Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

 尼崎市塚口の家で生まれた私は、両親がアメリカに2年間行くことになったのをきっかけに、4歳のときに母方の祖父母が住んでいた芦屋の家に引き取られました。アメリカから帰国した両親は、そのまま芦屋の家で母方の家族と同居を始めたので、私は18歳で上京するまで芦屋で生活しました。岡山で生まれ育った母方の祖父母、特に祖母は長く芦屋に暮らしていても「阪神間モダニズム」とも呼ばれる独特の地域文化に馴染めないままでしたが、父方の祖父母は、ことに祖母は当時日本の中でも最先端をいっていたファッション、レジャー、生活様式や教養を積極的に取り入れ、実践していました。まあ、なんというか、派手好き遊び好きだったのです、父方の祖母は。
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(すでに2児の母親だった祖母。大阪大空襲で焼けてしまった梅田の自宅庭で撮影したものだそうです。昭和初期の戦争前、阪神間モダニズムが華やかだった時代がしのばれるファッションです)
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(祖父母一家。右から祖父、祖母、父、叔父。冬になると大山でスキーを楽しんだとか)

 1988年、父に連れられて芦屋の浜に開館した芦屋市谷崎潤一郎記念館を訪れたときのことです。父が「グランパ(私にとっての曽祖父。父は自分の父親のことをダディ、母はママ、祖父はグランパとか呼んでいたが、母から「気色悪い」と言われてめったに言わなかった)は谷崎さんと親交があって、関東大震災をきっかけに関西に越してきた谷崎さんの家を世話したりしとった」とふともらしました。高校生のときから「細雪」が愛読書で、描かれている阪神間モダニズムの世界に親近感と憧憬を抱いていた私は、それを聞いて飛び上がりました。「なんでそんなすごい話をもっと早くに言ってくれんかったん?」と父に詰め寄ったのですが、自分の母親のモダンガールっぷり、ハイカラぶりに辟易していた父としては、あまり言いたくなかったらしい。
 でも、その話を聞いて以来、ますます谷崎文学の、それも阪神間モダニズムを描いた作品に魅かれていった私としては、現在アサヒビール大山崎大山荘で開催されている「谷崎潤一郎文学の着物を見る」という展覧会と、谷崎潤一郎記念館で開催中の「谷崎とアシア・「細雪」〜モダンと伝統」を見逃すわけにはいきません。
 というわけでまずは行ってきました、大山崎大山荘に。本の帯に「百年経ってもいかがわしい」とありますが、今の私から見ても「ようこんなデザインの着物着るわ」という柄ばかり。当時は今よりも「モダン」だったのかもしれません。今はポストポストモダンだものね。
 両親の家をたたむとき持ち帰った着物の中に、紫の文様の着物があり、「いまどきこんな柄のものを着る人はいない」という呉服屋さんの忠告を無視して洗い張りに出して仕立て直しました。そうか、これって阪神間モダニズムだったから私が魅かれたのか、と展覧会を見ながら思いました。
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 阪神間モダニズムの世界はしだいに遠ざかりつつあるのかもしれません。とくに阪神・淡路大震災後によって、大正から昭和初期にかけて建てられた阪神間の建造物が失われてしまってからはますます遠ざかっているのかも。いずれは谷崎をはじめとする文学や小出楢重の随筆などでしのぶしかないのかも。

2018年はナオミ・クラインとレベッカ・ソルニットという2人の物書きと「親友」になった年として私の中で刻まれます。
ソルニットに関しては、次号のVOGUEで「説教したがる男たち」を取り上げるつもりなのでその紹介は置いておくとして、ここでは「ウォークス」を取り上げたいと思います。
「ウォークス 歩くことの精神史」レベッカ・ソルニット著 東辻賢治郎訳
左右社
walks、歩くこと。副題は「歩くことの精神史」です。
第1ページ目の謝辞にこうあります。
「このテーマで書くことの大きな喜びのひとつは、歩くことが限られた専門家ではなく無数のアマチュアの領分であることだ。誰もが歩き、驚くほど多くの人が歩くとはなにか考えをめぐらせ、その歴史はあらゆる分野に広がっている」
巡礼で荒野を歩いた修道者や修験者たち、歩いて思索した哲学者たち(カントもヘーゲルもルソーも歩きながら考えた)、街が数々の危険をはらんだジャングルのような場所だった17~19世紀に歩かざるをえなかった女性たち、山や原野を歩くために歩いた登山家や冒険者たち、車社会になってからの歩行の意味、散歩の発見……歩くことで人は何を見出してきたのかを歴史の中にたどったのが本書です。
一応歩く歴史をたどった本として内容は時系列で並んではいるのだけれど、どのページを開いてもそこには魅力的な文章が綴られていて、時間があるときもないときもしばらく没頭します。ページを開くたびに何かしらあらたな感動がある傑作です。

