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グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

「保育無償化・負担軽減策」が議論になっている。伝えられる記事を読みながら、暗澹たる気持ちになり、そして憤っている。ほかの国の現状は知らないので比較はできないが、日本は子どもと育児を大事にしない国なのではないか。
子どもを産みたくても産めない社会になってしまい、少子化が社会問題になって久しい。私が記憶するかぎり、もう30年は社会問題となって日本の将来への危機感がつのっている。そして近年は働かざるをえない親(大半は母親)が増えているにもかかわらず、預かってくれるところがないために待機児童が増え続けている。少子化と待機児童増加、一見矛盾するような社会問題の根っこにあるものは同じだ。「子どもを大事に育てることへの(政治家、行政、そして社会全体の)認識不足」ではないか。
問題への対応策が「3〜5歳児の認可保育園保育料を無償化すること」だと聞いて、私はその場で崩れ落ちそうになった。 な〜〜〜〜〜んにもわかっていない!!! 子どもたちと親たちが置かれている現状も、保育園とそこで働く保育士さんたちの現状も、子どもを育てることがどういうことなのかも、な〜〜〜〜〜んにもわかっていない人たちがこんな政策を選挙の人気とりのために打ち出してくる。今年のはやりとなった言葉「ち〜〜が〜〜〜う〜〜〜だろ〜〜〜!!」と叫びたい。今ここで叫んでいるけれど。
そもそも認可保育園に入れる子どもは「特権階級」なのだ。認可園では収入に応じて保育料を負担しているが、それでも認可外に比べると最高レベルの収入が払う人たちの保育料でも認可園は安い。低収入であればほぼ負担なしである。一方で、認可保育園に入れない大半の親は、泣く泣く高い保育料を払って、質が保証されていない認可外に預けざるを得ない。私は37年前に、認可外(当時はベビーホテルというのがあった)に月8万円も払って長女を預けていた。そのころの相場では、預ける時間が15分以上延びると1時間分の1200円加算されるので、会社近くの都心まで電車を乗り継いで赤ん坊を抱っこして通っていた。私の給料は保育料と子どもにかかる費用で全部飛んでいき、給料日前には銀行に二桁の金額しかなくなってキャッシュカードでお金がおろせなかった。なんのために働いているのかがよくわからなくなかった時期だ。
新設の区立保育園ができると区の広報紙で見つけたとき、半休をとって子どもと一緒にできたばかりの園舎を見に行って、その足で区役所に走って申し込みをした。無事に認可園に入園(措置、という)できるという通知が届いたとき、子どもを抱きしめてうれし泣きした。安堵のあまりに思わず涙がこぼれたのだ。
その後、第二子が生まれるまで7年空いてしまったのも、保育園に入れるかどうかわからないという不安からだったと思う。しかし、あの頃私は信じていた。「保育園のことでこんなに苦労するのは、きっと私の世代で終わりだ」と。「子どもを産んで働き続けることは、きっともっと自然で楽なことになる」と。そんな期待は見事裏切られた。
30年後の今、娘たちは子どもを保育園に入れるためにもっとたいへんな思いをしている。育休は保活のために費やしていると言っていいほどだ。園の見学は最低でも20園は必要だそう。歩いていける範囲に20も園があるわけではないので、抱っこ紐に赤ちゃんを入れて電車に乗って保育園探しである。それだけやっても、どこかに入れる保証はない。だが、いざとなったら祖母である私が預かる、というわけにはいかないのだ。条件がどれだけ悪かろうが、どこかに預けないと、翌年の認可園申し込みレースのスタート台にさえ立てない。「祖父母に面倒を見てもらえばいいじゃないか」ということになってしまうから。
