Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

装う快楽

 今日はvs札幌戦が予定されていますが、今日もまたプライベートな予定が入っていて視聴できるかどうか微妙です。うーむ。
 プライベートな予定、それは入院中の母の対応です。これまたうーむ。きのうも夕方から10時近くまで電話かけまくり、頭下げまくりの4時間に加えて、なんでこうなってしまったのかと悩むこと数時間を過ごしました。
 父が亡くなったときにはそれほど老いについて深く考えなかったのですが、父亡き後急激に老いていく母を見ていると、自分自身も老いていってるんだということを痛感させられます。たぶん「老いること」にも何かいいことがあるのだと思うのですが、少なくとも母の老いに翻弄されている今の私には老いのいいことが見つけられない。そこで自分の老いの下り坂を少しでもゆるやかにするために、そして周囲にかける「迷惑」をできるだけ明るいものにするために、 いま私が心がけていることを箇条書きで書いてみようと思います。

1)時間がたつと老いは進行して、後戻りするということがない——老いの不可逆性についてつい忘れがちな私に、医師やケアマネが何回となく言いきかすこと。それは「以前のようになることはありません」「年齢を巻き戻すことはできません」「下り坂を後ろ向きに登ることはできません」ということです。 一度減った骨量が増えることはないし、記憶力が30代、40代のころに戻ることもありえない。それを受け入れることが老いと上手につきあっていくための第一歩です。
でも、ただ一つだけ、わずかではあっても歳をとっても増やすことができるものがある、ということも繰り返し言われます。それは……「筋肉」です。何歳になろうと、筋肉だけは鍛えることができるそうです。 
父のリハビリにつきあっていたときに、理学療法士から何回も耳タコくらいに「動かすことでからだは錆びない。歳とってもからだが動けば、心身ともに健康に老いていけます。諦めちゃだめです」言われて、でもまだ50代だった私は「ほんまかいな?」とあまり取り合っていませんでした。
しか〜〜し、 50代から骨折を繰り返し、骨折するたびに「運動して筋肉を鍛えなさい。そうでないと体のあちこちに不調が出て、しまいに認知症になりますよ」と言われても「大丈夫、私は本も新聞も毎日読んでいるし、ボードゲームで頭を鍛えているから」とがんとしてやらなかったツケがまわった人を前にして、あの理学療法士の言っていたことはほんまやった、と実感しています。
老いの衰えをゆるやかにするために必要なのは、脳トレではなく、筋トレです。
貯金も大切だけれど、貯筋しないと貯金はあっという間に目減りします。
新聞読んだらウォーキングです。
歳をとるほどに運動は必要になります。
筋肉は裏切らない。使い古された格言だけれど、真実です。
 
2) 緊張感を失うと一気に老いる——これまた医師に言われ、スーパー老人に言われて実感することです。出口治明さんのベストセラー「還暦からの底力」に「一番の親孝行は、親に楽をさせないこと」という言葉があって、ぱーんと膝を打ちました。「今日、しなければならないことがある」「○日までに仕上げなくてはならないことがある」という緊張感を保ち続けること。でもそこまではいかずとも「夕飯を作らないと。そのために買い物に行こう」というだけでもいい。何もかも人任せにしてしまい、緊張感を失ってしまうと、老いは急坂を転げ落ちるスピードで進行してしまいます。
上げ膳据え膳、掃除も洗濯も他人任せ、どこに行くか何をするかも他人(家族も含めて)が決めてくれてそれに乗っかるだけ、みたいな「安易」な暮らしをしてはいけないのです。
それにまた、「悠々自適」「安心安全」を優先して緊張感を失った生活に身を置いてしまうと、老いの日々はぼんやりと灰色の煙の中にいるみたいになってしまい、虚しさと寂しさしか感じない……そうです。

