Glamorous Life

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装う快楽

このところやたらと仕事が忙しく、6月は通常のZoom会議と取材に加えてリアル対面取材や撮影も入ったりして、生活が不規則になりがちです。いまカレンダーを見たらこの3週間休みがまったくとれていない。何もしない日をつくることが今年の目標だったのに、すでに3ヶ月以上何もしない日は1日もなくて、日々「しなくちゃいけないこと」に追われています。よくないよ、まったく。
食事時間が不規則になったことと、ウォーキングの時間があまりとれなくなったこと、筋トレがまったくできていないことの影響は体組成計の数字に如実にあらわれていて、体重は変わらなくても骨格筋率がじわじわと低下し、 体脂肪率が上がりつつあります。
そして意欲が低下気味です。
今朝目が覚めたときに「さあ、今日も頑張ろう!」という気持ちで起き上がれなかった。
がんばりすぎはよくない、と自分でもよく分かっているのです。そもそもがんばること自体、私には必要ない、と思います。がんばろうと自分を励まさなくても、私はたぶん十分なくらいついついがんばってしまう。よくないがんばり方です。
そして体調管理しているつもりで、体組成計の数字とにらめっこするのは本末転倒だとよくわかっているのです。数字はめやすであって、自分自身の健康を反映しているものではない。自分の健康や体調は、自分自身のからだの声を聞かないと分からないはずなのに。
頭ではよく分かっているのに、からだと気持ちがついていかない。体組成計やネット情報に自分の体調の判断を委ねてどうするんだ、と自分を叱責。
そんな体調管理は持続可能ではないですよね。
今日は自分を少し甘やかして、食べたいものを食べて、寝たいだけ寝よう。
 
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 またもや緊急事態宣言が延長される中、ワクチン接種のお知らせが届くのを首を長くして待っている高齢者の私です。届いたら、ネットで予約をとることに最低でも1日は潰さねばならないと予想しているので、いま仕事のスケジュール表をにらんでいるところです。どうも来週には届きそうなので、来週は予定をもろもろキャンセルしてワクチン接種予約との闘いだな……って、そんなことに高齢者のエネルギーを使わせないでほしいわ、ほんと。
→と書いた直後にワクチン接種券が送られてきて、ネットで予約したら、拍子抜けするくらいあっさりと予約できました。といっても7月末が第一回です。モデルナ製かな?  無事接種できますように。

