Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

新刊がもうすぐ出ます。
「サッカー・グラニーズボールを蹴って人生を切りひらいた南アフリカのおばあちゃんたちの物語
ジーン・ダフィー=著 実川元子=訳
平凡社

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南アフリカ北東部リムポポ州の村に住む高齢女性たちは、ストレスと加齢に起因する高血圧や糖尿病に悩まされ、医師から運動を勧められていたが、とてもその余裕がないまま病状を悪化させていた。
自らも結腸癌で通院していたベカ・ンツァンウィジという女性は、病院でそんな高齢女性たちの姿を見て心を痛め、これはなんとかしなくてはと立ち上がった。まず、女性たちをなだめすかし、病院裏手の空き地で自分といっしょにエクササイズをしようとうながした。
あるとき同じ空き地でサッカーをしていた少年たちが蹴ったボールが一人の女性の足元に転がってきて、その女性が蹴り返した……それがサッカー・グラニーズが生まれるきっかけだ。(グラニーズは英語でおばあちゃんの意味)
少年たちに頼み込んでボールの蹴り方やルールを教えてもらううちに、女性たちはしだいにサッカーにのめりこんだ。からだを動かすことで健康を取り戻し、集まっていっしょにボールを蹴って、おしゃべりをして悩みを打ち明ける仲間ができたことで、女性たちは自尊心も取り戻した。
 ベカはついに高齢女性たちのサッカーチーム「バケイグラ・バケイグラ」(バケイグラは南アフリカの言葉でおばあちゃんの意味)を結成する。コーチやチームドクターを自腹を切って雇い、村をまわって長老たちを説得し、いくつもの「バケイグラ・バケイグラ」をつくって、地域対抗の試合をするまでになった。
 南アフリカの高齢女性サッカーチームに注目し、BBCが放映したニュースを見たアメリカ在住の白人女性ジーン・ダフィー(著者)は、地元マサチューセッツで開催される成人のためのサッカー大会「ベテランズ・カップ」に「バケイグラ」を招待しようと思いつき、ベカに連絡をとる。
 ジーンは子どもたちのサッカーの試合をライン際で応援するのに飽き足らず、30代でチームに入り、15年も毎週試合を欠かさないサッカーウーマンである。チームや地元のサッカー協会の支援を受けて、ジーンたちは数々の困難を乗り越えてベカが率いる「バケイグラ・バケイグラ」の20人あまりのおばあちゃんたちをアメリカに招待するのに成功する。
 その後もジーンたちのチームと南アフリカのサッカー・グラニーズとの交流は続き、昨年には南アフリカで世界各地のサッカー・グラニーズのチームの国際大会まで開催された。
 
 南アフリカの黒人高齢女性は人種差別、性差別と年齢差別という三重の差別を受けている。アパルトヘイトの時代を生き延びた女性たちは、過酷な人種差別政策と、「女の子は学校に行かなくてもいい」という社会の性差別のために教育を受ける機会が奪われた。本書で紹介されるサッカー・グラニーズの大半は小学校すら出ておらず、字が書けない読めないために就業がかなわず、自宅の庭に植えた野菜で飢えをしのぐしかない、という人が大半だ。歳をとって病気がちになると、コミュニティの人たちに殺されてしまうこともある。
 また1990年代から2000年代はじめにかけて南アフリカではHIV/エイズが猛威をふるい、子どもを亡くしたおばあちゃんたちは、孫やときにはひ孫の面倒まで見なくてはならなかった。南アフリカの人種差別、そこに起因する貧困と暴力のすさまじさを、サッカー・グラニーズたちはインタビューで淡々と語る。
 それなのに本書は明るさに満ちている。ボールを蹴っているおばあちゃんたちは、はじけんばかりの笑顔だ。その人生は理不尽な暴力にさらされて苦難の連続だったはずなのに、表情が底抜けに明るいだけでなく、前向きだ。
 グラニーズたちはサッカーをすることで仲間を見出し、さまざまな苦難を乗り越えて生き延びた自分を肯定し、生き延びたことを感謝している。それがグラニーズたちを輝かせている。
 訳しながら、何回となくこみあげてくるものがあった。校正しながらも、涙が出てくる箇所があった。
 著者が本書の最後を締めた言葉を、私は噛み締めている。
「人生をどう思うかって? もちろん、生きることは最高だ!」

 

