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2023年サッカー本大賞で、拙訳書「女子サッカー140年史〜闘いはピッチとその外にもあり」が特別賞を受賞しました。
https://article.auone.jp/detail/1/6/11/94_11_r_20230406_1680750102480030
サッカー本大賞ってなに? 特別賞ってなにが特別? という疑問がわいてくるかたも多いでしょうが、なにはともあれ、選んでいただいてありがたいです。
何よりも、この本が日本で出版され、なんらか賞をいただいたことが、女子サッカーのPRに少しでも役立てば訳者としてとても幸せです。
受賞にあたって、喜びのコメントを書いたので、ここに転記します。

「女子サッカー140年史〜闘いはピッチとその外にもあり」

特別賞受賞に寄せて

 

このたびはサッカー本大賞特別賞に本書を選んでいただき、ありがとうございます。

 今年はオーストラリアとニュージーランドで第9回FIFA女子ワールドカップが開催されます。男子のワールドカップに遅れること61年、1991年に初めて中国で女子ワールドカップが開催されました。そう聞くと女子サッカーはまだ歴史が浅いと思われる方も多いと思いますが、本書には19世紀末にはすでに女子サッカー競技が行われていて、第一次世界大戦中に大人気のスポーツ競技だったことが描かれています。男子サッカーにひけをとらないどころか、それ以上の人気だったのです。
 それなのになぜFIFAが女子ワールドカップを開催するまでに長い紆余曲折があったのか? イングランドだけでなく、フランス、西ドイツ、ブラジルなど世界各国で1970年代まで50年にわたって女性がサッカーをすることを禁止されたのは何故なのか? 

 そこには、サッカーだけでなく女性がスポーツをするときにぶつかる壁があったからだ、と本書は訴えます。「女性は男性に比べるとからだが弱いし、出産に支障が出る恐れがあるから、激しいスポーツをするのは危険だ」「サッカーのような男性向けスポーツをするのは女性らしくない」といった見方が、競技団体から一般社会にまで広くあったことが女子サッカー禁止令につながり、ひいては発展と普及に歯止めをかけたことを本書はあきらかにしています。
 しかし、そんな偏見や差別を乗り越えて、女性たちは140年にわたってサッカー競技を続けてきたのです。

本書で女子サッカーの歴史を築いてきた偉大な先人たちを知っていただき、そんな歴史を経てきてニュージーランドとオーストラリアの晴れやかな舞台に立つ選手たちに、大きな声援と賞賛を送っていただければと願っています。

本書は英国の全国紙ガーディアン紙とオブザーバー紙で「女子サッカー特派員」をつとめるジャーナリスト、スザンヌ・ラックによる初の書き下ろしです。女子サッカー特派員という肩書をつけて全国紙に記事を書くのも彼女が最初でした。女子サッカーをもっとよい競技にするための提言を、本書でも記事でも歯に衣着せずにずばずばと書くスザンヌ・ラックの勇気に賞賛を送ります。

 また、刊行にあたってさまざまなご意見をくださった木村元彦さん、日本女子サッカーの歴史と現状について教えてくださった松原渓さん、すばらしい帯の推薦文を寄せてくださった澤穂希さんにお礼を申し上げます。
 本書は「良質のサッカー本」を長く出し続けている白水社の編集者、藤波さんの尽力なしには日の目を見ませんでした。ここであらためて感謝を捧げます。

 最後に、特別賞に選んでいただいたことが、日本の、また世界各国の女子サッカーの発展にほんの少しでも貢献できれば、訳者としてこれ以上ないほどの喜びです。ありがとうございました。 

