Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

 22年前、この家に引っ越してきたとき、最寄駅の駅前には小さいながらも書店が1軒ありました。歩くと8分の隣駅にも2軒ありました。今では隣駅の駅ビルの中に1軒あるだけです。本当に寂しい。歩いて20分のところにある書店も昨年閉店しました。書店は生き延びられない運命にあるようです。
 私は書店が好きです。いや、もう「好き」という段階を超えて、愛している、いや、もっとだ、書店なくしては私は生ける屍、と言ってもいいほどです。何を大げさな、と言われるでしょうが、8歳のときから私にとって書店は「第二の自分の部屋」みたいにくつろげて楽しい場所だったし、なくてはならない居場所でした。
 電車通学だった私は、学校からの帰り道に隣駅まで寄り道して書店に立ち寄るのが楽しみでした。15歳まではお小遣いが少ないので、買うでもなく、立ち読みするでもなく、ただ、本の背表紙を眺め、ぱらぱらとめくり、あああ、大きくなったら本屋さんになろう、と思うだけでしたが、高校生になると「何を買おう」と思ってよけいに心躍る場所になりました。
 お小遣いはほぼ本に消えました。「大人の本」として初めて自分で買った箱入りの単行本は、安部公房の「無関係な死」でした。値段は覚えていないけれど、1ヶ月分のお小遣いはすっ飛びました。いや、足りなかったかも。でも、うれしかった。「幽霊はここにいる」の舞台(田中邦衛主演)を見てから、安部公房に取り憑かれていたから、どうしても彼の本が欲しかった。「図書館で借りなさい」と言われても、それじゃダメなんだと思いました。そして文庫本しか並んでいなかった自分の書棚に、赤い函に入って、薄紙のカバーがついた憧れの作家の本が並んだときは、もう誇らしくて身震いしました。
 私が通いつめた「宝盛館」という阪神芦屋駅前の書店は、今もあります。実家に帰省したとき、たまに立ち寄って存在を確かめたりしていました。
 書店ラブな話を書こうと思ったのは、昨日の日経最終面の文化ページに、作家の小野正嗣さんが寄稿なさった「書店という文芸共和国」という文章を読んだからです。
 胸、どころか、胃袋にまでしみわたるようないい文章で、最後の数行に私はとくに感動しました。ちょっと長いけれど、引用します。
「自己や他者、そして世界とよりよく向き合うために、書物を、とりわけ異国で書かれた作品を読むことを必要とする人々が確実に存在する。既知に安住することなく、異なるものへたえず好奇心を向ける読者たちが、本への愛と情熱を共有する場所としての書店。そこには、国家間の力関係からは自由な、想像力と共感を紐帯に人々が平等に交流しあう<文芸共和国>が開かれている」
 記事の内容は、出版総数に翻訳書が占める割合が3%にすぎないアメリカにあって、翻訳書を中心に扱っている書店が全国にあちこちある、という話です。うらやましい。「異なるものへたえず好奇心を向ける読者」がそれだけ存在していることがうらやましいだけではありません。そういう読者を発掘しようとする書店員の努力があり、異国の作家を呼んで読書の夕べを開く文化があること、それがうらやましいのです。
 日本の書店も相当の努力をなさっています。それでも、<文芸共和国>として経営が成り立っていく書店が、いったい日本に何軒あるでしょう? いや、それ以上に、学校帰りに子どもが気軽に立ち寄って、見知らぬ世界に存分にふれる機会をあたえてくれる書店は全国にどれくらい残っているのでしょうか?
 本は勉強のため、知識を得るための道具ではない、と私は思います。そして書店は、情報や知識や時間つぶしのための消費財を置いているスーパーではないのです。少なくとも、私にとって書店は、昔も今もワンダーランドです。何に出会えるのかわからなくて、でもきっとすてきな経験へと導いてくれる予感でわくわくと胸が高まる不思議の国、それが書店です。行ったことがない国、食べたことがない食べ物、味わったことがない感動、そんなものに出会えるワンダーランド。
 書店のない国には住みたくないです。  

