Glamorous Life

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読む快楽

実はGWのしょっぱなで私事でいろいろとあって、とてもブログを更新する気にならなかったのですが、ようやくちょっと気持ちが落ち着いてきたので忘れないうちに最近読んだ本と観た映画について一言ずつ書いておきます。

観た映画
『幸福なラザロ』
Bunkamuraにて鑑賞。アリーチェ・ロルヴァケル監督。イタリア映画。カンヌ映画祭で脚本賞を獲得したそうです。20世紀後半、北イタリアの山奥で、すでに政府によって小作人制度が廃止されたことも知らずに、タバコの葉栽培でせっせと「侯爵夫人」の小作人として働く小さな村の人たち。その中に一人、ラザロという気のいい働き者の青年が、みんなにいいように使われています。そこに事件が起こって警察が山奥まで駆けつけ、侯爵夫人は詐欺を働いていたことが発覚して逮捕。村人たちはみんな都会に連れて行かれますが、ラザロだけは直前に崖から転落して山中に取り残されます。20年以上たってラザロは「復活」し、村人たちを追いかけて都会に出ていき……という内容。まあなんというか、現実とファンタジーがないまぜになった内容で、私は正直あまりおもしろくなかった。でも連休中は毎回満席。うーん。

『希望の灯り』
Bunkamuraにて鑑賞。旧東ドイツ、ライプツィヒ郊外のスーパーマーケットが舞台。若いころにギャングに入っていた青年が、更生して業務用スーパーの在庫管理係として雇われ、先輩や同僚たちにしだいに心を開いてとけこんでいく、というただそれだけのストーリー。もちろんちょっとした事件も起こるし、恋もあるし、東西統合されたあとに取り残された人々という社会問題もバックにはあるけれど、 たぶんテーマも主役もそこじゃなくて「スーパーマーケット」です。原題は「通路にて」。まさにその通り。消費社会の象徴のような巨大スーパーの通路で行き交う人たちを淡々と描いた、なんというか、ニュアンスとしては「ロードムービー」みたいな内容と私は感じました。だから「希望の灯り」っていうタイトルはちょっとどうかと思う。なぜか空席いっぱいでしたが、隣で上映されていた『幸福なラザロ』よりも私の頭の中には余韻が残りました。

『万引き家族』
WOWOWにて鑑賞。是枝裕和監督作品の中では、息苦しい路線のトップに躍り出た作品。『誰も知らない』よりも重い。で、この作品はなんといっても「安藤サクラ」がすばらしい。安藤サクラが出てくるシーンだけ、数回見直したくらいの迫力。泣けるとか笑えるとかいうシーンはほとんどないのですが、警察で取り調べを受ける安藤サクラの表情を長回しで撮ったシーンは2回観て2回とも一緒に泣きました。このシーンだけでも、安藤サクラは映画史に残る俳優になった、と私は思います。安藤サクラの演技なしでは、作品はちょっとベタな内容に堕してしまったかも。すみません、生意気言います。

読んだ本
『父が子に語る近現代史』トランスヴュー
『靖国史観〜日本思想を読みなおす』ちくま学芸文庫 
ともに思想史家の小島毅さんの著書。
平成から令和に変わるそのときに読むのにふさわしい2冊でした。2冊とも小島さんの歴史観、日本史観が明快に述べられている本です。歴史を読むとはどういうことかをあらためて問いかけられました。大河ドラマや司馬遼太郎をはじめとする歴史「小説」と、歴史とは別物であることをもう一度自分に言い聞かしています。思想史ではありますが、わかりやすくまとめられていて、しかも教科書的ではない。こういう書き方で学んでいれば、歴史がもっと身近に、そして自分に惹きつけられて読めたのに、と思いました。
上記の本、第4章「世襲」を支える「忠義」の理屈、は必読かも。
「しかし、将軍が代々世襲されるようになると、当主の器量は小さくなってきます。僕は、これは人類史上の普遍的な真理だと思います。政治は世襲でできるものではありません。ではどうするか。古来、そのための言い訳、凡庸な人物でも世襲で政治権力を継げる理由が考案されてきました。「忠」というのも、その一つです」 