「おいしいごはんが食べられますように」
高瀬隼子著 講談社

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 まず最初に言っておく。
 タイトルにだまされちゃいけない。この小説がグルメな話を書いていると思ったら間違いだ。
 たくさんの料理(カップ麺含む)がにおい、味、食感ふくめて登場するが、読後に気づく。どの料理もおいしそうではない。それ以上に胸焼けするように書かれている。
 食事風景も殺伐としている。恋人同士(と一応なっている)の二人が食べる健康的なメニューも、職場のお疲れ様会も、おでん屋で同僚と酒を飲みながら盛り上がる場面も、家族団欒の食事風景も、どれも殺伐としている。
 高瀬隼子、ただものではない。
 おいしいものをこれだけ胸焼けがするように書ける作家を私は知らない。
 心安らぐはずの愛する人との食事風景を、これほど殺伐と書ける作家はほんとただものじゃない。
 小説は職場の男女二人の若手社員の視点で語られる。二人は恋人ではないが二人だけで飲みに行く。セックスしかかったこともある。でも、距離がある。一緒にごはんを食べて、一緒に飲んで、話がおおいに盛り上がっているのに、距離がまったく近づかない。そしてその距離感を二人は心地よく感じている。一緒に食事をするときの距離感が共有できるからだ。
 二人の話題はもっぱら職場の女性、芦川さんのことだ。
 芦川さんは女性(押尾さん)の先輩で、男性(二谷さん)よりも年上で、心身ともに「弱い」キャラを職場で通している。仕事がまったくできない。それどころか少し忙しくなったり、ややこしい仕事をふられると頭痛がするといって早退する。職場の繁忙期に正社員が深夜まで働くことになっても、パートさんと一緒に定時に退社する。それが許されている。なぜなら「本当に素直でかわいくていい子だから」
 芦川さんは「みなさんに迷惑をかけているのでそのおわびに」と言って、毎日手の込んだスイーツを自作して持ってくる。職場の上司も同僚も「すごーい」「うまいなあ」といってありがたくそのスイーツをほめたたえながら食べる。押尾さんもみんなが「有名パティシエでもこんなにすごいスイーツは作れない」とか褒めているのに「ほんとにね」とか頷きながら、一応おいしそうに食べる。二谷さんは「すごいっすね。自分はもったいなくてすぐに食べられない。夜食にとっておいて大事に食べます」と言って、その場では食べない。そして全員が退社したあと、ビニール袋に入れて、ぐちゃぐちゃにつぶして廊下のゴミ箱に捨てる。毎日。こわい。二谷さんだけでなく、スイーツを作ってくる芦川さんも、おいしいといって食べる同僚や上司も、すごくこわい。
 二谷さんは芦川さんが自分の部屋に来て作ってくれた、健康的で素朴な家庭料理を「うまいっす」と食べる。そして芦川さんが自宅(実家住まい)に帰ったあと、いかにもからだに悪そうなこってりしたカップ麺をかきこむ。食べたという実感を得るために。わかる。健康的でおいしいものが、必ずしも胃を満足させるものじゃないから。
 毎日、ゴミ箱に芦川さんのスイーツが捨てられていて、しかも誰かがそれを拾って芦川さんの机の上に置いてあることが続き(芦川さんはスイーツに気づいても何事もなかったようにさっとゴミ箱に捨てる)、それが押尾さんがやったのではないかと思われ、結局彼女は辞職する(というか転職する)。二谷さんは人事異動で遠方の支店に転勤になるが、スイーツ事件とは関係ない人事だ。

 芥川賞受賞作のこの作品について「仕事と恋愛の話」という紹介があるけれど、的はずれだ。
 この本は人間としての弱さと強さの話だ。そして、強いから(もしくは正しいから)勝つのではなく、弱いことを前面に出して、それが許される人こそが勝者になる人間関係があることを指摘している。
 スイーツ捨て発覚で押尾さんに非難が集中したときに二谷がいう。
「押尾さんが負けて芦川さんが勝った。正しいか正しくないかの勝負に見せかけた、強いか弱いかを比べる戦いだった。当然、弱い方が勝った。そんなのは当たり前だった」
 会議資料が作れずに叱責され、そのために頭痛で早退した芦川さんがやり残した資料を作ることになった二谷は、心中舌打ちしながらこう思う。
「弱いと思われたくない。それ以上に、できないと思われたくない。みんなに。しようもない承認欲求だとは思わない。会議資料作りなんて誰がしたいだろう。(中略)したくないことも誰かがしないと、しんどくても誰かがしないと、仕事はまわらない」
 そして押尾さんははっきりとこう思っている。
「芦川さんのことを嫌いでいると、芦川さんが何をしたって許せる気もする。許せない、とは思わない。あの人は弱い。弱くて、だから、わたしは彼女が嫌いだ」
 読後感は芦川さんがつくる生クリームたっぷりの美しいショートケーキを食べさせられたように、奥歯に甘さがしみて、胃にもたれる。
 しかし、この小説は私が近年読んだ芥川賞作品のなかで、飛び抜けて秀逸である。 

