Glamorous Life

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読む快楽

 今年の夏は各地で40度超えが7月から続き、熱中症で亡くなられた方も少なからずおられ、暑さをはじめとする異常気象が引き起こすさまざまな災害が報告されました。
 世界中で酷暑だったようで、パリに住んでいる友人たちは「去年に引き続き40度超え。クーラー欲しい」と言っていたし、スウェーデン中部の友人たちは「こちらも35度を超える日々。蚊とか虫が大発生」とか言ってきました。つまり、異常気象は地球全体で起こっているのです。
 日本ばかりでなく、世界各地で頻発する大雨による洪水、大規模浸水、台風やハリケーンによる被害、いずれも地球温暖化が引き起こしています。つまり「人災」です。
 これから地球環境はどうなってしまうのか? 温暖化による自然災害は増えるのではないか? そんな思いで手に取ったのが、ナオミ・クラインの『これがすべてを変える 資本主義vs気候変動』(岩波書店)でした。
 衝撃でした。「異常気象と言っているけれど、もはやこの暑さは異常ではなく常態化しているし、このままもっとひどくなっていく」と思っていたことを、豊富なデータによって「そうその通りです。地球規模で起こっている気候変動です」と現実として突きつけてきました。
 温暖化を引き起こしている原因は化石燃料を過剰に使用しているためで、何のために化石燃料を使っているかというと、何万年も前に死んだ動植物を掘り出すだけの安価な資源をエネルギーにして、「便利で快適な暮らし」こそ追求すべきものという価値観が私たちに植え付けられてしまっているからです。でも化石だけでなく、すべての地球の資源は有限です。地球の人口全員が一律に、「便利で快適な暮らし」を競争で追求していけば、早晩枯渇するのは目に見えています。
 しかもその価値観を信奉する持てる者(わずか1%の勝ち組富豪)がその他99%の生活などをかえりみず、資源も富も独占していったらどうなるか。
 そこまでの現状と未来は、たぶんナオミ・クライン以外の書き手も「ディストピア」として描いていると思います。
 しかしナオミ・クラインはそこで立ち止まらない。ディストピアをユートピアとは言わないまでも、この先の未来を少しでも明るくするためにはどうしたらいいか、ということを単なる理想としてではなく語るのです。今こそみんなで団結して「このままではいけない」と立ち上がり、搾取と格差の上に成り立っている新自由主義市場の論理をくつがえし、自分が生きている場所と人々、つまりコミュニティの力を取り戻すことだ。そしてそのために立ち上がった人たちのパワーを、考え方を、行動をルポルタージュとして読ませてくれます。
 行き過ぎたグローバリズム、市場に任せておくのが一番いいとする新自由主義の考え方、そして資本主義そのものを「これでいいのか?」と見直すこと。そして隣の人と、どうすれば持続可能な社会に、環境に、地球にしていけるかを真剣に話し合うこと。
 気象と地球環境を専門とするジャーナリストであり、自分の子どもが生き延びられる自然環境と社会を与えたいと願う母親であり、そのために行動を起こす活動家であるナオミ・クラインは、気象の変動が引き起こしているさまざまな問題の前に立ちすくむしかない私には、一つの指標を示してくれます。私に何ができるか? 私は何をしたらいいのか? 「暑いねー!」とつぶやく前にやること。それは隣の人と話し、政治家や企業にやめてほしいことやってほしいことを訴えることではないか。
 
 ナオミ・クラインを一躍有名にした『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体』はもっと衝撃だったので、それについては後日書きます。
  
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60歳を過ぎてから私の体型は徐々に変わりつつあります。体型だけではありません。シワ、シミ、たるみ、どれももう見過ごせず見逃せないほどの「老化現象」がからだの各所に現れています。
以前から、夏になるとあせもに悩まされ、とくに夏場は衣服の締め付けでかゆみがひどくなるので、着るものを選ぶようになりました。もともとアレルギー体質で皮膚が弱いので、肌にふれるものには注意が必要だったのが、老化とともにますます過敏になっています。天然素材だからいいってことはなし。天然素材でもかぶれるものはかぶれます。締め付けなければいいってこともない。色柄デザインや流行以上に私にとって重要なこと、それは肌が受け付けるかどうかになりました。
もう一つ、「終活」のためにクローゼットの整理を始めるようになってから、ファストファッションに対する疑問もむくむくと頭をもたげてきています。安いから、機能がいいから、と大量生産されたものをシーズンごとに買い換えるのは正直とても気分が悪い。罪悪感っていう以上に、自分が思考停止した愚か者になった気分なのです。かといって、「(品質が)いいもの」を長く着る、という意見は聞こえがいいものの、体型や体質ばかりか、社会生活がどんどん変化するこの年代ではかなりむずかしい。年齢ではなく、いまの自分の体型、体質、社会生活にあった服装とはいったいどんなものなのか? いまだに模索しています。