『私の名前はルーシー・バートン』
『何があってもおかしくない』
早川書房 
エリザベス・ストラウト著 小川高義訳。
『オリーヴ・キタリッジの生活』を読んで以来、エリザベス・ストラウトのファンになって、どちらも読んでいたはずなのに印象が薄かったので再読。ストーリーテラーとしてはもちろん、作品構成、人物描写、どれも気を衒わず、技巧的でなく、それなのにすばらしくうまい。登場人物の人生に、じんわりと同化していける不思議な小説です。

『ある男』
平野啓一郎著。
ほぼ一晩で一気読み。「私とは何か?」を問い続ける平野啓一郎の真骨頂。推理小説とも言えるし、哲学小説みたいでもある。井戸まさえさんのご自身の体験を踏まえての『無国籍の日本人』の衝撃とは別物の衝撃ではありましたが、名前や生まれ、家族、仕事などで枠組みを作られない「自分」を考え直しました。
(失礼しました! タイトルを桜庭一樹さんの『私の男』と取り違えてしまいました。ご指摘ありがとうございます。で、ついでみたいで申し訳ないのですが、『私の男』も実におもしろかった。この本、ちょうどチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』、『ヒョンナムオッパへ』(韓国フェミニズム小説)、姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』を読んで、強い共感とともに、この(男性)社会への無神経さと強欲への苛立ちと嫌悪感に包まれていたときでした。これらの小説をひとまとめに「フェミニズム小説」としてくくるのは抵抗がありますが、やはりフェミニズムについては避けて通ってはいけない女65歳だと思うので、気持ちを落ち着けて一度「フェミニズム小説」について書きます)

アンデシュ・ルースルンド;ベリエ・ヘルソトレムの3冊
『三秒間の死角』
『制裁』
『地下道の少女』

どれも面白くて一気読みでしたが(ただし『地下道の少女』は中だるみして、しかも読み終わって「え? これでいいわけ?」でしたが)一番残ったのは『制裁』でした。人を殺してはいけない、という法律を条件付きで「殺してもしかたなかった」としたとたんに起こる社会の無秩序。死刑制度についてもあらためて問いかける内容でした。

だんだん疲れてきたので、あとは感想抜きでタイトルのみ。
『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』ヤニス・パルファキス著(タイトルが大げさすぎるし、長すぎる。うっかりポチってしまって、あっという間に読んでしまったが、「とんでもなくわかりやすい」というタイトルをつけた本を読むんじゃなかった、とストレスを感じた)
『償いの雪が降る』アレン・エスケンス著 創元推理文庫(おもしろく読んだのだが、主人公の青年がいい人すぎてだんだんイライラしてきた。ま、ファンタジーとして読めばいいんだけれどね)
『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』 仲正昌樹著 NHK出版新書(哲学書なのになぜか一気読み。新幹線、品川で読み始めて気がつくと新大阪終点でした。あまりにおもしろかったので、同じ著者の『今こそアーレントを読み直す』もポチってしまいました。が、ちょっと重複するところが多くて、一気読みとはいかず)
 