暮れはおせちだの掃除だのに(いいかげんにしてやめときゃいいのに)明け暮れて、年末のご挨拶をしないままに年が明けてしまいました。
あらためまして、あけましておめでとうございます
2018年が皆様にとって、そしてこの世界に暮らすすべての人たちにとって、少しでも心穏やかに過ごせる一年であることを祈念してやみません。

2017年がどんな年だったかと振り返ると、つぎの一歩を踏み出す前に、スタート台を製作する年だったかな、という気がします。実家を始末したこともその一つでしょうし、2人目の孫の誕生も私に次世代育成について考えるきっかけを与えてくれた出来事でした。
2017年は仕事が暇だったので、かなり本が読めました。と言っても、一時期のように1日に2冊ペースなんてことはもう目が痛くてできません。そういうところで年齢を感じます。映画もかなり見たけれど、1日3本はしごというのは無理になってきました(2本まではいける)
そんな中で印象に残った本と映画をあげておきます。まず今日は本から。

「子どもたちの階級闘争〜ブロークン・ブリテンの無料託児所から」
ブレイディみかこ著 みすず書房

思えばこの本に出会ったことで、私は「子ども(次世代)を育てることこそが、大人(現世代)に課せられた最大の使命ではないか」という思いを強くしたのでした。以前に、子どもを私立の小学校に通わせているママたちから「子どもの貧困って騒がれているけれど、私たちのまわりにはそんな子どもは一人も見たことがない。いったいどういうことなの?」と言われたことがあります。親が属する階級の分断が、子どもの分断につながっていることを思い知らされる一言でした。私立小学校のママたちを無知とかナイーブとかで片付けられない。学校給食だけがまともに食べられる食事で、夏休みになるとやせ細ってしまう子どもを実際に私も知っています。子どもたちが育つ中での階級差をどう縮めていくか。それは私の世代の責任だと思います。
ブレイディみかこさんの本は、出版されているものはすべて読みました。どの本も考えさせられるところが多かったけれど、私の印象に一番強く残ったのは、この本でした。
「チャブ」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳 海と月社)も何回か読みかえしたほど印象に残った本でした。もう長々と紹介したのでそのブログを読んでいただければ、と。

「小さな美徳」
ナタリーア・ギンツブルグ著 望月紀子訳 未知谷

私が敬愛してやまないイタリアの作家、ナターリア・ギンツブルグのエッセイ集。この本も期待を裏切らず。ナターリアは1916年ユダヤ系イタリア人家庭の末っ子として生まれ、ファシスト政権下で弾圧を受けます。反体制運動にかかわった兄と最初の夫を激しい拷問の末に獄死で失い、自身も3人の子どもを実家に預けて逃亡せざるをえなかったという人です。本書で私がはっと目を見開かされた言葉があるので、少し長いけれど引用します。
子どもの教育については、私は、彼らに小さな美徳ではなく、大きな美徳を教えるべきだと思う。貯蓄ではなく気前の良さとお金に対する無関心、慎重さではなく勇気と危険を顧みないこと、要領のよさではなく率直さと真実への愛、駆け引きではなく隣人への愛と献身、成功願望ではなく存在し、知るという願望を。
 ところが通常、私たちは逆のことをし、小さな美徳を尊重することに躍起になり、その上にすべての教育体系の基礎を置く。そうやって、安易な方法を選ぶのだ。なぜならば小さな美徳にはいかなる身体的な危険もなく、むしろ運命の女神の打撃から守ってくれるから」
このあとに大きな美徳については、いつか子どもたちの魂に自然に湧き出てくるだろうと思い込む一方で、小さな美徳は教えなくてはならないと考える、と続きます。
お金に対して無関心で、危険を顧みずに大事だと思うことには飛び込み、歯に衣を着せずに本当のことを率直に発言し、損得なしに困っている人を助け、社会的地位をあげることやお金を稼ぐこと以上に知的好奇心を大事にする、そういう人を今の世の中はなんと呼ぶかというと「バカ」もしくは「ナイーブ」です。
小さな美徳を口やかましく教えながら、大きな美徳を実践する人を「えらいわねー」とちょっとバカにした口調で評価すること。それを繰り返しているうちに、子どもは大きな美徳にまったく気づかず、それ以上にバカにする人に育ってしまう、という指摘は耳が痛かったです。

