Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

2023年、今日で半分終わります。
いったい私はこの半年何をやっていたのだろうか、と遠くをうつろに見つめそうになる視線を戻して、この半年読んだ本の記録を残しておくことにします。だいたい読んだ順に並べています。
図書館で借りた本や電子書籍の画像はなし。
コロナが第五類になってから、あちこち出かけるようになって、移動中に本を読んでいました。本が読みたくて移動していたこともあります。

「反乱者」
ジーナ・アポストル著 藤井光訳 白水社
フィリピン出身の作家がアメリカ軍のフィリピンにおける1901年の虐殺事件を取り上げた映画制作を軸に、翻訳家、映画監督とその家族、エルヴィス・プレスリーなどがからんで展開されるメタ・フィクション。小説のおもしろさに加えて、翻訳についても教えられた。

「死の島」
福永武彦著 新潮社
読書会で「反乱者」を取り上げたところ、日本のメタ・フィクションの傑作はこの作品と勧められた。上下巻で厚いだけでなく、広島原爆を取り上げているので重いのだけれど、ぐいぐいと引き込まれたのはやはり傑作だからか。

「植物考」
藤井辰史著 生きのびるブックス
3月からしばらく「植物」にはまったのだけれど、それは牧野富太郎を取り上げたテレビの影響というよりもこの本がきっかけ。動かないはずの植物が、動く動物(とくに人間)をたくみに動かして自分たちの勢力を拡大している、という見方で歴史を見ると、これまでとは異なる見方で歴史を見るようになった。

「植物忌」
星野智幸著 朝日新聞出版
以前にいとうせいこうさんの本と一緒に読んでいたのだけれど、「植物考」を読んだあとで読み直すと、以前読んだときとはちがって植物側思考で登場人物を見ることができた。

「植物園の世紀 イギリス帝国の植物政策」
川島昭夫著 共和国
亡くなられた川島先生の遺作集。どうしても読みたくてあちこち探してやっと手に入れた。
「多くの植物は大地と大気の境界で、その両方をつなぎ止めるように、垂直な固定した生を営む」
「植物が移動しないとするのは、じつは誤りである。むしろ植物の生態は、移動することを目的としているとさえ言いうる」
といった文章にぱーっと視点の転換を感じた。

「植物の体の中では何が起こっているのか 動かない植物が生きていくためのしくみ」
島田幸久 萱原正嗣著 ペレ出版
藤原先生や川島先生の本が歴史学者の視点から書かれたものだとすると、生物化学の視点から植物はどういう戦略をとっているかが見える。

「オーウェルの薔薇」
レベッカ・ソルニット著 岩波書店
ジョージ・オーウェルがアクティヴィストとして炭鉱で取材し、スペイン内戦に参加し、その体験をもとに執筆活動をし、からだをこわしては療養生活を送ったことは知っていたけれど、彼が英国の田舎で庭づくりにいそしみ、とくに薔薇をいつくしんだことは知らなかった。土いじりと社会運動と創作活動を結ぶものについて、同じような道を歩むソルニットが考察したエッセイ。

「花の子ども」
オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル著 神崎朗子著 早川書房
だいぶ前にちょっとだけ読んでいたのだけれど、植物に入れ込んだ期間に通読。アイスランドの作家による小説だけれど、アイスランドらしさよりも、植物が人間関係をよりよい方向に導くという主題が良かったかな。

「運動の神話」
ダニエル・E・リーバーマン著 中里京子訳 早川書房
ウォーキング生活に意味があるのだろうかと知りたくて読み、まあ意味あるのかと納得できたかな。

「健康寿命をのばす食べ物の科学」
佐藤隆一郎著 ちくま新書
健康ウンチクもの好きとしては、外せなかった。

「漢詩の手帳 いつかたこぶねになる日」
小津夜景著 素粒社
漢字で書かれているからつい漢詩を一読しただけでわかったような気がしていたけれど、漢詩は翻訳で読まないとまともに味わえないことがよくわかった。そんなことはさておき、とってもすてきなエッセイ。

