Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

装う快楽

自分でも「しょうがないな、私」と思うのですが、これほどスマホに頼る生活をしておきながら、1週間に1回くらいスマホをどこかに置き忘れてしまい、しかも置き忘れたことに気づくのが5、6時間たってからで固定電話をかけながら家中を探し回るとか、家に起き忘れたまま外出してしまってさあたいへん、みたいなことをやっています。
今日も午後一番から外出したのですが、夕方になって「今日の用事は全部すんだかな?」とバッグを探ったところ、スマホがない!バッグの中を探しまくってもない! 探しているうちに忘れていた用事を思い出しました。「そうそう、こないだ教えてもらった花粉撃退スプレーをドラッグストアで買おうと思っていたんだ」とね。ところが、そのスプレーの商品名がしばらく思い出せない。うーんうーんと考えているうちに「そうだ!イハダだ!」と思い出して、すっきりるんるんドラッグストアで購入しましたよ。(ところで今年、私は花粉症がひどいのですが、みなさんはいかがですか? 閾値をはるかに越えて、いまでは花粉につきまとわれている心地です)
帰宅したら、クローゼットにちんまりとスマホさまがお待ちになっていらっしゃいました。コートを取りに行ったときに忘れたらしい。7時間スマホがなしに無事生還いたしました。
スマホを忘れた日に気づいたのですが、スマホはないならないで何とかなるもんなんですね。むしろ、スマホがなければもう少し頭を使うようになるのかも。今日は行くのが初めてのところに出かけたのですが、この超のつく方向音痴の私が、必死に脳内地図を探りながら、なんとか時間通りにたどりつけました。スマホがなくて一番困ったのが「時計」だったかもしれません。わざわざコンビニに入って時計確認して出てきたり、ついには買い物をしたお店の人に「すみません、いま何時ですか?」と聞いたりしてしのぎましたが、あ〜こういうことがあるから腕時計を忘れて外出はダメだな、とスマホではなく腕時計のほうを「外出時にマスト携帯」と脳にメモリました。
もちろん、スマホを忘れないようにしたほうがいいのですが、たまにスマホを全然見ないで過ごす日があってもいいかもしれない、と最近は思っています。
スマホなし生活でいいことその1。落ち着いて集中して本が読める。もちろん紙の本です。スマホやタブレットで電子書籍を読んでいると、メールやLINEやニュースが入ってきて、ついそちらに気をとられたりして集中を欠きます。今日も移動時間帯や待ち時間に本が1冊読めました。
いいことその2。脳内メモリーが活性化する。今日の予定や買い物リストなどをスマホにメモっておくと、うっかりメモを見ておきながら、見たことで安心してやり忘れて帰ってきてしまうことがあるのですが、スマホを持っていないと気づいた時点でもう必死で脳内を探ってスケジュールを思い出そうとします。そのほうがやり忘れが少ないような気がします。
いいことその3。周囲に注意を払うようになる。移動の車内で、歩いているときに、または駅での待ち時間に、まわりを観察してふだん目に入らなかったこと、聞いていなかったことに注意が向いて、思わぬ発見や気づきがあったりします。今日は車内のマスク着用率が55%であることを発見しました。発表されている花粉症患者率よりも高いような気がします。そして話題の黒マスクは2人しか見かけませんでした。
1週間に1回くらい、スマホなし生活を送ってみるのもいいんじゃないか、と思えるのは、私がたぶん半分引退生活を送っているからかもしれませんが。
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 スマホがないとちょっと寂しいと思ったのは、外を歩いていておもしろいものやきれいなものを見つけたときです。写真に撮れないから。でも、記憶に焼き付けるだけでいいのかもしれませんね、そういうものは。これは公園を通り抜けているときにふと香りが漂ってきて気づいた蝋梅です。