レベッカ・ソルニットは作家、歴史家、そしてアクティヴィストです。環境問題、人権、反戦の活動に深く長くかかわり、差別されている人たち、環境が脅かされている地域の人たちのところに駆けつけ、そこでともに闘っている女性です。だからウォークスもアクティヴィストとしての彼女の思想が下敷きになっています。その意味で私がもっとも興味深く読んだのは「市民たちの街角ーさわぎ、行進、革命」の 第13章でした。
彼女が現在住んでいるサンフランシスコで行われるさまざまなデモンストレーションや通りを占拠してのお祭りから始まるこの章では、市井の人たちが自分たちの主張を訴えるために、街を行進し、それが大きなうねりとなって社会を変えてきた歴史が描かれています。現代のサンフランシスコでは「行進」(デモ)には音楽がつきもので、ときにはコスプレもあり、通りに屋台も出て、参加者も傍観者も一緒になって楽しむ祝祭になっている、といいます。ウキウキしたお祭りの「行進」ですが、そこには必ず政治的なメッセージが込められている。そしてそれが社会を変える力を持つ、とソルニットは言います。
そんな「デモ」もしくは「行進」は何も現代のアメリカに限ったことではなく、世界中いたるところで市民たちが繰り広げてきました。 
「ふつうの日には、わたしたちはひとりずつで、あるいはひとりふたりの道連れと歩道を歩く。通りは輸送や商活動のために使われている。ふつうではない日、歴史や宗教上の出来事を記念する祭日、あるいは自らの手で歴史をつくりだそうとする日には、私たちは皆で歩みをともにし、街路のすべてにその日の意味を響かせようとする。歩くことは祈りにも、性交にも、土地と交わることにも、瞑想にもなりうる。そしてデモや蜂起においては言葉を発することとなり、都市をゆく市民の足取りは多くの歴史を記してきた」
 そう書いた後でソルニットは、フランス革命とパリの市民たち、チェコソロバキアの「ビロード革命」、民主化を求めて広場に集まった学生たちを戦車が攻撃した天安門事件、アルゼンチン軍事政権下で行方不明となった若者の母親たちのデモ行進、911後にイランに宣戦布告したアメリカに抗議するために世界中で起きたデモ(ソルニットは逮捕もされている)と、いくつもの革命的行進を紹介します。革命は無名の市民が手を取り合って歩くことから始まるのです。たとえ戦車が人々を押しつぶそうと、権力者が銃を向けようと、最後には政治についてはアマチュアであり、歩くことで主張を訴える市民たちの力が社会を変えていくのですーーそのことをソルニットはリズム感ある文章であきらかにしていきます。

 歩くことは、男性と女性では意味が異なります。歩く女性は性的な侮蔑をこめられて語られ、街であろうと自然の中であろうと、女性が一人で歩くことがいかに危険だったか、についても本書には詳しく書かれています。「英語には女性の歩行を性的な文脈に置く語彙やフレーズがふんだんに」あり、娼婦はstreet walker(通りを歩くもの)、woman on the town(日本語と同じく街の女)、public woman(日本語でいえば公衆便所、でしょうか)と呼ばれます。女性、それも若い女性が一人で歩くことは、性的な誘いをかけていると考えられていたのです。昔だけでなく、今も変わらないかもしれない。歩くことは性(性別)と深く関わっているのです。
 私は歩くことが好きです。っていうか、乗り物酔いがひどいので、歩ける範囲はできれば歩いていきたい派です。でも、大学進学のために上京するまで、「一人で繁華街を歩く」ことは学校からも親からも禁止されていました。超のつくお嬢様学校だったので、たとえ友だちと一緒でも、神戸や大阪の街に出かけるためには「目的」と「親の承諾」を明記した届け出を学校に提出せねばなりませんでした。
 でもハイキングはなぜかそれほどめくじらをたてられなかったので、実家近くの山歩きとかはよく出かけていました。でも、街以上に山には下心のある変態野郎がひそんでいて、薄暗くなる前に帰宅しなければならなかったものです。歩く女は非力でした。歩く女は侮蔑の対象でした。それは18世紀のパリでも、20世紀の神戸でも変わらなかった。
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(8〜9月はいろいろとあって何回も関西を往復しました。そのときの旅のおともとしてこの本は新幹線車内の無聊を慰めてくれました)