今年は11月まで締め切りに追われに追われて、腰を据えて本(学術書みたいなの)を読むことがなかなかできなかったのですが、就寝前に読み耽ったお楽しみ本(漫画)はいろいろとありました。
シリーズで読み耽ったのは、
アン・クリーヴスシェトランド島シリーズ(昨日、ついにシリーズ最後となる「炎の爪痕」が出てしまって、これ読み終わったらもうペレス警部に会えなくなるのかと思うとさびしくなるから読めません)
あさのあつこの弥勒シリーズ(「闇医者おえん秘録帖」「ラストラン」「バッテリー」にも)
ドラマにもなった「アンサング・シンデレラ」(まだ終わりそうにないのがうれしい)
8年にわたる連載が終わった「ゴールデン・カムイ」
でした。
お楽しみ本にハマるのは、私の場合、現実逃避したいときで、だからできるだけ自分がいまいる環境とは異なる場所や時代が舞台になっているものを選ぶ傾向にあります。
そのためか、北欧やアフリカを舞台にしたミステリー、サスペンスとか、時代小説がハマるのにぴったり。

お楽しみとは言えないのだけれど、「障害」に関する本にも結構はまりました。
自分が年齢を重ねているうちに身体的・頭脳的にいろいろとできなくなることが増えてきて、この不具合(dysfunction=機能障害)やできなくなること(disability=能力欠如)を自分にどう納得させてつきあっていけばいいのか。またそういう「障害」による社会的な不利益=handicapをいかに減じていけばいいかを考えたかったから。
伊藤亜紗さんの「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社新書)を数年前に読んでほほ〜と目を見開かされて以来、「記憶する体」「目の見えないアスリートの身体論」「わたしの身体はままならない」とか立て続けに読みました。そもそも自分の身体を自分が思うように動かせられるものなのか。ままならない身体をAIがどこまでサポートできるのか。認知症で骨粗しょう症の母の身体を見ながら、将来自分が老いていく姿を想像し(でもたぶん9割がた外れているだろうけれど)、dysfunctionalでdisableになることを受け入れられる力を養っています。 
ベストセラーになった「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」(川内有緒)もたいへん示唆に富む、そしてたのしい本で、「視る」ことで成り立っていると思っていたアートの鑑賞を根元からくつがえしたし、そうかそういう楽しみ方、「見方」もあるのかと目からウロコ本でした。
「くろは おうさま」(メネナ・コティン文・ロサナ・ファリア絵 うの かずみ訳)は視覚障害を持つ人のための絵本で、さわることで楽しめるという、これまた目からウロコでした。編集した細江幸世さんと訳者の宇野和美さんのトークイベントもたいへん興味深かった。点字で読書する視覚障害者が3割くらいしかいないっていうのも驚きだったし、dysfunctionやdisabilityがある人たちのアートのことを知ってわくわくしました。そして何よりも、この絵本が見て美しく、さわっても美しいことに驚きです。
まさに機能障害や能力欠如を社会的不利益にしないことのヒントが詰め込まれていたのが 「みんなが手話で話した島」(ノーラ・エレン・グロース著 佐野正信訳 早川書房)でした。アメリカ合衆国マサチューセッツ州にあるマーサズ・ヴィンヤード島では20世紀はじめまで聾唖者が多く、島民は健聴者であっても手話でお互いのコミュニケーションをとっていたそうです。その生活があまりにもノーマルだったので、調査した著者が「家族や知り合いに聾者がいましたか?」と聞いても、思い出せないお年寄りも多かったとか。dysfunctionがhandicapではなかったという話は、これから超高齢化を迎える日本社会において障害をいかにハンディキャップにしないかとうヒントが詰まっているのではないかと思いました。