7月最後の日だった昨日にながながと振り返り月着(げっき=ひと月の記録。造語かな)を書いたのですが、何回トライしてもアップできませんでした。何なんだよ、ブログは時代遅れってことかよ、と毒づくのはほどほどにして、気を取り直して7月に読んだ本、観た映画やドラマなどについてあらためて記しておきます。

映画館で観た映画は2本。
「90歳、何がめでたい」作家、佐藤愛子さん(すでに100歳を超えられました)が90歳のときに書かれたエッセイが大ベストセラーになり、それに基づいて佐藤さんを草笛光子さんを演じられ、編集者を唐沢寿明さんが演じた映画です。(なぜか「さん」づけしている)書友に誘ってもらって、書道のお稽古の帰りにシネコンで見ました。観客の平均年齢は60歳を超えていたね、きっと。歳を重ねるひとつの姿を描いているのだけれど、40歳以下が見たらピンとこないんじゃないかと思いました。草笛さん(90歳超えていらっしゃる)がきらきらとまぶしいほどに美しく、90歳超えてなお現役社会人を演じているのもどこか絵空事に感じられるのではないかと。でも、映画のところどころに私は老いの現実を感じて、単なるコミカルな映画とだけは受け取れなかったな。

「ピクニックatハンギングロック」1986年に日本で公開され、今にいたるまで映像の美しさと謎めいたストーリー(実話をもとにしている)でファンが多いという映画。監督のピーター・ウィアーはこの映画がオーストラリアだけでなく世界的にヒットして注目を集め、やがてハリウッドに進出してハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック/目撃者」を撮りました。私は「ピクニック〜」がオーストラリア映画祭で日本で初公開されたときに観に行き、その後小説も読みました。掘れば掘るほど迷路に迷い込むような映画で、38年ぶりに観ると、最初に観たときや小説を読んだときには「見えていなかった」ものがおぼろげに見えてきたような気がしています。

配信で見た映画は8本ほど。とくに印象に残った2本について書いておきます。
なんといっても印象深かったのは「Perfect Days」ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の話題作ですが、1年に1回くらい見直したいと思ったほどよかった。あらすじを書いたり、役所広司演じる主人公の平山がトイレ掃除の仕事場に向かうときに車内で聴くカセットの音楽についてはもうあちこちで書かれているのでやめておきます。そこで使われている70年代、80年代のロックやソウルも脳に染み入ったのですが、それ以上に子どもたちのはしゃぐ声などの街のざわめきや風が木々を吹き抜けていく音、かすかな鳥の声、風呂屋に響く水や桶の立てる音、などがどんなセリフや歌よりも染み入る「音楽」なのだと思いました。と言いながら、平山が早朝、朝日が昇る時間帯に仕事場であるトイレに向かう高速道路で聴く「朝日のあたる家」の本家The Animalsとlukiによるカヴァーを毎日繰り返し聴いています。音楽だけでなく、役所広司の身体性が目に焼きつくなど映像も美しい。ヴェンダース映画のなかで私は一番好きかも。ほんと染み入る映画です。
「Saint Frances セイント・フランシス」34歳独身、定職なし、パートナーなしの女性が、バイトでゲイ・カップルの6歳の少女の子守りをすることになる。パートナー探しのパーティで知り合った男性とセックスしたら妊娠して中絶することになったり、コンプレックスから苦手意識があった両親と久しぶりに会ったら母親からあたたかいメッセージをもらって感動したり、少女のギター教室に付き添いでいったら教師にひと目惚れしていいところまでいくけれどロクでもない男だとわかって幻滅したり……少女、フランシスやその両親とつきあっていくうちに、人との距離の取り方や、人に甘えることができる大人へと成長していく、とまとめてしまえばそんなストーリー。

読んだ本でガツンと殴られたような衝撃を受けたのは、
ハン・ガン著 斎藤真理子訳(白水社)でした。済州島4・3事件を生き延びた母親の最後の晩年を共に過ごした映像作家のインソンと、光州事件を扱った小説を書き終わって抜け殻のようになったキョンハが、生と死を行き来しながら語り合うという形式。なんてこんな薄っぺらい言葉ではとてもあらわせない。読んでいる間、大きな灰色の霧のようなものに取り巻かれて、前にも進めず、引き返すこともできず、それでは苦しいのかというとむしろ痛痒いみたいな気分のまま読み進みました。一気に読んでしまったのだけれど、もう一度読み直す必要を感じています。
娘に勧められて「七王国の玉座」ジョージ・R・R・マーティン著 岡部宏之訳(早川書房)をいま読書中。ファンタジー好きとしてはこれは読まずに死ねるか本ですね。