500ページを超える大部の本で、4500円+税と高額なので図書館で借りて読んだのですが、「これは手元に置くべき本だ」と思い購入しました。
長く味わって読みたいです。

 

 今年の夏は各地で40度超えが7月から続き、熱中症で亡くなられた方も少なからずおられ、暑さをはじめとする異常気象が引き起こすさまざまな災害が報告されました。
 世界中で酷暑だったようで、パリに住んでいる友人たちは「去年に引き続き40度超え。クーラー欲しい」と言っていたし、スウェーデン中部の友人たちは「こちらも35度を超える日々。蚊とか虫が大発生」とか言ってきました。つまり、異常気象は地球全体で起こっているのです。
 日本ばかりでなく、世界各地で頻発する大雨による洪水、大規模浸水、台風やハリケーンによる被害、いずれも地球温暖化が引き起こしています。つまり「人災」です。
 これから地球環境はどうなってしまうのか? 温暖化による自然災害は増えるのではないか? そんな思いで手に取ったのが、ナオミ・クラインの『これがすべてを変える 資本主義vs気候変動』(岩波書店)でした。
 衝撃でした。「異常気象と言っているけれど、もはやこの暑さは異常ではなく常態化しているし、このままもっとひどくなっていく」と思っていたことを、豊富なデータによって「そうその通りです。地球規模で起こっている気候変動です」と現実として突きつけてきました。
 温暖化を引き起こしている原因は化石燃料を過剰に使用しているためで、何のために化石燃料を使っているかというと、何万年も前に死んだ動植物を掘り出すだけの安価な資源をエネルギーにして、「便利で快適な暮らし」こそ追求すべきものという価値観が私たちに植え付けられてしまっているからです。でも化石だけでなく、すべての地球の資源は有限です。地球の人口全員が一律に、「便利で快適な暮らし」を競争で追求していけば、早晩枯渇するのは目に見えています。
 しかもその価値観を信奉する持てる者(わずか1%の勝ち組富豪)がその他99%の生活などをかえりみず、資源も富も独占していったらどうなるか。
 そこまでの現状と未来は、たぶんナオミ・クライン以外の書き手も「ディストピア」として描いていると思います。
 しかしナオミ・クラインはそこで立ち止まらない。ディストピアをユートピアとは言わないまでも、この先の未来を少しでも明るくするためにはどうしたらいいか、ということを単なる理想としてではなく語るのです。今こそみんなで団結して「このままではいけない」と立ち上がり、搾取と格差の上に成り立っている新自由主義市場の論理をくつがえし、自分が生きている場所と人々、つまりコミュニティの力を取り戻すことだ。そしてそのために立ち上がった人たちのパワーを、考え方を、行動をルポルタージュとして読ませてくれます。
 行き過ぎたグローバリズム、市場に任せておくのが一番いいとする新自由主義の考え方、そして資本主義そのものを「これでいいのか?」と見直すこと。そして隣の人と、どうすれば持続可能な社会に、環境に、地球にしていけるかを真剣に話し合うこと。
 気象と地球環境を専門とするジャーナリストであり、自分の子どもが生き延びられる自然環境と社会を与えたいと願う母親であり、そのために行動を起こす活動家であるナオミ・クラインは、気象の変動が引き起こしているさまざまな問題の前に立ちすくむしかない私には、一つの指標を示してくれます。私に何ができるか? 私は何をしたらいいのか? 「暑いねー!」とつぶやく前にやること。それは隣の人と話し、政治家や企業にやめてほしいことやってほしいことを訴えることではないか。
 
 ナオミ・クラインを一躍有名にした『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体』はもっと衝撃だったので、それについては後日書きます。
  