今日で65歳になりました。
65歳といえば、会社に勤めていれば確実に定年になる年齢ですね。といっても、私は会社勤めじゃないから定年はありません。 区切りがつかないし、退職金もらえないし、社会的に自分がどういう位置付けにあるのかがいまいちはっきりしないまま65歳になりました。何か特別な気分になるかなと思ったけれど、とくになし。60歳になったときのほうが、そうか〜〜〜還暦か〜〜〜と感慨深かったです。
それでも、65歳は65歳。60歳から5年たって、なるほど、60代ってこんな感じなのね、とやっと実感がわいてきたところです。
60歳になったときには、このまま年取っていくのはいやだ、まだまだ自分はやれる、とやたらとはやっていて、なんというか、50代をまだ引きずっていた、と今振り返って思います。
自分はまだまだやれる。まだ現役を続けるよ。これまでと同じようにやっていける。
そんな感じで意気込んでいました。
5年たってわかりました。
やはり60代は50代までとちがいます。体力が落ちる、とか、仕事の声がかからなくなる、とか、周囲の視線が「おばあさんか、、、、」に変わる、とか、そういうことだけではない。
私自身が50代まで築いてきたもの、たいせつにしてきたもの、こだわってきたもの、そんなものがあまりたいせつに思えなくなった、ということです。
反対に、それまで「どーだっていいじゃないか、そんなこと」と切り捨てていたものがたいせつになってきました。
仕事をしていない自分がありえない、と思っていたのだけれど、仕事をしていなくても充実していてしあわせな自分がいることを発見してちょっとびっくりしたし、あれほどこだわってきたおしゃれの方向もちょっと変わってきた。新しいファッションを追いかけるのがめんどくさくなって、いかに楽に呼吸できるか、に変わりました。
過去は振り返らない、古いものは捨てて新しいものを追いかける、とか言い放っていたのに、にわかに自分の、そして親の、祖父母の、そのまた先祖の生きてきた時代を追いかけるようになった。
それじゃ私は65歳になって「昔はよかったよね」人間になるかといえば、それは違います。楽なファッションに走り、過去を振り返るのは、つぎの一歩を踏みだすためだ、と自分では思っています。
もう50代までのがんばりは捨てて、ゆっくりと深い呼吸をしながら、60代、70代にふさわしい歩みを続けていきたいな、と思っています。
きっとこれからも欲しいものを欲しいといって、手に入れるために無理もする、と思います。でも、欲しいものが今までとは変わっていることも自覚しています。やっとね。
一人では歩いていけないこともわかっています。
家族はもちろん、友だちと、仲間と、みんなに助けられながら、私ができるならば手助けをしながら、ゆっくり歩いていきたいです。
65歳になった今日、思ったことです。
 

また今年も書道展に作品を提出したものの、賞はとれず。2010年からずっと入選はするが入賞はしないまま、10年がたとうとしています。入選して飾ってもらえてるんだからおこがましい、と言われるけれど、本人は「うーんうーん、なんで入賞しないんだろう」とやっぱりくやしい。というようなことを言うから、負けず嫌いとか言われるんでしょうが。
また賞がとれなかったとわかって一番に思ってしまったのは、「やっぱりなー、私は才能がないんだよ」ということです。
でも、先生に言わせると「書道に才能なんて関係ない!」です。以前には「才能のあるなしを(賞がとれる・とれないことの)言い訳にするな!」とも言われました。 才能をセンスと言い換えてもいい、といったら「もっと関係ない!」と叱られましたね。
それなら努力だけで賞がとれるか、と言えば、そうじゃないような気もする。
観る人に何か感じさせる作品が制作できるか否か、それは「精進」(仏語ではひたすら仏道修行に励むこと。また、その心のはたらき。転じて一所懸命に努力すること)すればおのずと「できる」ことなのか。
一つ言えるのは、賞をとるためには「他人が観たいもの」のことも考えないといけないってことですね。独りよがりの作品は、観る人の共感を呼ばなない。ある種のコミュニケーション能力といってもいい。
もちろん技術的水準がある一定のところに達していることが前提で、ああ、そうか、私はまだそこに達していないのかもしれないな。これは「精進」するしかない。
評価ばかりを追い求めてもろくなものはできないけれど、評価されないときに、自分には何かが足りない(それも決定的に)ということに思い至る謙虚さも必要なのかも。
これは何も書道をはじめとする芸の道だけのことじゃない。
ほかの人に認めてもらいたい、観る人、聴く人を、読む人の心を動かしたい、そういうものを作りたい、やりたい、といういのであれば、まずは精進して技術水準を上げること、そして独りよがりにならない、ということがたいせつなのかもしれません。
あふれるほどの才能がある人ももちろんいるけれど、それが(とくに同時代人の)評価につながるかどうかはまた別の問題です。