「大人に贈る子どもの文学」
猪熊葉子著 岩波書店

この10年ほど児童文学と呼ばれるジャンルの作品を読み続けています。猪熊葉子さんは児童文学研究者であると同時に、すぐれた児童文学を日本に紹介しつづけてきた翻訳者で、猪熊さんの名前が訳者名に記されている本を集中的に読んできた時期があります。とくにローズマリ・サトクリフの「第九軍団のわし」と「ともしびをかかげて」は何回読んでも感動します。
その猪熊さんが大人に向けて語った児童文学の魅力です。たかが子ども向けの本紹介と侮るなかれ。ご本人の読書歴、研究歴もさることながら、紹介されている本の読み方が深いこと。書かれた時代とその時代の子ども観、社会観についての洞察力に感嘆しました。
子どもとどう向き合うのか。子どもの精神世界をどう理解して、豊かにしていくのか。大人にとって、これほどおもしろくてやりがいのある「仕事」はない、とあらためて思います。

映画についてはまた明日。
 

「保育無償化・負担軽減策」が議論になっている。伝えられる記事を読みながら、暗澹たる気持ちになり、そして憤っている。ほかの国の現状は知らないので比較はできないが、日本は子どもと育児を大事にしない国なのではないか。
子どもを産みたくても産めない社会になってしまい、少子化が社会問題になって久しい。私が記憶するかぎり、もう30年は社会問題となって日本の将来への危機感がつのっている。そして近年は働かざるをえない親(大半は母親)が増えているにもかかわらず、預かってくれるところがないために待機児童が増え続けている。少子化と待機児童増加、一見矛盾するような社会問題の根っこにあるものは同じだ。「子どもを大事に育てることへの(政治家、行政、そして社会全体の)認識不足」ではないか。
問題への対応策が「3〜5歳児の認可保育園保育料を無償化すること」だと聞いて、私はその場で崩れ落ちそうになった。 な〜〜〜〜〜んにもわかっていない!!! 子どもたちと親たちが置かれている現状も、保育園とそこで働く保育士さんたちの現状も、子どもを育てることがどういうことなのかも、な〜〜〜〜〜んにもわかっていない人たちがこんな政策を選挙の人気とりのために打ち出してくる。今年のはやりとなった言葉「ち〜〜が〜〜〜う〜〜〜だろ〜〜〜!!」と叫びたい。今ここで叫んでいるけれど。
そもそも認可保育園に入れる子どもは「特権階級」なのだ。認可園では収入に応じて保育料を負担しているが、それでも認可外に比べると最高レベルの収入が払う人たちの保育料でも認可園は安い。低収入であればほぼ負担なしである。一方で、認可保育園に入れない大半の親は、泣く泣く高い保育料を払って、質が保証されていない認可外に預けざるを得ない。私は37年前に、認可外(当時はベビーホテルというのがあった)に月8万円も払って長女を預けていた。そのころの相場では、預ける時間が15分以上延びると1時間分の1200円加算されるので、会社近くの都心まで電車を乗り継いで赤ん坊を抱っこして通っていた。私の給料は保育料と子どもにかかる費用で全部飛んでいき、給料日前には銀行に二桁の金額しかなくなってキャッシュカードでお金がおろせなかった。なんのために働いているのかがよくわからなくなかった時期だ。
新設の区立保育園ができると区の広報紙で見つけたとき、半休をとって子どもと一緒にできたばかりの園舎を見に行って、その足で区役所に走って申し込みをした。無事に認可園に入園(措置、という)できるという通知が届いたとき、子どもを抱きしめてうれし泣きした。安堵のあまりに思わず涙がこぼれたのだ。
その後、第二子が生まれるまで7年空いてしまったのも、保育園に入れるかどうかわからないという不安からだったと思う。しかし、あの頃私は信じていた。「保育園のことでこんなに苦労するのは、きっと私の世代で終わりだ」と。「子どもを産んで働き続けることは、きっともっと自然で楽なことになる」と。そんな期待は見事裏切られた。