今年、2022年の年明けに北のほうで不穏な空気が漂い始めて、まさか、まさか侵攻しないよね、いまさら武力で他国を占領しようとか、それ20世紀の半ばで全世界的に反省して終わったんじゃないの? と思っているうちにロシアがウクライナに武力攻撃。ロシアとしたらすぐに終わるはずが、いまだに戦闘が続き、ウクライナだけでなく全世界的に大きな影響(もちろん悪いほうの)が及び、どうなってしまうんだろう……とびくびくしているうちに1年が終わろうとしています。
いろいろなことがあったはずなのだけれど、そのいろいろのすべてがこの戦争に結びついてしまう。
しかも2022年が終われば、はい、問題も解決に向けて好転しますね、とはまったくいえない。
この不透明感、先が見えない不安感が影を落とした一年でした。
暗い話になりそうなところですが、気持ちを立て直して今年私個人がやったこと、やらなかったこと、思ったこと、感じたことを書いてみようかなと思います。

まずは旅行。今年は金沢、旭川、函館に旅行しました。
金沢21世紀美術館で開催されていた「フェミニズムズ」が目的でしたが、そのほかにも金沢に移転した国立工芸館を訪問し、兼六園を散歩し、金沢城を見学して温泉につかる旅。一泊でしたが、なかなか充実していました。
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(東京から金沢に移転した国立工芸館。館内も展示も見応えある建築物でした)

旭川は、ゴールデンカムイ 聖地巡礼ツアーと称して北鎮記念館や旭川博物館、神居古譚(と駅舎)などを見学。ジンギスカンで有名な大黒屋で大好きな羊を満喫し……おなかをこわしましたがそれでもあの味は忘れられません。ビールがいけなかったね。
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(神居古譚駅まで石狩川をわたる神居大橋)

函館は、私が所属する創玄書道会の創始者、金子鴎亭先生とその一番弟子である中野北溟先生(今年99歳!)の展覧会を見て、あとは第二次ゴールデンカムイ 聖地巡礼ツアーで五稜郭などをまわりました。ここでもジンギスカンを堪能し(もうビールを飲まなかった)、有名な回転寿司で「もう食べられません」というまで北の海の幸を満喫。
そのほか仕事と介護で大阪と広島にいきました。大阪は毎回観光しよう、グルメしようと思うのだけれど、結局時間がなくてアウト。でも広島は前泊したので、ちょっとだけ観光。平和記念資料館をじっくり見学しました。もう20年以上前に訪れたことがあるはずなのだけれど、展示方法が変わっていたせいか、それとも私が年をとったせいか、印象が異なりました。
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(平和記念大通りはクリスマスシーズンを迎えてか、イリュミネーションが輝いていました)

海外旅行に行けなくなってから、日本のなかを回っているこの3年ですが、いろいろなところにいくほどに痛感するのが「私は日本のこと、日本の(そして世界のなかにおける日本の)歴史を知らなさすぎる」ことです。
そもそも日本はいつごろから日本となったのか?
日本語はどのように成立したのか?
生まれは兵庫県ですが、東京で暮らしてもう50年以上がたちます。出身は兵庫県でも、成人してからの生活の場は東京。そうすると首都・東京の住民の目線でつい日本全体を推し量ってしまうのだけれど、地方に旅行するたびにそれでは日本のすがたはほんの一部しか見えてこないとわかります。それではいかんよなあ〜〜と毎回旅に出るたびに思うので、今年は歴史の本をわりによく読んだかな。
読んだ本についてはまたあらためて。