3)孤独に耐える心身を作る——前々からこのブログでも書いているように「ひとりでできるもん」精神を日々養っていくことがたいせつなんだと思います。
ひとりで外食できる。
ひとりで旅行に行ける。
サッカーのひとり観戦も大丈夫。
行きたいところ、やりたいことは、まずひとりで行く、ひとりでやることを考えて、その上で誰かを誘ってもよし、断られてもひとりで喜んでやる。
人間、最後は一人で死んでいかねばなりません。大勢に囲まれていても、死ぬのはひとりきりです。
ひとりがこわくない。ひとりが楽しい。そう思える強さを養っていきたいです。
 
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5月
に植えた朝顔がいま満開です

 今日で6月が終わり、2020年上半期も終わります。
 お正月に「あけましておめでとうございます」と書いてから今日まで、半年間がとても長かったようでいて、振り返るとあっという間だったようにも思います。
 今日で「巣立ち日記」も終えることにします。「新常態」の働き方や暮らし方にまだ慣れているとは言わないけれど、慣らしていかないと、という意識と覚悟ができたところで、巣立ちの準備が整ったかなと自分では思うからです。
 この半年で、わずかなことかもしれませんが、自分で意識して変えたこと、変えざるを得なかったことを箇条書きでまとめて、下半期への心構えとしたいと思っています。

1)スマホを見る時間を1日合計3時間までにする
前にも書きましたが、巣篭もり期間中はスマホの電源を1日に2時間しか入れないという生活を送っていました。出かけざるを得なくなり、仕事が本格化した6月1日からはさすがにで電源を2時間しか入れないというわけにはいかないけれど、夜10時から朝7時まではやっぱり電源を切るようにしています。
出かけるようになってあらためて驚いたのですが、電車の中でほぼ9割の人たちがスマホを見ています。その光景にはやっぱり引っかかってしまう。
朝目覚めた瞬間から、寝落ちするまでスマホの画面しか見ていない依存症の夫に、巣篭もり期間中に一回キレたことがありました。
「スマホの画面には情報しか出ていないよ! 情報を1日18時間眺めていると、情報のことしか話さないつまらない人間になっちゃうよ」 
 私がキレたからって、スマホを見る時間を減らすような夫ではありませんが、以来、一緒に食事をしているときは15分くらい見ないで我慢するようになったみたいです。
スマホを見る時間を減らしてよかったことは、一つに目が疲れなくなったこと、そして少しは考える時間が増えたことです。瞑想とまではいかずとも、ゆっくりと考える余裕が生まれた、ような気がします。これからも続けていきたいです。

2)早寝早起きを続ける
 はじめは早朝太極拳道場に行くためでしたが、太極拳をするために出かけることをやめても、朝6時までには起きて、夜は遅くとも11時には眠るようにしています。 
  早起きになってよかったこと、それは1日が長く使えることです。朝、起床してから太極拳をすることもあれば、ちょっと瞑想もどきをする余裕ができました。本をじっくり読むゆとりも、Netflixでドキュメンタリー鑑賞三昧ができるのも、早起きのおかげかな。夜にだらだらビールを飲みながら録画した映画を観たり、読書したりしなくなって、実は少し体重が落ちました。夜飲み、やっぱりダイエットの大敵ですね。

3) 思いついたことはすぐやる
 最近の話ではなく、私はいろんなことをすぐに忘れてしまいます。たとえばキッチンで食器洗いの洗剤がなくなりかかっている、今日は買いに行かなくちゃ、と毎日のように思っていながら、買い物に行くと洗剤を買うのを忘れる。そういえば友だちから予定を聞かれていたんだ、メールで返事をしなくちゃと お風呂を洗いながら思い出しても、風呂場を出るともう忘れてしまう。ヤバイです。今に始まったことではなく、かなり前からの忘却癖。で、少し生活にゆとりが出たこの半年間に、思いついたことはすぐにメモをとり、PC画面に、スマホの画面に、貼っておくということを習慣づけました。
 または洗濯物を干している最中に、そうだ、メールの返事を忘れていた、と思い出したら、干す手を止めてすぐに返事を書く、クリーニングに服を出すことを思い出したら、ベッドに入っていても起きてクリーニング袋に入れに行く、とか、とにかく思いついたり、思い出したことはすぐにやるようにしています。ボケ防止、かな。

