Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

装う快楽

 年があらたまってからこちらでご挨拶もしないうちにもう松の内があけてしまいました。
 たいへん遅ればせながらですが、みなさま、今年もグラマラスライフをどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、実行できるかどうかはさておき、今年の私の目標を書いておきたいと思います。

1)生活するにあたって軸足を「仕事」に置く。
「仕事」と「カッコ」をつけたのは、私の本職であり、労働の対価を金銭で得ている「モノを書く仕事(翻訳を含む)」だけでなく、ボランティアとしてやっていること、また介護、家事などのケア労働も含めています。
 特にこれまで「ケア労働」を仕事だとは考えていなかったので、やってもやっても報われなくてストレスがたまったし、ときには腹も立ちました。でも、これからは「これは仕事!」と割り切って、「やってやって」と頼まれたことを何でもかんでも「やってあげる」のではなく、私のキャパシティの範囲を超える要求に対しては「それはできない」ときっちり線を引くことにします。
 自分のキャパを相手に示すことは、仕事の基本だと私は思っています。「そこまではやれるけれど、それ以上は私にはやれないし、私の仕事ではない」と示すことは、仕事の基本能力ではないかと。
 キャパの範囲をどう定めるか、それが難しいのですが、一応時間的、労力的、金銭的なキャパシティを具体的に数字で定めて、それ以上はやらないでほかの方にお願いしてお任せしようと考えています。ほかの方に「仕事」を割り振るのが、実はたいへんな「仕事」なんですけれどね。
 そして優先順位はやはり「モノを書く仕事」が一番で、ほかのことよりも優先したいし、そうすべきだし、そうしよう、というのが新年にあたって決意したことです。

2)今日を大事にする。
 コロナで得た教訓の一つは、昨日と同じ生活、考え方、働き方、人間関係が今日もできて、変わらないと考えることはもう許されないのだな、ということです。
 明日はどうなるかわからない。いろいろな面で、明日、今日と同じことができるわけではない。100年に一度と言われる感染症の拡大は、未来の不透明性をはっきりと突き付けました。
 でも、私はそれを危機感とか悲観論に結びつけたくはないのです。明日はどうなるかわからないのだから、今日を完全燃焼したいし、こうなってほしいという自分なりの未来の世界像(卑近な世界観に基づく未来像ですが)を描いて、それに向かって自分を変えていくようにがんばりたい、と思っています。
 だから今日やりたいことは今日する。今日会いたいと思った人がいるなら、今日連絡してスケジュールを調整する。
 今日を大事にしたいです。

とこの二大目標に基づいての具体的目標。
1)ガンバの試合をホーム&アウェイ合わせて最低10試合生観戦する。
2)いま翻訳中のものも含めて、今年中に本を2冊少なくとも脱稿までは終える。
3)月と星座を観察する。
4)毎日ウォーキング、週に2回は太極拳
5)書道の課題を毎月必ず最低3作品提出する。
6)ブログを月3回は最低でも更新する。

本当は「行ったことがないところに旅行する」を加えたかったのですが、これは自分の意志ではどうにもならないので諦めました。

 今年も健康に気をつけて、目標が達成できるように頑張りたいです。
 いい年になりますように!
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 グラマラス・ライフを始めて、たしか21年経ち、今年が22年目ではないかと思います(記憶がおぼろげ)。最初はホームページで、その後ブログに移行し、書いていることも書き方も変わりましたが、書きたいことを書きたいときだけ書いていることが、20年以上続けていられる原動力(?)ではないかと。
 過去ログを見ると、最初は3回に1回くらいだったサッカーのトピックスがしだいに増えていき、2005年にガンバが優勝したあとからは、ほとんどガンバブログと化しました。グラマラス・ライフを始める前からサッカーの試合はわりに熱心に見ていたのですが、ガンバブログと化してからは、ガンバの試合だけでなく、代表戦はもちろん、高校サッカーやユースの試合、そのうち海外遠征までしてしまうようになって、平均すると年間30試合は観戦し、観戦すると興奮するから書く意欲もどんどんわく。長く続いた理由はサッカーのおかげでもあります。
 ところが、今年は1試合も生観戦しなかったのです。サッカーの試合を生観戦するようになった1997年以来、1試合も生観戦をしなかったなんて年はありません。その意味で2021年は私にとって「異常」な年でした。生観戦どころか、ネット観戦も後半にはやめてしまうなんて、1年前の自分ではありえない話でした。
 降格した年でさえも通っていたことを考えると、ガンバの成績低迷だけがスタジアムに足を運ばなかった理由ではない、と思います。サッカーへの関心が失せたかといえばそうではなく、PCの前に座ると最初にやるのがさっかりんを開いて、関連のニュースをチェックするのは変わらない習慣だし、サッカー関連本は探して読んでいるので、サッカーへの興味がなくなったわけではない。おそらく、私はコロナ怖い怖いの嵐に飲み込まれてしまったのか、または、今のサッカーの(ガンバの、ではなく、サッカー界全体)あり方がこのままではいけないんじゃないか、アフターコロナのシステムを考えるべきじゃないか、と思うようになったことがあるのかもしれません。

