Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

装う快楽

妹は動物好きだ。子どもの頃からさまざまな動物をペットとして飼っていた。鳥はカナリアや文鳥をつがいで飼って雛をかえしていたし、学校が休みのときはクラスで飼っていた九官鳥を家に連れ帰って世話をしていた。
金魚も飼っていたが、すべて近所の商店街の金魚屋さんがやっている金魚すくいで妹が「稼いできた」ものばかりだった。いま記憶をたどってみても、はたしてそこが「金魚屋」だったかはわからないのだが(駄菓子屋だった?)、店先には真冬以外、金魚の水槽が出ていて、夜店に行かずとも金魚すくいが楽しめた。代金は1セット10円、100円で11枚綴りの券が買えた。小学生だった私たちの1ヶ月のお小遣いは300円だったから、たったの数分で終わってしまう金魚すくいはたいへんに贅沢な娯楽だったといえる。
ところが妹は、ほとんど「ただ」で毎日のように金魚すくいを楽しんでいた。金魚屋は、10匹すくうと金魚1匹、もしくは1枚券をプレゼントしてリピーターを増やそうとしていた。妹は1ヶ月分のお小遣いをつぎこんで毎日のように練習し、たちまち腕をあげて、すぐにやすやすと10匹すくってはもう1枚券をもらうまでに上達した。1ヶ月後には、毎日ただで金魚すくいがやれるまでの腕前となり、「金魚すくいあらし」の異名をとったのだった。
金魚屋のおばさんは内心閉口していたのかもしれないが、妹が友だちを連れてきたこともあって「特待生」として扱ってくれた。そのうち金魚すくい用の水槽にいる金魚ではなく、店の奥から特別に出してきた丈夫な金魚を分けてくれるまでの特別扱いとなり、家の瓶にはひたすら巨大化する立派な金魚が泳ぐようになった。

鳥と金魚程度までは許可が下りたものの、犬を飼うまでには紆余曲折があった。祖母が犬嫌いだったし、母もペットにまったく興味がなかったからだ。
だが、父が犬好きだったことから、妹の「犬を飼いたい」という懇願についに母や祖母が折れ、ある日紀州犬が我が家にやってきた。
fullsizeoutput_5678