そんな悩みを解決しようと手に取った本や記事を紹介します。
「インスタグラムのグラマラスなグランマたち」
映画「アドバンスド・スタイル そのファッションが、人生」でもアメリカ女性たちが60歳過ぎてもおしゃれを捨てず、自分のスタイルを追求して人生を楽しむ姿が紹介されましたが、その流れでインスタグラムで自分の日々のファッションをアップする女性たちを紹介した記事です。
うん、うん、励まされる、楽しい、そうだね、年とってもおしゃれするエネルギーは失いたくない、と思いつつ、うーん、私が求めている「スタイル」とはちょっと違う、という違和感があります。ファッションこそ人生! とまでは私は言い切れない。おしゃれは好きだけれど、頑張りたくはない、そんな気持ち。なので、インスタグラムもときどきチェックはしていますが、私の参考にはならないなあ。そのファッションも、そのスタイルも、そん生き方も。

「おしゃれと人生。」小川奈緒著 筑摩書房
平松洋子、吉谷桂子、ウー・ウェン、角野栄子、有元葉子、ひびのこづえ、横尾光子、中島デコ、若山嘉代子、我妻マリという、たぶんライフスタイル誌で一度ならず特集記事が組まれたことがある大人の女性たちが、何を着てきたか、どんなスタイルを選んだかを豊富な写真入りで紹介しています。おしゃれの話だけではなく、生き方、暮らし方に踏み込んだ上でのスタイル紹介です。
「この年齢で何を着たらいいのだろう?」という悩みは、おしゃれに関心がある、もしくは衣食住に関わる仕事をしている女性たちの誰もが悩むことらしく、「もういいや」と悩みを放棄せずに自分の年齢にあったスタイルを見つけてきた女性たちの服装は参考になる……かもしれません。
私は角野栄子さんの服に一番惹かれたけれど、真似はできないししようもない。スタイル、というのは結局その人だけのものであって、普遍化もできないし、ましてやすてきな人の模倣をしたらすてきに見えて、すてきな人生が送れるわけでは決してない、ということがよくわかりました。