 コロナ2年目の今年が終わろうとしている今、今年はサッカー無観戦だけでなく、これまでの自分からすると「異常」なことをいろいろとやったな、と思います。
 一つは、お酒を(ほとんど)飲まなかったこと。きちんとつけているわけではないけれど、たぶん今年1月1日から今日12月31日まででアルコールを飲んだ回数は8回以下。まったく飲まなかった月が数回あります。また飲んでも1回にビール一杯程度でした。夏にビールが飲みたくなるかなと思ったけれど、全然ならなかった。不思議です。異常です。
 2つ目は、コロナワクチン2回目摂取翌日に発熱した時以外、毎日6キロ歩いたこと。雨が降ろうが、暑かろうが、寒かろうが、毎日1時間10分(6キロ歩くのにその時間がかかる)ひらすら歩く。夜にオンライン会議がある時は、昼食後に歩く。ときどき「どうして意地になって歩いているのか?」と自分でもわからなくなるのですが、364日歩き続けました。
 その結果、というわけではないでしょうが、今年12月の健康診断の数値は前年より改善していて、特に骨密度はまた一気に上がって40代の平均値になりました。骨粗しょう症の心配はまったくない、と医師に太鼓判を押してもらえたので、たぶんあと10年はパナスタの最上階まで登れるはずです。
 
 お酒を飲まず、規則正しい生活をして、運動と食事に気をつけたのも、コロナでいかに健康が重要かが身に染みたからです。そして生活習慣を見直して1年を過ごせた今思うのは、できるだけ長く「仕事」をしていたいということです。賃労働も、無賃労働も、ケア労働もできるだけ長く続けていきたい。これから歳を重ねていく中で心がけたいのは、人に迷惑をかけないだけでなく、また自分のことを自分でやることだけでなく、人のために何かできる人でありたい、ということです。
 来年もその思いを忘れず、健やかに、ゆとりを持って暮らしていこうと思っています。
 そして、来年こそ最低10試合は観戦します!! パナスタの階段を駆け上がれるかどうか確かめなくちゃ。
 最後に、来年、2022年がみなさまにとって、たくさん喜んで、たくさん笑う年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。
 
 
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今年もやっぱり作りました、おせち。でも、だいぶ手抜きして、出来合いの品多し、です。
  

 コロナ共生生活2年目となった2021年の感想は、一言でまとめると「速い、早い」です。1日、1週間、1ヶ月が飛ぶように過ぎていき、起こったことが昨年なんだか今年なんだかわからなくなるほどの勢いで1年が過ぎてしまいました。
 こういう感想を持つのは私だけではないようで、ほかの方からも「コロナになってから時間が経つのが早い」という声を聞きます。
 おそらくそれは、時間の流れに節目がないからだと思うのです。旅行に行ったり、家族や友人と一緒にイベントを楽しんだりということがないと、時間はたらたらと川のように流れていってしまう。少し寂しいです。お孫の発表会や運動会を見学させてもらって、大きくなったね、とかいって時間の流れを確認することがない。仲間とごはんを食べて、近況を聞いて「そんなことが!」と驚いたり、一緒に喜んだりすることもない。変化がよく見えない夫としか顔を合わせていないと 、時間の流れが平板です。
 旅行にいく刺激もないようじゃね。「あの年には青森にいって、苔観察したよね」とか「未承認国家に初めていってびっくりだった」とかそう言うことで年月が記憶されていたのに、それもない。来年こそ、どこかに行きたい。
 