真っ白い優美な姿から、紀州のお姫様犬だね、ということで「多鶴(たづ)」と命名。血統書まで付いていたので、さぞかし品と行儀のいい成犬となり、立派な番犬となるだろうと期待は高かった。
ところが、である。躾をしなければ、血統書なんか何の意味もない、ということを私たちはすぐに思い知る。裏庭に立派な犬舎を作ってもらったたづは、やがてそこで惰眠をむさぼるばかりになる。学校から帰って、さあ、散歩に行こうと犬舎に行くと、木でできた屋根付きの犬小屋から、半身をコンクリ床の方に出して眠っている。寝相が悪いから、起き上がっても手足が痺れているらしく、すぐには歩けなかったりする。だから犬舎から私たちを見て尻尾は振るものの、すぐに駆け寄ってくるわけではない。
ようやく手足のしびれがとれるやいなや、今度は一気にハイテンション。犬舎の中で何とか鎖をつけるものの、いったん外に出たとたん、私たちを振り切って裏の畑に突進。祖母が丹精して育てている野菜畑を縦横無尽に駆け回り、用を足して気持ちが落ち着くと、鎖をジャラジャラ言わせながら戻ってきて「さあ、外に行こう!」と催促する。その時点で私たち姉妹は、今日はたづはどんなことをやらかすだろうか、とすでに不安に駆られるのだが、やむなく鎖をとって外に出る。
たづは最初の10分は鎖を、というか、私たち姉妹をめいっぱい引っ張って、「早く、早く、あっちに行こう! いや、こっちだ!」と振り回す。白目をむき、舌を出して、ゼーゼーゼー言いながら全身で私たちを引っ張る、いや、引きずるのである。さほど人通りはないとはいえ、一応は公道。たまに人と行き交うと「あらあら、ワンちゃん、そんなに引っ張られてずいぶん苦しそうね」とか言われる。違うっ! 引っ張られているのは私たちだ! と言いたいところだが、そんな余裕はなし。思春期まっただなかの私たちはたまらなく恥ずかしい。優雅に犬を散歩させている令嬢たちでいたいのに、犬に引きずられまくってオタオタしているガキだ。血統書が聞いてあきれるよ! いや、躾がまったくできなかった私たちがいけないのだが。
ところが、である。たづは自分も犬のくせに犬嫌いなのだ。というか、犬が怖いのだ。むこうから犬がやってくると、先ほどまでの勢いはどこへやら、いきなりしおしおと私たちのかたわらにやってきて、横目で相手の犬をチラチラ見ながら影に隠れようとする。尻尾は完全に下向き。自分よりずっと小さい犬にまで怯えて、こそこそと電信柱の影に隠れてやり過ごそうとする。
吠えられでもしようものなら、もうたいへん。私たちを見上げて、「ちょっとぉ、あの犬、私に向かって吠えてるんだけれど、叱ってやって」と言わんばかりにからだをすり寄せる。もうっ、根性なしっと腹が立つが、実は私も犬がこわいのでやむなくしゃがんでおんぶしてやるのだ。
子犬だったとき、大きな犬に吠えられて、怯えるたづをおんぶしたのが大きな間違いだった。しかも、おんぶした私が、たづの代わりに吠えてきた犬に吠え返したのだ。
相手の犬、私の吠え声に衝撃を受けてしばし沈黙。犬の飼い主も仰天。
若き乙女 犬をおぶって 犬と吠え合う
お粗末、っていうかなんの冗談か!
以来、吠えられたら私たちがおんぶしてくれる、と思い込んでしまったお犬様。子犬のときはともかく、成犬になってからのおんぶはかなりきつい。しかも、おんぶされたとたんに気が大きくなって、いきなり相手の犬を威嚇したりする。まさに虎の威を借る犬。私の肩に前足を食い込ませ、伸び上がって「ウウウウウ」と歯をむき出すとか、いったい何様? 襲いかかられたらこっちはどうしたらいいんだよ。たいていは相手の犬の飼い主がそそくさと犬を連れて行ってくれるから助かるのだが、もう恥ずかしいったらない。
そのあたりで私たちはもうヘトヘトであるが、まだ最後の難関が待ち構えている。そろそろ帰路につく、とわかったとたん、たづは道路に寝そべるのである。しかも道路の真ん中に、ドタッと寝転ぶのだ。おなかを出してあられもない姿で。車が来ると、私たちは二人がかりで道路脇まで引きずる。犬、起き上がる気配なし。引きずったまま家まで帰るのだが、途中で「あら、ワンちゃん、かわいそう」とか言われること数回。いちいち大声で、「もう十分散歩したでしょ」「家に帰ってご飯食べよ!」と声をかけるものの、どこ吹く風。「あたしは帰りませんからねっ。何があっても帰りませんからねっ」」とばかりに引きずられていく。
 そんな調子だったから、私は散歩に行くのを渋るようになり、妹1人に世話を任せるようになった。たづは次第に家族の中で忘れられた存在になり、やがて父が転勤して徳島に行くと、たづは父の実家に引き取られた。余生はどうだったのだろう。そのときには私はもうたづのことなどすっかり忘れ、東京で大学生活をエンジョイ(死語)していた。
 結論と反省:たづには本当に気の毒なことをしてしまった。私はもう一生犬は飼わないし飼えない。というか、私はペットを飼うのではなく、飼われるタイプである、と悟った。
fullsizeoutput_5679
 

私が幼少期から上京するまで暮らした家は、阪神大震災で全壊して今はもうない。その家の思い出はたくさんあるのだけれど、「心地よい場所」として最も強く記憶に残っているのが、縁側である。
居間から庭に張り出した幅1.5メートルほどの板敷きの縁側は、家族がくつろぎ、洗濯物を干し、ときには食事もする生活の場所だった。部屋の天井の高さから張り出した梁にビニール板がはられ、雨よけと日よけの役目を果たしていた。エアコンなどない時代である。梅雨時や盛夏には、縁側はたぶん家の中で一番過ごしやすい場所だったと思う。
IMG_7314