ほかにも書評用に何冊か読んだのですが、それはまた今度。 

 ジョン・F・ケネディが暗殺された日のことは、今でも奇妙なほどはっきりと覚えている。そのニュースを知ったのは1963年11月23日(暗殺されたのはアメリカ時間の11月22日)。その日は休日で、家族(8人)全員が家にいた。父、祖母、妹は庭にいて、母は台所で食事の準備をしていた。祖父はもう食卓について、一杯やっていた。晴れた日で、11月にしては暖かく、庭の銀杏の落ち葉を祖母と父が片付けるのを私たちは手伝わされていた。父に命じられて私は郵便受けまで新聞を取りに行き、朝日新聞と毎日新聞の夕刊一面に大きく暗殺事件が報じられているのを見て、庭まで走った。
「ケネディ大統領が暗殺されたんやって!」
 父がびっくりして立ち上がり、「なんやて!」と叫んだ。祖父があわててテレビをつけた。 ダラスでの銃撃のシーンはそのとき放映されたかどうか、そこは記憶にない。
 この事件に私は生まれて初めてといっていいほど、ずどんとくる衝撃を受けた。それから何週間、何ヶ月にもわたって、私は熱に浮かされたように新聞や雑誌でニュースを追いかけた。
なぜ殺されたのか? 誰が殺したのか?(9歳ではあったが、どうもオズワルドの単独犯行ではなさそうだ、と思っていた。陰謀説がなんかかっこよさげだったし)
 半年たっても衝撃が醒めず、学校に提出する作文に暗殺事件のことを書いている私に、母は「いい加減にしなさい。よくわかってもいないのに、ケネディ、ジャッキーって小学生が作文に書くなんておかしいでしょ」と注意されたのも記憶している。
 ケネディ大統領はそのころ私のアイドルだった。1961年の大統領就任演説でアメリカ国民に呼びかけた有名なフレーズに、9歳ながらしびれた。
And my fellow Americans:  Ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.
 アメリカ市民ではなくて、日本国民だけれど、そうだ、私も国が自分のために何をしてくれるかを期待するのではなく、自分が国のために何ができるのかを考えよう、とか思った。
 長じてからも「会社が自分のために何をしてくれるかではなく、自分が会社のために何ができるか」とか「夫と家族が私のために何をしてくれるかではなく、私が夫や家族のために何ができるか」とか考え続けて60年足らず。気づいたのは、国も夫も家族もそんなこと知ったこっちゃなかったってことだwwww あ〜〜ケネディ、どないしてくれるねん! 私の報われない自己満足の滅私奉公。
 それはともかく、毎晩家庭で強制的に見せられるNHKのニュースで(バラエティが見たいよ〜、「鉄腕アトム」だけは見せて〜とわめいても大人6人におされてダメでした)、耳にたこができるほど聞かされた「鉄のカーテン」「冷戦」「共産主義と戦うアメリカ」「核戦争への恐れ」そして「米ソの宇宙開発競争」とはいったいなんだったのか? 
 世界はアメリカ陣営とソ連陣営に二分され、どちらの陣営に入るかをほかの国々は選択しなくてはならず、敗戦国日本はアメリカ陣営に組み込まれ、だからソ連は怖い、共産主義は怖いと教え込まれた、ような記憶がある。なんだかわからないけれど、怖い。なんだかわからないから、怖い。たぶん米ソどちらの陣営にいても、政治家以下全員が「相手がわからないから怖い」と思っていたのではないか。そう、よくわからない人や国のことは、まず怖いのだ。怖いから攻撃する。攻撃されるんじゃないかと怖いから、こちらから攻撃する。それが人間の本性なのだろうか?

 先日、オリバー・ストーン&ピーター・カズニックが書いた「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」と、ソ連研究の第一人者である下斗米伸夫さんの「ソビエト連邦史1917ー1991」を並行して読んだ。どちらにも「そうだったのか!」唸らされるところがいっぱいだったのだが、読み進むうちに「冷戦だ、核軍備だとか、要するに米ソが違いに妄想にかられて戦争ごっこをしていただけではないのか?」と腹が立ってきた。
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(ほかの本も読んだわけです。図書館で借りてw)