 さて、この1年、私は何をしていたかというと、ひたすら仕事をしていました。いま過去ログを調べたところ、ここまで仕事に打ち込んだのは2014年以来です。ここまで、と言うのは、朝9時半から夕方6時までPCの前に張り付いていた、という意味です。50代までは、夕飯終わってからも仕事ができたのですが、さすがに今はそれができない。目がしょぼしょぼして、焦点が合わなくなってしまうし、思考がついていかなくなる。その意味で、2014年からずっと歳を取ったな、と思います。
 それでも今年は2冊本が出たし、来年にはうまく進めば2冊プラスアルファ出版される。昨年からの連載も3本ほど続いているし、単発の仕事も月1、2本ペースでやっています。ギャラはともかくとして、仕事は順調といっていいかも。
 このままずっとこの調子で仕事ができるかなと考えると、体力の要素は置いておくとして、少なくとも仕事をする、仕事をしたい、という意欲だけはできるかぎり持ち続けていきたいし、いけるのではないかと思えた1年でした。
  実は書道にもかなり打ち込みました。週末土日のどちらかは1日は書いていたし、稽古も錬成会も皆勤しました。賞もいただけたし、自分で言うのも何だけれど、ワンステップあがったかなという手応えもあります。
 ただ、仕事や書道に打ち込めたたのは、移動や会食が制限されたおかげです。旅行に行かないし、ごはんを食べにも行かないし、友達とお茶をすることもなかったから、その時間とエネルギーを仕事と書道につぎこめました。来年、人と会うことや移動の制限がなくなったらどうなるのかな、とそこは考えるところです。ま、そのとき何を自分がしたいかを考えて決めよう。
 でも、打ち込めるのも、旅行や会食にいきたいと思えるのも、健康だからです。
 来年も健康にはますます気をつけて過ごしたい。
 
 来週、仕事納めのあとに「今年の一冊」「今年の一本」を書きたいと思っています。
 ご挨拶はそのときに。

 

 楽しいこと、前向きなことだけを書いていたいこのブログですが、残念ながらここ数年はそうはできにくい精神状態にあります。これから書くことは自分だけでなく家族を傷つけかねない内容なのですが、やはりいま言語化して公表することで、勝手ながら自分を救って少しは前向きになりたいと吐き出します。
 振り返ってみるともう7、8年前からなのですが、ちょっとしたことがきっかけで母は私と妹に電話をかけてわめきちらすということを繰り返します。認知症が進んで物忘れがひどくなってからは、電話をかけたことを忘れてしまうので、何分間かに1回かけてくる。前もここに書きましたが、早朝深夜を問わず、かけ始めたらもう止まらない。3分に1回、かけてかけてかけまくる。こちらが受話器を上げる前に切れて、こちらが受話器を置くとまたかかってきて、「かけるのをやめなさい!」と怒鳴ると、「電話なんか一回もかけたことがない」と言う。
 とくに秋に入るとそれがひどくなります。昨年の最高記録は9月末の1日42回でしたが、今年はすでに50回を超えて新記録達成です。毎回言うことは同じで、「いま○○(→母が幼少期を過ごした祖父母の故郷、奈良ホテル、帝国ホテル、一度などバッキンガム宮殿もありました)にいる。お金がないので支払いができないで困っている。すぐに来てくれ」と言うものから、「お金がないお金がないお金がない、どうしたらいいかわからない」と繰り返すものまでありますが、要旨は「すぐに来い!」「なんとかしろ!」「私がこうなったのは全部あんたたちのせいだ!」です。こちらが電話にでないとだんだんとエスカレートしていって、「親が電話をかけているのに出ないとは、あんたは人間のクズだ!」と怒鳴っている声が留守電に残ります。きついです。
 と同時に、すごいエネルギーだなと感心します。電話をかけ続けるエネルギーもすごいが、子どもに向かって「クズ」と怒鳴るエネルギーもすごい。89歳にいったいどこからそんなエネルギーがわいてくるかと言いたいところですが、私たち娘はその言葉の激しさには驚かない。驚くのは、まだそうやって怒鳴るエネルギーがあるのだ、ということと、認知症とはいえ「なんでそんなことを言うのか!」とこちらが責めると、たった3分前のことなのに「そんなこといった覚えがない」「私がそんなことを言うはずがないじゃないか!」と逆切れする、そのエネルギーに驚くのです。
 振り返れば子どものころから私たちはそれに似た罵声を浴びせられ続けてきたから、いかにも母が言いそうな言葉だと妙に納得します。認知症になって理性で歯止めがかからなくなって言っているのではない。自分の意に沿わない人やことに対して不満をぶつける母の言葉や語気の激しさには子どものころからずっと怯え続けてきたし、ひどく傷ついて恨んでもいるのですが、少しずつ自分の中で整理はできつつある。それでは私たち(とくに私)を苦しめているのは何かというと、周囲の無理解です。
「認知症だから、病気だから、年取って寂しいからしばらく我慢してあげて」とか「引き取ってそばで面倒を見てあげたらいいのに」「親なんだから電話で愚痴くらい聞いてあげなさいよ」「娘さんたちに会えなくてお母様は寂しいんですよ。だからわがままをいって甘えていらっしゃるだけです」という言葉に私はものすごく傷つく。「いっときのことですよ。しばらく我慢して」と言われてからすでに8年経って年々ひどくなっているのに、いったいいつまで私たちは我慢しつづけなくてはならないのか。母のいうように、すべて悪いのは私たちなのか。
 先日、たまりかねて母がたまにかかっている心療内科のドクターに長々と手紙を書いて訴えました。電話をもらってドクターから「娘さん、辛いですね。きついですね。娘さんは何も悪くない。悪いのはお母様の病気です。薬を処方します」と言ってもらい、ひたすら「ありがとうございます」と頭を下げて電話を切り、すぐに妹に報告したら「お姉ちゃん、ありがとう。これで少しは救われるかも」と言われ、電話を切ったあとに思わず泣いてしまいました。 
 私は昨年9月、母の電話での罵声攻撃が始まってから1年で8キロ体重が減りました。その前に太ってしまっていたから、ちょうどいいダイエットにはなったし、アルコールをやめてウォーキングを始めたことによる減量なので健康を害したわけではない。
 でも、昨日ふと気づいたのだけれど、減量は私が自分に与えた罰なのではないか。私は自分のからだをいじめることで、周囲(世間)の「子供は年老いた親の面倒を見るべき」という規範に添えない自分への罰を与えているのではないか 。もっといえば、毎日アルコールを飲み続けたのも、ある意味自分をいじめていたからだと思うのです。飲みたいわけではないのに、飲んで酩酊して、母の訴えから気持ちをそらせたかったのです。本当にアルコールが好きで、飲んでいい気持ちになりたいから飲んでいたのだったら、なぜある日を境に飲むのをやめられるのか。なぜその後はアルコールを口にすると頭痛がして吐きそうになるのか。友達と一緒に楽しい気分で(母のことを忘れて)いられるとおいしいと感じられるのに、そうでないときにアルコールを口にすると吐きそうになる。それはやはり私が自分に罰を与えているからだと思います。
 私が聞きたかったのは「あなたは悪くない」という一言だったと思うのです。あなたは悪くない、自分を罰してはいけない、自分をいじめてはいけない。そう言ってもらいたかったのです。一度も会ったことがないドクターに「娘さんは悪くない」「辛いですね」と言われた瞬間、私はそれまでつかえていた重く苦いものが少し外れたような気がしました。そして妹から「お姉ちゃん、ありがとう」と言ってもらって、なんかもうたまらなくなって自分でもびっくりする勢いで泣いてしまったのですが、泣いたことで少し浄化されたような。
 私が母にしてあげられること、できることはもうない、でもそれで自分を責めてはいけない、ということをこれからは自分に言い聞かせていこうと思っています。

