Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

いまカリブ海に浮かぶ群島グアドループ出身の作家で、昨年亡くなったマリーズ・コンテの作品を読んでいます。グアドループはフランスの海外県で、マリーズ・コンデは1913年にこの島で生まれました。両親ともにインテリでそこそこ裕福な家庭で育ったので、家庭でも学校でも現地の言葉ではなくフランス語を話していました。「フランス文化最高!」という両親は、機会があるとパリに出かけて、オペラを観劇し、ショッピングを楽しみ、レストランで正統のフランス料理を味わったそう。他のきょうだいたちと同様、マリーズも10代でパリに移住。ソルボンヌ大学に入学します。
知的レベルは高く、経済的にもそこそこ裕福でも、フランス社会からは拒絶されていて、かといって中米のクレオール文化圏からの移住者コミュニティに入ることもかなわない。どこにも属せない、ある意味で「阻害された人」の人生を生きた作家でした。
とはいっても、自伝とも創作ともつかない作品はけっして暗くない。それどころか生命力にあふれていて、読んでいて楽しい。なかでも「料理と人生」というマリーズが味わい、作ってきた料理の数々から人生を語る話は、書かれている料理がどれもおいしそうで唾液が湧いてくるし、作ってみたいと好奇心を刺激されてキッチンに立ちたくなります。食べるものを作って味わうことが、生きる活力なんだなとあらためて思います。
読みながら、私がそんな活力をもらった思い出の一品はなんだろう、と記憶をたどりました。
すると思い出したのが、料理上手だった母の料理ではなく、めったに料理などしなかった父が、ある休日に気まぐれで作ってくれたリゾットでした。たしか私が小学校高学年のときだったから、1960年代半ばころ。リゾットなんていう料理名はまったく知られていなかったし、父も「西洋のおじや」と言ってました。
なまのお米とたまねぎとマッシュルーム(瓶詰め)をバターで炒めて、コンソメスープとミルクで煮込み、上にキャンベルの缶詰トマトミートソースをかける、というもの。
なぜここまでよく覚えているかというと、最初に食べたときにめちゃくちゃおいしかったので、父に作り方を教わって、自分でも何回か作ったからです。(父はいったいどこでこの料理を知ったのだろうか?)
でも、おいしい!と感動したのは私だけで、脂っこいものがあまり好きではない母や妹はあまり喜びませんでした。だから自分で作って自分一人で食べていたように記憶しています。
リゾットというイタリア料理名が浸透した1980年代ころにまた作ってみたのですが、父の作り方ではたしかに脂っこくてあまり美味しく感じられなかったのは、正統派リゾットを知ってしまったせいか(キャンベルのミートソース缶をかけるのはいくらなんでも邪道です)、それとも脂質と炭水化物たっぷりの料理が、肥満まっしぐらと感じたためか。
それでも私はおかゆや雑炊が今でも大好きで、雑炊を食べたくて鍋物をするくらいです。調子が悪いときも、おかゆか雑炊なら食べられる。たぶんその原点は、父が作ってくれた西洋おじやにあるのだと思います。
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気がつくと1ヶ月近くブログをごぶさたしていました。
ガンバの成績がパッとしないということもありますが、私生活でも凹むことがあって、PCの前に座って仕事以外の文章をつづる気力が失せていました。いや、凹むといっても大したことじゃないんですけれどね。
毎年ですが、春は花粉症もあって体調&メンタルを崩しがちで、今年は気をつけていたのだけれどやっぱり低空飛行になりました。ガンバの成績みたいだ(←しつこい)
でも、気候がよくなると毎年私の体調もガンバの成績も復活するので、それを期待します。
それにしても、春は睡眠の季節なのか、ベッドに入って本を読もうと思っても、2ページ読んだら本かタブレットをどこかに落っことして眠ってしまっているってどうなんだ? 私は寝つきが悪いと親から言われていたし、自分でもうまく眠れないことが原因で体調を崩すのだと思い込んでいたのですが、最近はベッドに入ると即眠ってしまって朝まで目が覚めない。 これはどうしたことか? 年をとったからなのか? それとも何か原因があるのか?