「織物の世界史 人類はどのように紡ぎ、織り、纏ってきたのか」
ソフィ・タンハウザー著 鵜飼まこと訳 原書房
書評で取り上げた。ファストファッションにさよならすべきだ、とあらためて思った。

「ネイティヴ・サン アメリカの息子」
リチャード・ライト著 上岡伸雄訳 新潮文庫
上岡さん渾身の新訳がすばらしい。アメリカにおける人種差別の構造はまったく変わっていないのだと背筋が寒くなる。

「トランスジェンダー問題 議論は正義のために」
ショーン・フェイ著 高井ゆと里訳 明石書店
トランスジェンダーについては「持ってうまれたからだの性が、心の性と一致しないために、自身のからだの性に違和感を持つこと」という定義はあるけれど、はたしてそれがどんな問題を起こすのか? LGBTQとひとくくりにして語られがちだけれど、トランスジェンダーが私には一番理解がむずかしい。でも本書で著者の具体的な事例をあげながらの説明で、少しだけ「問題」の理解は進んだ。それにしてもこないだ成立したLGBT法案だけれど、議員さんたちはこの本をちゃんと読んだのかな?

「布団の中から蜂起せよ」
高島鈴著 人文書院
本書で紹介された映画、本、出来事の一つひとつが「刺さった」。皮膚感覚としてチクチクと刺さる。さらっと読み飛ばしはできず、刺さったものを検証したくて、「トランスジェンダー問題」の訳者と、本書の著者のトークも視聴した。

「私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い」
和泉真澄 坂下史子 土屋和代 三牧聖子 吉原真里著 集英社新書
最初の大坂なおみの章で胸をドンとつかれたような衝撃。アメリカの話でしょ、と片付けるわけにはいかない。
(ちょっと疲れてきたので、後半はまた後日書きたします)
「歴史の屑拾い」
藤原辰史著 講談社

「オシムの遺産」
島沢優子著 竹書房

「高学歴親という病」
成田奈緒子著 講談社新書

「コソボ 苦闘する親米国家 ユーゴサッカー最後の代表チームと雑木密売の現場を追う」
木村元彦著 集英社

「山の音」
川端康成著 新潮社

「川端康成 孤独を駆ける」
十重田裕一著 岩波新書

「韓国文学の中心にあるもの」
斎藤真理子著 イースト・プレス

「走れオヤジ殿」
キム・エラン著 古川綾子訳 晶文社

「ディディの傘」
ファン・ジョンウン著 斎藤真理子訳

「フィフティ・ピープル」
チョン・セラン著 斎藤真理子訳

「わたしに無害なひと」
チェ・ウニョン著 古川綾子訳

「川のほとりに立つ者は」
寺地はるな著 双葉社

「とんこつQ&A」
今村夏子著 講談社

「おいしいごはんが食べられますように」
高瀬隼子著 講談社

「白鶴亮翅」
多和田葉子著 朝日新聞出版

「残陽の郭 闇医者おえん秘録帖」
あさのあつこ著 中央公論新社

「風が強く吹いている」
三浦しをん著 新潮文庫

「華ざかりの三重奏 テルツェット」
坂井希久子著 双葉社
 あ〜〜〜〜私もそろそろこういう生活(生活者として自立した人たちとの共同生活)をしたい!!! と痛切に思っております。
 
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2023年サッカー本大賞で、拙訳書「女子サッカー140年史〜闘いはピッチとその外にもあり」が特別賞を受賞しました。
https://article.auone.jp/detail/1/6/11/94_11_r_20230406_1680750102480030
サッカー本大賞ってなに? 特別賞ってなにが特別? という疑問がわいてくるかたも多いでしょうが、なにはともあれ、選んでいただいてありがたいです。
何よりも、この本が日本で出版され、なんらか賞をいただいたことが、女子サッカーのPRに少しでも役立てば訳者としてとても幸せです。
受賞にあたって、喜びのコメントを書いたので、ここに転記します。