限られた政府予算の使い途の優先順位は、認可園の保育無償化ではないはずだ。
保育士の待遇改善、認可外保育園の保育を国基準にすること、何よりも「就学前の子どもの教育(保育)の質向上」に力を入れてほしい。0歳から5歳という期間をどう過ごすかは、子どもの一生を決めるといってもいいほど重要だ。保育とは、オムツ変えて、ごはん食べさせて、危なくないように見張って遊ばせること、という程度の認識しかない人たちに保育予算の使い途を決めて欲しくない。
私は2人の娘たちを0歳から保育園に預けて、園の先生方や仲間の親たちと一緒に子育てをしてもらった経験が、私自身の大きな財産になったと思っている。娘たちも保育園が大好きだった。保育園で過ごした5年間は、彼女たちにとって宝物のような時間だった。だから、自分の子どもたちも保育園に入れたいと必死なのだ。
保育園は「親の疾病や就業によって保育に欠ける(かわいそうな)子どもたちをケアするところ」ではもはやない。保育園の問題は、子どもたちやその未来だけでなく、親世代も、その上の祖父母世代にも関わってくる問題だ。保育園は今の、そして未来の社会を映し出す場だ、と私は思う。保育に対する認識を変えること、つまりは子どもを育てること、そして子どもについての認識を変えること、保育行政にかかわる方たちには、まずはそこからはじめていただきたい。
保活まっただなかの娘を見ながら、読んでとても考えさせられた本をあげておく。
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「保育園を呼ぶ声が聞こえる」 猪熊弘子、國分功一郎、ブレイディみかこ著 太田出版
まえがきで保育ジャーナリストの猪熊さんが書く。「「保育」がただ子どもを預かる箱さえあればできるものだと思っていた人でも、最後まで読み終えたら、「保育」がいかに大切かを知り、理解することがきっとできるだろう」「少子化で少なくなった大切な子どもたちを、もっともっと豊かに、愛情深く育てていくことが、この国の未来を左右することに気づいてくれるだろう」。まさにそのために書かれた本。保育園問題が広い視野にたって語られるべきトピックであることを認識させてくれる。
「国家がなぜ家族に干渉するのか〜法案・政策の背後にあるもの」本田由紀・伊藤公雄 編著 青弓社
家族と国家、両者の関係について社会学者、政治学者、法学者が語る。「家庭教育支援法」「親子断絶防止法」を打ち出してくる現政権の「異常さ」が見えてくる。
「成功する子 失敗する子〜何が「その後の人生」を決めるのか」ポール・タフ著  高山真由美訳 英治出版
日本語のタイトルは今ひとつだけれど、格差社会の中でどうやって公平な教育をしていけばいいかについて、子育て中のジャーナリストが真正面から取り組んだ好著。読み書き算数の認知能力以上に、「やり抜く力」「自制心」「好奇心」といった非認知能力を育むことが、子どもが幸せな人生を送る上で大切だ、ということを科学的実証的に語っている。
「ワンオペ育児〜わかってほしい休めない日常」 藤田結子著 毎日新聞社
娘に言わせると、もうワンオペを云々するよりも、職場において父親(男性)母親(女性)を同等に扱うようにしてほしい、とのこと。なぜ女性だけが育児時間を取らされるのか、なぜ男性の育休取得率が低いのか、それは職場の見えない男女差別ではないか、というのですが、それを少しずつ消していくためにもワンオペは考え直さなくちゃね。