酷暑をいいわけに、毎日のように配信で映画を見て、TVerでオリンピックを見て、ちっとも仕事していない。熱中症になるから外に出かけるのは控えて、といわれても、サッカーの試合は見に行ってしまうし、旅行も行ったし、書道をはじめ展覧会にもあちこち出かけています。元気の証明、ということにしておこう。

6月もまた駆け足ですぎていき、2024年上半期が終わりました。
今年の初めに、今いる世界を守っているだけではなく、新しい世界に思い切って飛び込んでみようと決意を新たに半年たちました。
これまでなかなか出会うことがなかった人たちの講演会やセミナーにいって話し合いをしたり、目に入ってなかったジャンルの映画を見たり、これまで敬遠していたライトノベルに手を出したらめちゃハマってしまったり、長年見ていなかったNHK朝ドラを見始めたり、その合間に仕事をしたりで、忙しいわ、ほんと。
ハマったライトノベルはこないだも書きましたが「本好きの下剋上」(香月美夜著)。33巻読み終わりました。どっぷりハマって、「あと1時間仕事したら、マインの世界にちょっと浸ろう」と仕事のやる気をあげるために利用するほど。あ〜〜読み終わってしまっていまロスです。
ほかにも「成瀬は天下を取りにいく」「成瀬は信じた道をいく」(宮澤未奈著 新潮社)も一気読み。楽しい小説でした。
朝ドラ「虎に翼」を見るようになったことから、毎日のように「虎に翼」についてツイートしていらっしゃる小川公代さんの新著「翔ぶ女たち」(講談社)をさっそく読みました。トークイベントにも行った。
 そしてこの本で紹介されているキャロル・ギリガンの名著「もうひとつの声で 心理学の理論とケアの論理」にうなりました。私が40年間悩んでいる「家事と育児と夫のお守りと親の介護と仕事の5つをどうこなしていくか」を自分に納得させる答えのひとつが見つかったようにすっきり……いやすっきりはしないけれど、そうか、そう考えればよかったのかと納得するところは見つかりました。
うなったといえば、もう首がガクガクするくらい「そう、そうなんだよ!」とうなずくばかりだったのが「いばらの道の男の子たちへ ジェンダーレス時代の男の子育児論」(太田恵子✖️田中俊之)。ファッション雑誌STORYで子育てについての読者からの疑問に答える形で、弁護士の太田さんと、男性学研究者の田中さん(お二人とも息子が2人いらっしゃる)が対談したもの。ファッション雑誌がジェンダーを真っ向から取り上げたこんなすごい連載をやるようになったのか、とそちらにも感動。何しろ第1章が「うちの息子が社会で勝ち抜けなかったらどうする?」でいいのか? という問題提起で、男の子の過剰な(そして「それに勝ったからといって何?」というような)マウンティング行動を論じていたり、ほんと「そこそこそこ〜〜〜」というかゆいところに手が届くような答えがすばらしい。

6月は映画館に行く時間が取れなかったのだけれど、配信で見た「パリ20区、僕たちのクラス」がとても良かった。2008年にカンヌ交際映画祭でパルムドールに輝いた作品。自分の体験をもとに脚本を書き、主演したフランソワ・ペゴドーの演技がすばらしい。生徒たちも全員が演技経験がなかったそうだけれど、1人1ヶ月ずつ訓練したそう。14歳から15歳にかけてのむずかしい年頃の子どもたちが、むずかしい環境のなかで成長していき、先生たちも成長する姿が描かれていて、感動しました。

6月も充実した時間が過ごせたかな。忙しくて、体力の限界に挑戦してます、みたいな日々が続いたけれど、体調を崩すことなく乗り切れたのはありがたい。
これから苦手な夏が本格的に始まりますが、下半期は少しギアを落として徐行運転しようと思っています。