 高齢者施設にいる母は施設側が手配をしてくれたそうで、私は役所から送られてきた必要な書類を作成してケアマネージャーさん宛に届けただけ。本当にありがたいです。何回言ってもコロナウイルスが感染症であることはもちろん、コロナウイルスという名称も記憶できない(娘の名前もしばしば忘れているくらいだから、新参者のウイルスの名称なんてそりゃ無理です)後期高齢者には、行政や施設が迅速にまとめて対応することは必須ですね。
 私はできるかぎり長く今住んでいる家で暮らしていきたいのだけれど、パンデミックや災害が起きたときのことを考えると、施設に移り住むことも考えた方がいいのかもしれません。 他人の手を借りないで自立して生きて死にたいという願いは願いとして、現実にはそんなことは不可能だと今回のパンデミックで思い知らされたので、いかに「自立」の期間を引き伸ばすかだけでなく、行政やプロ、渋々だけれど家族の助けをどうやって借りたらいいのかを考えている時期に来ています。
 「自立」は成人して以降、私の人生の最大といってもいいほどの大きなテーマで、21年前(そう、ブログ創設21年経ちました)からこのブログで何回となく書いてきましたが、65歳を過ぎ、そしてこのパンデミックで行動が制限される中で、私のこれまでの「自立」のイメージは大きく揺らいでいます。何よりも大きく変わったのは、「人の助けを借りなければ人は生きていけない。誰に、どのような助けを借りるのかを真剣に考えることも自立した人間のやること(やるべきこと)だ」ということです。
 もちろん助けに対する対価(金銭を含む)は支払わねばならないのですが、でも「カネ払ってるんだから、これだけやってもらって当然」なんていう考えは自立した人間には許されることではないし、また「前に助けてあげたんだから、今度は私が助けてもらう番(子供が高齢の親の面倒を見るのはあたりまえ、という発想にも通じますね)」という考え方も自立した人間には許されないことだ、と思っています。
 かといって、「迷惑かけてごめんね」とへこへこする必要もない。正々堂々と「これこれを助けてほしい。ここまでは自分でできたけれど、それ以上は無理だ。お願いしたい」と頭を下げて交渉すること。これが自立した大人のやり方ではないか、と。
 ポイントは「ここまではできる」という範囲をできるかぎり広くとっておけるように今から準備することかな、と思っています。たとえば、ワクチン接種の予約をとることも、すでに予約できた人にどうやったかを聞いて(PCを使った方がいいのかとか、時間帯は何時ごろがいいか、とか)、まずは自分でやってみる。でもどうしても繋がらずに予約ができないようであれば、そういう予約に強い人にお願いする、というのも手ではないかと(スポーツやコンサートのチケット争奪戦でいつも勝っている人、くらいの意味で、転売業者とかではありません)
 高齢者(私を含む)とカテゴライズされると、「あれもできない」「これも無理」とレッテルを貼られてしまうのだけれど、一人ひとり背景も能力も考え方もちがうから、当然、自立度もちがえば、そもそも「自立」の概念もちがうでしょう。現在88歳になる母は、70代に入ったときから「私はもう年寄りだからこれはできない、あれもできない、面倒臭い、あんたやって」と家事はもちろん、家の管理や金銭管理まで全部私に丸投げしてきました。でも自分は社会的に自立した大人だと主張し、自分で自分のことを年寄りと言っておきながら、私を含めた他人から高齢者扱いされると烈火の如く怒ります。いまだに。
 年齢や性別でカテゴライズしてしまったら、見えなくなってしまうことがいっぱいあるけれど、「自立した生活」の概念は人によって大きく異なることを、まずは心しておかねばならない、と自戒しています。
 それを踏まえた上で、私の「自立した人間として生きて死んでいく」目標達成のための第一歩は、ワクチン接種をできるかぎり早くすませることだな。
 