 戦略空軍(SAC)司令官のトーマス・パワー大将は、1960年当時アメリカが保有していた核兵器の数が、ソ連の10倍だという事実を知らされてSACの予算が削られるのではないかと危機感を抱き、「なぜわれわれの活動を制限しようとするのか! やつらを殺すのがわれわれの使命だ」と怒ったそうだ。(オリバー・ストーンのアメリカ史より)そして核を使用すれば人類が滅びることになりかねない、と言われても「戦争が終わった時点で、アメリカ人が二人、ロシア人が一人生き残っていたとしたら、アメリカの勝ちなんだ」と言い放ったという。いま知ると「あんた、それ、狂ってます!」としか言いようがないが、おそらく当時のアメリカ(そしてソ連)の軍人たちはそう信じ込んでいたのだと思う。たとえ人類の大半が滅びて地球に生命体がなくなる危険があっても、相手よりも一人多く生き残って勝ちたい、とね。大国の大将が本気でそう思っていたのなら、あのころの「核戦争による人類滅亡」も妄想で終わらなかったかもしれないのだ。おそろしや。そんなこともわかってなくて、ケネディかっこいい、アメリカ強いとか言っていた自分がバカすぎる。
 恐怖の独裁政治を展開したスターリンを批判したフルシチョフと、冷戦をいっそう推し進めたアイゼンハワーのあとに大統領となったケネディは、そんな「妄想の戦争ごっこ」をやめようと互いにゆっくりと歩み寄ろうとするのだが、ケネディは暗殺され、フルシチョフは失脚する。
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(パリ会談では米ソの距離はあまり縮まらなかった。表情がどちらも固い)

 そしてアメリカはベトナム戦争の泥沼にずぶずぶになるまでつかって抜き差しならなくなり、ソ連は軍備を増強して独裁を強めていく。
 ケネディが殺されずに8年大統領だったら核軍縮は進んでいたのだろうか?
 フルシチョフが失脚しなかったら鉄のカーテンはもう少し早く上がっていたのだろうか?
 そんなことを空想したくなる60年後の今なのだけれど、たとえ2人が健在でもあまり変わっていなかった可能性が高い。何しろ、妄想の戦争ごっこは誰がトップになろうと、誰が主導権を持とうと、続いていってしまうことを今の世界が証明している。
 ケネディは「アイドル」になったリーダー第一号だと思う。少なくとも私にとっては、アイドルだった。アイドルだったからこそ、小学生の私は作文のテーマに取り上げたのだ。
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 ヒーローは完全無欠や絶対的な強さを求められて近寄りがたいけれど、アイドルは少しは弱みを見せて人間味があるから親しみやすい。その人間味をかわいいととるか、それともかわいくないととるか、それを決めるのも大衆。もしいまケネディが生きていたとしたら、核軍縮を進めた業績があったとしても#Me Tooで叩かれていたのかもしれない。
 時代はますますヒーローを求めなくなっている。祭り上げてもてはやし、何か意に沿わないことをするとバッシングできるアイドルのほうが求められる。
 思えば1960年代からその傾向は始まっていたのだ。
  