恐ろしい勢いで月日が流れていきます。もう5月が終わるとは! 5月、いったい何をやっていたのだろうか、と視線をななめ45度上をにらんでしばし考えました。あまりに早く過ぎ去ってしまったので、なかなか思い出せない。
毎年5月連休明けに毎日書道展の締切があるので、GWはひたすら墨と格闘していました。3ヶ月かけて、ああでもない、こうでもない、ええい、上手くいかない! 思ったものができない! と悪戦苦闘してなんとか締切クリア。まあ、やれることはやったかなと自分を納得させています。
仕事は今年8月に出版される本の校正、検討中の本のリーディングやレジュメ作成、書評やらなんやらの原稿作成など、あれ?振り返ってみると結構仕事していたんだな、5月も。
親しい友人たちと夜の会食も4回ほど。おいしいものが並んだテーブルを囲んで、いっぱいおしゃべりをして、笑って……やっぱりね、リアルで会ってしゃべるほうがオフラインよりずっと楽しい。
サッカー観戦3回。2勝1分という近年にない好成績です。ありがとう、ガンバの皆様。おかげさまで私はこの1ヶ月とても機嫌がいいぞ。
読書ではこの数週間、「本好きの下剋上」というライトノベルにハマっています。33巻もあるので、まだまだ楽しめそう。いま18巻を読んでいます。読み始めたらやめられない。おもしろいです。
ジャンルとしてはいまファンタジー界で大流行りの異世界転生もの。本が大好きな日本の女の子が、本屋も図書館もない異世界に、幼い子どもとして転生する。からだは4歳児だけれど、頭の中身は22歳大学卒業生。卒業後は司書になる予定で、本に囲まれて暮らすはずだったのに、生まれ変わった世界では本は羊皮紙に書かれた貴重品で、平民は本なんてものを見たこともない。ただただ「本が読みたい」あまりに、まず植物紙を作るところから奮闘する……という話です。ファンタジーではあるんだけれど、「女の子のお仕事チャレンジ」というジャンルでもあるので、本好き、お仕事もの好きの私にはどんぴしゃです。
映画館で見た映画は、劇場版「ハイキュー‼︎ ゴミ捨て場の決戦」、イタリア映画祭で「グローリア!」、「コール・ジェーン〜女性たちの秘密の電話」。

 さて、明日6月1日は湘南戦です。
 その前に、いまスペインに行っているなでしこジャパンは、ニュージーランド女子代表と試合の予定。いまNZの友人から連絡がありました。あ〜〜〜NZ行きたい!



「フェミニズムズ〜グローバル・ヒストリー」

ルーシー・デラップ著

幾島幸子訳 井野瀬久美惠 解題
明石書店

 

 年が明けて冬物バーゲンでまた奇抜な服を買ってしまい、「こんな服、いったいどこに着ていくつもりか?」と自分で自分にツッコミを入れながらかさばる袋を抱えて帰ってくる電車のなかで、「フェミニズムズ」を開いたら、「ルックー装い・外見」の章にどきっとさせられる言葉と出会った。

「二一世紀のベールやブルキニ(イスラム女性向けの顔と手足以外が隠れる水着)についての論争や、ヒラリー・クリントンのような公人の服装を執拗なまでに監視するメディアを見ていると、女性の「位置」を規定するうえで、衣服がその中心を占めてきたことを再認識させられる。他人と違う装いや外見を選ぶことは、革命的な可能性をはらんだ行為なのだ」

 女性の「位置」は、階級、職業、肩書き、経済状態といった公的な要素と、性別や年齢、家族、友人、コミュニティにおける人間関係といった私的な要素によって規定される。自分の位置を自分で判断し、その位置にふさわしい衣服を選ぶか、それともあえて違うものを選んで「革命的な可能性」を試すか。

 私はフェミニストを自認している。だが、私はどういう意図でちょっと奇抜な服を選んだのか? 選んだ上で、なぜ「どこに着ていけばいいんだろう?」「いい歳してこんな服着て、若づくりしてるとか思われないか?」などと悩んでいるのか? なぜ堂々と「革命的な可能性をはらむ服」を選んだぞ、悪いか? と開き直れないのか? なぜならそこまで腹をくくってフェミニストになっていないからではないか。なんてことを考えて悶々とした……というのはおおげさだけれど、フェミニストを自認するのであれば、外見について考えることもたいせつだなと思った次第。フェミニズムは生活に密着している。本の中におさまっている思想ではないのだ。