 実にささいな事柄ばかりですが 、時間に余裕があったこの半年に身につけたこの習慣を、下半期にも続けていこうと心しています。
 それが私のウイルスとの共生方法だと信じて。 

 東京アラート(っていったいなんだったのかがいまだにわかっていませんが)も解除されて、他県への移動制限も解かれたいま、気持ちに日々ゆとりがなくなっています。コロナ禍のこととか、これからの生活について、または自分自身について考える余裕がまたなくなってきて、日記を書くことができなくなりました。本来なら、自粛期間中に見直した時間の使い方や働き方を、いまこそ実践していけばいいのに、それができない。生活を変えるのって、そう簡単ではないことを実感しています。
 でも、書きたいことはいっぱいあるのです。それをまとめる時間的、心理的余裕がないだけ……あれ? ほんとに余裕がないだけ? 思考停止しているからじゃないのか? と自問するのですが、とりあえず毎日書く形式の日記はあきらめました。 メモだけがどんどん溜まっていくと、プレッシャーになってしまうしね。
 というわけで、これからはテーマを決めて書くことにします。今回は、夫も在宅勤務になって、あらためて見直した「家事」について。

6月20日(土)梅雨の中休みの晴天〜21日(日)1日雨降り
 梅雨に入って一週間足らず。雨降りの季節が始まると、私は朝晩天気予報とにらめっこして、洗濯するか否か、また洗濯したら外に干してから外出するか、それとも部屋干しにするかを考えるのに忙しい。
 土曜日はお日様が拝めそうだとわかって、朝6時に起床してすぐに洗濯機を回し始めた。3日分溜まっていたし、大物(バスタオル、バスマット、トイレマット、シーツ、布団カバーなど)を洗えるチャンスだ! 土曜は午前10時から外出する用事があったので、早めに洗濯をスタートして乾いたものから取り込んでいかないと、全部を干しきれない。
 遅い時間に起床して、朝食をとっている夫に「悪いけれど、昼過ぎに全部乾くはずだから洗濯物を取り込んでおいて」と頼んで出かけた。
 夜10時くらいに帰宅すると、夫が「洗濯物を取り込んで、畳んでおいたよ!」と胸を張って言うではないか!
 しかし「ありがとう……」という言葉は、居間のソファの上に投げ出された洗濯物の山を見たときに引っ込んだ。え? いま畳んだって言わなかった?
 「自分のことは自分でやらなくちゃいけないっていつもモトコさんに叱られるから、ぼくも自分の洗濯物は自分で畳むようにしようと思ったんだ」と夫。
 たしかに、夫のアンダーシャツやパンツやポロシャツはちゃんと畳まれて隅っこに積まれている。だが、私の衣類はともかく、タオルやシーツ類は取り込まんだままの山積み。これはいったい……???と腹立ちよりも疑問が起こったのだが、1日ばたばたと走り回ったせいで疲れ果てたので、その日は倒れるように眠ってしまった。
 翌朝、洗濯物を畳みながら、なぜ夫が誇らしげだったのかを考え、「これは1960〜70年代の核家族が育児にあたって、『自分のことは自分でやりなさい』と子どもをしつけたことが原因ではないか」と思い当たった。
 いやね、実は私も自分の子どもを育てた1980年代から1990年代も、「自分のことは自分で!」と子どもに言い続けたので、もしかするといまも生き続けているしつけなのかもしれない。
 自分のことは自分でやりなさい、というのは、自分のことだけやっていればそれでよし、という意味に子どもはとらえるし、親の意図もそこにあるのかもしれない。サラリーマン世帯が増えて、専業主婦が過半数を数えた時代には、子どものしつけは「自分のことだけやっていればよし」だったかもしれないけれど、いまや専業主婦は少数派になりつつある。家族みんなが自分のことだけやっていて、そのほかは主婦役におんぶにだっこでは、家事は回らなくなる。タオルなどみんなで使うものを洗ったり畳んだりする必要がない、と無意識にも思っている家族がいれば、主として家事を管理する人の負担が増すばかりだ。
 そういえば、我が家でもまだ子どもたちが小学校高学年と高校生だったとき、「食事が終わったら、自分が食べたお皿は流しに持っていきなさい」と言い続けていたら、自分が食べたお皿しか持っていかなくなって、ある日「みんなで取り分けて食べたお皿とか、調味料とか、そういうのも片付けなさい」と叱った、というか怒りを爆発させた。思春期の反抗期真っ只中だった娘たちは「それなら最初から、後片付けをしなさいといえばいいでしょ? 自分が使ったお皿とか強調しなくてさ」とクレームをつけられ、しゅんとなった記憶がある。
 「自分のことは、自分でやりなさい」。これは正しい。でも本気でしつけをする気なら、もう一言付け加えるか、言い方を変えないといけない、と反省している。
 「自分のことを自分でやれるようになったら、みんなのこともやれるようになろうね」
とか、かなあ。ハードル高そうだけれど。