(縁側でくつろぐ?8歳の私。隣には文鳥の鳥かご)
IMG_4154
(縁側に沿って作られた花壇。バラの花が植えられていたこともある)

よほど寒くない限りは居間(兼食堂)と縁側を仕切る掃き出し窓は開け放たれ、居間と廊下をはさんだ位置にあった台所の勝手口も開いていたので、縁側にはいつもいい風が吹き抜けた。縁側に置かれた藤の座椅子に寝転び、「ええ風じゃ。極楽じゃ」とうっとりと庭を眺めていた祖母の姿がなつかしい。私にとって母方の祖母、といえば縁側の籐椅子なのだ。
IMG_4311
(子どもたちの食事@縁側。立て膝だろうが、こぼしまくろうが、何も言われなかった)

少し暖かくなると縁側にちゃぶ台が出され、子どもたちはそこで食事をした。大人は室内で椅子に座ってテーブルで食事をし、子どもは縁側の板敷きに敷いた座布団にぺたんと座ってちゃぶ台でご飯を食べる。お客を迎えての「正式な晩餐」が催されるとなると、私たち子どもはまだ明るいうちから追い立てられるように縁側のちゃぶ台で夕食をかきこみ、お風呂に入れられて2階の寝間に追いやられた。ふと目が覚めると、縁側に移ったらしい宴席から大人たちの話し声や笑い声が2階まで聞こえてきて、大人たちの時間が少しだけ羨ましかった。

男たち(祖父、父、叔父)の「領土(陣地)」が書斎や居間だったとすると、縁側は祖母や私たち子ども、そしてペットのための「領土」だった。室内で食事をしているときには、食べ物をこぼしたりするとうるさく叱られたが、縁側だったら平気だ。立て膝で食べようが、食べ物の奪い合いで喧嘩をしようが、大人たちは何も言わなかった。というか、自分たちの食事時間に集中していて、子どもにまで目が届かなかったのだと思う。
fullsizeoutput_536c
(縁側から金魚に水をあげている?)

縁側はペットとたわむれる場所でもあった。実家では代々犬を飼っていたが、犬を室内に入れることは決して許されなかった。祖母が大の動物嫌いだったからだ。それでも縁側まで上げることは何とか許されていたので、犬の飼い主である妹は、縁側で犬に餌をやり、遊び、ときにはおなかを枕に昼寝をした。
文鳥や九官鳥の鳥かごも縁側に出していたが、あるとき、庭に忍び込んだ猫に文鳥のつがいが食べられて以来、私たちと遊ぶとき以外鳥かごは室内に入れるようになった。縁側の先には大きな金魚鉢があり、夜店でもらった金魚が巨大化して悠々と泳いでいた。だが、金魚もまた格好の猫の獲物となる。見張っていて、近づいてくると追っ払うのは子どもの役目だ。縁側は子どもにとって、外の世界の危険なものからペットという「家来」を守るための最前線基地の役割も果たしていた。
縁側に沿って祖母は花壇をつくっていた。夏には朝顔が植えられ、梁にかけた紐を伝って蔓が2メートル以上伸び、秋口まで大輪の朝顔が楽しめた。祖母はバラなんか好きじゃなかった、と思っていたが、アルバムの写真を見たらバラも植わっている。だが、何と言っても祖母のお気に入りは芙蓉で、初夏から何種類何色もの芙蓉が花壇を彩った。
籐椅子の祖母に、花壇の花の話をいろいろと聞かされたのもなつかしい思い出だ。今でも覚えている花や草木の名前は、ほとんどが祖母から縁側で教わったものだ。
fullsizeoutput_536d
(祖母が大好きだった縁側脇の芙蓉の花。この写真はどうやら縁側の板張りを張り替えるために撮ったらしい)