と思っていて出会ったのがこの本。


これが読み物として抜群におもしろいのです。山口県の山間の自然が豊かな地で生まれ育った著者(研究者)は幼稚園のころから身の回りの生き物の生態観測や実験に夢中だったそう。そのころからの願いは「大きくなったら研究者になりたい」。小学校にあがるとクロアゲハチョウの生態を観察し、自由研究でまとめた記録が山口県のみならず全国のコンテストで優勝したりした。そしてしだいに関心は「睡眠」へとしぼられていく。生物はなぜ眠るのか、眠らないと生物はどうなるのか、眠るというのはどういう状態を指すのか。それを研究したいと願ったのだそう。
でも勉強は嫌いで苦手で、それでも「研究をして生きていきたい」という一心でとりあえず受験勉強はして九州大学に進学。大学1年のときから「生物の研究をしたい」と教授に頼み込んで、ヒドラという「怪物」(体長が0.5から1センチほど)に出会って、脳がないこの生物が眠るのかどうか、眠っているときには体内がどのような状態になるのかを知りたいと睡眠研究にまっしぐら。
この本を読んで「睡眠」というものをあらたな目で見るようになりました。
朝起きたときから時間の経過とともにたまっていく「睡眠圧」(眠らせようとする力)から、生物のDNAにある「体内時計」(起こそうとする力)を差し引いたものが眠気なのだそうです。朝起きてすぐに眠れないのは、睡眠圧がなくなっていて、体内時計が働いているから。そして睡眠圧とはどういうものなのか、まだはっきりしていないのだけれど、睡眠をつかさどる体内時計DNAはある程度解明されているそう。
たぶん私の体内時計は夜間に7時間半眠るようにセットされていて、ベッドに入るまでに睡眠圧がゼロまで減じていたら、いやだ、今日は徹夜するぞと思っていても眠ってしまうのだ、と納得しております。
夜に寝床に入ってからなかなか寝付けない人、昼に眠くなってしまって困っている人、この本を読んでみてはどうでしょう?

 国立新美術館@乃木坂/六本木で現在創玄展という書道展が開催されています。全国の書道(愛好)家たちによる展覧会で、年1回、誰でも作品を出品できて、審査の上、入選すれば飾られます。いくつかの賞も設けられていて、今回私は秀逸という賞をいただきました。
 秀逸賞は4回目の受賞です。何回もらっても嬉しさは増すばかり! 賞をとるために書いているわけではない、とイキがっていたこともありますが、いざ賞をいただくと、ますます書を探求していこうという意欲は高まるもの。
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 そしてまた、昨年出版された『サッカー・グラニーズ』(ジーン・ダフィー著 平凡社)がサッカー本大賞の優秀賞に選ばれて、昨日は授賞式にいってきました。
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 3月、誕生日もふくめて私にとっては思い出深いおめでたい月となっています。
 71歳、まだまだこれから、ですね。

 

どうしてもコメントが書けないのはなぜなのか? 原因究明を試みるもついにわからないので、ここでお返事を書きます。(hanaboさんにはメールします)
いはらりえ様、コメントをいただいて、頭のなかにわーっと記憶がよみがえり、赤面しました。エラソーに翻訳を教えていたときのことですね。もうね、何様じゃい、と過去の自分にツッコミを入れたくなりましたが、そこはそれ、いはらさんのようにあの授業を聞きながらも翻訳を続けていらっしゃるかたもいるのだ、と私は赤面が引いたあとにホッとしています。
翻訳って楽しいですよね。翻訳という作業は苦しくもあるけれど、楽しい。脳のなかのいろいろな部分が刺激される心地よさがある、だけでなく、自分も世界の一員であり、歴史を生きているのだ、ということが実感できる……ような気がします。
あ〜〜またエラソーだ。
翻訳、といえば、トランプさんが大統領に就任して以来、選挙中から何度も叫ばれるMake America Great Againの訳語が気になっています。「アメリカを再び偉大に」というのがたぶん正当(proper)な訳語なんでしょうが、うーん、しっくりきません。トランプさんと支持者が連呼するたびに、「アメリカを再び偉大に」という訳語でいいのだろうか、とざらりとしたものを感じます。
偉大とは、日本国語大辞典によれば「すぐれて大きいさま。非常にりっぱなさま」だそうです。
でも、新英和大辞典でgreatの意味として一番にあがっているのが「大きい、たくさん、際立った、強い、高度の」です。とにかく大きく、強く、高いことをgreatと表現する。「偉大な、すぐれた、すばらしい」という意味は口語で使われる、とある。そういえばトランプさんは演説で支持者のことをgreat peopleとよく呼んでいて、すばらしい人々、と訳されていることが多い。
でもあげられている例文を見るかぎり、どうも親しい間柄で褒める会話で使う言葉みたいです。
You're really great guy! きみはほんとにすごいやつだ! みたいな感じ。
アメリカのような大国の大統領が国民を持ち上げるのに、greatでいいのか、という気がしないでもないが、それはさておき、MAGAのgreatをトランプ2.0の世界を生きていく一員の気持ちとして訳すと「アメリカを再び誰も逆らえない超大国にするぞ」かな。アメリカよりも優れた強みを持つ国や地域は許さん。あれこれ文句を言ったり、逆らったりするやつは、断固踏み潰してやる。なんてったって、俺らはgreat=大国なんだからな。
ところで、もし「偉大」という意味でいくとすると、トランプさん一派がノスタルジーを持つアメリカが偉大だった時代っていつなのでしょうか? 「大きいことはいいことだ」「量が豊富なことが豊かなことだ」が通用した時代なのかなあ?