 

 政治家が口に出してはいけない言葉がある、と私は思っている。その一つが「自己責任」だ。失業した、住む家を失った、病気になった、などなど、困難を抱えた人たちに「それはあなたの努力が足りないからだ。もっと頑張ればよかったのに、頑張らないでそうなったんだから、それはあなたの自己責任だ」ということを、もし政治家が言ってしまったら、それは政治をあずかるものとしての資格がない。それどころか、政治家としての存在理由さえ失ってしまうのではないか。そもそも自己責任がとれない人たちが生きていけるような社会をつくるのが、政治家の仕事ではないか。
 自分で自分の生活に責任がとれる、何が起こっても自己責任で行動できる人たちは、社会的強者だ。教育を受けるチャンスを与えられ、努力ができる、もしくは努力が報われるチャンスにも恵まれ、不当なことや理不尽と思えば声をあげられる、といった力を持っている人は、社会的強者だ。
 そして今の政治家は圧倒的な力を持つ強者の集団になってしまった。ダントツの「勝ち組」だ(勝ち組負け組という言葉も私は大っ嫌いだが、ここではやむなく使う)。そして困ったことに、生まれたときから強者の集団にいて、強者の集団にどっぷりつかって教育を受け、仕事をしている人たちは、自分の価値基準でしか人を判断できない。人は努力すれば報われる、弱者も強者になれる、だから頑張れ、困ったことがあれば声をあげればいい、支援を求めればいい、と平気で言ってしまう。それができないから、困っているというのに。
 努力する、もしくは頑張るチャンスにも力にも恵まれなかった人たちが困窮した姿を見て、手を差し伸べることは、圧倒的強者である政治家の使命だと私は思っている。それなのに、何世代にもわたって強者の価値基準でしか判断してこなかった政治家たちは、弱者を切り捨てる。「自己責任だ」という冷たい(言ってはいけない)ひと言で。
 21世紀に入ってから、いや、バブルの頃からか、政治家がやっていることは社会的強者をもっと強くし、弱者が弱者になったのは「自己責任だ」と突き放すようなことばかりだ。
 これは世界的な傾向らしい。「チャヴ〜弱者を敵視する社会」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳、海と月社)は英国の労働者階級がなぜ英国社会で嘲笑され、敵視されるようになったかについて書かれた本だ。
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 チャヴとは、英国の労働者階級を侮蔑的に呼ぶ言葉だが、もとは(欧州から中東まで差別の対象となってきた)ロマ族の言葉で子どもを指す「チャヴィ」から来ているそうで、つまり激しく差別的な呼称である。ところが英国ではチャヴのファッションや生活をおもしろおかしく取り上げるテレビ番組やサイトが堂々と放送、公開されて人気を博していたり、自身は私立校出身の大金持ちのコメディアンがチャヴの口調を真似して笑いをとったりしているそうだ。
 オーウェン・ジョーンズという英国の歴史学専攻の若者が20代だった2011年に書いたこの本は、世界的ベストセラーとなり、政治運動、社会運動に一石を投じた。著者自身はオックスフォード大学のエリートという社会的強者であるが、強者であることを自覚している。自覚している、と言うのは、強者が持っている力が強者自身の努力で手にしたものでないことをわきまえている、ということだ。だからチャヴという、いまや下層階級になってしまった労働者階級に対する見方が、上から目線ではない。同情とか手を差し伸べなくては、とかいう上からの姿勢ではない。チャヴが困っていること、チャヴの人生の喜びと希望を、チャヴの側に立ってかなり公平に冷静に分析している。
 サッチャー政権時代以来、労働者階級の人々が大切にしてきた価値観はズタズタにされた。英国が厳然とした階級社会であるという現実を無視して、「がんばれば努力が報われる社会にします」(はい、どこかで聞いたことがありますね、このセリフ)とか言って、社会設計を大きく変更した。福祉を大幅に切り捨て、困っている人たちには「がんばれ」とエールだけ送り、自助努力と自己責任という言葉で斬り捨てた。
 階級のトップに立つ人たちにとっての「階級」とは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした仕事につき、まじめに働いて金を稼げれば、すいすいと階段をのぼっていけるような感覚なのだろう。だが、「ちゃんとした」教育や仕事の概念が、中産階級と労働者階級とでは異なることを、政治家たちはまったく気づかなかった。労働者階級の中には、階級の階段をのぼりたくない、いまの生活で十分ハッピーだ、という人たちだって大勢いるのだ。というか、そちらのほうが多数派だ。「自助努力で中産階級に這い上がれ」といくら鼓舞したところで、価値観が根本から違うのだから動かないし動けないし、動く気がまったくない。そういう人たちの仕事(鉱山や工場の閉鎖が1980年代から相次いだ)を奪い、若者たちの人生の選択肢を狭め、「落ちこぼれ」「負け組」とレッテルを貼って嘲笑している。それがチャヴを笑いものにしている今の英国社会だ、と著者は言う。
「労働者階級の人々を悪者扱いすることは、不合理な制度を正当化する恐ろしく合理的な手段である。そうやって彼らを敵視し、彼らの関心事を無視したうえで、いまのはなはだ不公平は富と権力の分配は、人の価値や能力を公平に反映していると正当化する。だが、この敵視には、さらに悪質な意図がある。労働者階級の特定のコミュニティをむしばむ貧困、失業、犯罪といった社会問題全般に、自己責任の原則を当てはめるという意図だ。「ブロークン・ブリテン」においては、被害者はつねに自分を責めるしかない」(引用終わり)
 今年出会ったベスト本の1冊である「子どもたちの階級闘争」(ブレイディみかこ著、岩波書店)で知った本書「チャヴ」であるが、読みながら「え? これって日本の話じゃないのか?」と思う箇所がいくつもあった。と言うか、本書はまさに日本社会に当てはまる内容だ。2011年に英国で現実だったことは、2017年の日本でも現実だ(2017年以前からもちろん現実である)。生活保護受給者へのバッシング、在日外国人(特にアジア)労働者の敵視、難民受け入れの拒否……どれも根っこのところは同じだ。弱者への敵視。弱者になったのは、弱者自身の「自己責任」だとして、その人たちが何を考え、求めているかをちゃんと見ようとしない。
 政治や社会問題なんてむずかしそう。英国は階級社会だろうけれど、日本は一億総中流社会(→いつの時代だ? そもそもそんな社会だった時代が日本にあったのか?)だから関係ない。そう言わないで、ぜひぜひ読んでみてほしい。強者/弱者、富めるもの/貧しいもの、と社会が極端な形で二分されている現実から目を背けて、弱者を敵視(「ああはなりたくない」「お友達になりたくない」という意見も含まれる)しているうちに、自らが敵視される社会になってしまう……かもしれないのだから。