「「くらし」の時代 ファッションからライフスタイルへ」 米澤泉著 勁草書房
「服はもう流行(ルビ:ファッション)ではない。 朝食。ランニング。グランピング。ブックカフェ。なぜ、「ていねいなくらし」が流行しているのか」
この帯に、もうほんとそうだよね、とかくかくと頷きましたね。
「ユニクロでよくない?」から始まる本文にドキリとし、そうそう、私も「ユニクロでよくない?」とひそかに思いつつ、やっぱり大声では「よくない?」とは言えないよなあ、と思います。だって私がユニクロ着ていると、必ず誰かに「あ、それユニクロだよね。私も持っている」と言われる。そして「もうユニクロでいいよね」と追い打ちがかかる。正直、私はそう言われたくない。私の年齢だと「よくない?」にこめられたのは「服なんて考えるのはあほらしい年齢だよね?」というニュアンスで、私は「服なんかどうでもいい」とはまったく思っていないから。
 エシカル(倫理的に正しい、と訳せばいいか)なファッションを追求する。つまり、流行を追いかけることで大量生産大量消費をやめ、地産地消で自然素材を用いた服を長く大事に着る、など地球に負荷をかけない、という服装が「おしゃれ」だとする「流行」を分析しています。「ていねいなくらし」が「流行」する背景や消費者心理に踏み込んだそのファッション論には、現象としては非常によく捉えられていて、もう頷くしかない。
「何を着るか、誰が着るかだけでなく、本書でも具体的に見て着たように、どんな日常を送っているのかが重視される、「くらし」の時代がやって着た。服だけおしゃれしていても、メイクだけキマっていても、ファッショナブルではない。日々何を食べ、どこへ行き、どんな部屋に住んでいるのか。どんな「くらし」をしているのか。そこでは、むしろ何を着ているのかはたいした問題ではない。すでにおしゃれは「生きがい」などではなく、「おしゃれはほどほどでいい」「毎日同じ服を着るのがおしゃれな時代」となっている」
うーん、そうなのか。いや、そうなのだ。でも、でも、でも、60年代のロンドン発ユースクエイクに揺さぶられ、70年代に留学先のパリで高級ブランドに目がくらみ、80年代にアパレルに勤務してDC旋風に巻き込まれ、90年代に「ワンランクアップ」のメイクに邁進した私は、どうしても服(だけでなく化粧)が発信するファッションに背を向けられないのです。どうしたらいいんだ?
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ナオミ・クラインの本
「ショック・ドクトリン」「これがすべてを変える 
資本主義vs気候変動」「「NO」では足りない」
今年の夏はまたもや40度越えが各地で観測され、熱中症で何人もが命を落とされ、台風がいくつも発生し、何よりも中国四国地方を襲った豪雨によって20名以上が亡くなられ、今も避難生活を送られている方々が多数という災害が起きました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被害にあわれた方々が1日も早く生活を取り戻されることを願っております。ありきたりの言葉しか書けない自分が歯がゆいです。これらの災害はもはや天災ではなく人災。自分も含めた人間が自然を破壊しつくしてきた結果が招いたものだ、とつくづく思います。もっと前に防ごうと思えば防げたはずの災害。でも、それは日本に限ったことではありません。
スウェーデン北部で暮らしている知り合い(CONIFAの仲間)から、「日中の気温が35度を超えた! こんな暑さは50年生まれてきて初めてだ! あきらかに湖の水位があがって、氷河が融けていることを実感する」というメールが来て、これはもう地球的に温暖化の進行が自然災害を引き起こしているにちがいないと確信しました。
そんな中で手に取ったのがナオミ・クラインの「これがすべてを変える 資本主義vs気候変動」の分厚い上下2冊本。衝撃でした。
産業革命以後、地球の温度は1度近く上昇していて、このまま化石燃料を掘るだけ掘り、使うだけ使っていれば、2100年には摂氏4度気温が上昇してしまう。4度上昇すると、世界の海面水位は1メートル、場合によっては2メートル上昇する恐れがある。いまも徐々に沈みつつあるキリバスやツバル(どちらもCONIFAメンバー)などの多くの島々は完全に海面下に沈んで消滅する。日本だって住める平野部がどんどん縮小していく。そんな未来予測図が描き出されて暗澹たる気分になったのですが、ナオミ・クラインの本はどれもそこで終わらせません。
「社会のシステムそのものを今こそ変えよう」という提案がなされるのです。気候変動による災害が地球のあちこちで頻発している今こそチャンス。化石燃料を掘るだけ掘って自然を破壊し、金儲けできる人が成功者で、世界中の富の8割を数パーセントの人間が手に入れ、それを少しも還元しないシステム、それを変えるのは今だ、今しかない! とナオミ・クラインはどの本でも強調します。膨大な資料に裏付けられたその主張には、もう反論のしようもないほど。そして「今こそシステムを変えよう」という提案には、その通りだ! とがっくり落ち込んで座っていた椅子から立ち上がらせる力があります。
でも、そのために今の私たちの暮らしを根本から変える痛みとがんばりが必要で、それに耐えられるかと不安がかき立てられるのも事実。既得権益の上にあぐらをかいている「成功者」はまったく聞く耳を持たないでしょうし、実際に被害にあっている人たちでも生活を変えろと言われてもそのエネルギーがないかもしれない。「エシカルなファッション」とか「ていねいなくらし」の追求ではとてもすまないのですから。
私たちが、何を、どう変えたらいいのか。何を捨てて、何を選べばいいのか。
つぎに読んでいる「「NO」では足りない」にヒントが見つかりそうです。
「暑かったね〜」「災害たいへんだったね〜」で終わらせてはいけない。
喉元過ぎれば熱さ忘れる、というわけにはいかないところまで私たちの地球はズタボロです。
新自由主義の行き過ぎから行き詰まる資本主義、独裁の台頭とポピュリスム、貧富の格差拡大・・・・・気候変動は何が引き起こしたのか、そして気候変動は何を引き起こしているのか。
まずはそこを見据えることから、システム変革の第一歩が始まります。