今、日経新聞朝刊で山本耀司さんが「私の履歴書」を連載されています。毎朝、飛びつくように読んで、「あの時代」を懐かしがっています。そういう人は多いのではないかな?
私は1973年から1992年まで会社でファッション関連の仕事をしていました。数ヶ月間別の会社で働いて離れたこともあったけれど、最後の会社を辞める1992年まで各シーズンごとのトレンドを追いかけていたし、デザイナーの動向も逐一目を光らせていました。会社を辞めてからもファッション関連の取材をしたり記事を書いたり、欧米中心ですがファッション業界の本を書いたり翻訳したりもしてきました。 ライターをやっていく上で、「女、子供、ファッション」を柱にすると決めていて、公言もしていました。
そんな私が一番ファッションに熱かったのは、1978年から1987年くらいまで。高田賢三さんや三宅一生さんの次の世代の日本のデザイナーがパリコレに進出し、日本ではTD6が解散し、1985年に東京コレクションが始まった頃。その頃も私にとって、山本耀司さんと川久保玲さんは雲の上の憧れの人でした。今でも悔やんでいるのは、二人が東京コレクションに加わって、パリコレに大きな衝撃を与えた頃にY'sやコム・デ・ギャルソンの服を購入して着こなすことができなったことです。30代の私は子育て真っ最中で、保育園にコムデやワイズを着て子供をお迎えにいく勇気がなかったし、そもそもお金がなかったし、二人の服の思想を理解もできていなかった。
ワイズやコムデの服が買えて着られるようになったのは、50代になってからです。経済的余裕ができたし、背伸びしないで「いいな」と思えるようになったし、着て歩いても変に自意識過剰になることもなくなった。 
それでもワイズやコムデを着るときは緊張します。心地よい緊張感なのだけれど、ユニクロを着ているときにはまったく感じない緊張感です。誰かに見せるための服というのもあっていいし、着心地の良さを楽しむ服ももちろん必要です。でも、1970年代から1990年代(高級ブランドブームの前まで)ファッション業界の片隅にいた私としては、自分の精神/身体と服との間に生まれる緊張感が忘れられない。
服はどんどんカジュアルになり、しかも外出がなかなかできなくなっている今、そんな緊張感を生むような服などこれからすたれていくのかもしれません。でも、1970年代から1990年代までのあのめくるめくようなファッションの時代を知っている私としては、せめて一週間に一回くらいは緊張感を持って服を着たい、と思うのです。
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