いきなりサッカーに話が飛ぶけれど、「俺たちは俺たちのサッカーをするだけ」っていうチームの成績が振るわなくて、そのサッカーがあまり観る人を喜ばさないっていうのもありますからね〜

 

2月5日(火)
 グダンスク訪問の第一の目的であった「連帯ヨーロッパセンター」の見学を前日にすませてしまったので、ワルシャワに帰る列車の発車時刻である17時前までさて何をしようかと考えていたら、同行者が「ホテルのすぐ近くに第二次世界大戦博物館というのがありますよ。行ってみましょう」と提案。歩いて7分の博物館に行ってみることにしました。 ちょっと見て、おもしろくなかったら旧市街をブラブラしよう、なんて考えていたのですが、これがまたすごい充実した内容で、昼食を食べることも忘れて4時間近くを館内で過ごし、結局グダンスク中央駅まで走るはめになりました。この充実した内容で火曜日は無料、っていうのも驚きでした。
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(建築はやはりユニーク。フィンランド人建築家の設計だそうです)

 展示内容は、まさに「第二次世界大戦とは何であったのか?」をさまざまな角度からえぐったものでした。欧米国が中心ではありましたが、なんと4分の1が日本について割かれていたのです。その見せ方についても、音声ガイドとメインの映像では「歴史的事実」だけが紹介され、あとはモノ(新聞雑誌、配給切符、使われた銃器や戦車、残った瓦礫など)と体験者の「証言」のビデオ画像で紹介され、それを見て聞いた人たちが自分たちで「真実」を考える、という構成になっています。
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(戦争直前のグダンスクの町並みを再現したもの。この薄暗さは灯火管制だったからだけではなく、そのころはモノがなくて、街が薄暗かったそうです)

 日本については、なぜ戦争に踏み切ったのか、アジアの国々にどんな軍隊をどれだけ送ったのか、なぜアメリカは広島と長崎に原爆を落としたのか、日本が「侵略」した国々の人々は日本人に対してどういう感情を持っていたか、というような疑問を提起して、たくさんの画像や証言映像によって見る人がその疑問を解く手がかりを探る、という形で紹介されていました。その疑問提起→証言映像という構成方法はドイツ、イタリア、英国、フランス、スペイン、バルカン諸国、そしてポーランドと同じです。
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(日本がどういうスローガンをかかげて戦争に入っていったかを紹介するコーナーです)

 戦時中の映像や写真には相当に残酷なものもあるのですが、驚いたのは小学生から老人までもが目をそむけることなく熱心に時間をかけて見て聞いていたことでした。日本のコーナーでも大勢の若者たちが音声ガイドを聞きながら映像を見ていました。「歴史教育の重要性」がここポーランドでは認識されている、という印象を持ちました。
 ホロコーストを生き残ったユダヤ人から日本の従軍慰安婦だった人たちまで、多くの証言者たちがビデオで「戦後70年たった今だから話せることがある。自由にものが言えない時代も長かったし、その後も立場の違いから、体験したことの真実を話せないことも多かった」といっていたのがとても心に残りました。
戦争がどれだけ多くの人たちの人生を破壊してしまうか。それを思い知らされて、どっと疲労してグダンスク駅に向かったのでした。

2月6日(水)
 いよいよポーランドともお別れです。私が昼過ぎ出発のフライトなので、お昼前には空港に向かわねばならない。朝食をとりながら「午前中に行き残したところを散歩しよう」ということになり、ショパン博物館とワルシャワ大学日本語学科を見学しに行くことにしました。
 ショパン博物館までわずか5分のところに宿泊していたのに、見学に行くことを考えもしなかった私たちって……。まだ開館前だったので、そこは写真におさめるだけにして、ワルシャワ大学に向かいました。
「日本語学科ってどこだろう?」と右往左往していたら、後ろから「何かお探しですか?」と女性に声をかけられました。日本語学科を探している、というと、「あら、留学したいの?」と聞かれて、いや、したいけれど、そうじゃなくて今はただ見学したいだけ、というと、「私はエコノミストだからよくわからないけれど、きっとここよ!」と連れて行ってくれました。
ショパンが生まれて育ったという建物に入っているオリエンタル学部の一角に、日本語学科はありました。親日のポーランドでは、日本語と韓国語の人気がとても高くて、難関なんだそうです。アンナさん、その難関をくぐりぬけて通訳になっているなんて、すごいなあ! 
案内してくれたアガサさんに「またポーランドで会いたいね!」と挨拶をしてホテルに急ぎ戻り、空港に向かったのでした。