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で、いきなりとても次元が低いところに話が落ちていくのですが、反グローバリズムの旗手であるナオミ・クラインに言われる前から、私は「地産地消ファッション」を志そうとしています。日本はもちろん、世界各地の地元で作られた素材を使った服を着よう、という試みです。今年の夏は、書道のお仲間に教えていたSOUSOUというブランドの服を着ました。高島緬や知多木綿という滋賀県の工場で織られ染められた木綿地の貫頭衣がなんと涼しいことか! これだけ暑く、大汗をかいて毎日を過ごしていたにもかかわらず、ついにあせもと無縁で夏が終わりそうです。しかも、私好みの色とデザイン! おしゃれが楽しく、からだに負担がかからず、ある程度エシカル。ほかにもこういう作り手の服を着るのが、今後の私のファッション・ライフになりそうです。
 
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乳房文化文化研究会の運営委員になってはや20年以上がすぎました。研究活動にほとんど何も貢献していない運営委員でありますが、10年ほど前に北海道大学で中国の文化、文学、芸術を研究しておられる武田雅哉先生が書かれた「楊貴妃になりたかった男たち〜<衣服の妖怪>の文化史」(講談社選書メチエ)という本を読んですごくおもしろかったので、研究会にお呼びして講演をしていただきました。
武田先生としても、乳房文化なんてものを研究している会があることに刺激を受けられたようで、その後、ご自身でも中国だけでなくロシアや日本の乳房の図像から、歴史、文化、社会を 探っていく研究会を立ち上げられました。
研究会に呼んでいただき、日本のバストについてお話ししたことがきっかけに、中国文学、演劇を専門に研究しておられる田村容子先生に乳房文化研究会でお話しいただいたり、ご縁が深まりました。
そんな長年にわたる研究成果の集大成が、このたび岩波書店から発刊された「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい〜乳房の図像と記憶」です。
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私は「日本のバスト70年〜「身だしなみ」から「自分らしさ」へ」という総論を書いています。
研究、というよりも、私的なバスト観、自分のバストに寄せる愛憎半ばする思いを書きました。身体測定データや統計は極力省き(最初は入れていたのですが、限られた枚数では数字を入れると流れがさえぎられてわずらわしかったのです)、バストを意識しはじめてから50年以上の記憶と、20年以上にわたって乳房文化研究会で聞いてきたいろいろな先生たちのお話を折り込みながら書きました。

私の原稿はともかく、22人の共著者たちが「乳房」をさまざまな視点から取り上げたことにより、乳房の奥行きと幅がぐっと広がった本になっています。乳房というと、つい女性の胸のふくらみを考えてしまいますが、男性にも乳房はあります。それなら男性は自分の乳房をどう見ているのか? 女形の役者はどうなのか? LGBTの人たちにとっての乳房は? とどんどん広がっていく乳房をとことん追いかけまくったのがこの本なのです。
日本での呼び方ひとつとっても、ちぶさ、にゅうぼう、ちち、むね、おっぱいとなんと多様なことか。 それなら中国では? ロシアでは? 政治体制が変わると乳房の見方や呼び方も変わるのか? 興味のある方はぜひ書店で手にとってください。豊富な図版を見ているだけでも、きっとくらくらしてくるはず。
 
「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい〜乳房の図像と記憶」
武田雅哉編 
岩波書店(2800円+税) 