 ずいぶんと日が経ってしまいましたが、今年も創玄書道会主催の公募展で、秀逸という賞をいただきました。昨年に続いての受賞でとてもうれしい半面、会場に飾られた自分の作品を見て「うーん、まだまだだなあ」と反省し、つぎはもっといい作品にしなくちゃなあ、と自分を励ましました。
 コロナ禍で昨年は展覧会がなかったために、受賞作を会場で見たのは今回がはじめて(3月に新国立美術館に展示されました)。広い会場で眺めてみると、作品の構成とか墨の入り方とか、何よりもからだの使い方とかの粗がよくわかります。隣に並んでいる優れた作品のすばらしさと比較すると、自分の足りないところがよくわかります。展覧会って必要だなと毎回あらためて思いますね。
 今はつぎの公募展に向けて作品制作に励む日々です。3月から週末はほぼ作品制作に費やしています。たくさん書いたからっていい作品ができるわけではないのですが、私の力量ではまずはかける時間とエネルギーをマックスに持っていって、かつ先生の指導を十分に受けないと標準以上の作品ものぞめないのです。私は天才ではないし、才能に恵まれているわけでもない、残念ながら。(ガンバの試合をライブで見るのがむずかしいのは錬成会と日程がぶつかってしまうからです)
 というわけで、今回の受賞作品に選んだ題材は「山溜穿石」(サンリュウセンセキ)。山でぽつんぽつんと落ちてくる水滴が、長い年月をかけて石(岩)に穴をあけるように、コツコツ続けていけばいつか大きな力がつく、という意味です。昔からすごく好きな言葉で、いつか書きたいと思っていたのがかなってうれしいし、賞ももらえて二重の喜びです。が、まだまだだなあ。この熟語のもつ力強さが伝えられていない。また何年かしたら書いてみたいです。
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 あ〜〜眠いです。花粉症の季節になると、眠気がどっと襲ってきて、毎日8時間睡眠。前夜、つけっぱなしのスタンドと、床に転がっている本、そして時計は7時。しまった〜〜また寝落ちしてしまったか〜〜どうしてくれるんだよ、と飛び起きる日々です。どうしてくれるんだよって、いったい誰に言っているんだか(もちろん自分にです)
 まずはiPhoneの電源を入れて今日の天気とスケジュールを確認。合わせた服を選んで洗面所に行き、着替えして顔を洗いながら頭の中で「今日やることリスト」の順番を決めます。といってもたいしたことじゃありません。「冷蔵庫に残っている野菜で夕飯は何ができるか?」とか「締め切りの原稿はとくにないけど、下調べはしておかなくちゃ」とか「メールの返事はどうする?」とか「今日は大物を洗濯しよう」とかそういうこと。10年前はもっとスケジュールが詰まっていたので、iPhoneに入れたTo DoリストとPCに貼った付箋を活用していましたが、いまはスケジュールはまったくタイトではないので、カレンダーの確認程度ですみます。
 それでも起きている間の16時間は結構忙しい。少なくとも退屈している時間はない。ぼんやりして過ごそうと決心したはずなのに、まだ今年は1日くらいしかそういう日がありません。
 つまり、何が言いたいかというと、毎日なんだかんだとすることはいっぱいあって、暇なはずなのになんでこう忙しくて、寝落ちするくらい疲れてしまうのだろうってことです。要領が悪いのか、それとも何も今やらなくていいこと(料理とか掃除とか)をついやってしまう癖があるからなのか。こういうのを貧乏性っていうんですね、きっと。
 母はこの10年以上、私に毎朝電話をしてきて「私は今日何をしたらいいの?」と聞いていました。いまは私が電話をして「今日は病院に行く日だからヘルパーさんが迎えにくるよ」とかスケジュールを教えていますが、母が聞きたいのは「通院」とかではなく、何かもっと楽しいこと、夢中になれることらしいので、私が言い終わらないうちに「私は今日何をしたらいいの? どうやって時間をつぶしたらいいのか教えて」と言い続けます。「することがない」「することがなくて退屈だ」「することがなくて寂しい」「することがなくてどうしたらいいかわからない」と言われるたびに私は、「何か楽しいことがあるといいのにね。そうだお花見とかしたら」とか「それなら○○さんに電話をして一緒におしゃべりしたら」とかあれこれ考えては提案するのですが、ことごとく却下されて、しまいに怒り出す、という繰り返しです。
 私にもいつか「することがない」という日がやってくるのでしょうか? 今日も朝起きたときに考えていたスケジュールの半分も消化しないうちに寝落ちしてしまった、と悔やんだ日をなつかしく思い出す日が来るのでしょうか? 娘に電話をかけて「私は今日何をして時間をつぶせばいいのか?」と聞くのでしょうか?
 そういう日が来るのが、ちょっと恐怖だったりします。 