6月9日(火)
都心まで行く用事があった。電車で行けば乗り換え2回で45分乗車の距離だ。地図をじっと眺めて、自転車で行けるかどうかを検討したけれど、Google Mapによれば自転車では片道2時間かかるというので断念。ママチャリに1日4時間またがっているのは、さすがに辛いもんなあ。
時間をずらして出かけたので、電車は空いていたし、車内は私が見る限りソーシャルディスタンスを意識してしている乗客ばかりだった。ここ数ヶ月で初めて「新常態」というのを実感。人と人の間の距離をこんなにも多くの人が意識しているとは!

6月10日(水)
今回の緊急事態宣言下の外出自粛要請が終わって「このまま今の家で暮らし続けよう」と決意を新たにした。
少し前まで、年老いてボケて動けなくなって、周囲に迷惑をかける前に高齢者施設に移ろうと思っていたのに、気が変わったわけだ。もちろん状況によっては、また高齢者施設を探すことになるかもしれないが、とりあえず今のところは「できるだけ長く、たとえ一人暮らしになっても、ここに住み続けよう」と思っている。
そう思った理由は2つ。1つはご近所コミュニティのありがたさを実感したことから。日記にもしょっちゅう書いているように、家庭菜園をやっている方から野菜を分けていただいたり、豊作だといってたくさん梅の実を分けてもらったり、お返しにお惣菜を届けたりするのがとても楽しかった。これまでもおつきあいはあったのだけれど、ご近所づきあいがコロナ禍を機に濃密になった気がする。
自粛期間中は外周りの掃除をするときに朝晩の挨拶以上の会話を交わすようになった。「そのマスク可愛いじゃない? え? 手縫いなの?」と褒めていただいたり、「今あそこの道は自転車が通れないわよ」と教えて差し上げたり。向かいに住んでいる外国人家庭(いまだにどこの国の人たちかわからない。少なくとも英語で会話はしていない)の女の子(推定3歳)から、私が自転車を出すたびに「行ってらっしゃーい!」「どこ行くの?」「気をつけてね〜」と日本語で声をかけてもらうようになったし。
2つ目は、時間に余裕があったのと、公共交通機関を使わなかったために、ご近所探索をする機会があり、地元の魅力を再発見したためだ。毎日出かけるたびに、必ず1本は通ったことがない道を通ることにしていたら、思いがけないおもしろいところ、すてきな場所を見つけた。
年老いたら階段が昇れなくなるんじゃないか、段差につまづいて転んで骨折するんじゃないか、調理定年が来て食事に困るんじゃないか、年寄り世帯は詐欺とか危険な目にあうんじゃないかなどなど懸念していたのだけれど、そんなこと今から考えてもなるようにしかならない。それよりも、今、現在のこの環境を大切にするほうが重要じゃないか、と思ったわけだ。
できるだけ長く自立して自宅で暮らせるようにと、毎日の太極拳は欠かさない、とそれも決意をあらたにしている。