夏休みには縁側に置かれたちゃぶ台で絵日記を描き、図書館で借りてきた本を読み、昼寝をした。近所の友だちが遊びに来ると、庭でゴム跳びや縄跳びや陣取りをして遊び、おやつになると勝手に冷蔵庫からアイスを出して縁側で食べた。ときには、縁側にゴザを敷いておままごとをした。縁側は、私たち子どもが主役となって友だちをもてなす社交場でもあった。
今振り返ると、縁側はとても特殊な空間だったと思う。室内ではなく、屋外でもない。ウチとソトをつなぐ場所であるが、ウチにもソトにも属さない。言ってみれば「エンガワ」という独立した場所、子どもにとっての王国だった。
子どもの私にとって、縁側は親や大人から解放され、家の中で唯一勝手気ままに振る舞える場所だった。大人の視線は届いても、大人の支配は及ばない。子どもにとっての一種の治外法権が縁側にはあった。大人の世界に守られていたが、自分たちの独立した世界が構築できる場所。子ども部屋にはない自由と安心感が縁側にはあった。
だから、何か内緒にしたいことがあれば、もしかしたら親がのぞくかもしれない勉強机の中ではなく、縁の下に隠した。点数の悪かったテスト、嫌いなおかず、こっそり買った漫画本、ビーズ、消しゴム、紙石鹸、ブロマイド、などなど。内緒で拾ってきた犬をかくまっていたこともある。

実家を出てから10回以上引っ越したが、どの家にも縁側はなかった。私の娘たちはどうやって親に保護されている安心感を持ちながら、親の支配を免れる「子どもの王国」を確保していたのだろう? 

親の家にあったアルバムを妹と半分に分けて持ち帰り、デジタル化する作業に没頭しております。真っ黒で何が写っているかわからないような紙焼き写真も、デジタル編集してみるとかなり鮮やかによみがえるものなのですね。デジタル技術、万歳!
大正初期から昭和の戦争直後くらいまでの写真を見ながら、祖父母や親、親戚の過去を振り返り中です。私が生まれるよりかなり前の写真ですから、写っている人たちのほとんどは知りません。 今のうちに母に聞いておかないと、自分のルーツがほとんどわからないままになってしまいそう。あせっています。
私はこれまで、過去はもういい、私は今と未来にだけ目を向けて生きていきたい、なんてほざいていました。だからアルバムなんて興味がなかったのですが、家をたたむ作業で思い知らされたのは、過去があるからこそ今の自分があり、未来の自分は過去の積み重ねの上にあるのだ、ということです。そんなことに還暦過ぎて気がつくなんて、やや遅過ぎなんですけれど、それでも今気づいておいてよかった、ということにします。
fullsizeoutput_52c4
(昭和12年ごろらしい。母が当時住んでいた岡山県の家のご近所の子供たちと。色褪せて不鮮明な写真はデジタル技術でよみがえります。そして記憶はデジタル技術など必要なく色褪せないのだ、と母の話を聞いてわかりました)

父が亡くなった後、母がぽつりと言ったことがあります。
「年をとるのって、本当にさびしいことよ。あなたはまだわからないかもしれないけれど、親しい人たちがみんな死んでいってしまって、一人取り残されているような気がする」
正直、私には母が言う「取り残されていくさびしさ」がよくわかりませんでした。連れ合いは亡くなったけれど、娘たちだっているし、孫もひ孫もいて、仲の良い友達と一緒に旅行に行ったり、楽しんでるじゃない、何がさびしいのか! なんて冷たく思っていたのですよ。
でも、今回、アルバムの中に青春をしている母を見ているうちに、母がしきりに口にするさびしさが少し理解できたような気がします。

 昭和7年生まれの母は、小学校高学年から中学生で戦争を経験し、戦後まもなく20歳で結婚してすぐに私たち姉妹を出産しました。母がはつらつとして輝いているのは——あくまでも私の目から見て、ですが——結婚出産後、私たちがまだ手がかかっていた時期の育児期間中でした。そのころ私たちを連れて同窓会に出たり、私の幼稚園の同級生親子と遊園地や行楽地で遊んでいる母の写真は、自分の母親ながら「うわっ!」と言いたくなるほど美しい。そして、一緒に写っているお母さんたちも同じくらいはつらつとしてきれいなのです。
IMG_4261

(結婚後の同窓会で。左から2番目が母です。)
fullsizeoutput_5272
(幼稚園の遠足付き添いらしい。私が3歳くらいですね、これを見ると)

