Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

いま"The Rivals Game"という本を翻訳しています。

イギリス(イングランドだけでなく、スコットランド、ウェールズ、アイルランド北部もふくめたイギリス)のよくも悪くも有名なダービーについて書かれたノンフィクション。著者はBBCのジャーナリスト、ダグラス・ビーティー氏です。

マンチェスター・ユナイテッドVSマンチェスター・シティ、リヴァプールVSエヴァートン、セルティックVSレンジャースなど、その街だけでなく世界的にも有名な熱いダービーが生まれた背景について。その街(ときには街同士ってこともある)に二つの強烈なライバル意識をもつチームが誕生した経緯。サポ、クラブ、チームの選手、歴代監督、サッカーになんの興味もないその街の住民たちにいたるまで、徹底した取材で「ダービーとは何か?」を描きだす、という本です。この人がすごいのは、徹底して自分で見て、聞いて、感じて、そして調べたことの確認をとってから書いていること。ダービーマッチというと、ついクラブの背景となっている宗教や社会階層がちがうことによってライバルになった(サポが労働者階級VS中産階級、とか、カトリックVSプロテスタント、とか)と思い込みがちですが、歴史的に見ても、現在も、本当はそうではないことが多い、というのがわかっておもしろいです。

同時に、この本はイギリスという「国」が、歴史的に見ても特色あるローカルが寄り集まってできたものであり、それぞれの街やら地域やらの住民たちは、地域コミュニティ>>>>>「国」という意識だ、というのがよくわかって非常に興味深い。彼らにとっては、たとえプレミアに昇格できていなくても「おらが町のチーム」のほうが、たとえばイングランド代表よりもはるかに高い関心があり......というか、イングランドやスコットランドやウェールズ代表に対する関心は低く、むしろ地元のダービーのほうが「絶対に負けられない戦い」である、というのが肌で感じられておもしろい。ロンドンでさえも、自分たちは「ロンドンの人間だ」(ロンドンくらいの大都市になると生まれ育った地区も重要)という意識は高くても、「イギリス人だ」とはあまり思っていない。イングランド代表の試合を観戦・応援するのは、俺のチームの選手が出ているからだ、と主張します。

で、本書はダービーがある街や地方のサッカーのみにふれているわけではありません。イギリスもご多分にもれず、グローバル経済によって地方と中央の格差が広がり、地方は過疎と高齢化に悩み、財政破綻寸前の街も(いっぱい)あるわけです。うっぷんがたまる人々のガス抜きであるはずのサッカーが、かえって過激に暴動に発展してますます荒廃を招く、という悪循環にもある。そこで、安全で清潔なスタジアムをつくり、警備を厳しくして「お年寄りや女性も楽しめる試合」にし、観光産業と街のPRの目玉をサッカークラブにしようという、絵に描いたような「サッカーで地方活性化」をはかる地方都市は少なくないそうです。

ところが、イギリスではサッカーがあまりにもメジャーなスポーツであるのと、スタジアム建設やクラブの整備のために外の資本を導入したら、それがロシアや中東のおカネだったりして、その地の歴史と伝統の上にあるはずの「おらが町のチーム」が、町の人たちから遠く離れた存在になってしまった、という笑えない「活性化」になってしまう例がいくつもある。本書の著者であるダグラス・ビーティー氏が書きたいのは、グローバル化に踊る中央が、格差是正のために中央主導で行なう「地方活性化」が、実は「イギリスのフットボールの危機」を招いている、という笑えない現実です。

一方、日本ではJリーグが「地元にねざしたチーム」によって、サッカーの振興をはかり、ひいては地方の活性化につなげる、とその精神をうたっています。

でも、日本だって地方によって歴史も文化もメンタリティもそれぞれ大きくちがう。それを中央から一律に同じマニュアルでチームづくりをして、同じ目標に向かわせる(つまり、リーグ加入ですね)というのは、なんかちがうんではないか。

網野善彦氏の「「日本」とは何か」では、「日本」という「国」ができたのは8世紀初めごろで、その後も東北や九州や北海道を武力で制定しながら、ようやく一つの「国」として形をとった。その後、明治時代から、主として軍事目的で「国」意識が全体に行きわたらせられたけれど、日本は一つではない、と網野氏は強調しています。東と西ではあきらかに文化もメンタリティもちがうし、北海道や沖縄では言葉や祖先さえもちがう人々が暮らしている。それが網野氏の主張です。

それだけ歴史的背景も文化も社会さえもちがう地方があるのだから、それぞれの特徴を生かした独自の活性化の道筋があるはずではないか。少なくとも、歴史認識を抜きにした活性化はありえないのではないか。そんなことを思います。

サッカーの話だけじゃなく、ヨソからどうやっていっぱいおカネを持ってくるか、というのだけが活性化の道じゃないような気がしてならないのですが。

で、この話を聞いたときのなんともいえない違和感も、そこにあるのかな。

 

 

100歳人生設計(小).jpg「100歳までの人生戦略」

Dr.エリック・プラスカー著

実川元子訳

WAVE出版

新刊が出ました。

タイトルもですが、サブタイトルと帯がスゴイ!

