Glamorous Life

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装う快楽

春夏冬と休みになるたびに我が家恒例となりつつある「外国人ホームステイ」が今春もありました。

フィンランドからアンニという娘の友人がやってきたので、彼女を連れて大阪に帰省してきました。

大阪の地下鉄に乗っているとき、彼女が指摘しました。

「東京の電車のなかは静かだけれど、大阪はしゃべり声がすごく聞こえる。なぜ?」

そういえば、そうかも。

大阪の人たちは電車にかぎらず乗り物のなかでよくしゃべってます。それも結構大きな声で。一瞬、ケータイかなと思って振り返ったら、そうじゃなくて隣の人としゃべっている。

私はよく乗り物のなかで話しかけられます。服や持ち物について聞かれることもあれば(「変った時計してはるなあ。どこで買うたんですか?」「そのカバン、ええねえ。よう似合うてはるわ」とか)、ええ天気やなあ、電車遅れてるなあと世間話のノリで同意を求められることもある。阪神電車を使うので、阪神タイガースについての情報交換もよくあります。東京では一回もありません。

大阪がいい意味で(悪い意味でもかな?)田舎だと思うのはそんなときです。

 

腹囲をはかって、メタボリックと診断されたら健康指導を受けるそうです。

は~。厚生省はいったい何をやりたいのでしょう?

おなかがぼてっとしていたって、本人が「私は元気です」というのならいいじゃないの。自分がひっかからないからいうわけじゃないけれど、ほんと、太っているからって「指導」というのはすごくいやだ。放っておいてほしい。そうやって「病人」(未病人か?)を増やしてどないすんねん。

ジムに通って眺めていると、「健康のために運動しなさい」と厚生省におせっかいされるような人は、ジムにはほとんど見当たりません。5回通って1人見るかどうか。たいていは、なんかやたらとむきむき、はつらつ、ガンガン行こうみたいな人ばかり。つまり、ジムに通う人は「健康のため」というより、もっと別の意識が働いてのことだと思うのです。ま、私もですが(汗)いくら他人やおかみに命令されようと、運動したくない人はしたくない。お金払ってマシンの上をねずみみたいに走るのは、「健康のため」だと思ったらとてもできるもんじゃないです。

父が「身体を医学がコントロールできると考えるのは、人間のごうまんや」といいます。メタボで病気を増やし、太っていることが「自分の体をコントロールできない」と自己管理能力にまでダメだしするのって、やっぱりごーまんだと思います。

その延長線上には、老いや死さえもコントロールできるものだと考えるごーまんさがあるような気がしてなりません。

週末は京都におりました。

この1ヵ月での飛行距離は多忙なサラリーマン並みです。

そんなことはさておき、土曜日の夜に喉が痛くて目が覚め、寒気がして、これはマズイと起き上がり、イソジンでうがいし、エアコンをつけて眠りました。

翌日(昨日)から、鼻水が止まりません(汚くてすみません)。

今朝一番でまた医者に駆け込み(この1ヵ月で歯医者と見舞いも含めて、10回目くらい。ここ5年の総数を上回りそうです)、なんとかしてくれ、と迫ったら、花粉症用の強い薬をくれたのですが、服用してもいっこうによくならない。だって、これは風邪だから。たぶん。ま、いっか。とりあえず花粉ってことで飲み続けよう。

今年に入ってから、何もせずに休んだ日が一日もない、という疲労の蓄積が問題かも。年末から怒涛の90日間でしたからね。カルピスの原液くらいの濃い日々。それなのに、今日はどうしても○○しなくちゃ、とあせるような気持ちで起き上がり、ああ、また今日も××がまだできていないと落ちこみながら眠る日々。私はいったい何をどうしたいのだろうか?

