんぶはかなりきつい。しかも、おんぶされたとたんに気が大きくなって、いきなり相手の犬を威嚇したりする。まさに虎の威を借る犬。私の肩に前足を食い込ませ、伸び上がって「ウウウウウ」と歯をむき出すとか、いったい何様? 襲いかかられたらこっちはどうしたらいいんだよ。たいていは相手の犬の飼い主がそそくさと犬を連れて行ってくれるから助かるのだが、もう恥ずかしいったらない。
そのあたりで私たちはもうヘトヘトであるが、まだ最後の難関が待ち構えている。そろそろ帰路につく、とわかったとたん、たづは道路に寝そべるのである。しかも道路の真ん中に、ドタッと寝転ぶのだ。おなかを出してあられもない姿で。車が来ると、私たちは二人がかりで道路脇まで引きずる。犬、起き上がる気配なし。引きずったまま家まで帰るのだが、途中で「あら、ワンちゃん、かわいそう」とか言われること数回。いちいち大声で、「もう十分散歩したでしょ」「家に帰ってご飯食べよ!」と声をかけるものの、どこ吹く風。「あたしは帰りませんからねっ。何があっても帰りませんからねっ」」とばかりに引きずられていく。
 そんな調子だったから、私は散歩に行くのを渋るようになり、妹1人に世話を任せるようになった。たづは次第に家族の中で忘れられた存在になり、やがて父が転勤して徳島に行くと、たづは父の実家に引き取られた。余生はどうだったのだろう。そのときには私はもうたづのことなどすっかり忘れ、東京で大学生活をエンジョイ(死語)していた。
 結論と反省:たづには本当に気の毒なことをしてしまった。私はもう一生犬は飼わないし飼えない。というか、私はペットを飼うのではなく、飼われるタイプである、と悟った。
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