昨晩は味の素スタジアムで、サッカー日本代表vsシリア代表の親善試合がありました。私は勉強会があり、同時間帯に見られなかったのでダッシュで帰宅してからの録画観戦となりました。なんてったって、ガンバの選手が5人も選ばれているとあっては、見ないわけにはいきません。後半に今野、倉田、井手口の3選手が中盤を構成したときには、胸が熱くなりましたよ。
とはいうものの、私はどうもサッカー日本代表戦の観戦が苦手です。 試合前からスタジアムにお経のように響きわたる「ニッポン、ニッポン」コールに酔いそうになっちゃうし、実況や解説の絶叫にもうんざりしてしまうから。テレビ観戦のときは、録画だろうが生放送だろうがA代表の試合のテレビ観戦は消音モードです。 
FIFA非加盟の国や地域、僻地の人たちが結成したサッカー協会がメンバーのCONIFAの活動にかかわるようになって、スポーツの「国別対抗戦」について考えるようになり、なぜ自分が日本代表戦に燃えないのかが少しわかってきました。
「国」に所属しないと参加できないワールドカップやオリンピック(最近は「難民」の身分での参加も可能になりましたが)ですが、どちらも代表として出場していながら、その「国」で生まれ育ったわけではなく、もしかするとその国の言葉も満足に話せない選手がいっぱいいます。サッカーのワールドカップでは、移民してきた国で代表になった選手はいっぱいいるし、オリンピックでも、たとえば卓球では中国で生まれて帰化した選手を代表にしている国は多い。スポーツの国際大会は「国別対抗戦」が原則であるがゆえに、どこかの「国」に帰属していないと選手は出場できない。だから選手は帰属意識のあるなしに関係なく、自分を代表にしてくれる国を選ぶことがあります。選ばれた国にとっても、活躍してくれれば国威発揚に役立つ。なんか……すっきりしない。

そんな私の気持ちをすっきりさせてくれたのが、星野智幸さんが「新潮」に発表した「世界大角力共和国杯」でした。 ぜひ読んでいただきたいのでネタバレは避けますが、ざっとあらすじを説明しておきます。
日本国籍ではないからと日本大相撲協会に残れなかったモンゴル人のカリスマ力士が、世論を味方につけて年寄りになり、さらに10年後に相撲協会の理事長に就任する。実権を握るや否や、「国籍条項」を全廃止しようとし、反対されると協会を脱退して自ら日本大角力連盟を立ち上げる。新連盟は「世界大角力共和国構想」を発表し、角力を世界的競技にするための画期的なアイデアをつぎつぎと実現していく。女性力士のプロ化から、外国籍力士が引退後自分の国に帰って部屋を立ち上げるときには手厚いバックアップをする、といった「革命」により、角力は日本の「国技」から、世界的人気を獲得する競技になる。
共和国杯は予選を勝ち抜いた世界中の力士が、真の角力世界一力士を決めるための大会。おもしろいのは、日本人の「純血」の力士がコンプレックスを抱く、というところ。父方、母方共に日本の有名力士だったという伊勢ノ杜という力士は「負けるたびに「純粋培養は逆境に弱い」と言われ続けてきた」という。
「出身を問われて正直に答えると、ああ、だからか、という顔をされる。血なんか関係ない、血のせいだと言われたくない。そうじゃないことを証明してやる、と思うのに、注目の一番となると固くなって自分の相撲が取れず、負けてしまう。「伊勢ノ杜は弱い」と言ってくれたほうがすっきりするのに、素質はあるけれど純日本人であるがゆえにひ弱なのだ、と言われると、やりきれない思いにうちひしがれる」
私はここで笑ってしまった。なんというアイロニーなんだ! いや、ごめんなさい、稀勢の里ファンの方に悪いけれど、ここで浮かんでしまうのが稀勢の里の姿。私も稀勢の里を応援しているけれど、日本人だからっていうんじゃなくて面白い角力だから。でも白鵬の角力も好きだし応援している。ま、私はあんまり角力詳しくないけれど。
そして両親ともモンゴル人で、日本生まれの日本育ちの大関はモンゴル系日本人であって「純血」ではないとされる。主人公は「純血って何なのだ?」と頭をかきむしります。
その答えも書かれています。
「純血とか混血とか、本物とか移民とか、全部幻想だ」
幻想、というか、フィクション。作られた物語なんだ、と私も思います。
人は自分が帰属しているものについての物語を必要としている、と文化人類学者は言います。だから神話が語り継がれ、経典や聖書が生きる上での規範となり、同じ物語を持った集団をまとめる「国」が作られる。
でも、個人が自分の中で紡いでいる物語が、必ずしも生まれ育った「国」や今暮らしている「国」の物語とは一致しないことだってあるわけです。ましてや自分が代表としてスポーツの国際大会に出場するために選んだ「国」の物語を幻想として抱けるかと問われたら、さて、どうなのでしょうか?
ときどきクスクス笑いながら面白く読んだ小説でしたが、読み終わった後に考えこんでしまいました。

