Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

私が運営委員を長くつとめている乳房文化研究会の主催で「文学と乳房〜日本と中国、中世から現代までの文学作品に、乳房は誰のものとして描かれているか?」というテーマで定例研究会が開催されます。
a9BkoKJRQ3O3wPRjIiBjGQ

今回はコーディネーターを引き受けて、以前から「ぜひお話を聞きたい」と願っていた3名の方々に快諾いただき、念願のテーマで、念願の内容でお話いただく企画が実現します。

まず、日本中世文学、いや、日本文学の筆頭にあげられる「源氏物語」を、乳房を切り口に読み解いた本「乳房は誰のものか〜日本中世物語にみる性と暴力」(新曜社)を書かれた木村朗子さんに、「源氏物語」に描かれた乳母、母、父、子それぞれにとっての乳房から権力構造と家族関係を読み解く」というお話をしていただきます。木村さんとは「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい」(岩波書店)の共著者というご縁で、何回か飲んだのですが、もう話がとまらない勢いで弾むはずむ!!お話がとってもおもしろく、内容が濃い〜〜〜!
つぎに中国近現代文学からは、濱田麻矢さんに「恋する乙女の胸のうち〜中国女性の乳房と足が解かれたとき」というテーマでお話いただきます。自由恋愛を研究テーマにしていらっしゃる濱田さんには「中国が愛を知ったころ」という張愛玲作品の翻訳作品があります。李鴻章の外曾孫として1920年に香港に生まれた張愛玲は、ただ愛し愛されることのみを求める女性の喜びと苦しみを描き、現代中国文学に足跡を残しました。濱田さんも「ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい」の共著者のお一人で、収録されている「中国文学むねくらべ」は実に興味深い内容です。
そして3人目として、日本の近現代文学に描かれた乳房を語ってくださるのが藤木直実さん。「にせもののおっぱい、ほんもののおっぱい」というテーマは、聞いただけでも何が出てくるかとワクワクします。藤木さんを知ったのは「妊婦アート論」という刺激的な書の共同執筆者としてですが、多岐にわたるその活動から、乳房を切り口に近現代文学を論じられると、いったいどんなおっぱいが描かれるのか楽しみでなりません。

乳房文化研究会定例研究会「文学と乳房」
日時:2020年2月1日(土)13:30〜17:30
場所:(株)ワコール本社ビル 会議室(JR西大路駅より徒歩4分)
参加費無料
お申し込みは以下より
https://www.wacoal.jp/nyubou-bunka/upcoming/post-44.html

 重箱に煮しめなどを詰めて「おせち料理」と呼び、一般庶民にまで普及するようになったのは戦後、それも本格化するのは1960年代に入ってから、と知ったのは割に最近です。もともとは中国で五節会に作っていた特別料理が日本に伝わり、江戸時代には、節会の中でも一番豪華な料理が作られていた正月に、武家が床の間に三方にご馳走(ごはん)を盛って飾っていたのが起源だそうです。
 それが明治時代になって、飾るものとお重に詰めて食べるものとに分けて用意するようになり(床の間にある家に住んでいる階級での風習でしょうが)、そのうちお重に詰めて家族や親族で食べるものになった、とか。今みたいな彩鮮やかで、豪華食材を使ったおせち料理が普及するようになったのは、ごくごく最近の話。
 以上、おおざっぱな説明だし、日本各地でおせちに在り方は異なるようなので、とりあえず私のおぼろげな知識に基づいたおせち料理基本情報です。
 つまり、何が言いたいかというと、お正月におせち料理を家族揃っていただく、なんてのを「日本の伝統」と言ってよいものかどうか、ということです。
 私は思春期に入ったころから年末年始が近づく12月になると、ゆううつでため息しか出なかったのですが、それは正月という時期に「日本の伝統」の圧がぐぐぐーっとかかってくることが原因でした。
 私が思い出す実家の正月は、挨拶にやってくる親戚たちの分までおせちやら特別料理を準備する手伝いをさせられ、正月は朝早くから料理を出したり皿を洗ったりごみを始末したりすることに追われ、やっと一息つく午後には「年始の挨拶に行くから早く着替えろ」とせっつかれる。疲れてふくれ面になると「正月からなんだ、その顔は」と叱られ、手伝いに抵抗すると「お年玉をあげないよ」と脅される。
「正月には家族そろって晴れやかに新しい年を祝う」ことまで「日本の伝統」と言われ続けたけれど、その「伝統」とやらを守るために誰が犠牲になっているか考えたことがあるのだろうか、伝統信奉者たちは! とか思っていましたね。
 その「伝統」が、私が小学校に入学するころから一般庶民に普及したにすぎない「風習」で、しかも普及させたのがデパートの商魂だったと知ると、ヘナヘナと崩れそうになります。返せ! 私の青春(半分本気、半分冗談)
 そんな愚痴を毎年毎年正月にブログに書き続けてはや20年が経ちました。