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60歳を過ぎてから私の体型は徐々に変わりつつあります。体型だけではありません。シワ、シミ、たるみ、どれももう見過ごせず見逃せないほどの「老化現象」がからだの各所に現れています。
以前から、夏になるとあせもに悩まされ、とくに夏場は衣服の締め付けでかゆみがひどくなるので、着るものを選ぶようになりました。もともとアレルギー体質で皮膚が弱いので、肌にふれるものには注意が必要だったのが、老化とともにますます過敏になっています。天然素材だからいいってことはなし。天然素材でもかぶれるものはかぶれます。締め付けなければいいってこともない。色柄デザインや流行以上に私にとって重要なこと、それは肌が受け付けるかどうかになりました。
もう一つ、「終活」のためにクローゼットの整理を始めるようになってから、ファストファッションに対する疑問もむくむくと頭をもたげてきています。安いから、機能がいいから、と大量生産されたものをシーズンごとに買い換えるのは正直とても気分が悪い。罪悪感っていう以上に、自分が思考停止した愚か者になった気分なのです。かといって、「(品質が)いいもの」を長く着る、という意見は聞こえがいいものの、体型や体質ばかりか、社会生活がどんどん変化するこの年代ではかなりむずかしい。年齢ではなく、いまの自分の体型、体質、社会生活にあった服装とはいったいどんなものなのか? いまだに模索しています。

そんな悩みを解決しようと手に取った本や記事を紹介します。
「インスタグラムのグラマラスなグランマたち」
映画「アドバンスド・スタイル そのファッションが、人生」でもアメリカ女性たちが60歳過ぎてもおしゃれを捨てず、自分のスタイルを追求して人生を楽しむ姿が紹介されましたが、その流れでインスタグラムで自分の日々のファッションをアップする女性たちを紹介した記事です。
うん、うん、励まされる、楽しい、そうだね、年とってもおしゃれするエネルギーは失いたくない、と思いつつ、うーん、私が求めている「スタイル」とはちょっと違う、という違和感があります。ファッションこそ人生! とまでは私は言い切れない。おしゃれは好きだけれど、頑張りたくはない、そんな気持ち。なので、インスタグラムもときどきチェックはしていますが、私の参考にはならないなあ。そのファッションも、そのスタイルも、そん生き方も。

「おしゃれと人生。」小川奈緒著 筑摩書房
平松洋子、吉谷桂子、ウー・ウェン、角野栄子、有元葉子、ひびのこづえ、横尾光子、中島デコ、若山嘉代子、我妻マリという、たぶんライフスタイル誌で一度ならず特集記事が組まれたことがある大人の女性たちが、何を着てきたか、どんなスタイルを選んだかを豊富な写真入りで紹介しています。おしゃれの話だけではなく、生き方、暮らし方に踏み込んだ上でのスタイル紹介です。
「この年齢で何を着たらいいのだろう?」という悩みは、おしゃれに関心がある、もしくは衣食住に関わる仕事をしている女性たちの誰もが悩むことらしく、「もういいや」と悩みを放棄せずに自分の年齢にあったスタイルを見つけてきた女性たちの服装は参考になる……かもしれません。
私は角野栄子さんの服に一番惹かれたけれど、真似はできないししようもない。スタイル、というのは結局その人だけのものであって、普遍化もできないし、ましてやすてきな人の模倣をしたらすてきに見えて、すてきな人生が送れるわけでは決してない、ということがよくわかりました。