 22年前、この家に引っ越してきたとき、最寄駅の駅前には小さいながらも書店が1軒ありました。歩くと8分の隣駅にも2軒ありました。今では隣駅の駅ビルの中に1軒あるだけです。本当に寂しい。歩いて20分のところにある書店も昨年閉店しました。書店は生き延びられない運命にあるようです。
 私は書店が好きです。いや、もう「好き」という段階を超えて、愛している、いや、もっとだ、書店なくしては私は生ける屍、と言ってもいいほどです。何を大げさな、と言われるでしょうが、8歳のときから私にとって書店は「第二の自分の部屋」みたいにくつろげて楽しい場所だったし、なくてはならない居場所でした。
 電車通学だった私は、学校からの帰り道に隣駅まで寄り道して書店に立ち寄るのが楽しみでした。15歳まではお小遣いが少ないので、買うでもなく、立ち読みするでもなく、ただ、本の背表紙を眺め、ぱらぱらとめくり、あああ、大きくなったら本屋さんになろう、と思うだけでしたが、高校生になると「何を買おう」と思ってよけいに心躍る場所になりました。
 お小遣いはほぼ本に消えました。「大人の本」として初めて自分で買った箱入りの単行本は、安部公房の「無関係な死」でした。値段は覚えていないけれど、1ヶ月分のお小遣いはすっ飛びました。いや、足りなかったかも。でも、うれしかった。「幽霊はここにいる」の舞台(田中邦衛主演)を見てから、安部公房に取り憑かれていたから、どうしても彼の本が欲しかった。「図書館で借りなさい」と言われても、それじゃダメなんだと思いました。そして文庫本しか並んでいなかった自分の書棚に、赤い函に入って、薄紙のカバーがついた憧れの作家の本が並んだときは、もう誇らしくて身震いしました。
 私が通いつめた「宝盛館」という阪神芦屋駅前の書店は、今もあります。実家に帰省したとき、たまに立ち寄って存在を確かめたりしていました。
 書店ラブな話を書こうと思ったのは、昨日の日経最終面の文化ページに、作家の小野正嗣さんが寄稿なさった「書店という文芸共和国」という文章を読んだからです。
 胸、どころか、胃袋にまでしみわたるようないい文章で、最後の数行に私はとくに感動しました。ちょっと長いけれど、引用します。
「自己や他者、そして世界とよりよく向き合うために、書物を、とりわけ異国で書かれた作品を読むことを必要とする人々が確実に存在する。既知に安住することなく、異なるものへたえず好奇心を向ける読者たちが、本への愛と情熱を共有する場所としての書店。そこには、国家間の力関係からは自由な、想像力と共感を紐帯に人々が平等に交流しあう<文芸共和国>が開かれている」
 記事の内容は、出版総数に翻訳書が占める割合が3%にすぎないアメリカにあって、翻訳書を中心に扱っている書店が全国にあちこちある、という話です。うらやましい。「異なるものへたえず好奇心を向ける読者」がそれだけ存在していることがうらやましいだけではありません。そういう読者を発掘しようとする書店員の努力があり、異国の作家を呼んで読書の夕べを開く文化があること、それがうらやましいのです。
 日本の書店も相当の努力をなさっています。それでも、<文芸共和国>として経営が成り立っていく書店が、いったい日本に何軒あるでしょう? いや、それ以上に、学校帰りに子どもが気軽に立ち寄って、見知らぬ世界に存分にふれる機会をあたえてくれる書店は全国にどれくらい残っているのでしょうか?
 本は勉強のため、知識を得るための道具ではない、と私は思います。そして書店は、情報や知識や時間つぶしのための消費財を置いているスーパーではないのです。少なくとも、私にとって書店は、昔も今もワンダーランドです。何に出会えるのかわからなくて、でもきっとすてきな経験へと導いてくれる予感でわくわくと胸が高まる不思議の国、それが書店です。行ったことがない国、食べたことがない食べ物、味わったことがない感動、そんなものに出会えるワンダーランド。
 書店のない国には住みたくないです。  

暮れはおせちだの掃除だのに(いいかげんにしてやめときゃいいのに)明け暮れて、年末のご挨拶をしないままに年が明けてしまいました。
あらためまして、あけましておめでとうございます
2018年が皆様にとって、そしてこの世界に暮らすすべての人たちにとって、少しでも心穏やかに過ごせる一年であることを祈念してやみません。

2017年がどんな年だったかと振り返ると、つぎの一歩を踏み出す前に、スタート台を製作する年だったかな、という気がします。実家を始末したこともその一つでしょうし、2人目の孫の誕生も私に次世代育成について考えるきっかけを与えてくれた出来事でした。
2017年は仕事が暇だったので、かなり本が読めました。と言っても、一時期のように1日に2冊ペースなんてことはもう目が痛くてできません。そういうところで年齢を感じます。映画もかなり見たけれど、1日3本はしごというのは無理になってきました(2本まではいける)
そんな中で印象に残った本と映画をあげておきます。まず今日は本から。