 2020年代がスタートする今年は、「伝統」とか「常識」にとらわれないだけでなく、きっぱりさよならする一年にしたいと思っています。とかなんとか言いながら、今年もおせち食べて、お雑煮食べて、家族と一緒に過ごしちゃいましたけれどね。言い訳すると、伝統だからやったんじゃないよ。自分がやりたいからやっただけなんだからね。(と自分に言い聞かせている)
 年末年始は、新装復刊されたメイ・サートンの「回復まで」と「独り居の日記」を読んで過ごしました。
「回復まで」(中村輝子訳・みすず書房)は、66歳から67歳にかけて書かれた日記です。病を経験して体力の衰えを感じ、恋人と切ない別れを経験したメイ・サートンが、それでも創作への意欲を失わず、自然の営みに喜びを見出し、孤独を愛おしむ姿が伝わってきて、しみじみと共感する言葉にたくさん出会いました。たとえば病から回復途上にあるメイ・サートンが、小説を読んだ92歳の読者からの手紙に励まされて書いた言葉。
「不自由になったからだは、そうした事実(私注:自分が年をとってできないことがいろいろと出てきたことや、親しい人たちとも別離など)を肉体的に証明しているように思える。しかし、炎からふたたび立ち上がる不死鳥は、別のことをわたしに告げる。わたしたちの肉体が弱れば弱るほど、心は虚飾を捨て、もっとも必要なものへの要求が強まり、ありのままの自分であることや感じるままの自分であることを恐れなければ、もっと自然で、愛情豊かになれる、と」
 一方で58歳のときに書かれた「独り居の日記」では、メイ・サートンが自分の中に沸き起こる怒りや悲しみをどう処理していいかとまどい、深い喪失感に打ちひしがれながらもがく姿にときどき息苦しくなりましたが、失うものばかりが増えていく中で、それでも生き続ける意味と気力を見出す姿に励まされます。
 女性がものを書いて生計を立て、同性愛者であることを公表し、60歳前になって住み慣れた土地や人間関係を断ち切って農場に独り移り住む、というのは、メイ・サートンがこの2冊を書いた1970年代当時はもちろん、現代でも「常識破り」な生き方だったと思います。 私がその生き方を真似たいという訳ではありません(真似ようにもできっこない)が、少なくとも常識や伝統にとらわれないで生きていく姿勢は見習いたい。そしてメイ・サートンが貫き通したように、孤独に向き合い、人は独りで生き死んでいくことを噛み締めて、愚痴をできるだけこぼさないように生きる強さを持ちたいと思います。
fullsizeoutput_7b90
 

 今年一番といっていいくらい嬉しかったのは、伊藤詩織さんの「勝訴」でした。記者会見を見ながら、思わず涙ぐんでしまいました。事件から4年半、裁判を起こしてから2年半の間に、伊藤さんが味わった思い、受けた仕打ちがこの判決でぬぐいさられるとは決して思わないけれど、少なくとも、伊藤さん側が訴えた「合意なき性行為」が法的に許されない犯罪であることが明確に示されたこと、そして伊藤さんが自ら声を上げ、支援者の人たちとともに起こした訴えに公益性があると裁判所が認めたことは、一つの大きな進歩だと思っています。
  2017年10月に刊行された「Black Box」(文藝春秋)をすぐに購入しながら、なかなか読む勇気が湧いてこなくて3ヶ月ほど置いてました。あるとき、ふと手にとって「はじめに」を読み始め、頭がくらくらするほどの衝撃を受けて一気に読み終えました。なぜこの本を伊藤さん自身が書かねばならなかったのか、なぜ身を切るような思いをしながらも、書かねばならなかったのか。読みながら痛かったです。
 伊藤さん個人に起きた「事件」としてすませてはならない。一応、法治国家であるはずの日本で、「合意なき性行為」という犯罪が犯罪と認められるために「被害者」が高いハードルを超えなくてはならないのは、どう考えてもおかしい。この本は私にも、あなたにも、誰にでも起きうる犯罪の恐ろしさを示す本です。
 伊藤さんの「勝訴」後の記者会見を見てから、もう一度「Black Box」を開きました。事件のあらましよりも、私には合意なき性行為が犯罪として成立するまでの難しさと、かつ起訴に持ち込むまでにあるブラックボックスの恐ろしさ、そして性犯罪に対して向ける日本社会の歪んだ視線が衝撃でした。もしもまだ読んでいない方がいらしたら、ぜひぜひ読んでほしいです。