「女子サッカー140年史〜闘いはピッチとその外にもあり」

特別賞受賞に寄せて

 

このたびはサッカー本大賞特別賞に本書を選んでいただき、ありがとうございます。

 今年はオーストラリアとニュージーランドで第9回FIFA女子ワールドカップが開催されます。男子のワールドカップに遅れること61年、1991年に初めて中国で女子ワールドカップが開催されました。そう聞くと女子サッカーはまだ歴史が浅いと思われる方も多いと思いますが、本書には19世紀末にはすでに女子サッカー競技が行われていて、第一次世界大戦中に大人気のスポーツ競技だったことが描かれています。男子サッカーにひけをとらないどころか、それ以上の人気だったのです。
 それなのになぜFIFAが女子ワールドカップを開催するまでに長い紆余曲折があったのか? イングランドだけでなく、フランス、西ドイツ、ブラジルなど世界各国で1970年代まで50年にわたって女性がサッカーをすることを禁止されたのは何故なのか? 

 そこには、サッカーだけでなく女性がスポーツをするときにぶつかる壁があったからだ、と本書は訴えます。「女性は男性に比べるとからだが弱いし、出産に支障が出る恐れがあるから、激しいスポーツをするのは危険だ」「サッカーのような男性向けスポーツをするのは女性らしくない」といった見方が、競技団体から一般社会にまで広くあったことが女子サッカー禁止令につながり、ひいては発展と普及に歯止めをかけたことを本書はあきらかにしています。
 しかし、そんな偏見や差別を乗り越えて、女性たちは140年にわたってサッカー競技を続けてきたのです。

本書で女子サッカーの歴史を築いてきた偉大な先人たちを知っていただき、そんな歴史を経てきてニュージーランドとオーストラリアの晴れやかな舞台に立つ選手たちに、大きな声援と賞賛を送っていただければと願っています。

本書は英国の全国紙ガーディアン紙とオブザーバー紙で「女子サッカー特派員」をつとめるジャーナリスト、スザンヌ・ラックによる初の書き下ろしです。女子サッカー特派員という肩書をつけて全国紙に記事を書くのも彼女が最初でした。女子サッカーをもっとよい競技にするための提言を、本書でも記事でも歯に衣着せずにずばずばと書くスザンヌ・ラックの勇気に賞賛を送ります。

 また、刊行にあたってさまざまなご意見をくださった木村元彦さん、日本女子サッカーの歴史と現状について教えてくださった松原渓さん、すばらしい帯の推薦文を寄せてくださった澤穂希さんにお礼を申し上げます。
 本書は「良質のサッカー本」を長く出し続けている白水社の編集者、藤波さんの尽力なしには日の目を見ませんでした。ここであらためて感謝を捧げます。

 最後に、特別賞に選んでいただいたことが、日本の、また世界各国の女子サッカーの発展にほんの少しでも貢献できれば、訳者としてこれ以上ないほどの喜びです。ありがとうございました。 