映画「13th 憲法修正13条」を観た衝撃を書いた6月11日分は別立てにしました。
まだ衝撃が醒めない。

5月30日(土)
 受け身ではダメだ、といつも自分に言い聞かせてきたつもりなのだが、緊急事態宣言中に自分がいかに人に言われたこと(だけ)を必死にやっていたかを痛感させられた。フリーランスになって30年。仕事というのは、頼まれたこと、求められていることを、求められている水準プラスαくらいで仕上げて納品するというスタイルが染み付いてしまっていた。でも60歳近くなってくると、若いときのように待っていてもいなくても仕事が来る、という状態にはならない。だから、自分で開拓しよう、営業をかけよう、と動いてみたものの、どうも私が考えた開拓分野が違っているらしく、結局頼まれたことをこなす日々がまた続いてしまっていた。
そんなところにコロナ禍。
働き方が変わるどころか、「仕事」の定義まで大きく変わっている。
依頼を待っていてはダメなことはもちろん、開拓だの営業だのという発想そのものがもう時代にそぐわなくなっている、ことを痛感させられたこの2ヶ月。 
どんなことが「仕事」になるのか? 仕事ってそもそも何?
そんなことをもんもんと考えながら、やっているのは太極拳と書道。
大丈夫か>私?

読んでいる本:「ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」
梅森直之編著 光文社新書
「想像の共同体」が通読できていないのだが、まずは新書で入門してみようと2005年早稲田大学でアンダーソンが行った講義録を読むことにした。

夕飯はなめたカレイの煮付け、ピーマンとナスの味噌炒め、アスパラガス(2色)とハム、ほうれん草の白和え、豆腐とナスの味噌汁
アスパラガスを低温で茹でて、茹で汁に少し出汁を加えて味噌汁にしてみた。うーん、美味しいじゃないか。低温調理ばんざい
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5月31日(日)
 今年の夏は(も)長く暑いらしい。今の気候変動が人間の(無謀な)経済活動によって引き起こされたものであることはまちがいないのだが、太陽の活動とも関係しているらしい。
 外出自粛と経済活動の停止によって、夏の暑さは少しマシになるかなと少しだけ期待していたのだけれど、いやいや数ヶ月経済活動がゆるやかになったくらいで気候変動に変化が起きるはずもなく、そして太陽の活動も地球温暖化に拍車をかける。いや、太陽の活動による地球温暖化を、よりいっそう進めているのが人間の活動か?
 どちらにしても、暑いのが苦手な私にとって、2000年代に入ってからの酷暑は耐え難い。でもクーラーを入れる気にはならなくて、窓をあけて風を入れ、汗をふきながら書道。書道っていうと文化系で大人しくやるものだと思われるかもしれないけれど、実は身体芸術で、すごくからだを使うのだ。ぽたぽた紙の上に汗が落ち、そこの部分の墨が滲んでしまったりして、いらつく。早く夏が終わってほしい。

夕飯は近所の居酒屋さんでテイクアウトを買ってきてしまった。鯛のカブト煮、ほうれん草としめじのおひたし、刺身盛り合わせ

読んでいる本:「免疫力を強くする——最新科学が語るワクチンと免疫のしくみ」
宮坂昌之著 講談社ブルーバックス

免疫をつけるにはワクチンしかない! という主張を、素人にもわかるように筋道たてて説明してくれる。「免疫力」なんていう言葉自体が科学的じゃないこともよくわかった。ヨーグルトや納豆をキロ単位で食べても「免疫力」がアップするなんてことはない。強いて言えば、リンパと血液の流れを良くするために、運動することくらいしかない。
ワクチンができて普及するまで、こりゃあCOVID-19とうまく付き合っていくしかないわけだ。