 おそらく「Black Box」に触発されたのだと思いますが、昨年から今年にかけてフェミニズム関連の小説やノンフィクション、エッセイを多く手にとったと思います。
 その中から私の頭と心にずしんと響いた本をあげておきます。

「私たちにはことばが必要だ〜フェミニストは黙らない」
イ・ミンギョン著 すんみ/小山内園子訳
性差別者(セクシスト)、また性差別的な言葉をかけられたときにどう対応するか、ということを具体的に示した「解説書」
ことばの暴力が、からだへの暴力につながっていること。だからことばの暴力をあいまいに流していると、それがときには殺人にいたるまでの暴力を誘発することを教えてくれます。
ことばとジェンダーについては、以下の本からも多くを学びました。

中村桃子著「<性>と日本語」(NHK出版)
「女ことばと日本語」(岩波新書)
社会から無意識に植え付けられた性差別意識をことばにして発することが、性差別を助長していくことを教えてくれ、まずは気づいて歯止めをかけようという気にさせる本です。無意識に使っている「女ことば」が、実は比較的新しく(明治時代以降)作られたことばであって、しかも「男ことば」を使っていた少女たちが、社会から女ことばを押し付けられる、という指摘にはどきっとします。

「三つ編み」
レティシア・コロンバニ著 斎藤可津子訳
インドの不可触民の女性、シチリアで家族経営の毛髪加工会社を立て直そうとする女性、カナダのがん患者の女性の3人が、髪を通してつながっていく物語。女性であるというだけで社会的な弱者に置かれてしまうことに、やり方は異なっても抗って生きていく勇気に拍手をしたくなります。

「イジェアウェレへ フェミニスト宣言、15の提案」
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著 くぼたのぞみ訳
もうね、私はアディーチェとくぼたさんの大ファンですよ。新刊出たら必ず教えろ、とAmazonに命じてある。それはともかく、娘をさずかった親友に向けて、「どうしたら「女だから」という理由で降りかかる、理不尽でマイナスな体験をさせずに子育てができるか?」という15の提案をアディーチェが書き送ったエッセイ。1つひとつの提案にうなずくしかない。

「掃除婦のための手引書」
ルシア・ベルリン著 岸本佐知子訳 講談社
1936年アラスカで生まれた作家の短編集。親も自分もアルコール依存症、各地を転々とし、3回結婚するもすべて離婚。シングルマザーとして4人の息子を掃除婦、看護師、高校教師などをして育てながら数多くの短編を残した作家です。これがフェミニズムの本にあたるという意見には反対されるかもしれないけれど、私には女性として生きていくことの喜びと困難さを率直な言葉でつづったその一言ひとことが胸にしみました。

「女性のいない民主主義」
前田健太郎著 岩波新書
女性の政治家がほとんどいない、女性を政治から締め出してきた日本の政治は、男性にとって(のみ)重要な事柄のみを扱う「男性の政治学」に過ぎず、それは民主主義とは呼べないのではないか、というテーマで「男性」の政治学者、行政学者が書いた本です。なぜ女性が政治から締め出されているのか、について歴史的に、また国際社会との比較において論じています。
伊藤詩織さんの訴えがなぜ不起訴になったのか、根本的な原因は、日本が、男性の、男性による、男性のための政治でしかないことにある、と知ると腑に落ちます。

最後に女性に対する暴力に対する法改正に立ち上がったチリの女性たちのデモが世界中に広がっている、というBBCニュースの画像を貼り付けます。私にとって、今年を象徴するニュースでした。
 