「おいしいごはんが食べられますように」
高瀬隼子著 講談社

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 まず最初に言っておく。
 タイトルにだまされちゃいけない。この小説がグルメな話を書いていると思ったら間違いだ。
 たくさんの料理(カップ麺含む)がにおい、味、食感ふくめて登場するが、読後に気づく。どの料理もおいしそうではない。それ以上に胸焼けするように書かれている。
 食事風景も殺伐としている。恋人同士(と一応なっている)の二人が食べる健康的なメニューも、職場のお疲れ様会も、おでん屋で同僚と酒を飲みながら盛り上がる場面も、家族団欒の食事風景も、どれも殺伐としている。
 高瀬隼子、ただものではない。
 おいしいものをこれだけ胸焼けがするように書ける作家を私は知らない。
 心安らぐはずの愛する人との食事風景を、これほど殺伐と書ける作家はほんとただものじゃない。
 小説は職場の男女二人の若手社員の視点で語られる。二人は恋人ではないが二人だけで飲みに行く。セックスしかかったこともある。でも、距離がある。一緒にごはんを食べて、一緒に飲んで、話がおおいに盛り上がっているのに、距離がまったく近づかない。そしてその距離感を二人は心地よく感じている。一緒に食事をするときの距離感が共有できるからだ。
 二人の話題はもっぱら職場の女性、芦川さんのことだ。
 芦川さんは女性(押尾さん)の先輩で、男性(二谷さん)よりも年上で、心身ともに「弱い」キャラを職場で通している。仕事がまったくできない。それどころか少し忙しくなったり、ややこしい仕事をふられると頭痛がするといって早退する。職場の繁忙期に正社員が深夜まで働くことになっても、パートさんと一緒に定時に退社する。それが許されている。なぜなら「本当に素直でかわいくていい子だから」
 芦川さんは「みなさんに迷惑をかけているのでそのおわびに」と言って、毎日手の込んだスイーツを自作して持ってくる。職場の上司も同僚も「すごーい」「うまいなあ」といってありがたくそのスイーツをほめたたえながら食べる。押尾さんもみんなが「有名パティシエでもこんなにすごいスイーツは作れない」とか褒めているのに「ほんとにね」とか頷きながら、一応おいしそうに食べる。二谷さんは「すごいっすね。自分はもったいなくてすぐに食べられない。夜食にとっておいて大事に食べます」と言って、その場では食べない。そして全員が退社したあと、ビニール袋に入れて、ぐちゃぐちゃにつぶして廊下のゴミ箱に捨てる。毎日。こわい。二谷さんだけでなく、スイーツを作ってくる芦川さんも、おいしいといって食べる同僚や上司も、すごくこわい。
 二谷さんは芦川さんが自分の部屋に来て作ってくれた、健康的で素朴な家庭料理を「うまいっす」と食べる。そして芦川さんが自宅(実家住まい)に帰ったあと、いかにもからだに悪そうなこってりしたカップ麺をかきこむ。食べたという実感を得るために。わかる。健康的でおいしいものが、必ずしも胃を満足させるものじゃないから。
 毎日、ゴミ箱に芦川さんのスイーツが捨てられていて、しかも誰かがそれを拾って芦川さんの机の上に置いてあることが続き(芦川さんはスイーツに気づいても何事もなかったようにさっとゴミ箱に捨てる)、それが押尾さんがやったのではないかと思われ、結局彼女は辞職する(というか転職する)。二谷さんは人事異動で遠方の支店に転勤になるが、スイーツ事件とは関係ない人事だ。

 芥川賞受賞作のこの作品について「仕事と恋愛の話」という紹介があるけれど、的はずれだ。
 この本は人間としての弱さと強さの話だ。そして、強いから(もしくは正しいから)勝つのではなく、弱いことを前面に出して、それが許される人こそが勝者になる人間関係があることを指摘している。
 スイーツ捨て発覚で押尾さんに非難が集中したときに二谷がいう。
「押尾さんが負けて芦川さんが勝った。正しいか正しくないかの勝負に見せかけた、強いか弱いかを比べる戦いだった。当然、弱い方が勝った。そんなのは当たり前だった」
 会議資料が作れずに叱責され、そのために頭痛で早退した芦川さんがやり残した資料を作ることになった二谷は、心中舌打ちしながらこう思う。
「弱いと思われたくない。それ以上に、できないと思われたくない。みんなに。しようもない承認欲求だとは思わない。会議資料作りなんて誰がしたいだろう。(中略)したくないことも誰かがしないと、しんどくても誰かがしないと、仕事はまわらない」
 そして押尾さんははっきりとこう思っている。
「芦川さんのことを嫌いでいると、芦川さんが何をしたって許せる気もする。許せない、とは思わない。あの人は弱い。弱くて、だから、わたしは彼女が嫌いだ」
 読後感は芦川さんがつくる生クリームたっぷりの美しいショートケーキを食べさせられたように、奥歯に甘さがしみて、胃にもたれる。
 しかし、この小説は私が近年読んだ芥川賞作品のなかで、飛び抜けて秀逸である。 