自分の過去を振り返ってみて、あのとき(本当のところ)何があったのか、を検証しよう、という試み第一弾です。
第一回目、記憶として鮮明に残っている一番古いころの話から始めます。幼稚園年長組にいた1959年から60年にかけてのことです。なぜそのころの記憶が残っているのかとここ数日考えていて思いついた理由の1つ目は5歳になって字が読めるようになったこと、2つ目に家にテレビがやってきたことです。文字と映像は記憶をあとあとまで鮮明に残すんじゃないでしょうか。脳科学者ではないからしかとはわからないけれど。
生まれたのは尼崎市でしたが、1958年私が4歳、妹が2歳のときに、両親が母方の祖父母に私たちを預けて外国に行ったために、芦屋市に引っ越しました。前にも書きましたが、母方の祖父が非常に癇性な人で、ちょっと何か気に触ることがあると額に文字通り青筋を立てて怒鳴りまくり、ものは投げるは、机を叩くは、食卓をひっくり返すは(卓袱台返し、ですね)、で子どもの私はとても恐れていました。
 だから、芦屋の家に連れてこられたとき、玄関に出迎えた祖父の顔を見たとたん、恐怖におののいて、泣いてわめいて暴れて手がつけられなかった……ということも覚えています。家の玄関前にかえでの大木(子どもの目には大木に思えた)があり、そこにしがみついて家の中に入ることを断固抵抗した、という記憶まで残っています。親においていかれて不憫だと思ったのでしょうか、今にも祖父が切れそうになるところを、祖母が必死に「子どもは泣くだけ泣いたら気がすむんじゃけえ、放っておきなせえ」(岡山弁)ととりなしてくれました。
 両親はどこに行ったのか? アメリカです。なぜかというと、医者の父が奨学金をもらって(だか、給費生か何かに選ばれたのかも)アメリカの大学で学ぶことになったからです。為替レートは固定制で1ドル360円、外貨持ち出し制限がある時代でした。だから幼い子どもを日本に残して、何も母まで一緒に行かなくても、と今の私は思いますが、父が「どうしても連れて行きたい」と母なしでは行かないとごね、せっかくのチャンスをふりかねなかったのと、母も母で「何もかも日本より進んでいる(らしい)アメリカに行ってみたい」と思ったのでしょう。
ちなみに父と母の出会いの場は「英会話教室」でした。英語を学ぶ動機は父の場合は留学でしたが、母はアメリカへの憧れからでした。「戦争中は英語がいっさい使えなくて、ちょっとでも英語っぽい言葉をしゃべったら『おまえ、非国民や』とそしられたのに、戦争が終わったとたんにハロー、イングリッシュ、カモンカモンやったからなあ」と言っていたのは父です。(えーっと、両親ともに英会話はいま一つでした。一緒に海外旅行に行くと、ガイド役も交渉役も私か夫でした。親には悪いけれど、留学しても英語がぺらぺらになるわけではないのだなあ、と思ったりして)
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(こんな船でアメリカはニューヨークに渡ったのです。片道7日間。中央で手を振っているのが父です)
 当時はとくに医学に限ったことなく、工学、法学、文学なんでも「アメリカに留学せんと使い物にならん」(祖父の弁)と考えられていたのです。箔をつける、というだけでなく、何事もアメリカさまに学ばなくては日本の戦後復興はありえない、という時代でした。アメリカは日本人みんなの憧れ、アメリカ人は賢くて金持ち、アメリカは進んでいる、だから英語が話せなくてはこれから日本で生きていけない、というくらいアメリカ信奉が大人から子どもまで蔓延していた、ように思います。少なくとも幼い私の周囲では。
 ところが、前のエントリーで書いたように、ある日私は祖母と一緒にバスに乗っているとき「安保反対!」と叫ぶデモ隊に出会うのです。そういえば、家にやってきたブラウン管テレビのニュースでも、「あんぽはんたいうんどう」と盛んに言っています。祖母は「あんぽんたんのエラい人が、あんぽんたんの国の言いなりになっとるんじゃ」と吐き捨てるように言いましたが、祖父などはテレビに岸信介首相が出てきて安保について何か話し始めると、きききーと歯ぎしりをして、額に浮き出るほど青筋を立て、手にしていた盃を大事な大事なテレビの画面に向かって投げつけ、「あほんだらが! アメリカの言いなりになって日本をどないしよるんじゃ!」と喚くのです。(盃はなぜかたいていテレビ画面から明後日の方向に外れて飛んでいったし、盃に酒は一滴も入っていませんでした。テレビは「家宝」だったし、酒も貴重品だったから)その時点で私はもう恐くて涙目になってしまいます。早く「あんぽ」の話が終わってほしい。心底そう願いました。
 そしてもう一つ子ども心に不思議に思ったこと。あれほど「アメリカは進んでいる、アメリカにはなんでもある、アメリカはすごい、日本が戦争に負けたのも当然じゃ」とアメリカを信じ奉っている祖父母なのに、なぜか「安保」の話になるとアメリカを罵り、アメリカを信じたら日本は潰されてしまう、というのか? パパやママが行っている国なのに、大丈夫か?
 長じて「日米安保体制」とはいかなるものかがわかったとき、戦争を経験し、米軍占領時代を経てきた祖父母のアメリカに対するアンビバレントな気持ちがようやくわかったように思いました。祖父母ともに死ぬまで強烈な戦争反対主義者でした。とくに祖父は少しでも戦争の気配を感じると、それだけで恐怖を感じていたようです。子どものときの記憶が日露戦争から始まり、第二次世界大戦では満州で戦い、病気になって内地に戻ってきたものの、そのまま特攻隊の基地に送られて終戦を迎えた祖父にとって、戦争は憎むべきもの、何もかも破壊してしまう怪物のようなものだったのでしょう。
 自分が生まれたときから戦争をしていた日本が、さあこれから軍隊を持たない、2度と戦争をしない国になるよう憲法で定めた、といっても祖父はすんなりと信じられなかったのかもしれません。だから朝鮮戦争をきっかけに日本の「再軍備」がアメリカ主導で始まり、アメリカ軍の基地が日本のあちこちに置かれている現状に、大いに危機感を募らせていました。55年体制になったとはいえ、同じ党の中でも派閥があり、護憲派と改憲派で揺れていて、テレビで流れる国会中継はつねに怒鳴り合い罵り合いで何一つ決まらないのを見るたびに、祖父はぶるぶるとからだをふるわせ「そげなことばっかりやっとって、また戦争に巻き込まれたらどないするんじゃ!」と政治家に怒りを爆発させました。
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(「日本20世紀館」小学館より。このデモの前、全学連主流派が国会に乱入し、警官隊と大乱闘になって樺美智子さんが犠牲になりました。私は今でも「安保」と聞いた瞬間に、樺さんの遺影を掲げたデモが頭に浮かびます)