私自身はいったい何に、どこに、どのように帰属しているのだろうか?
両親ともに「日本人」だったし、先祖をさかのぼっても日本で生まれ育った人たちばかりなのですが、それなら私は日本に帰属していると自覚しているだろうか?
私は自分の中でどんな物語を紡いでいるのだろう?
なーんてことを考えて、この小説を読んだ後に「口語訳 古事記」(訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋)を読んでます。
すごいね、私。角力からいきなり古事記に飛んじゃったよw

次女が4〜5歳のとき、いわむらかずおさんの絵本「14ひきシリーズ」が大好きでした。
森に住む14匹のねずみ一家の春夏秋冬の日常が美しい絵とともに描かれていて、季節に合わせて読み聞かせては私も楽しんでいました。
春になって家族みんなでお弁当を持って野原にいく「14ひきのピクニック」を読んだ翌日のこと。3月下旬でめっきり春めき、その年初めてコートを着ないで、トレーナーだけで保育園に登園した朝でした。身も心も軽くなったのか、マンションの中庭を駆け抜けた娘が、春の光が降り注ぐ公園の真ん中でいきなり大きくジャンプし、「うっほほーい、春だよ、春だっ!」と叫んだのです。(指摘あり。セリフは「はるのかぜ、はるのにおい」だったそうです)
ジャンプもセリフも前夜一緒に読んだ、14ひきのピクニックの最後のページそのままでした。娘がそのとき着ていた空色のトレーナー、チェック柄のズボン、赤い靴、背負っていたお弁当や着替えの入った紺色のリュック、そして私を振り返った笑顔まで、今も私ははっきりと思い出すことができます。
娘はそのとき初めて「春」という言葉を身体感覚として獲得したのだと思います。
娘だけではなく、私にとっても「春」の認識が変わった瞬間でした。春とは、あの瞬間の光、空気、空の色、そしてとてつもない解放感を感じさせる言葉になりました。
絵本を読まなければ、娘は「春」が感覚としてつかめなかったかもしれない。春という言葉を自分のものにできなかったかもしれない、とさえ思います。
娘が「春」に気づいた、言い方を変えれば、娘は絵本に書かれたセリフを通して「春」と初めて出会えたのだと思います。