6月1日(月)
 いつまでも引きこもってばかりもいられず、今日はたまっていた用事を一気に片付けてしまおうと午後早い時間から出かけた。自宅から代々木→原宿→渋谷を回って帰宅を予定していたのだが、起きたら雨が降っている。うーん、自転車が使えない。しかたなく全行程徒歩で行くことにした。18キロくらいかなと地図を確認。
ところが、原宿で受け取った資料が思いの外重くて、渋谷まで歩いていくうちに腕が痛くなり、でも雨模様だからかばんを下に置いてしばらく休むということもできず、ほとんど足をひきずるようにして渋谷も目的地に到達。そこでまた荷物が増えて、ついに観念した。
 3月27日以来初めて、電車に乗りました。2ヶ月半ぶりの公共交通機関利用。
 夕方7時前だったのだが、結構な混み具合で、座席は全部埋まっているし、つり革を持って立っている人もいて、以前と変わらない混雑ぶり。マスク着用率はほぼ100%だからいいものの、隣に座った人が咳をするのが気になった。
 帰宅してすぐにシャワーを浴び、冷やし中華をかきこんで10時前に眠ってしまう。ほんとに疲れた。私、社会生活に復帰できるのだろうか? 

読んでいる本:「感染症と文明—共生への道」山本太郎 岩波新書
この2ヶ月で読んだ本の中で、トップ3に入れたいおもしろさ!
「サピエンス全史」にもあったけれど、農耕が始まって人間が集住するようになることが、感染症の流行を引き起こした。農耕は決して人間(ホモサピエンス)の健康には良くないし、地球環境も壊滅的にダメにした。農耕で人間が増えて、その食糧を確保するために小麦とか米とか限られた植物を大々的に育てることで生物の多様性が失われ、森林が破壊され、河川は汚染され、人間は「未知のウィルス」に暴露される機会が増え……やれやれ。
印象に残った言葉
「根絶は根本的な解決策となりえない。病原体との共生が必要だ」
「パンドラの箱は多くの災厄を世界にばら撒いたが、最後には希望が残ったとする説と、希望あるいは期待が残されたために人間は絶望することもできず、希望と共に永遠に苦痛を抱いて生きていかなくてはならなくなったとする説」があるそうです。……やれやれ

6月2日(火)
 アメリカがたいへんなことになっている。
 ジョージ・フロイドさんという黒人男性が、ミネソタ州で白人警官に地面に膝で押さえつけられて死亡したという事件から、"Black Lives Matter"(黒人の命は大事だ)というメッセージをかかげてデモが起こった。
 フロイドさんは地面に8分も押さえつけられて死亡。3分で意識を失っているのにその後も押さえつけていた。それを一部始終撮影され、動画を見た人たちが立ち上がった。少なくとも全米140の都市で大がかりなデモや暴動が起きてすでに2週間弱になる。
 トランプ大統領がツイッターで、憎しみをあおるような書き込みをしたことで、デモも暴動もいっそう激化した。
 州軍を出せ、連邦軍を送るぞ、暴動を起こしているやつらは逮捕して長期間刑務所に閉じ込めろ、というトランプ大統領の演説を聞き、ツイッターを見てしまって、正直寒気と吐き気がした。
 平和的にデモをしている人たちに催涙弾を撃ち込み、何もしていない人にスタンガンをあてて逮捕する。 黒人も白人もヒスパニックもアジア系もデモに参加している。
 人種問題だけではない、経済格差とコロナ禍での貧困が背景にある……そういう背景解説がむなしく聞こえる。 解説はもういいのだ。
 怒りのこぶしを振り上げ、怒りの声をあげ、涙を流し、抗議する人たちの声をしっかりと聞き、その姿を目に焼き付けなくてはいけない。オバマ元大統領が言うように、「このときを、本当の変革のターニングポイント」にしなくてはならない。

夕飯はケールと野菜のスープ、スウェーデン風ミートボール(ディルとイタリアンパセリをたっぷり入れた肉団子にマッシュポテトを添える)、春菊の胡麻和えサラダ
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ご近所で菜園をしていらっしゃる方から、ケールをはじめとする野菜を分けていただいている。昨日も通りかかったら呼び止められて、ケールを根っこから一本引っこ抜いていただいた。春菊やルッコラも。たまらなく美味しい。野菜本来の味がからだにしみわたる。 

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