6年前、父を亡くして以来のごたごたで、私は「ストレス解消」と称して夜お酒を飲む習慣がついてしまいました。こんなことをしていてはいけない、と思いながらも、いったんついた習慣はなかなか断ち切れない。飲みたいかどうかなんか関係なく、夕飯の支度のためにキッチンに立つと、つい缶ビールのプルを引き抜き、プシュッ、プハーとやってしまう。2年前からアルコールにめっきり弱くなり、ワインや日本酒を飲むと頭痛がして手が出なくなったのですが、ビールは飲める。日が暮れると、条件反射のようにプシュッ、プハー……
そこにやってきたのが新型コロナウイルスです。本を読むと重症化しやすいのは、高齢者(私もしっかり入ります)、糖尿病、心臓疾患など基礎疾患がある人。そして肥満の人も重症化しやすいと聞いて蒼くなりました。私、毎晩の飲酒とつまみの夜食で、しっかり肥満に足を踏み入れていたのです。やばいです。
昨年6月、緊急事態宣言が開けようというとき、真剣に考えました。
感染を防ぐためにやるべきことをやるだけでなく、重症化しないためにもやるべきことをやっておかねばならない。私はまだ死にたくない。それ以上にいま私が重症化したら、周囲にどれだけ負担をかけるだろうか。考えただけでも吐き気がしそう。
そこにもってきて、母が入院して認知症を進行させるという事態が起こりました。何事もまずは本を読むことから始める私は、図書館で認知症関連の本を片っ端から借りてきて読みあさり(専門書も入れて20冊以上読んだ)、そこであらためて思ったのです。
「いまこの生活習慣を変えないと、私は認知症まっしぐらだ!」
母方の祖母も母も認知症になったということは、私もアミロイドβの制御ができなくなって、神経にとぐろのように巻きついて記憶やら運動やら認知やらの機能が落ちていってしまう可能性が高いのです。しかもアミロイドβの暴走は認知症発症の20年前からもうスタートしているというではないですか! もう始まっているかもしれないけれど、できるだけ進行を遅くするためにも今から生活習慣を変えよう!
という決意をしたのが昨年8月。そして実行に移したのが9月1日。今日でちょうど5ヶ月が経ちました。
まず、在宅しているときには遅くとも8時までに夕飯を終えて、翌朝8時まで水以外とらないことにしました。 12時間の軽い断食を毎日やるわけです。
お酒は最初の頃は一週間に1回、缶ビール350ml1缶だけとかにしようとか思って9月はまだ金曜日の夜に飲んでいたのですが、そういう中途半端なことをしてはいけないと思い、家で飲むのをやめました。 でも友達と会うときには飲むのを許しています。そこまできつく縛るのもどうかなと思って。
つぎにウォーキングを始めました。始めたころは、雨が降ると出かけるのを躊躇したり、疲れたとか仕事が忙しいという理由を探して玄関前で逡巡したりしていました。でも出かけるのをやめようかと迷ったときには、自分に「重症化と認知症はこわいでしょ」とつぶやいて結局靴を履いたのですが。
そうやって自分を脅して出かけていたウォーキングですが、 9月3週目あたりからだんだん歩くことが楽しくなってきました。ちょうど涼しくなってきたのもあり。最近は地図を眺めてはできるだけ人がいなさそうなコースを探して1時間以上歩いています。5ヶ月たったいま、歩かなかったのは3日だけ。リモート会議が長引いて深夜になってしまったときが2回と、大晦日でおせち作りに追われて疲れ果ててしまったときくらい。我ながらよく続いているなと思います。
そして5ヶ月たった今、ようやく肥満から脱出しました。BMIが3ポイント下がり、体脂肪率が4%下がり、皮下脂肪率が2%減り、骨格筋率が3%上がり、なんとか50代の体重に。あああ、肥満脱出嬉しい。
これを維持していくのはたいへんかもしれない、とは思います。
それに維持していったって、私は着実に年をとるからいろいろな機能は衰えます。認知症を発症しない、という保証なんかどこにもない。
それでもがんばったのは、まず20年後もできれば生きていたいし、できれば後悔したくないから。
ここまでがんばったけれど、ダメでした、というのであればしかたない。それは「宿命」だから受け入れるつもりです。やれるだけのことをやっておけば、結果はどうであれ後悔は大きくないのではないか、と思いたいです。
それにしてもね、あれだけ酒好きだった自分が何週間も飲まないでいられるし、たいして飲みたいと思わないとは、ちょっと今でも信じられない自分です。 

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