30年後の今、娘たちは子どもを保育園に入れるためにもっとたいへんな思いをしている。育休は保活のために費やしていると言っていいほどだ。園の見学は最低でも20園は必要だそう。歩いていける範囲に20も園があるわけではないので、抱っこ紐に赤ちゃんを入れて電車に乗って保育園探しである。それだけやっても、どこかに入れる保証はない。だが、いざとなったら祖母である私が預かる、というわけにはいかないのだ。条件がどれだけ悪かろうが、どこかに預けないと、翌年の認可園申し込みレースのスタート台にさえ立てない。「祖父母に面倒を見てもらえばいいじゃないか」ということになってしまうから。
限られた政府予算の使い途の優先順位は、認可園の保育無償化ではないはずだ。
保育士の待遇改善、認可外保育園の保育を国基準にすること、何よりも「就学前の子どもの教育(保育)の質向上」に力を入れてほしい。0歳から5歳という期間をどう過ごすかは、子どもの一生を決めるといってもいいほど重要だ。保育とは、オムツ変えて、ごはん食べさせて、危なくないように見張って遊ばせること、という程度の認識しかない人たちに保育予算の使い途を決めて欲しくない。
私は2人の娘たちを0歳から保育園に預けて、園の先生方や仲間の親たちと一緒に子育てをしてもらった経験が、私自身の大きな財産になったと思っている。娘たちも保育園が大好きだった。保育園で過ごした5年間は、彼女たちにとって宝物のような時間だった。だから、自分の子どもたちも保育園に入れたいと必死なのだ。
保育園は「親の疾病や就業によって保育に欠ける(かわいそうな)子どもたちをケアするところ」ではもはやない。保育園の問題は、子どもたちやその未来だけでなく、親世代も、その上の祖父母世代にも関わってくる問題だ。保育園は今の、そして未来の社会を映し出す場だ、と私は思う。保育に対する認識を変えること、つまりは子どもを育てること、そして子どもについての認識を変えること、保育行政にかかわる方たちには、まずはそこからはじめていただきたい。
保活まっただなかの娘を見ながら、読んでとても考えさせられた本をあげておく。
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「保育園を呼ぶ声が聞こえる」 猪熊弘子、國分功一郎、ブレイディみかこ著 太田出版
まえがきで保育ジャーナリストの猪熊さんが書く。「「保育」がただ子どもを預かる箱さえあればできるものだと思っていた人でも、最後まで読み終えたら、「保育」がいかに大切かを知り、理解することがきっとできるだろう」「少子化で少なくなった大切な子どもたちを、もっともっと豊かに、愛情深く育てていくことが、この国の未来を左右することに気づいてくれるだろう」。まさにそのために書かれた本。保育園問題が広い視野にたって語られるべきトピックであることを認識させてくれる。
「国家がなぜ家族に干渉するのか〜法案・政策の背後にあるもの」本田由紀・伊藤公雄 編著 青弓社
家族と国家、両者の関係について社会学者、政治学者、法学者が語る。「家庭教育支援法」「親子断絶防止法」を打ち出してくる現政権の「異常さ」が見えてくる。
「成功する子 失敗する子〜何が「その後の人生」を決めるのか」ポール・タフ著  高山真由美訳 英治出版
日本語のタイトルは今ひとつだけれど、格差社会の中でどうやって公平な教育をしていけばいいかについて、子育て中のジャーナリストが真正面から取り組んだ好著。読み書き算数の認知能力以上に、「やり抜く力」「自制心」「好奇心」といった非認知能力を育むことが、子どもが幸せな人生を送る上で大切だ、ということを科学的実証的に語っている。
「ワンオペ育児〜わかってほしい休めない日常」 藤田結子著 毎日新聞社
娘に言わせると、もうワンオペを云々するよりも、職場において父親(男性)母親(女性)を同等に扱うようにしてほしい、とのこと。なぜ女性だけが育児時間を取らされるのか、なぜ男性の育休取得率が低いのか、それは職場の見えない男女差別ではないか、というのですが、それを少しずつ消していくためにもワンオペは考え直さなくちゃね。

 