「革命的な可能性」をはらんだ服装とは、女性がズボンをはくのが許されなかった時代や場所であえてズボンをはくとか、頭髪を見せてはいけない地域で逮捕覚悟でベールをかぶらないで外を歩くとか、警官隊が見守るなかでも上半身裸でデモ行進するとか、である。女性たちが置かれている「位置」に逆らって、自分の身体を自由に表現するという意図を持って打破することだ。「フェミニズムズ」では、世界各地で女性たちが挑戦してきたそんな例がたくさん紹介されている。

 その一方で、本書ではこう釘を刺すフェミニストの言葉も紹介されている。

「女性は自分の身体について自己規定し、自己決定すること(を認められるべきだ)。だが、その特権を最初に行使するのは、もっとも特権に慣れ親しんだ人たちであることを忘れてはならない」

 フェミニズムというと、19世紀に世界に先駆けて近代化した西欧社会で、貴族やブルジョワという特権階級に生まれ、高等教育を受ける機会に恵まれ、経済的にも不自由のない生活を送れて、なおかつ今風の言葉でいえば「意識高い系」の女性たち(ときには男性)から始まった思想であり、彼女たちが起こした運動であるように思われている。もちろんそれもフェミニズムなのだけれど、それは主流だったり、元祖であったりしたわけではなかった、ということを「フェミニズムズ」の著者ルーシー・デラップはこの大著を通して主張しつづける。
 ケンブリッジ大学教授でイギリス近現代史が専門のデラップさんこそ、特権的な「位置」にいる人のはずだが、フェミニズムの歴史を紹介するうえでの目配りはそれこそグローバルに行き届いている本書は中東、東アジア(日本や中国の女性解放運動についてもかなりくわしく紹介されている)、インド、東南アジア、南アメリカ(チリやアルゼンチンなどでの性暴力に抗する女性たちの運動には感動した)、ロシア、ウクライナからオーストラリアやニュージーランドなどでも、女性たちが(だけでなく男性や性的マイノリティの人たちも)、生きる可能性を広げるために闘ってきた歴史が紹介されている。

 フェミニズムは地域によって、時代によって、また女性一人ひとりの「位置」によって、動機も異なれば、めざす目的もちがうし、訴え方もちがう。ジェンダー平等だけがフェミニズムの目標ではないし、思想として「これがフェミニズムだ!」と一冊の教科書にまとめられるものではない。
 だから「夢」「アイディアー考え・概念・思想」「空間」「物」「ルックー装い・外見」「感情」「行動」「歌」というテーマごとに、こんなふうに女性たちは自分たちが生きのびる道を探ってきたんだよ、と例をいくつも紹介していく書き方は、総花的と見えても、フェミニズム「ズ」と複数で紹介する意味ではまっとうな手法ではないか。

 本書で私が感動した話がある。2017年、ミス・ペルー・コンテストに出場したモデルたちが、自己紹介で名前や出身地に続いて、それぞれの出身地域で発生した女性の殺害、児童虐待やDV件数を発表したそうだ。それは南米で頻発するフェミサイド(女性や少女をターゲットにした殺人)に抗議して、SNSでハッシュタグをつけて拡散した運動#NiUnaMenos(もう一人の犠牲者も出さない、の意味)に触発されてのことだったという。

ミス・コンは若い女性の身体を、男性たちの性的・美的基準でモノ化している、と反対してきた人たちは少なくない。だがそれを逆手にとり、にっこり笑うだけでモノ言わぬはずのミス・コン出場者が女性への暴力反対を訴えるという、まさにフェミニズムにのっとった主張を公の場でしたことは、フェミニズムの訴え方にはさまざまな手法があることを示している。

 ペルーのミス・コンのあと、#NiUnaMenosの運動は世界的に広がった。実は私も南米だけでなく、スペインで、フランスで、女性たちが集まって、女性への暴力撲滅を訴える画像を以前に見ていたが、ペルーのミス・コンが契機になったことは知らなかった。このエピソードを知っただけでも、本書を読んだ価値あり、と思っている。

 

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表紙は
アフガニスタン女性革命協会の創設者、ミーナ・ケシュワル・カマルさん。カブールで女性の識字能力や雇用に関連するプロジェクトに取り組み、DVに反対する運動を行っていた。協会のメンバーは、アフガニスタンにカメラや機関紙を持ち込むには全身をおおうブルカが役に立つと考えていたそうだ。カマルさんは民主化運動に命懸けで取り組むも、パキスタンに亡命を余儀なくされ、その地で1987年に暗殺された。31歳だった。

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