今年は11月まで締め切りに追われに追われて、腰を据えて本(学術書みたいなの)を読むことがなかなかできなかったのですが、就寝前に読み耽ったお楽しみ本(漫画)はいろいろとありました。
シリーズで読み耽ったのは、
アン・クリーヴスシェトランド島シリーズ(昨日、ついにシリーズ最後となる「炎の爪痕」が出てしまって、これ読み終わったらもうペレス警部に会えなくなるのかと思うとさびしくなるから読めません)
あさのあつこの弥勒シリーズ(「闇医者おえん秘録帖」「ラストラン」「バッテリー」にも)
ドラマにもなった「アンサング・シンデレラ」(まだ終わりそうにないのがうれしい)
8年にわたる連載が終わった「ゴールデン・カムイ」
でした。
お楽しみ本にハマるのは、私の場合、現実逃避したいときで、だからできるだけ自分がいまいる環境とは異なる場所や時代が舞台になっているものを選ぶ傾向にあります。
そのためか、北欧やアフリカを舞台にしたミステリー、サスペンスとか、時代小説がハマるのにぴったり。

お楽しみとは言えないのだけれど、「障害」に関する本にも結構はまりました。
自分が年齢を重ねているうちに身体的・頭脳的にいろいろとできなくなることが増えてきて、この不具合(dysfunction=機能障害)やできなくなること(disability=能力欠如)を自分にどう納得させてつきあっていけばいいのか。またそういう「障害」による社会的な不利益=handicapをいかに減じていけばいいかを考えたかったから。
伊藤亜紗さんの「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社新書)を数年前に読んでほほ〜と目を見開かされて以来、「記憶する体」「目の見えないアスリートの身体論」「わたしの身体はままならない」とか立て続けに読みました。そもそも自分の身体を自分が思うように動かせられるものなのか。ままならない身体をAIがどこまでサポートできるのか。認知症で骨粗しょう症の母の身体を見ながら、将来自分が老いていく姿を想像し(でもたぶん9割がた外れているだろうけれど)、dysfunctionalでdisableになることを受け入れられる力を養っています。 
ベストセラーになった「目の見えない白鳥さんとアートを見にいく」(川内有緒)もたいへん示唆に富む、そしてたのしい本で、「視る」ことで成り立っていると思っていたアートの鑑賞を根元からくつがえしたし、そうかそういう楽しみ方、「見方」もあるのかと目からウロコ本でした。
「くろは おうさま」(メネナ・コティン文・ロサナ・ファリア絵 うの かずみ訳)は視覚障害を持つ人のための絵本で、さわることで楽しめるという、これまた目からウロコでした。編集した細江幸世さんと訳者の宇野和美さんのトークイベントもたいへん興味深かった。点字で読書する視覚障害者が3割くらいしかいないっていうのも驚きだったし、dysfunctionやdisabilityがある人たちのアートのことを知ってわくわくしました。そして何よりも、この絵本が見て美しく、さわっても美しいことに驚きです。
まさに機能障害や能力欠如を社会的不利益にしないことのヒントが詰め込まれていたのが 「みんなが手話で話した島」(ノーラ・エレン・グロース著 佐野正信訳 早川書房)でした。アメリカ合衆国マサチューセッツ州にあるマーサズ・ヴィンヤード島では20世紀はじめまで聾唖者が多く、島民は健聴者であっても手話でお互いのコミュニケーションをとっていたそうです。その生活があまりにもノーマルだったので、調査した著者が「家族や知り合いに聾者がいましたか?」と聞いても、思い出せないお年寄りも多かったとか。dysfunctionがhandicapではなかったという話は、これから超高齢化を迎える日本社会において障害をいかにハンディキャップにしないかとうヒントが詰まっているのではないかと思いました。