うがった見方ですが、母と同世代、現在80代半ばの人たちは、まだまだ親が年頃の娘をきつく束縛していた時代に10代を過ごした人たちです。ところが戦後、大きく価値観が変わり、女性たちを縛っていたものが少しずつほどけていったのではないでしょうか。自由を謳歌した、とまではいかないにしろ、戦後の解放感とあいまって、母の世代の女性たちにとっての青春は、20歳をすぎてやってきたのだと想像します。ああ、戦後なんだな、青春なんだな、と思いたくなるほど、アルバムの20〜30代の母と友人たちは笑顔がいっぱいで、自信に満ちていて、はつらつとしています。女学校時代の写真は、どれも表情がかたいのですが、20代となると大口開けて笑ったりしている。そしておしゃれです。戦争中はたぶん許されなかった洋装のおしゃれを、満喫しています。

しかし、母が親しくしていた人たちは40代を過ぎるころからぽつりぽつりと亡くなられていきました。「10代初め、育ち盛りの時期に戦争で栄養状態が悪かったせいだ」と母はお葬式から帰ってくるたびに嘆きました。特に、大親友だったらしく、一緒に写っている写真が何枚もある方が40代半ばでなくなられたことはこたえた、と言います。そしてアルバムで輝いていたおかあさんたちは、今ではほんの数名しかご存命ではない。
当時の記憶は、母の中で驚くほど鮮明です。仲良くしていた人たちの 苗字と名前がすぐに出てくるし、住んでいる場所、家族構成、子供の学歴にいたるまで覚えています。記憶は少しも色褪せていない。
だからさびしさがつのるのかもしれない、と私は推察します。
母の記憶の中で輝いている人たちは、もう記憶の中にしかいません。「あのころ楽しかったね」という思い出を共有する人たちは、もうこの世にいないのです。自分の記憶の中では鮮明なのに、思い出を振り返ることができない。
老いることのさびしさ、というのは、色褪せない記憶があるからよけいにさびしさがつのるのかもしれません。 
fullsizeoutput_5274
(昭和33年の神戸の光景、らしいです。服がとってもおしゃれ。しゃがんでなんかやっているのは私です。当時、母たちは自分たちで服を作っていました。母は洋裁が趣味で、洋裁教室の仲間とも仲良くしていたようです) 
IMG_4406
 (実家近くの浜辺で遊ぶ母と友人。ぞうりなのに、おしゃれワンピース! そしてなぜか真珠のネックレス! お友達、スタイルがいい!)