6月3日に、難民を助ける会(AAR)が「世界難民の日」を記念するために開催したトークイベント「芥川賞作家、小野正嗣さんを迎えて〜文学で語る難民問題」を聴きに行きました。
非常に興味深くて、深いお話だったのですが、聴きながら私が考えていたのは「出会うこと」についてでした。
文学者である小野さんは、フランス留学時代に滞在していた家で、家主夫妻が受け入れていた多くの難民たちと知り合う機会を得たそうです。その後、日本に帰国してからも、偶然知り合ったシリアの方が内戦によって難民になってしまうのを目の当たりにしたこともあったとか。フランスでの難民との出会いがきっかけで、何かが小野さんの中で目覚めて、その後も難民との「出会い」(ご縁みたいなもの)が続いていったのでしょう。
AAR理事長の長さんは、アメリカ留学中に自分自身がマイノリティとなって差別される経験をしたことがきっかけで、旧ユーゴスラビア問題に関心を持ち、ホロコーストと文学について深く考えるようになり、「難民を助ける会」の活動に踏み込んでいったそうです。
なぜ日本人のあなたが、遠い海外の「難民」に関心を持つのか?
関心を持つだけでなく、難民に何らかの関わりを持って活動しようとする動機はどこにあるのか?
それに対して、小野さんも長さんも「事実と出会ったから、何かせずにはいられなかった」と答えていらっしゃいました。小野さんの場合は「出会った以上は書かずにはいられなかった」、長さんは「何か手を差し伸べないではいられなかった」
しかし「同じ事実を目の前にしても、出会える人もいれば出会えない、出会おうとしない人もいる」と小野さんは言います。
でも同じ光景を見ても、同じ経験をしても、出会う人もいれば出会わない人もいる。
 出会えるか出会えないかを分けるもの。それは(小野さんは直接的にはおっしゃいませんでしたが)「言葉」ではないか。もっと言えば、出会った人や事柄の物語が読めるかどうかではないか。
小野さんは「難民を人間にしたい」と、日本にいるコンゴ民主共和国からの難民を取材して文芸ルポを発表されました。その人の人生を言葉を紡いで物語ることで、その人は「難民申請中の人」というデータではなく、生きて、働いて、泣いて、笑う身体を持った人間になった、ということです。
(一言言っておくと、私は「難民」という言葉があまり好きではありません。避難して保護されるべき人たちの意味が、なんか面倒なことを起こす困った人たちみたいな印象を与えかねないから。彼ら彼女らに当てはめられるマイノリティという言葉にも強い抵抗があります。マイノリティ=少数グループというのは、人を数やデータと見てしまう、マジョリティ=多数グループからの一種の「差別」だと思うのです)
小野さんの言葉を通して描かれることで、初めてその人は身体を持ちえて、物語られる存在となり、読者と出会えたのです。
小野さんがお書きになった「ヒューマニティーズ 文学」(岩波書店)を会場で購入し、帰宅してから読みました。評論だから読むのに苦労するかな、と恐る恐るページを開いたのですが、お話を聞いたからか、それとも最近の私がCONIFAの活動に関わることで感じていることに通じるところがあったせいか、すっと腑に落ちる内容でした。もっといえば、感動さえ覚えました。
「文学は社会の役に立つのか」(なぜ役に立つのか)の章でグッときたのはつぎの文章。
「われわれは文化や国籍のちがいなど関係なく文学作品に出てくる登場人物たちに共感することができる。しかしそのような人間であれば誰でも可能な共感の力は、とりわけ作品に描かれている文化や社会、そしてそれを描く言語が「自分のもの」だと感じられるとき、いっそう強くなるだろう」
共感の力、つまり出会える力、と私は理解しました。文学作品の中に紡がれていく言葉をたどり、言葉に耳を傾けることで、初めて人は人に、そして世界に出会える、という意味ではないかと。
そして物語られている話を「自分のもの」と感じることで、共感する気持ちはいっそう強くなる。私が思うに、自分のものと感じて初めて、なんとかしなくちゃ、何かせずにはいられない、という行動のモチベーションになるのだ、と思います。
出会いをモチベーションにして行動することは、実は私たちは日常的に経験していることではないでしょうか。「春」という言葉を絵本で読んだことで、「春」に出会い、光を全身に浴びてジャンプするという行動に出た4歳の娘のように。「難民」や「移民」との出会い、共感したことが行動に結びつくことも、それとたぶんあまり変わらないのではないか、と小野さんたちのお話を聞きながら思いました。春が嬉しくてジャンプして叫ぶことも、難民や移民の人たちを受け入れるために何らかの行動を起こすことも、実は同じように言葉に反応する感受性が鍵を握っているのではないか。