 政治家が口に出してはいけない言葉がある、と私は思っている。その一つが「自己責任」だ。失業した、住む家を失った、病気になった、などなど、困難を抱えた人たちに「それはあなたの努力が足りないからだ。もっと頑張ればよかったのに、頑張らないでそうなったんだから、それはあなたの自己責任だ」ということを、もし政治家が言ってしまったら、それは政治をあずかるものとしての資格がない。それどころか、政治家としての存在理由さえ失ってしまうのではないか。そもそも自己責任がとれない人たちが生きていけるような社会をつくるのが、政治家の仕事ではないか。
 自分で自分の生活に責任がとれる、何が起こっても自己責任で行動できる人たちは、社会的強者だ。教育を受けるチャンスを与えられ、努力ができる、もしくは努力が報われるチャンスにも恵まれ、不当なことや理不尽と思えば声をあげられる、といった力を持っている人は、社会的強者だ。
 そして今の政治家は圧倒的な力を持つ強者の集団になってしまった。ダントツの「勝ち組」だ(勝ち組負け組という言葉も私は大っ嫌いだが、ここではやむなく使う)。そして困ったことに、生まれたときから強者の集団にいて、強者の集団にどっぷりつかって教育を受け、仕事をしている人たちは、自分の価値基準でしか人を判断できない。人は努力すれば報われる、弱者も強者になれる、だから頑張れ、困ったことがあれば声をあげればいい、支援を求めればいい、と平気で言ってしまう。それができないから、困っているというのに。
 努力する、もしくは頑張るチャンスにも力にも恵まれなかった人たちが困窮した姿を見て、手を差し伸べることは、圧倒的強者である政治家の使命だと私は思っている。それなのに、何世代にもわたって強者の価値基準でしか判断してこなかった政治家たちは、弱者を切り捨てる。「自己責任だ」という冷たい(言ってはいけない)ひと言で。
 21世紀に入ってから、いや、バブルの頃からか、政治家がやっていることは社会的強者をもっと強くし、弱者が弱者になったのは「自己責任だ」と突き放すようなことばかりだ。
 これは世界的な傾向らしい。「チャヴ〜弱者を敵視する社会」(オーウェン・ジョーンズ著 依田卓巳訳、海と月社)は英国の労働者階級がなぜ英国社会で嘲笑され、敵視されるようになったかについて書かれた本だ。
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 チャヴとは、英国の労働者階級を侮蔑的に呼ぶ言葉だが、もとは(欧州から中東まで差別の対象となってきた)ロマ族の言葉で子どもを指す「チャヴィ」から来ているそうで、つまり激しく差別的な呼称である。ところが英国ではチャヴのファッションや生活をおもしろおかしく取り上げるテレビ番組やサイトが堂々と放送、公開されて人気を博していたり、自身は私立校出身の大金持ちのコメディアンがチャヴの口調を真似して笑いをとったりしているそうだ。
 オーウェン・ジョーンズという英国の歴史学専攻の若者が20代だった2011年に書いたこの本は、世界的ベストセラーとなり、政治運動、社会運動に一石を投じた。著者自身はオックスフォード大学のエリートという社会的強者であるが、強者であることを自覚している。自覚している、と言うのは、強者が持っている力が強者自身の努力で手にしたものでないことをわきまえている、ということだ。だからチャヴという、いまや下層階級になってしまった労働者階級に対する見方が、上から目線ではない。同情とか手を差し伸べなくては、とかいう上からの姿勢ではない。チャヴが困っていること、チャヴの人生の喜びと希望を、チャヴの側に立ってかなり公平に冷静に分析している。
 サッチャー政権時代以来、労働者階級の人々が大切にしてきた価値観はズタズタにされた。英国が厳然とした階級社会であるという現実を無視して、「がんばれば努力が報われる社会にします」(はい、どこかで聞いたことがありますね、このセリフ)とか言って、社会設計を大きく変更した。福祉を大幅に切り捨て、困っている人たちには「がんばれ」とエールだけ送り、自助努力と自己責任という言葉で斬り捨てた。
 階級のトップに立つ人たちにとっての「階級」とは、ちゃんとした教育を受けてちゃんとした仕事につき、まじめに働いて金を稼げれば、すいすいと階段をのぼっていけるような感覚なのだろう。だが、「ちゃんとした」教育や仕事の概念が、中産階級と労働者階級とでは異なることを、政治家たちはまったく気づかなかった。労働者階級の中には、階級の階段をのぼりたくない、いまの生活で十分ハッピーだ、という人たちだって大勢いるのだ。というか、そちらのほうが多数派だ。「自助努力で中産階級に這い上がれ」といくら鼓舞したところで、価値観が根本から違うのだから動かないし動けないし、動く気がまったくない。そういう人たちの仕事(鉱山や工場の閉鎖が1980年代から相次いだ)を奪い、若者たちの人生の選択肢を狭め、「落ちこぼれ」「負け組」とレッテルを貼って嘲笑している。それがチャヴを笑いものにしている今の英国社会だ、と著者は言う。
「労働者階級の人々を悪者扱いすることは、不合理な制度を正当化する恐ろしく合理的な手段である。そうやって彼らを敵視し、彼らの関心事を無視したうえで、いまのはなはだ不公平は富と権力の分配は、人の価値や能力を公平に反映していると正当化する。だが、この敵視には、さらに悪質な意図がある。労働者階級の特定のコミュニティをむしばむ貧困、失業、犯罪といった社会問題全般に、自己責任の原則を当てはめるという意図だ。「ブロークン・ブリテン」においては、被害者はつねに自分を責めるしかない」(引用終わり)
 今年出会ったベスト本の1冊である「子どもたちの階級闘争」(ブレイディみかこ著、岩波書店)で知った本書「チャヴ」であるが、読みながら「え? これって日本の話じゃないのか?」と思う箇所がいくつもあった。と言うか、本書はまさに日本社会に当てはまる内容だ。2011年に英国で現実だったことは、2017年の日本でも現実だ(2017年以前からもちろん現実である)。生活保護受給者へのバッシング、在日外国人(特にアジア)労働者の敵視、難民受け入れの拒否……どれも根っこのところは同じだ。弱者への敵視。弱者になったのは、弱者自身の「自己責任」だとして、その人たちが何を考え、求めているかをちゃんと見ようとしない。
 政治や社会問題なんてむずかしそう。英国は階級社会だろうけれど、日本は一億総中流社会(→いつの時代だ? そもそもそんな社会だった時代が日本にあったのか?)だから関係ない。そう言わないで、ぜひぜひ読んでみてほしい。強者/弱者、富めるもの/貧しいもの、と社会が極端な形で二分されている現実から目を背けて、弱者を敵視(「ああはなりたくない」「お友達になりたくない」という意見も含まれる)しているうちに、自らが敵視される社会になってしまう……かもしれないのだから。