「「くらし」の時代 ファッションからライフスタイルへ」 米澤泉著 勁草書房
「服はもう流行(ルビ:ファッション)ではない。 朝食。ランニング。グランピング。ブックカフェ。なぜ、「ていねいなくらし」が流行しているのか」
この帯に、もうほんとそうだよね、とかくかくと頷きましたね。
「ユニクロでよくない?」から始まる本文にドキリとし、そうそう、私も「ユニクロでよくない?」とひそかに思いつつ、やっぱり大声では「よくない?」とは言えないよなあ、と思います。だって私がユニクロ着ていると、必ず誰かに「あ、それユニクロだよね。私も持っている」と言われる。そして「もうユニクロでいいよね」と追い打ちがかかる。正直、私はそう言われたくない。私の年齢だと「よくない?」にこめられたのは「服なんて考えるのはあほらしい年齢だよね?」というニュアンスで、私は「服なんかどうでもいい」とはまったく思っていないから。
 エシカル(倫理的に正しい、と訳せばいいか)なファッションを追求する。つまり、流行を追いかけることで大量生産大量消費をやめ、地産地消で自然素材を用いた服を長く大事に着る、など地球に負荷をかけない、という服装が「おしゃれ」だとする「流行」を分析しています。「ていねいなくらし」が「流行」する背景や消費者心理に踏み込んだそのファッション論には、現象としては非常によく捉えられていて、もう頷くしかない。
「何を着るか、誰が着るかだけでなく、本書でも具体的に見て着たように、どんな日常を送っているのかが重視される、「くらし」の時代がやって着た。服だけおしゃれしていても、メイクだけキマっていても、ファッショナブルではない。日々何を食べ、どこへ行き、どんな部屋に住んでいるのか。どんな「くらし」をしているのか。そこでは、むしろ何を着ているのかはたいした問題ではない。すでにおしゃれは「生きがい」などではなく、「おしゃれはほどほどでいい」「毎日同じ服を着るのがおしゃれな時代」となっている」
うーん、そうなのか。いや、そうなのだ。でも、でも、でも、60年代のロンドン発ユースクエイクに揺さぶられ、70年代に留学先のパリで高級ブランドに目がくらみ、80年代にアパレルに勤務してDC旋風に巻き込まれ、90年代に「ワンランクアップ」のメイクに邁進した私は、どうしても服(だけでなく化粧)が発信するファッションに背を向けられないのです。どうしたらいいんだ?
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ナオミ・クラインの本
「ショック・ドクトリン」「これがすべてを変える 
資本主義vs気候変動」「「NO」では足りない」
今年の夏はまたもや40度越えが各地で観測され、熱中症で何人もが命を落とされ、台風がいくつも発生し、何よりも中国四国地方を襲った豪雨によって20名以上が亡くなられ、今も避難生活を送られている方々が多数という災害が起きました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被害にあわれた方々が1日も早く生活を取り戻されることを願っております。ありきたりの言葉しか書けない自分が歯がゆいです。これらの災害はもはや天災ではなく人災。自分も含めた人間が自然を破壊しつくしてきた結果が招いたものだ、とつくづく思います。もっと前に防ごうと思えば防げたはずの災害。でも、それは日本に限ったことではありません。
スウェーデン北部で暮らしている知り合い(CONIFAの仲間)から、「日中の気温が35度を超えた! こんな暑さは50年生まれてきて初めてだ! あきらかに湖の水位があがって、氷河が融けていることを実感する」というメールが来て、これはもう地球的に温暖化の進行が自然災害を引き起こしているにちがいないと確信しました。
そんな中で手に取ったのがナオミ・クラインの「これがすべてを変える 資本主義vs気候変動」の分厚い上下2冊本。衝撃でした。
産業革命以後、地球の温度は1度近く上昇していて、このまま化石燃料を掘るだけ掘り、使うだけ使っていれば、2100年には摂氏4度気温が上昇してしまう。4度上昇すると、世界の海面水位は1メートル、場合によっては2メートル上昇する恐れがある。いまも徐々に沈みつつあるキリバスやツバル(どちらもCONIFAメンバー)などの多くの島々は完全に海面下に沈んで消滅する。日本だって住める平野部がどんどん縮小していく。そんな未来予測図が描き出されて暗澹たる気分になったのですが、ナオミ・クラインの本はどれもそこで終わらせません。
「社会のシステムそのものを今こそ変えよう」という提案がなされるのです。気候変動による災害が地球のあちこちで頻発している今こそチャンス。化石燃料を掘るだけ掘って自然を破壊し、金儲けできる人が成功者で、世界中の富の8割を数パーセントの人間が手に入れ、それを少しも還元しないシステム、それを変えるのは今だ、今しかない! とナオミ・クラインはどの本でも強調します。膨大な資料に裏付けられたその主張には、もう反論のしようもないほど。そして「今こそシステムを変えよう」という提案には、その通りだ! とがっくり落ち込んで座っていた椅子から立ち上がらせる力があります。
でも、そのために今の私たちの暮らしを根本から変える痛みとがんばりが必要で、それに耐えられるかと不安がかき立てられるのも事実。既得権益の上にあぐらをかいている「成功者」はまったく聞く耳を持たないでしょうし、実際に被害にあっている人たちでも生活を変えろと言われてもそのエネルギーがないかもしれない。「エシカルなファッション」とか「ていねいなくらし」の追求ではとてもすまないのですから。
私たちが、何を、どう変えたらいいのか。何を捨てて、何を選べばいいのか。
つぎに読んでいる「「NO」では足りない」にヒントが見つかりそうです。
「暑かったね〜」「災害たいへんだったね〜」で終わらせてはいけない。
喉元過ぎれば熱さ忘れる、というわけにはいかないところまで私たちの地球はズタボロです。
新自由主義の行き過ぎから行き詰まる資本主義、独裁の台頭とポピュリスム、貧富の格差拡大・・・・・気候変動は何が引き起こしたのか、そして気候変動は何を引き起こしているのか。
まずはそこを見据えることから、システム変革の第一歩が始まります。