 そして岸首相がアメリカに行って、吉田茂首相が1951年にアメリカの言うままに結んできた日米安全保障条約を、今度は「日米が対等の立場で結び直した」と言っても、祖父たちはまったく信じられなかったに違いありません。あらたにとは言っても、基地はこのままアメリカに貸すし、アメリカに協力する(日米地位協定ですね)といい、何かあったらアメリカは日本をぜったいに守ってくださいね、という内容だと知ったとき、不安が一気に高まったのではないでしょうか。「アメリカは日本に原爆を落とした国やぞ。なんでその国が護ってくれると思うんじゃ! このどあほうが!」。祖父の怒りがこちらに向かないうちに、私はそそくさとごはんをかきこんで、逃げたものです。
  アメリカは憧れの国。アメリカは進んだ国。アメリカは自由の国。
 でも、アメリカは日本に原爆を落とした国。
 あのころの私の家では、というか私の中では、アメリカの存在はとても複雑でした。

 尼崎市塚口の家で生まれた私は、両親がアメリカに2年間行くことになったのをきっかけに、4歳のときに母方の祖父母が住んでいた芦屋の家に引き取られました。アメリカから帰国した両親は、そのまま芦屋の家で母方の家族と同居を始めたので、私は18歳で上京するまで芦屋で生活しました。岡山で生まれ育った母方の祖父母、特に祖母は長く芦屋に暮らしていても「阪神間モダニズム」とも呼ばれる独特の地域文化に馴染めないままでしたが、父方の祖父母は、ことに祖母は当時日本の中でも最先端をいっていたファッション、レジャー、生活様式や教養を積極的に取り入れ、実践していました。まあ、なんというか、派手好き遊び好きだったのです、父方の祖母は。
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(すでに2児の母親だった祖母。大阪大空襲で焼けてしまった梅田の自宅庭で撮影したものだそうです。昭和初期の戦争前、阪神間モダニズムが華やかだった時代がしのばれるファッションです)
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(祖父母一家。右から祖父、祖母、父、叔父。冬になると大山でスキーを楽しんだとか)