昨晩は味の素スタジアムで、サッカー日本代表vsシリア代表の親善試合がありました。私は勉強会があり、同時間帯に見られなかったのでダッシュで帰宅してからの録画観戦となりました。なんてったって、ガンバの選手が5人も選ばれているとあっては、見ないわけにはいきません。後半に今野、倉田、井手口の3選手が中盤を構成したときには、胸が熱くなりましたよ。
とはいうものの、私はどうもサッカー日本代表戦の観戦が苦手です。 試合前からスタジアムにお経のように響きわたる「ニッポン、ニッポン」コールに酔いそうになっちゃうし、実況や解説の絶叫にもうんざりしてしまうから。テレビ観戦のときは、録画だろうが生放送だろうがA代表の試合のテレビ観戦は消音モードです。 
FIFA非加盟の国や地域、僻地の人たちが結成したサッカー協会がメンバーのCONIFAの活動にかかわるようになって、スポーツの「国別対抗戦」について考えるようになり、なぜ自分が日本代表戦に燃えないのかが少しわかってきました。
「国」に所属しないと参加できないワールドカップやオリンピック(最近は「難民」の身分での参加も可能になりましたが)ですが、どちらも代表として出場していながら、その「国」で生まれ育ったわけではなく、もしかするとその国の言葉も満足に話せない選手がいっぱいいます。サッカーのワールドカップでは、移民してきた国で代表になった選手はいっぱいいるし、オリンピックでも、たとえば卓球では中国で生まれて帰化した選手を代表にしている国は多い。スポーツの国際大会は「国別対抗戦」が原則であるがゆえに、どこかの「国」に帰属していないと選手は出場できない。だから選手は帰属意識のあるなしに関係なく、自分を代表にしてくれる国を選ぶことがあります。選ばれた国にとっても、活躍してくれれば国威発揚に役立つ。なんか……すっきりしない。