気がつくと5月も今日で終わり。ここんところ仕事がめずらしく立て込んだせいで、2週間ブログの更新ができませんでした。とりあえず入稿は終わって校正が出るまでちょっと一息。
先日、知り合いの方(友人というほど親しくはない)から電話がかかってきて、平日の昼間の音楽会のチケットが余ってしまったので一緒に行かないか、とお誘いをいただきました。たまたまその日に出張が入っていたので、「ごめんなさい、京都で仕事があるからうかがえない」と言ったら、「え? お仕事していらっしゃるの? まあ、お仕事っていったいどこにお勤め? どんな仕事をしていらっしゃるの?」とえらく驚かれて立て続けに質問が飛んできました。
こういうとき、私はどう答えたらいいのか、本当に困惑するのです。
私の仕事をどう説明したらいいのだろうか?
会社員です、と社名をあかせたら少しは理解も得られるかもしれないけれど、そうはいかない。フリーランスという働き方が世の中にあることを知らない人の方が多く、ともすると「あやしいことをやっている」と思われかねないことをフリーランス歴28年の私はよく知っているのですよ。だから働き方で答えることは避ける。
やむなく「翻訳とか物書きやっています」というと、「まあ、作家さんなの?」と別方向に踏み込まれ、説明がますます面倒になる。翻訳業というのも世間に認知されていないのですよね。説明したところで、「そんなことが仕事になるのか?」と以前にはよく言われました。まだ作家の方が通りがいいみたいです。
そしてそれ以上に私を困惑させるのが、「なぜ働いているのか?」という質問です。
思えば、学校を卒業して働き始めたときから私は「なぜ働かなくちゃいけないのか?」と聞かれまくりました。40年近く働き続けた今も、まだ聞かれます。いまは「還暦過ぎてもまだ働かなくちゃいけないのか?」という質問に変わりましたが。
そして私は自問もします。
私はなぜ働くのだろう? 私にとって仕事とは何だろう?
この2つの質問は私の中では別物です。
まず、私にとって仕事とは何か? という問いかけに対しては、「社会の一構成員としての役割を果たすこと」と自分に言い聞かせています。あ〜〜めんどくさい答えだなあ。こじつけもいいとこ。
日本語大辞典には仕事の定義として「生計を立てるための職業」とありますが、生計を立てるためだけに私は仕事をしていないのです。生計が立てられるのなら仕事をしないか、と自分に問いかけると、いやいや仕事するでしょと答えます。社会の一構成員として認められたい、人の役に立ちたい、そんな気持ちから仕事をしていると思います、
食べていくだけのために仕事をしていないから、たぶん私は「なぜ仕事をしているのか?」と聞かれるのだと思います。会社員の夫が「生計を立てる職業」についているために「ちゃんと働いているご主人がいるのに、なんで仕事するのか?」と言われ続けてきました。卒業した高校の校長に結婚後もまだ仕事を続けていることがバレたときに「いい加減に社会勉強はおやめなさい」と真顔で叱られました。「あなたがやるべき仕事は家庭を守ることでしょう」と諭されましたね。結婚後に仕事をしているだけでもそんな言われようでしたから、子供が生まれてもまだ仕事にしがみつく私には、「いい加減にしろよ!」と非難の声も高かったです。
面と向かって「元子さんのやっている「仕事」って、恵まれた主婦の暇つぶしよね」と年上の専業主婦に言われて相当落ち込んだこともあります。会議の席で反対意見を出したら、部長から「こちらは真剣に仕事しているんだ。遊びで仕事しているきみが正論をくどくど喋ってかき回すな」と言われたこともあります。反論しようにも、「仕事」の概念が食い違っているのだ、と諦めました。そもそもこんなことを自問すること自体、切羽詰まっていないものの戯言なのかも。
それでも私は言いたい。家庭という小さな社会から、世界という大きな社会まで、一構成員として私ができることをする、それが私にとっての「仕事」なのではないか。やはり私は「人の役に立っている」という手応えを得たいのです。役に立っていることの証明として報酬が欲しい。いや、かつては「これをしていったい何になるのだろう?」とどこかで思いながら、それでも依頼があって、報酬が提示されたことでやってきた「仕事」もたくさんありました。そうやってある程度稼いだところで、60歳になったときに、「役に立っている」という手応えのあることを「仕事」にしようと思ったのです。批判や非難は承知の上で。

つぎに、なぜ働くのか?
簡単です。生きるためです。私にとって働くことは生きることです。
またまた日本語大辞典に登場願います。働くとは「からだを動かす。動く。行動する。努力して事をする。精出して仕事をする。労働する」ことと定義されています。要するに、じっとしていないで動くこと、それが働くということ。仕事、家事、育児、介護、どれをするのも「働く」ことになります。
必死に働いたからといって、生計が立てられる保証はないけれど、働かないと生活はしていけません。だから私は死ぬまでちゃんと動いて、働きたいです。

「仕事」も「働くこと」も今大きな曲がり角に来ています。
AIの発達で、今ある「仕事」の半分以上、いや8割がなくなるだろう、とさえ言われています。残るのは、教育、介護、医療など人を相手にする仕事だけになるかもしれません。
「働き方改革」で、残業をなくし、1日8時間働けば「生計を立てられる」ような労働管理をしようという動きも出ています。週3日、1日3時間しか働かなくていい時代がもうすぐ来る、という記事も読みました。あとの時間は「家族と一緒に過ごす」「趣味に打ち込む」のだそうです。でも、家族がいない人はどうすればいいのでしょうか? 趣味と言ったって、趣味にとどまっている間はそうそう打ち込めるものじゃないです。膨大な時間を「暇つぶし」だけで埋められないのではないでしょうか? 働き方改革は必要ですが、人にとって仕事とは何か、ということを、今一度問い直す時代に入っていると思います。
あと10年もたたないうちに、会社に通勤して一箇所に固まって働く働き方は廃れていくような予感がします。また1つだけでなく、複数の仕事をかけもちする人も増えてくるのではないでしょうか。私のように「翻訳者、ライター、ときどきコーディネーター」と肩書きがいくつかある人間への理解も、今よりは深まるのではないかと期待します。
なぜ仕事するのか?(女性で、主婦で、母親なのに)と質問(非難や称賛)する人も減ってほしい。
しちめんどくさい答えを用意しなくてもいい世の中になってほしい。
心から願っています。