 幼稚園から小学校にかけて、私は母親や学校の先生たちから、何かヘマをして、叱責されるたびに言われたのが、1)だらしがない、2)不器用、3)粗忽、4)鈍臭い、5)物覚えが悪い、この5つでした。
 もうね、耳タコでこの5つの叱責を繰り返されて、私は割に最近まで自分のことを「整理整頓ができず、何をやらせても不器用で、おっちょこちょいで早とちりの粗忽者で、運動神経がなくて鈍臭く、人の3倍努力しないと何事も覚えられない人間」だと信じ込んでいました。人の言うことを素直に、というか鵜呑みにして信じてしまう「鈍臭い」性格なので、とくに母親から二言目には言われる「あんたはだらしがない」「あんたは人の3倍努力しないと人並みになれない」という言葉を鵜呑みにして「私ってこういう人間だから、しかたないよね〜〜」とか思っていました。
 でもさすがに40歳をすぎるころから「いやいや、そういう決めつけはおかしいよね」「本当の私はそれほどひどくはないのではないか」とか思い始め、はやりの「自分探しの旅」を愚鈍にやり続けてきた気がします。
 とくに60歳を迎えたときに、なんとか整理整頓ができるように、スケジュール管理をしてできるだけ「やらなくてはならないことをやること」を心がけ、不器用なりに時間をかけても習得することを自分に課してきました。幼少時から叩き込まれてきた「鈍臭い私」におさらばしたかったのです。
 5年間がんばってきて、ふと気づいたこと。
 鈍臭くて不器用でだらしがないのも「本物の私」だけれど、整理整頓を愚直にやって、不器用を努力で補って、粗忽者にならないようにゆとりをもって行動することを心がけるのも「本物の私」だと言うことです。
 つまり、世間さまが決める「本物の私」なんてものは、ない! 他人様に「あなたらしい」「あなたらしくない」と言われても、いやいや、他人様にとっては「らしくない」と見えるところも、実は私なのです。他人(親きょうだい夫子どもを含む)が期待する「私」になることも、ときには大事かもしれないけれど、ある程度の年齢に達したらもういいんじゃないか。人間ってのは、さまざまな面があって、世間に見せている表面だけを見ての人物評価ではまったく十分ではない。掘り下げれば掘り下げるほど自分自身でもとらえきれないほどさまざまな「自分」がいる。
 そういうさまざまな「自分」を素直に外に出していけるのが、たぶん高齢者の特権だろうと思うことにしたのです。
 そう思わせてくれたのが、芥川賞作家、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」の主人公、日高桃子さんでした。
74歳の桃子さんがある日気づくこと。
「老いると他人様を意識するしないにかかわらず、やっと素の自分が溢れ出るようになるらしい」
 素の自分、でもそれは万華鏡のように光の当て具合、動かし方によってさまざまな変化するのです。自分の見方によってさまざまに変化することこそが「素の自分」
 私と同い年の若竹さんが描いた73歳の日高桃子さんが私に、自分探しの旅なんてやめちゃいなよ、と言ってくれたような気がします。
fullsizeoutput_7b1c


 
 

このところ、締め切りが続きます。締め切りが明日、というとき、私は逃避の読書に走ってしまうとってもいけない性癖があります。
いま、目の前にある仕事とはまったく関係のない本に逃避して、なかなか戻ってこない。
この本読むことで、目が疲れて、体力が奪われて原稿が書けなくなるだろう?(自分に言い聞かせている)
ただただ時間がずるずるすぎていくだけで、 ますます自分の首を絞めることになるだろう?
わかってる、わかっているけれどね、あともう1ページだけ許して!(100%、あと100ページ読み終わるまで本を閉じないことは目に見えている)
この章を読み終わったら、ぜったいに本を閉じる、と言い聞かせているのに、気づくともうつぎの章に入っている。
(登場人物の)この人がどうなるか見えてきたらやめよう……読み終わるまで見えてこないことが自分でもわかっている。
だから長編はダメだ。短編小説だけにしよう……でも結局1冊読み終えるまで本は閉じられない。
で、ここんところの逃避で読んじゃった本をあげておきます(いや、そんなことしている場合じゃないだろう?>自分)
「老後の資金がありません」垣谷美雨(垣谷さんの本はどれも逃避中には決してページを開いてはいけない、とよーくよーくわかっているのに)
「アフリカを見る、アフリカから見る」白戸圭一(新書だし、ビジネスと政治の話だし、きっとこれなら大丈夫、数ページ読んだら仕事に戻れると思ったのに、予想外のおもしろさで結局読み終わってしまった。あーーーアフリカ行きたーい!!! あ、いかんいかん、アフリカの本をポチりかねない)
「東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ」辻原登(これまたきっとすぐに本を閉じられる、と思って読み始めたら、なに、これ、終わらないじゃない! 辻原さん、文学論も小説並みにおもしろいのか。本棚にずらっとならぶ谷崎(→大ファン)の文庫本に目がいかないようにするのに苦労した)
でもって今朝は「ボーダー 二つの世界」ヨン アイヴィ デリンドクヴィストをさっき読み終わったところ。もうね、書評しますよ、この本は。すごい本でしたよ、すごい小説でしたよ、すごい世界観でしたよ、これは。映画がいま公開中なんだけれど、ぜひとも見なくちゃ。ひさびさに出会った興奮の本でした。

というわけで、まだ原稿がぜーーんぜん進んでいない。
締め切りは目の前だ。
 

↑このページのトップヘ