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で、いきなりとても次元が低いところに話が落ちていくのですが、反グローバリズムの旗手であるナオミ・クラインに言われる前から、私は「地産地消ファッション」を志そうとしています。日本はもちろん、世界各地の地元で作られた素材を使った服を着よう、という試みです。今年の夏は、書道のお仲間に教えていたSOUSOUというブランドの服を着ました。高島緬や知多木綿という滋賀県の工場で織られ染められた木綿地の貫頭衣がなんと涼しいことか! これだけ暑く、大汗をかいて毎日を過ごしていたにもかかわらず、ついにあせもと無縁で夏が終わりそうです。しかも、私好みの色とデザイン! おしゃれが楽しく、からだに負担がかからず、ある程度エシカル。ほかにもこういう作り手の服を着るのが、今後の私のファッション・ライフになりそうです。
 
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乳房文化文化研究会の運営委員になってはや20年以上がすぎました。研究活動にほとんど何も貢献していない運営委員でありますが、10年ほど前に北海道大学で中国の文化、文学、芸術を研究しておられる武田雅哉先生が書かれた「楊貴妃になりたかった男たち〜<衣服の妖怪>の文化史」(講談社選書メチエ)という本を読んですごくおもしろかったので、研究会にお呼びして講演をしていただきました。
武田先生としても、乳房文化なんてものを研究している会があることに刺激を受けられたようで、その後、ご自身でも中国だけでなくロシアや日本の乳房の図像から、歴史、文化、社会を 探っていく研究会を立ち上げられました。
研究会に呼んでいただき、日本のバストについてお話ししたことがきっかけに、中国文学、演劇を専門に研究しておられる田村容子先生に乳房文化研究会でお話しいただいたり、ご縁が深まりました。
そんな長年にわたる研究成果の集大成が、このたび岩波書店から発刊された「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい〜乳房の図像と記憶」です。
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私は「日本のバスト70年〜「身だしなみ」から「自分らしさ」へ」という総論を書いています。
研究、というよりも、私的なバスト観、自分のバストに寄せる愛憎半ばする思いを書きました。身体測定データや統計は極力省き(最初は入れていたのですが、限られた枚数では数字を入れると流れがさえぎられてわずらわしかったのです)、バストを意識しはじめてから50年以上の記憶と、20年以上にわたって乳房文化研究会で聞いてきたいろいろな先生たちのお話を折り込みながら書きました。

私の原稿はともかく、22人の共著者たちが「乳房」をさまざまな視点から取り上げたことにより、乳房の奥行きと幅がぐっと広がった本になっています。乳房というと、つい女性の胸のふくらみを考えてしまいますが、男性にも乳房はあります。それなら男性は自分の乳房をどう見ているのか? 女形の役者はどうなのか? LGBTの人たちにとっての乳房は? とどんどん広がっていく乳房をとことん追いかけまくったのがこの本なのです。
日本での呼び方ひとつとっても、ちぶさ、にゅうぼう、ちち、むね、おっぱいとなんと多様なことか。 それなら中国では? ロシアでは? 政治体制が変わると乳房の見方や呼び方も変わるのか? 興味のある方はぜひ書店で手にとってください。豊富な図版を見ているだけでも、きっとくらくらしてくるはず。
 
「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい〜乳房の図像と記憶」
武田雅哉編 
岩波書店(2800円+税) 

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