(このテーマに私はいつも頭を悩ませているので、最近読んだ参考図書をあげておきますね)
「人工知能が変える仕事の未来」野村直之著 日本経済新聞出版社
翻訳業はもしかするとあと数年後になくなるかもしれない、という危機感から読んだAI本。「敵」を知らねば話にならないと、読みました。人工知能(Artificial Intelligence)とは何か、どんなことができるのか、それが仕事をどう変えるのか、ということをわかりやすく、ごく基本的なところを押さえて書かれています。そのほかにもAI本は何冊か読んだのですが、この本が一番私にはしっくり来ました。

「なぜ働くのか」
バリー・シュワルツ著 田内万里夫訳 朝日出版社
TED Booksなので、こちらの反応を見ながら話しかけてくるような文体で書かれていて、思わずうなずいたり、首を傾げたりしたくなる本でした。人間にとって仕事とは何か、働くとはどういうことか、という哲学的な問いかけに対して、自分の経験を元に語っています。今回のブログのテーマを書いてみようと思ったのは、実はこの本を読んだのがきっかけ。

「超一極集中社会 アメリカの暴走」 小林由美著 新潮社
朝、ついポチって読み始めたら、気づくと夕方であたりは暗くなっていました。強烈な内容に、しばし呆然として仕事が手につかず。辛いかもしれないけれど、本書にある1%のエリート以外は読むべき本です。アメリカの現状を日本の近い未来にしないために、今、私たちがやるべきことはまずこの本を読むことではないかと。

 

1980年、長女を出産した夜、病院にやってきた母に「8週後には職場復帰(当時、勤めていた会社は育休制度を取り入れていなかった。産休制度も同僚たちからの嘆願書で導入された)。授乳も含めていろいろと考えなくちゃ」と私が言ったとき、母が言いました。
「私ができるだけ手伝ってあげるから、会社での仕事を続けなさい。でも、子どもを育てるというのも、人間としてとてもたいせつな仕事よ。外でお金をもらう仕事ばかりが仕事じゃない。家族が健康に生活して、子どもが安心して育つ場を作ることは、それ以上に重要な仕事じゃないかしら」 
そのときは、若くして結婚し外で働いた経験がなく、専業主婦として家庭を切り盛りすることに専念してきた母が、自分の人生の意義を強調しているのだ、とか思ったのですが、今になるとその言葉がずしんと響きます。
母の手助けがあったおかげで、私は外での仕事を続けながら2人の娘を育てられました。そして娘たちは2人とも結婚し、子どもを育てながら外で仕事をしています。私たち夫婦と同じ「共働き家庭」です。
孫が生まれたとき、一番に考えたのは「私はどんな形で、どこまで娘たち夫婦の手助けをすべきか?」ということでした。正直、無償労働でも有償労働でも現役で目一杯働いている私は、母が私を手伝ってくれたようにはとてもできそうにないし、やりたくもない。おばあちゃんの手助けなしには日常生活が回っていかないようでは、共稼ぎ家庭はサステイナブルではないのではないか。でも、そう思う反面、母が言っていたように、次世代育成こそ人としての一番大きな仕事ではないか、と思ったり。葛藤は今も続いています。
それにプラスして、夫婦二人だけになったのに、なぜか家事労働がまったく軽減されないこと、いや、軽減するどころか時間的、労力的にも増大していることに疑問と不安を感じています。自分もですが、夫の介護はどうするんだ? 娘たちには絶対に負担をかけたくない。そのためには働き方、暮らし方を変えなくてはならないのではないか。
ここ2ヶ月ほど、どうしたらいいのかという答えを求めて、以下のような本を読みました。