そんな私の気持ちをすっきりさせてくれたのが、星野智幸さんが「新潮」に発表した「世界大角力共和国杯」でした。 ぜひ読んでいただきたいのでネタバレは避けますが、ざっとあらすじを説明しておきます。
日本国籍ではないからと日本大相撲協会に残れなかったモンゴル人のカリスマ力士が、世論を味方につけて年寄りになり、さらに10年後に相撲協会の理事長に就任する。実権を握るや否や、「国籍条項」を全廃止しようとし、反対されると協会を脱退して自ら日本大角力連盟を立ち上げる。新連盟は「世界大角力共和国構想」を発表し、角力を世界的競技にするための画期的なアイデアをつぎつぎと実現していく。女性力士のプロ化から、外国籍力士が引退後自分の国に帰って部屋を立ち上げるときには手厚いバックアップをする、といった「革命」により、角力は日本の「国技」から、世界的人気を獲得する競技になる。
共和国杯は予選を勝ち抜いた世界中の力士が、真の角力世界一力士を決めるための大会。おもしろいのは、日本人の「純血」の力士がコンプレックスを抱く、というところ。父方、母方共に日本の有名力士だったという伊勢ノ杜という力士は「負けるたびに「純粋培養は逆境に弱い」と言われ続けてきた」という。
「出身を問われて正直に答えると、ああ、だからか、という顔をされる。血なんか関係ない、血のせいだと言われたくない。そうじゃないことを証明してやる、と思うのに、注目の一番となると固くなって自分の相撲が取れず、負けてしまう。「伊勢ノ杜は弱い」と言ってくれたほうがすっきりするのに、素質はあるけれど純日本人であるがゆえにひ弱なのだ、と言われると、やりきれない思いにうちひしがれる」
私はここで笑ってしまった。なんというアイロニーなんだ! いや、ごめんなさい、稀勢の里ファンの方に悪いけれど、ここで浮かんでしまうのが稀勢の里の姿。私も稀勢の里を応援しているけれど、日本人だからっていうんじゃなくて面白い角力だから。でも白鵬の角力も好きだし応援している。ま、私はあんまり角力詳しくないけれど。
そして両親ともモンゴル人で、日本生まれの日本育ちの大関はモンゴル系日本人であって「純血」ではないとされる。主人公は「純血って何なのだ?」と頭をかきむしります。
その答えも書かれています。
「純血とか混血とか、本物とか移民とか、全部幻想だ」
幻想、というか、フィクション。作られた物語なんだ、と私も思います。
人は自分が帰属しているものについての物語を必要としている、と文化人類学者は言います。だから神話が語り継がれ、経典や聖書が生きる上での規範となり、同じ物語を持った集団をまとめる「国」が作られる。
でも、個人が自分の中で紡いでいる物語が、必ずしも生まれ育った「国」や今暮らしている「国」の物語とは一致しないことだってあるわけです。ましてや自分が代表としてスポーツの国際大会に出場するために選んだ「国」の物語を幻想として抱けるかと問われたら、さて、どうなのでしょうか?
ときどきクスクス笑いながら面白く読んだ小説でしたが、読み終わった後に考えこんでしまいました。

私自身はいったい何に、どこに、どのように帰属しているのだろうか?
両親ともに「日本人」だったし、先祖をさかのぼっても日本で生まれ育った人たちばかりなのですが、それなら私は日本に帰属していると自覚しているだろうか?
私は自分の中でどんな物語を紡いでいるのだろう?
なーんてことを考えて、この小説を読んだ後に「口語訳 古事記」(訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋)を読んでます。
すごいね、私。角力からいきなり古事記に飛んじゃったよw

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