2週間のポーランド滞在で、たくさん考えさせられ、おおいに発奮、啓発されました。
もちろんたったの2週間でポーランドの何かがわかったなんておこがましいことは言えません。でも、この国は過去の(悲惨な)歴史を振り返り、二度と残酷で悲惨なことを起こさないようにしなくては、という思いがとても強いことは伝わってきました。
ひるがえって日本はどうなんでしょうか? 過去の歴史に学んでいるのだろうか? 私自身も自分の国の歴史をあまりにも知らなさすぎることを痛いほどに反省しています。 その意味で「歴史を学びなおそうと決意した旅」であったとも言えます。

2月3日(日) 
ポーランド・ユダヤ人博物館見学というやや重いテーマを追いかけた前日だったので、午前中は少しゆっくりしてから、レギア・ワルシャワのスタジアム見学に出かけました。ポーランド・リーグは現在中断期間中。残念ながら試合観戦はかなわなかったのですが、クラブの歴史を紹介する展示を観ていると、同行者が「実川さん! スタジアムツアーがあるそうです!」と走って呼びにきてくれました。
大急ぎでチケット(一人、20ズウォチ=600円)を買って、お兄さんが案内してくれるツアーに参加しました。男の子を連れたお父さん、おそらくレギア・ワルシャワのファンであるお兄さん、そして私たちでツアーに出発。まずはエレベーターで4階まであがって、最上階のメディア席と貴賓席からスタジアム全貌を眺めると同時に、隣に立つ練習場(冬場は屋根に覆われています)を見ました。
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(レギア・ワルシャワのスタジアムは31000人収容のスタジアム。吹田スタジアムよりちょっと小さい。年間60試合が行われるそうです)

1階ずつおりていきながら、ゴールドサポーター、シルバーサポーターの席に座ったりして、最後はピッチへ。そして記者会見場で監督のまねっこをして撮影会。最後に選手ロッカールームとクラブのレジェンドの写真がずらりとはられたミックスゾーンを見学してツアー終了。感想は、ポーランドリーグで最多優勝を誇り、サポーターの数も一番多い(案内してくれたお兄さんの弁)クラブにふさわしい立派なスタジアムだなあ、です。吹田スタジアムも歴史を経てこんな感じになるといいなあ〜。
スタジアムの隣にあるワジェンキ公園でショパン像を見てから帰ろうということになり、だらだら歩いていくうちに寒さが身にしみて、公園での散歩を楽しむというよりも、トイレを探すほうに力点が置かれてしまい、ついに入場料を支払ってベルヴェデーレ宮殿のトイレに飛び込むことになりました。ポーランド最後の王様で、ロシアのエカテリーナ女帝の愛人だったスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(在位1764年〜95年)が夏季の別荘とし、文化人や知識人を集めてもてなしたとされる宮殿です。そりゃ美しいけれど、レプリカの彫像が雑多に並べられた広間にはあまり感動できず、そそくさと失礼しました。ショパン像も「見たぞー!」というだけで終わってしまった。すみません、フレデリック。

いったん宿泊しているアパートメントホテルまで帰って、夕方からのバレエ鑑賞にそなえました。
ワルシャワ国立オペラバレエ団には日本人が7人も所属しているそうです。そのうちプリンシパルが2人。すばらしい!
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演目は「椿姫」。この日主役をはったのはロシア人のChihara Alizade。Yuka Ebiharaさんでなくてちょっとだけ残念だったけれど、Chiharaさんもすばらしかった! ショパンのピアノコンチェルトにのせた踊りはただただ美しかった。あっという間の3時間で堪能しました。街ではそれまでまったく出会わなかった日本人にここで何人か出会って、そうか、日本ではバレエへの関心は高いんだなと思いました。
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2月4日(月)
朝8時25分ワルシャワ中央駅発の列車でグダンスクへ。ポルトガル鉄道体験はこれで3回目。前の2回には危うく乗りそこねるかも、という不安があったのですが、さすがにもう乗り方がわかりましたね。
 やってきた列車はプレミアム・トレイン。日本の新幹線よりも設備が充実していて、USBや電源や照明も整っていて、おまけに「無料でお茶やコーヒーが配られる!!」。最初、まさか無料とは思わず、「いりません」とかワゴンを押してきたお姉さんに堂々と断ったのだけれど、無料と知って満面の笑み。ブログを更新しているうちに3時間弱で無事グダンスクに到着しました。
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(気持ちのよく機能的設備を誇るプレミアム・トレインですが、価格はワルシャワ〜グダンスク320キロが3300円ほど。安いわー)