「家事労働ハラスメント——生きづらさの根にあるもの」
竹信三恵子著 岩波新書
家事・育児・介護という家庭内の無償労働のほとんどを女性がこなしていて、それが有償労働における男女の賃金格差を生む原因になっていることを解き明かした内容。なぜ女性たちが子どもを産みたいと思っても産むことをためらうのか、それは家事労働が無償であるがゆえに価値がないものとして、もしくは「家族の絆」とかいう情緒的な言葉で包んで圧力をかけ、女性に押し付けているからだ、という内容。家事労働の価値をどこに見いだすのか、そもそも家庭を運営することに、ビジネス産業界の論理を当てはめることに問題があるのでは、というところに頷きました。

「お母さんは忙しくなるばかり——家事労働とテクノロジーの社会史」
ルース・シュウォーツ・コーワン著 高橋雄造訳 法政大学出版
家事のための道具がどんどん便利に使いやすくなったことが、家事労働者(女性)への負担をより重くしている、ということを科学史の専門家がわかりやすく説いた内容。家電製品が安価に普及したことで、かつては男性の手を借りなければやっていけなかった家事が、女性だけでこなせるようになった。男は外で働き、女は家で家事育児介護、という近代家族が成立するのは、そういう道具が安価に普及したこともある。だが、そのうち女性が外での有償労働に関わるようになると、家事に関わらない(関われない)男性は家庭で疎外され、そのうち家庭にいる意味さえも失われていった……という話。
道具が発達しても家事労働はいっこうに楽にならず、しかも女性は家事を手放さない、というくだりに、ああ、私も手放したくないんだ、家事をより高度化することで、夫を疎外しているんだと思いましたね。

「結婚と家族のこれから——共働き社会の限界」
筒井淳也著 光文社新書
これが一番「腑に落ちた」内容でした。共働き家庭が増えて、男女が有償労働でも無償労働(家事育児)でも対等に分担するようになると、より社会格差を増大させ、子どもを産み育てにくくなる、という一見矛盾した論理(調査結果)に頷くことしきり。以下に頷いたところを引用しておきます。

「『伝統的な家族の価値観を大事に』という主張をする人たちがいますが、このような状況(注:仕事が家族のリスクになり、家族が仕事のリスクになり、この両方が人生のリスクになる、というのが日本の現状。つまり家族に最後のセイフティ・ネット機能を求めようとすればするほど、人は家族から逃げる)を踏まえれば、むしろ大切なのは『家族主義からの離脱』なのです。家族が最後のセイフティ・ネットになるような社会では、家族が失敗した時のリスクが大きくなります。ですから、安定した家族を形成できる見込みがない限り、人々は家族形成、つまり結婚を引き延ばすでしょう」
「家族の負担を減らすこと、つまりある意味での家族主義から脱することによって、人々は進んで家族を形成できるようになるのです。『家族を大事に』というのならば、家族から負担を減らして、家族のいいところだけを楽しめるような社会を目指すべきでしょう。逆説的ですが、そのような社会では私たちは家族という枠を超えた親密性の世界に生きているかもしれません。というのは、家族に頼らずとも生活していくことができるからです

 もちろん家族に特別な感情はあることは認めます。でも、家族だから家事も育児も介護も引き受けろ、それも無償で、と言われたら、そりゃ家族への感情が愛情ではなくなってしまう可能性は高い。
 共稼ぎのパパママの代わりに孫の面倒をみるおばあちゃんの気持ちに、いずれは娘や息子が自分を介護してくれるだろう、という期待がないとは言えないでしょう。私の母も「これだけ孫の面倒をみてあげたんだから、私の老後の面倒はあなたに頼むわ」と言い続けました。(そしてそれが私の気持ちを重くさせていたのは否めません)
 私は「孫の面倒をみるから、自分の老後の面倒をみて」という形で子どもたちに無償労働のお返しを期待したくないのです。だからというわけではないけれど、おばあちゃんとして孫の育児に関わることはもちろん、娘たちの家庭の家事手伝いも、本当に困っていてヘルプ要請がないかぎりやらないようにしよう、と思っています。
 家族が愛情という絆で結ばれ続けるためには、家事育児介護の無償労働を、家族だけでなく社会とも分担することが大事ではないでしょうか。どのように、どうやって分担するのか。そういう社会設計を今こそ政府に考案してもらいたいところです。

↑このページのトップヘ