「女子サッカー140年史 闘いはピッチとその外にもあり」
スザンヌ・ラック著 実川元子訳
白水社
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 今日、見本が届きました。書店にももうすぐ並ぶはず。
 タイトル通り、女性たちが挑んだサッカー競技の140年にわたる通史と、現在世界で女子サッカーがどう発展しているかを英国ガーディアン紙で女子サッカーを担当する記者が書いた本です。
 1881年にスコットランドで初めての女子サッカーの試合(イングランドVSスコットランド)が行なわれてから140年たったいまも、「女だてらにサッカーなんて……」「女子サッカーはスピードがなくてへたくそでつまらない」「 サッカーは男のものでしょ」というバッシングをネットやメディアで見かけます。一応、建前だけにしろ男女平等をめざすことが公に叫ばれるようになった今でも、女子サッカーに向けられる視線は全面的にポジティブとはいえない。
 それなら140年前はどうだったか? イングランドで最初にボールを蹴り始めた女性たちは、「男性のもの」とされるサッカーを自分たちもできると示すことで、参政権を勝ち取ろうとしました。最初は女性参政権運動(サフラジェッツ)と並行していたサッカーですが、権利獲得に関心がない女性たちも楽しみでボールを蹴るようになり、またたくうちに人気スポーツになっていきました。
 イングランドで女子サッカー競技が盛んになったのは、第一次世界大戦中に男性たちが戦争に駆り出され、女性たちが労働者として働くようになったことがきっかけでした。工場で働く女性たちは昼休みのレクリエーションにサッカーを楽しみ、そのうちに工場同士で対抗戦をするようになり、やがて試合は戦争による死傷者や家族を救済するための慈善興行へと発展します。
 戦後も女子サッカー人気は衰えず、1921年には5万3000人の観客を集めるまでになるのですが、これに危機感を覚えたのが イングランド・サッカー協会(FA)です。自分たちの管轄外で興行する女子チームが、男子リーグの観客を奪ってしまうのではないかと恐れ、その年に「女子の試合にグラウンドを貸すことは許さない」と禁止令を発令。それからなんと半世紀にわたって、イングランドのみならず世界各国で女子サッカー競技はFIFA傘下の各国協会から、またときには法律で禁止されてしまいます。
 暗黒の半世紀がすぎたころ、アメリカから起こった第二波フェミニズム運動に刺激を受けた女性たちは、またボールを蹴るようになり、たちまち人気を集めたことで、FAをはじめ各国のサッカー協会もようやく禁止令を解除しました。やっと1970年代になってからですが。
 その後も紆余曲折がありながら、1991年にはFIFA主催で実質的女子ワールドカップが中国で開催され(ワールドカップの名称は使わせなかったが)、1995年から参加チームも増えて45分ハーフ前後半990分と男子と同じルールで試合が行われるようになりました。
 現在アメリカやイングランドでは女子のプロリーグで試合が行なわれており、日本も2021年からWEリーグというプロリーグが発足しています。ただ世界のどこでも観客動員数は少なく、財政難にあえいでいるチームも少なくないのが現状で、それをどう乗り越えてより発展させていけばいいか、と著者はさまざまな提言をしています。
 女性参政権獲得運動、男女同一賃金を求める闘い、教育の機会均等、職場や家庭における性差別の禁止、性暴力への抗議……といった女性の人権を守る闘いと女子サッカーの発展は重なっている、と著者は繰り返し訴えます。女性たちがサッカーを楽しむ権利は、女性が自分の身体と精神を守る権利の延長線上にあるのです。
 来年7月下旬から8月上旬にかけて、オーストラリアとニュージーランドでFIFA女子ワールドカップが開催されます。ピッチに立つ選手や審判たちだけでなく、すべての女性たちを応援する大会になってほしいという気持ちが湧き起こってくる本だと思います。

 最後に。日本女子サッカーのレジェンド、澤穂希さんが推薦文を寄せてくださいました。心から感謝です。

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