今年、2022年の年明けに北のほうで不穏な空気が漂い始めて、まさか、まさか侵攻しないよね、いまさら武力で他国を占領しようとか、それ20世紀の半ばで全世界的に反省して終わったんじゃないの? と思っているうちにロシアがウクライナに武力攻撃。ロシアとしたらすぐに終わるはずが、いまだに戦闘が続き、ウクライナだけでなく全世界的に大きな影響(もちろん悪いほうの)が及び、どうなってしまうんだろう……とびくびくしているうちに1年が終わろうとしています。
いろいろなことがあったはずなのだけれど、そのいろいろのすべてがこの戦争に結びついてしまう。
しかも2022年が終われば、はい、問題も解決に向けて好転しますね、とはまったくいえない。
この不透明感、先が見えない不安感が影を落とした一年でした。
暗い話になりそうなところですが、気持ちを立て直して今年私個人がやったこと、やらなかったこと、思ったこと、感じたことを書いてみようかなと思います。

まずは旅行。今年は金沢、旭川、函館に旅行しました。
金沢21世紀美術館で開催されていた「フェミニズムズ」が目的でしたが、そのほかにも金沢に移転した国立工芸館を訪問し、兼六園を散歩し、金沢城を見学して温泉につかる旅。一泊でしたが、なかなか充実していました。
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(東京から金沢に移転した国立工芸館。館内も展示も見応えある建築物でした)

旭川は、ゴールデンカムイ 聖地巡礼ツアーと称して北鎮記念館や旭川博物館、神居古譚(と駅舎)などを見学。ジンギスカンで有名な大黒屋で大好きな羊を満喫し……おなかをこわしましたがそれでもあの味は忘れられません。ビールがいけなかったね。
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(神居古譚駅まで石狩川をわたる神居大橋)

函館は、私が所属する創玄書道会の創始者、金子鴎亭先生とその一番弟子である中野北溟先生(今年99歳!)の展覧会を見て、あとは第二次ゴールデンカムイ 聖地巡礼ツアーで五稜郭などをまわりました。ここでもジンギスカンを堪能し(もうビールを飲まなかった)、有名な回転寿司で「もう食べられません」というまで北の海の幸を満喫。
そのほか仕事と介護で大阪と広島にいきました。大阪は毎回観光しよう、グルメしようと思うのだけれど、結局時間がなくてアウト。でも広島は前泊したので、ちょっとだけ観光。平和記念資料館をじっくり見学しました。もう20年以上前に訪れたことがあるはずなのだけれど、展示方法が変わっていたせいか、それとも私が年をとったせいか、印象が異なりました。
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(平和記念大通りはクリスマスシーズンを迎えてか、イリュミネーションが輝いていました)

海外旅行に行けなくなってから、日本のなかを回っているこの3年ですが、いろいろなところにいくほどに痛感するのが「私は日本のこと、日本の(そして世界のなかにおける日本の)歴史を知らなさすぎる」ことです。
そもそも日本はいつごろから日本となったのか?
日本語はどのように成立したのか?
生まれは兵庫県ですが、東京で暮らしてもう50年以上がたちます。出身は兵庫県でも、成人してからの生活の場は東京。そうすると首都・東京の住民の目線でつい日本全体を推し量ってしまうのだけれど、地方に旅行するたびにそれでは日本のすがたはほんの一部しか見えてこないとわかります。それではいかんよなあ〜〜と毎回旅に出るたびに思うので、今年は歴史の本をわりによく読んだかな。
読んだ本についてはまたあらためて。

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