 1988年、父に連れられて芦屋の浜に開館した芦屋市谷崎潤一郎記念館を訪れたときのことです。父が「グランパ(私にとっての曽祖父。父は自分の父親のことをダディ、母はママ、祖父はグランパとか呼んでいたが、母から「気色悪い」と言われてめったに言わなかった)は谷崎さんと親交があって、関東大震災をきっかけに関西に越してきた谷崎さんの家を世話したりしとった」とふともらしました。高校生のときから「細雪」が愛読書で、描かれている阪神間モダニズムの世界に親近感と憧憬を抱いていた私は、それを聞いて飛び上がりました。「なんでそんなすごい話をもっと早くに言ってくれんかったん?」と父に詰め寄ったのですが、自分の母親のモダンガールっぷり、ハイカラぶりに辟易していた父としては、あまり言いたくなかったらしい。
 でも、その話を聞いて以来、ますます谷崎文学の、それも阪神間モダニズムを描いた作品に魅かれていった私としては、現在アサヒビール大山崎大山荘で開催されている「谷崎潤一郎文学の着物を見る」という展覧会と、谷崎潤一郎記念館で開催中の「谷崎とアシア・「細雪」〜モダンと伝統」を見逃すわけにはいきません。
 というわけでまずは行ってきました、大山崎大山荘に。本の帯に「百年経ってもいかがわしい」とありますが、今の私から見ても「ようこんなデザインの着物着るわ」という柄ばかり。当時は今よりも「モダン」だったのかもしれません。今はポストポストモダンだものね。
 両親の家をたたむとき持ち帰った着物の中に、紫の文様の着物があり、「いまどきこんな柄のものを着る人はいない」という呉服屋さんの忠告を無視して洗い張りに出して仕立て直しました。そうか、これって阪神間モダニズムだったから私が魅かれたのか、と展覧会を見ながら思いました。
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 阪神間モダニズムの世界はしだいに遠ざかりつつあるのかもしれません。とくに阪神・淡路大震災後によって、大正から昭和初期にかけて建てられた阪神間の建造物が失われてしまってからはますます遠ざかっているのかも。いずれは谷崎をはじめとする文学や小出楢重の随筆などでしのぶしかないのかも。

2018年はナオミ・クラインとレベッカ・ソルニットという2人の物書きと「親友」になった年として私の中で刻まれます。
ソルニットに関しては、次号のVOGUEで「説教したがる男たち」を取り上げるつもりなのでその紹介は置いておくとして、ここでは「ウォークス」を取り上げたいと思います。
「ウォークス 歩くことの精神史」レベッカ・ソルニット著 東辻賢治郎訳
左右社
walks、歩くこと。副題は「歩くことの精神史」です。
第1ページ目の謝辞にこうあります。
「このテーマで書くことの大きな喜びのひとつは、歩くことが限られた専門家ではなく無数のアマチュアの領分であることだ。誰もが歩き、驚くほど多くの人が歩くとはなにか考えをめぐらせ、その歴史はあらゆる分野に広がっている」
巡礼で荒野を歩いた修道者や修験者たち、歩いて思索した哲学者たち(カントもヘーゲルもルソーも歩きながら考えた)、街が数々の危険をはらんだジャングルのような場所だった17~19世紀に歩かざるをえなかった女性たち、山や原野を歩くために歩いた登山家や冒険者たち、車社会になってからの歩行の意味、散歩の発見……歩くことで人は何を見出してきたのかを歴史の中にたどったのが本書です。
一応歩く歴史をたどった本として内容は時系列で並んではいるのだけれど、どのページを開いてもそこには魅力的な文章が綴られていて、時間があるときもないときもしばらく没頭します。ページを開くたびに何かしらあらたな感動がある傑作です。