2月に入ってイライラをここでぶつけているような内容に反省し、気持ちが少し上向くようにどうでもいいことを書いてみます。
先日、わりに最近仲良くなった方に「元子さんは子どものころに何になりたかった?」と聞かれました。10代のころは本屋になりたかったです。本屋の店先に座って、お客さんから探している本のことを聞かれたら、さっと立ち上がってその本が並んでいる棚を教えて、ついでに関連するおすすめの本なども教えてあげられるような本屋さんになりたいと思っていました。
私は実は出来の悪い子どもで、学校の成績はぱっとせず、運動神経がないから運動もだめでのろま。不器用で、忘れ物ばかりして、先生にも親にも叱られてばかりでした。でも、本を読んでいれば現実の情けないみじめな自分を忘れることができました。
子どものころ、お誕生日のプレゼントでは本をねだりました。父方の祖母が「本ならなんぼでもこうたるわ」と言ってくれたので、お小遣いでは手が出ない岩波書店の小学生向け単行本を買ってもらいました。ドリトル先生シリーズ、リンドグレーンの名探偵カッレくんシリーズ、メアリー・ポピンズ、アーサー・ランサムのつばめ号とアマゾン号シリーズなどを夢中になって読みました。それが高じて「大人になったら本屋さんになろう。そしたらいくらでも本が読める」と思ったのです。あまいね。
モデルにしていたのは、2駅先にあった小さな本屋さんで、そこのおじさんが無愛想なんだけれど、どれだけ長いこと立ち読みしても知らん顔で、たまーに私が本を買うと、ぼそっと「この作家なら、私ならこちらを薦めるね」とか言ってくる。高校時代に安部公房に夢中で、「燃えつきた地図」の単行本が欲しかったのだけれど高くて手が出ず、函入りでパラフィン紙が巻いてあるので立ち読みをするのもはばかられ、どうしたものかとほぼ毎日学校の帰りに本屋で手に取って眺めていたことがあります。年が明けてお年玉をはたいて思い切って買ったら「よかったなあ、やっと買えて」とか言ってもらいました。おじさんの笑顔を初めて目撃したときでした。
しかし長じて「本屋になってしまったら、思いっきり本が読めなくなる」と知り、本屋勤めも本屋開業もあきらめました。
大学卒業後はアパレル会社につとめ、外資系の会社で秘書をやり、繊維関係の広報機関で働き、その後フリーランスの翻訳業とライターになったのですが、本当になりたかったのはなんだったのだろうか? とときどき考えます。いまさらですが、思いっきり本が読めたら職業はなんでもよかったのかな、とか思ったりもするのです。でもライターの仕事で一番長く続いたのが、書評とか本の紹介だったし、翻訳をやるにあたっても資料として本が読めたので、結局私はなりたかったものになっているのかもしれません。

ああ、でも死ぬまでに一回くらい、本屋さんの店員をやってみたいなあ。

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