「子どもたちの階級闘争〜ブロークン・ブリテンの無料託児所から」
ブレイディみかこ著 みすず書房

思えばこの本に出会ったことで、私は「子ども(次世代)を育てることこそが、大人(現世代)に課せられた最大の使命ではないか」という思いを強くしたのでした。以前に、子どもを私立の小学校に通わせているママたちから「子どもの貧困って騒がれているけれど、私たちのまわりにはそんな子どもは一人も見たことがない。いったいどういうことなの?」と言われたことがあります。親が属する階級の分断が、子どもの分断につながっていることを思い知らされる一言でした。私立小学校のママたちを無知とかナイーブとかで片付けられない。学校給食だけがまともに食べられる食事で、夏休みになるとやせ細ってしまう子どもを実際に私も知っています。子どもたちが育つ中での階級差をどう縮めていくか。それは私の世代の責任だと思います。
ブレイディみかこさんの本は、出版されているものはすべて読みました。どの本も考えさせられるところが多かったけれど、私の印象に一番強く残ったのは、この本でした。
「チャブ」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳 海と月社)も何回か読みかえしたほど印象に残った本でした。もう長々と紹介したのでそのブログを読んでいただければ、と。

「小さな美徳」
ナタリーア・ギンツブルグ著 望月紀子訳 未知谷

私が敬愛してやまないイタリアの作家、ナターリア・ギンツブルグのエッセイ集。この本も期待を裏切らず。ナターリアは1916年ユダヤ系イタリア人家庭の末っ子として生まれ、ファシスト政権下で弾圧を受けます。反体制運動にかかわった兄と最初の夫を激しい拷問の末に獄死で失い、自身も3人の子どもを実家に預けて逃亡せざるをえなかったという人です。本書で私がはっと目を見開かされた言葉があるので、少し長いけれど引用します。
子どもの教育については、私は、彼らに小さな美徳ではなく、大きな美徳を教えるべきだと思う。貯蓄ではなく気前の良さとお金に対する無関心、慎重さではなく勇気と危険を顧みないこと、要領のよさではなく率直さと真実への愛、駆け引きではなく隣人への愛と献身、成功願望ではなく存在し、知るという願望を。
 ところが通常、私たちは逆のことをし、小さな美徳を尊重することに躍起になり、その上にすべての教育体系の基礎を置く。そうやって、安易な方法を選ぶのだ。なぜならば小さな美徳にはいかなる身体的な危険もなく、むしろ運命の女神の打撃から守ってくれるから」
このあとに大きな美徳については、いつか子どもたちの魂に自然に湧き出てくるだろうと思い込む一方で、小さな美徳は教えなくてはならないと考える、と続きます。
お金に対して無関心で、危険を顧みずに大事だと思うことには飛び込み、歯に衣を着せずに本当のことを率直に発言し、損得なしに困っている人を助け、社会的地位をあげることやお金を稼ぐこと以上に知的好奇心を大事にする、そういう人を今の世の中はなんと呼ぶかというと「バカ」もしくは「ナイーブ」です。
小さな美徳を口やかましく教えながら、大きな美徳を実践する人を「えらいわねー」とちょっとバカにした口調で評価すること。それを繰り返しているうちに、子どもは大きな美徳にまったく気づかず、それ以上にバカにする人に育ってしまう、という指摘は耳が痛かったです。

「大人に贈る子どもの文学」
猪熊葉子著 岩波書店

この10年ほど児童文学と呼ばれるジャンルの作品を読み続けています。猪熊葉子さんは児童文学研究者であると同時に、すぐれた児童文学を日本に紹介しつづけてきた翻訳者で、猪熊さんの名前が訳者名に記されている本を集中的に読んできた時期があります。とくにローズマリ・サトクリフの「第九軍団のわし」と「ともしびをかかげて」は何回読んでも感動します。
その猪熊さんが大人に向けて語った児童文学の魅力です。たかが子ども向けの本紹介と侮るなかれ。ご本人の読書歴、研究歴もさることながら、紹介されている本の読み方が深いこと。書かれた時代とその時代の子ども観、社会観についての洞察力に感嘆しました。
子どもとどう向き合うのか。子どもの精神世界をどう理解して、豊かにしていくのか。大人にとって、これほどおもしろくてやりがいのある「仕事」はない、とあらためて思います。

映画についてはまた明日。
 

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