私は常々、翻訳というのは本の中から響いている「声」を聴く仕事だと思っています。登場人物や著者が考えていること感じていることだけではなく、母語ではない言葉で書かれた文章がつむぎだすリズム、書かれた時代や文化全体からの響というか声を聴くこと。聴いた声を、今度は「自分のもの」とするために母語とする言葉で発してみること。つまり、身体的な感受性や表現力が必要とされるのではないか。
小野さんと長さんのお話を聞きながら、そうか、文学者の仕事もかなり身体的なものなのだと気づきました。「声を聴く」「言葉を発する」そして「行動する」それが文学者の仕事なのではないか。声に文字通りの意味で耳を傾ける、というのはまさに共感することの基本です。出会えるかどうかは、まず声を、言葉を、聴けるかどうか。
最後に、長さんがおっしゃり、カクンカクンと首が肩に埋まるくらい頷いたのはこの言葉。
難民と出会ったとして、何かする「義務」があるのでしょうか? という質問に対して、長さんは「行動を起こす義務はないけれど、知る義務はある」とおっしゃったのです。
なぜ難民が世界に6500万人もいるのか?
そもそも難民とは何か?
日本はなぜ難民を認定しないのか?
それを知る義務は私たちにあります
知った後にどうするか? それはその人の判断となるのだけれど、とにかく知ることが大事。

とりとめないことを書きましたが、AARの講演会は私にとって大きな出会いになりました。ほんと、聞きに行ってよかったです。感謝。 

気がつくと5月も今日で終わり。ここんところ仕事がめずらしく立て込んだせいで、2週間ブログの更新ができませんでした。とりあえず入稿は終わって校正が出るまでちょっと一息。
先日、知り合いの方(友人というほど親しくはない)から電話がかかってきて、平日の昼間の音楽会のチケットが余ってしまったので一緒に行かないか、とお誘いをいただきました。たまたまその日に出張が入っていたので、「ごめんなさい、京都で仕事があるからうかがえない」と言ったら、「え? お仕事していらっしゃるの? まあ、お仕事っていったいどこにお勤め? どんな仕事をしていらっしゃるの?」とえらく驚かれて立て続けに質問が飛んできました。
こういうとき、私はどう答えたらいいのか、本当に困惑するのです。
私の仕事をどう説明したらいいのだろうか?
会社員です、と社名をあかせたら少しは理解も得られるかもしれないけれど、そうはいかない。フリーランスという働き方が世の中にあることを知らない人の方が多く、ともすると「あやしいことをやっている」と思われかねないことをフリーランス歴28年の私はよく知っているのですよ。だから働き方で答えることは避ける。
やむなく「翻訳とか物書きやっています」というと、「まあ、作家さんなの?」と別方向に踏み込まれ、説明がますます面倒になる。翻訳業というのも世間に認知されていないのですよね。説明したところで、「そんなことが仕事になるのか?」と以前にはよく言われました。まだ作家の方が通りがいいみたいです。
そしてそれ以上に私を困惑させるのが、「なぜ働いているのか?」という質問です。
思えば、学校を卒業して働き始めたときから私は「なぜ働かなくちゃいけないのか?」と聞かれまくりました。40年近く働き続けた今も、まだ聞かれます。いまは「還暦過ぎてもまだ働かなくちゃいけないのか?」という質問に変わりましたが。
そして私は自問もします。
私はなぜ働くのだろう? 私にとって仕事とは何だろう?
この2つの質問は私の中では別物です。
まず、私にとって仕事とは何か? という問いかけに対しては、「社会の一構成員としての役割を果たすこと」と自分に言い聞かせています。あ〜〜めんどくさい答えだなあ。こじつけもいいとこ。
日本語大辞典には仕事の定義として「生計を立てるための職業」とありますが、生計を立てるためだけに私は仕事をしていないのです。生計が立てられるのなら仕事をしないか、と自分に問いかけると、いやいや仕事するでしょと答えます。社会の一構成員として認められたい、人の役に立ちたい、そんな気持ちから仕事をしていると思います、
食べていくだけのために仕事をしていないから、たぶん私は「なぜ仕事をしているのか?」と聞かれるのだと思います。会社員の夫が「生計を立てる職業」についているために「ちゃんと働いているご主人がいるのに、なんで仕事するのか?」と言われ続けてきました。卒業した高校の校長に結婚後もまだ仕事を続けていることがバレたときに「いい加減に社会勉強はおやめなさい」と真顔で叱られました。「あなたがやるべき仕事は家庭を守ることでしょう」と諭されましたね。結婚後に仕事をしているだけでもそんな言われようでしたから、子供が生まれてもまだ仕事にしがみつく私には、「いい加減にしろよ!」と非難の声も高かったです。
面と向かって「元子さんのやっている「仕事」って、恵まれた主婦の暇つぶしよね」と年上の専業主婦に言われて相当落ち込んだこともあります。会議の席で反対意見を出したら、部長から「こちらは真剣に仕事しているんだ。遊びで仕事しているきみが正論をくどくど喋ってかき回すな」と言われたこともあります。反論しようにも、「仕事」の概念が食い違っているのだ、と諦めました。そもそもこんなことを自問すること自体、切羽詰まっていないものの戯言なのかも。
それでも私は言いたい。家庭という小さな社会から、世界という大きな社会まで、一構成員として私ができることをする、それが私にとっての「仕事」なのではないか。やはり私は「人の役に立っている」という手応えを得たいのです。役に立っていることの証明として報酬が欲しい。いや、かつては「これをしていったい何になるのだろう?」とどこかで思いながら、それでも依頼があって、報酬が提示されたことでやってきた「仕事」もたくさんありました。そうやってある程度稼いだところで、60歳になったときに、「役に立っている」という手応えのあることを「仕事」にしようと思ったのです。批判や非難は承知の上で。