ポーランドに二週間滞在中に、晴れたのは3日くらいでしたが、運良くその1日がグダンスクにあたりました。運河沿いの散歩道も気持ちよく歩けたし、グダンスクに行った一番の目的である「連帯・ヨーロッパセンター」まで20分ほどを、旧市街を通り抜けて観光しながら歩けました。
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センターはグダンスクのレーニン造船所跡に2014年にオープンしました。ワルシャワでガイドをしてくださったアンナさんに「グダンスクでは何をしたらいいかしら?」と聞いたら、「連帯博物館!(正式名称は連帯ヨーロッパセンターなのですが、連帯博物館というのがぴったりです)」と即答だったので、その時点で一番の目的となったのでした。そしてオススメ通り、興味深いことこの上もない充実の内容でした。
1970年12月16日、食料品の突然の値上げ宣告に端を発してグダンスクの造船所の労働者たちがストライキに突入。周辺の企業の労働者も同調したところで、警察隊、そして正規軍が発砲したことで暴動への発展して何人も犠牲者が出ました。当局の発表で28人。でもそれ以上の犠牲者が出たことはまちがいない、ということです。犠牲者たちのメモリアルとして、博物館の前には大きなモニュメントが建てられ、かたわらに立つ壁には労働者たちが歩んできた軌跡が紹介されていました。
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社会主義国でのストライキはありえないし、ソ連が軍を送り込んでチェコの二の舞になるのではないか、と不安が高まりましたが、このときは政府が労働者を力で抑え込みました。しかし社会主義政権下の経済が破綻しているいことはあきらかで、国民の生活は非常に苦しく、不満は高まっていきました。
1980年7月、またもや食肉の突然の値上げがきっかけで、グダンスクのレーニン造船所でストライキが始まります。主導したのは、若き電気工のレフ・ワレサ。ワレサたち労働組合の幹部ははやる労働者たちをなだめつつ、ストライキ権の保障、表現出版の自由などの項目をあげて政府と粘り強く交渉し、ついに要求を通して「本物の自由、本物の権利」を勝ち取るのです。全21項目をすべて認めさせ、真の労働組合tになったことを労働者たちに伝えたワレサの演説のビデオを大画面で見て、私は危うく感動で泣いてしまいそうになりました。何回もテレビのドキュメンタリー番組で見てきたはずなのに、1970年からの民衆の抑圧された生活を辿って見てきたところでの、ワレサのシンプルな言葉で伝える演説には、力があった。平日にもかかわらず、大型バスでどうやらポーランドだけでなく欧州各地から大勢の人たちが見学にやってきているのもわかる気がしました。
でも「勝利」はその後の不断の努力がなくては続きません。ソ連の崩壊、壁の崩壊、中東欧諸国の民主化へと時代はなだれをうって変化するのですが、その中で「連帯」はその精神をどう実現していくのか、ずっと模索を続けます。現在にいたるまで、1980年に連帯が勝ち取った自由や権利は、多くの犠牲を出しながら、必死に追求されている、、、という内容でした。
連帯博物館の扉には「Europe starts here」というプレートがはってあります。その言葉が実感を持って響いてきました。
そして博物館からトラムに乗って、グダンスクのスタジアム、PGEアリーナグダンスクにも足を伸ばしました。これで4都市のスタジアム見物を成し遂げたってことで。
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(ちょうど夕陽が沈むときで、スタジアムが美しく輝いていました。ここも2012年EUROに合わせて新設されたスタジアムです)

この日はポーランドに来て一番のご馳走に舌鼓を打ったのですが、それについては「ポーランドで食べたもの」の中で書くつもりです。 

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