あ、花粉より、そっち(どっち?)系のアレルギーなのかもしれません。

ああ、つらい。

アメリカの金融不安と大統領選の行方を追いかけるのに忙しいジツカワです。

山一証券倒産と今回のベアーズの救済合併が重なる、というトピックスを新聞で読みながら再び考える「日本のバブルとそのあと(始末)」のこと。

いま家の改装中なのですが(と、いきなり話題急展開のようですが、そうではない)、バブル崩壊から18年もたったいまになって、いまだにその影響があるんだなと思い知らあされることがあります。

それは日本における(かなり底が浅いながらも育つ要素はあった)LUXURY MARKETもまた、バブル崩壊によって失われてしまったのだ、ということです。

カーテン一つとっても、上質で、デザイン性がよくて、見栄えがするものが、日本製品には皆無です。

機能性はいい。一見美しげにも見える。値段もaffordable。でも、ぜいたく感、高級感はまったくない。

何百枚もサンプルをめくり、ショールームに通って吟味し、雑誌をめくってチェックを入れ、これぞと思うものをピックアップすると、全部ヨーロッパ製品です。値段はユーロ安もあってnot accessible。日本製の最高級品と比べても、ゆうに2倍の開きがあります。

何回となく販売や営業の人に詰め寄りました。

「なぜ、輸入物と日本製とはこうまでクオリティがちがうんですか?」

「なぜなら、バブル崩壊後、できるかぎりコストをカットして、機能性を付加価値とする方向にすべての製品がシフトしたからです。デザイン性はいまだに二の次だというメーカーが大半です」

私はなにも豪華絢爛の貴族のようなインテリアにしようと考えているわけではないのです。ただ、そう簡単にかけかえられないとわかっているカーテンや、少なくとも20年は毎日見続ける壁紙には、品のよさがほしい。安っぽいのはいやです。飽きがこないものがほしいのです。その程度のLUXURYがほしい。

日本のバブルがもしあともう10年続いていれば、本物のLUXURYを育てることができるMARKETが育ったでしょうか? ヴィトンのバッグをもつことがステイタスなんて哀しい現象ではないLUXURYが。

アメリカでは今回の景気後退で、LUXURY MARKETはかえって(たぶん)大衆から離れて本物の熟成を見せるのではないかと思います。それがいいことか悪いことかは別にして。日本とは富の底の厚さがケタ違いであることをまたもや思い知らされることになりそう。

それにしても、カーテンどうしよう? いつまでもテーブルクロスをガムテープで貼っているわけにはいかないしなあ(はいはい、ビンボーくさいですよ)。ため息。

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大学の同級生の結婚披露宴に招かれました。

前夜、私が夫に「あした結婚披露宴だからいってくる」というと、夫が「...息子さんの?」

いえいえ、友人のほうですよ。

純白の豪華なウェディング・ドレス。(とっても美しかったです!)

ケーキカット。

新婚さんいらっしゃいクイズ。

花束贈呈(ただし、それぞれの息子さん、娘さんたちに。みなさん成人なさっていらっしゃいます)

ひさびさにフルコースの結婚披露宴でした。

しかも祝辞がみなさん非常にうまい!カップルはお二人とも第一線で大活躍だし、人脈がとても広い。

マイク真木さんのバグパイプ演奏やら、落語家さんのお話やら、ジャズの演奏やら、アトラクションもすごかったです。

何よりも、2人がいろいろあった半世紀以上の人生を経て、これから一緒に歩んでいこうというところが、若者の結婚式とちがって感動的でした。

お子さんたちがみんなとってもすばらしい方たちばかりで、お父さんとお母さんを尊敬しながら、あたたかく見守っていくという大人の姿勢で、好感がもてました。

......それじゃ私も「いいなぁ。私ももう1回結婚したい」と思ったかって?

いやー、ごめんなさい。もう結構。結婚するエネルギーを別のことに向けたいです。なんていうのは、すれた夢もロマンもない50代の感想でした。

 

恥ずかしながら、あとで着物姿をアップしてみます。

うーん、こうやってみると、着物がいまいちだったかなぁ。母のいうとおり、ちゃんとした訪問着にすればよかった。一応、紋が入っている着物なんですが、結婚披露宴には地味だったかなぁ。

帯ともあってないような気がする。

でも、今回の経験で、母や祖母たちから譲られた着物をちゃんと生かしていきたいなという気になりました。

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