レベッカ・ソルニットは作家、歴史家、そしてアクティヴィストです。環境問題、人権、反戦の活動に深く長くかかわり、差別されている人たち、環境が脅かされている地域の人たちのところに駆けつけ、そこでともに闘っている女性です。だからウォークスもアクティヴィストとしての彼女の思想が下敷きになっています。その意味で私がもっとも興味深く読んだのは「市民たちの街角ーさわぎ、行進、革命」の 第13章でした。
彼女が現在住んでいるサンフランシスコで行われるさまざまなデモンストレーションや通りを占拠してのお祭りから始まるこの章では、市井の人たちが自分たちの主張を訴えるために、街を行進し、それが大きなうねりとなって社会を変えてきた歴史が描かれています。現代のサンフランシスコでは「行進」(デモ)には音楽がつきもので、ときにはコスプレもあり、通りに屋台も出て、参加者も傍観者も一緒になって楽しむ祝祭になっている、といいます。ウキウキしたお祭りの「行進」ですが、そこには必ず政治的なメッセージが込められている。そしてそれが社会を変える力を持つ、とソルニットは言います。
そんな「デモ」もしくは「行進」は何も現代のアメリカに限ったことではなく、世界中いたるところで市民たちが繰り広げてきました。 
「ふつうの日には、わたしたちはひとりずつで、あるいはひとりふたりの道連れと歩道を歩く。通りは輸送や商活動のために使われている。ふつうではない日、歴史や宗教上の出来事を記念する祭日、あるいは自らの手で歴史をつくりだそうとする日には、私たちは皆で歩みをともにし、街路のすべてにその日の意味を響かせようとする。歩くことは祈りにも、性交にも、土地と交わることにも、瞑想にもなりうる。そしてデモや蜂起においては言葉を発することとなり、都市をゆく市民の足取りは多くの歴史を記してきた」
 そう書いた後でソルニットは、フランス革命とパリの市民たち、チェコソロバキアの「ビロード革命」、民主化を求めて広場に集まった学生たちを戦車が攻撃した天安門事件、アルゼンチン軍事政権下で行方不明となった若者の母親たちのデモ行進、911後にイランに宣戦布告したアメリカに抗議するために世界中で起きたデモ(ソルニットは逮捕もされている)と、いくつもの革命的行進を紹介します。革命は無名の市民が手を取り合って歩くことから始まるのです。たとえ戦車が人々を押しつぶそうと、権力者が銃を向けようと、最後には政治についてはアマチュアであり、歩くことで主張を訴える市民たちの力が社会を変えていくのですーーそのことをソルニットはリズム感ある文章であきらかにしていきます。

 歩くことは、男性と女性では意味が異なります。歩く女性は性的な侮蔑をこめられて語られ、街であろうと自然の中であろうと、女性が一人で歩くことがいかに危険だったか、についても本書には詳しく書かれています。「英語には女性の歩行を性的な文脈に置く語彙やフレーズがふんだんに」あり、娼婦はstreet walker(通りを歩くもの)、woman on the town(日本語と同じく街の女)、public woman(日本語でいえば公衆便所、でしょうか)と呼ばれます。女性、それも若い女性が一人で歩くことは、性的な誘いをかけていると考えられていたのです。昔だけでなく、今も変わらないかもしれない。歩くことは性(性別)と深く関わっているのです。
 私は歩くことが好きです。っていうか、乗り物酔いがひどいので、歩ける範囲はできれば歩いていきたい派です。でも、大学進学のために上京するまで、「一人で繁華街を歩く」ことは学校からも親からも禁止されていました。超のつくお嬢様学校だったので、たとえ友だちと一緒でも、神戸や大阪の街に出かけるためには「目的」と「親の承諾」を明記した届け出を学校に提出せねばなりませんでした。
 でもハイキングはなぜかそれほどめくじらをたてられなかったので、実家近くの山歩きとかはよく出かけていました。でも、街以上に山には下心のある変態野郎がひそんでいて、薄暗くなる前に帰宅しなければならなかったものです。歩く女は非力でした。歩く女は侮蔑の対象でした。それは18世紀のパリでも、20世紀の神戸でも変わらなかった。
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(8〜9月はいろいろとあって何回も関西を往復しました。そのときの旅のおともとしてこの本は新幹線車内の無聊を慰めてくれました)

500ページを超える大部の本で、4500円+税と高額なので図書館で借りて読んだのですが、「これは手元に置くべき本だ」と思い購入しました。
長く味わって読みたいです。

 

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