つぎに、なぜ働くのか?
簡単です。生きるためです。私にとって働くことは生きることです。
またまた日本語大辞典に登場願います。働くとは「からだを動かす。動く。行動する。努力して事をする。精出して仕事をする。労働する」ことと定義されています。要するに、じっとしていないで動くこと、それが働くということ。仕事、家事、育児、介護、どれをするのも「働く」ことになります。
必死に働いたからといって、生計が立てられる保証はないけれど、働かないと生活はしていけません。だから私は死ぬまでちゃんと動いて、働きたいです。

「仕事」も「働くこと」も今大きな曲がり角に来ています。
AIの発達で、今ある「仕事」の半分以上、いや8割がなくなるだろう、とさえ言われています。残るのは、教育、介護、医療など人を相手にする仕事だけになるかもしれません。
「働き方改革」で、残業をなくし、1日8時間働けば「生計を立てられる」ような労働管理をしようという動きも出ています。週3日、1日3時間しか働かなくていい時代がもうすぐ来る、という記事も読みました。あとの時間は「家族と一緒に過ごす」「趣味に打ち込む」のだそうです。でも、家族がいない人はどうすればいいのでしょうか? 趣味と言ったって、趣味にとどまっている間はそうそう打ち込めるものじゃないです。膨大な時間を「暇つぶし」だけで埋められないのではないでしょうか? 働き方改革は必要ですが、人にとって仕事とは何か、ということを、今一度問い直す時代に入っていると思います。
あと10年もたたないうちに、会社に通勤して一箇所に固まって働く働き方は廃れていくような予感がします。また1つだけでなく、複数の仕事をかけもちする人も増えてくるのではないでしょうか。私のように「翻訳者、ライター、ときどきコーディネーター」と肩書きがいくつかある人間への理解も、今よりは深まるのではないかと期待します。
なぜ仕事するのか?(女性で、主婦で、母親なのに)と質問(非難や称賛)する人も減ってほしい。
しちめんどくさい答えを用意しなくてもいい世の中になってほしい。
心から願っています。

(このテーマに私はいつも頭を悩ませているので、最近読んだ参考図書をあげておきますね)
「人工知能が変える仕事の未来」野村直之著 日本経済新聞出版社
翻訳業はもしかするとあと数年後になくなるかもしれない、という危機感から読んだAI本。「敵」を知らねば話にならないと、読みました。人工知能(Artificial Intelligence)とは何か、どんなことができるのか、それが仕事をどう変えるのか、ということをわかりやすく、ごく基本的なところを押さえて書かれています。そのほかにもAI本は何冊か読んだのですが、この本が一番私にはしっくり来ました。

「なぜ働くのか」
バリー・シュワルツ著 田内万里夫訳 朝日出版社
TED Booksなので、こちらの反応を見ながら話しかけてくるような文体で書かれていて、思わずうなずいたり、首を傾げたりしたくなる本でした。人間にとって仕事とは何か、働くとはどういうことか、という哲学的な問いかけに対して、自分の経験を元に語っています。今回のブログのテーマを書いてみようと思ったのは、実はこの本を読んだのがきっかけ。

「超一極集中社会 アメリカの暴走」 小林由美著 新潮社
朝、ついポチって読み始めたら、気づくと夕方であたりは暗くなっていました。強烈な内容に、しばし呆然として仕事が手につかず。辛いかもしれないけれど、本書にある1%のエリート以外は読むべき本です。アメリカの現状を日本の近い未来にしないために、今、私たちがやるべきことはまずこの本を読むことではないかと。

 

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