「50歳なんてまだ昼の12時」「人生70年なんてひと昔前の常識!」

これで(よく?)わかるように、栄養状態・衛生状態・高レベルの教育を受けられる環境にある人は、かる~く100年生きられてしまう。ところが、その認識がない人が多すぎる。それに「100歳まで生きられますよ」と聞かされると、誰もが「え~! 100年も生きたくない」「ボケて病気になって迷惑をかけてまで長生きはごめんだ」「だいたいおカネが続かない。どうやって100年も暮せというのか」と言うそうです。いや、私も言いますね。っていうか、ずっと言ってますね。

そこでプラスカー先生が、それなら「元気で、楽しく、人の役にも立てて、孤独に陥らず、貧困に悩まず、100年生きるために、今から準備を始めようではないか!」と、「健康」「経済」「人間関係」「社会生活」の各分野にわたってアドバイスする、という内容です。

いま54歳の私は「75歳で死ぬから、ま、あと20年ほどの人生設計でいいや」とか思っていたのですが、これがあと四半世紀延びるとなると、こりゃたいへん。根本からこれからの生き方を見直さなくてはなりません。訳しながら、そうか、50歳からの人生は「収束」するためにあるのではなく、「発展」のためにあるのだ、と見方を変えましたよ。

まずは歯を治して、筋トレしなくちゃ、と実践してるんですがね。

でも、一番役立った提案は、時間の使い方かな。生産的なことに費やす時間、将来の準備にあてる時間、リラックスする時間の3つに分けて、カレンダーに色別に分けよう、というアドバイス。それも曜日ごとではなく、一日、一週間、一ヵ月、ときには一年単位で分けよう、と言ってます。うん、これはね、役立ちそうです。近いところだけでなく、これから半世紀(100歳まで生きるなら)、いったい自分がどうしたいのかが少し見えてくる気がするから。

たぶん、人生半ばを過ぎて、たとえば定年を迎えたり、子どもが成人したり、親の介護にかかわったりしている人は、「私は(これから)いったい何のための、どう生きていきゃいいんだ?」と悩むことが多いのではないか、と想像します。(っていうか、私がまさにそうなんだが)そういうときにページを開くと、多少なりとも力がわいてくるかな? いや、まだまだ人生これからだよ、という気になるから。

 今日、大学に行ったあと、書評用の本を探しに本屋に出かけました。

 海外小説の人気のないコーナーで本を立ち読みしていたら、いきなりら声をかけられました。

 「いま、なんじですか?」

 ふと見たら、小柄な外国人がおずおずとこちらを見ています。以前、パリで何時か? と訊かれてサイフをすられた経験から、さっと身がまえました。はっきり言えば、飛び退りました。棚一個分くらい。

 でも、ちょっと悪いかなと思って、「5時です!」と教えてあげました。

 わかんない顔をしていたので「IIt's five o'clock now」と英会話の基本みたいな返事をしてしまったのがまちがいでした。

 「ああ、英語しゃべるんだね。ぼくの名前は××○○。インドから来ました。きみはなんて名前? よかったら教えてくれないかな。ぼくはビジネスマンなんだ。東京ははじめてなんだけれど、いろいろ教えてくれない? 時間があればコーヒーを飲もうよ。ね、コーヒー、コーヒーを飲もう」と立て続け。

 私、しばらく無視。

 でも私は甘いのか、ふと「時間はないし、すぐに家に帰らなくちゃいけないし、あなたと友達になれないし、コーヒーも飲まない」と立て続けに返事をしてしまいました。だって、本を見たいのにうるさいんだもん。

 でも、インド人はインド人なのでめげません。だんだんすりよってきて(私はだんだん逃げる)「ぼく、おいしいレストランを知っているんだ。インド料理好き? インド料理はカレーだけじゃないよ。きみみたいな×××なガールと(読んでいるキミ、ガールと聞いて吹き出さないように)友達になれたらものすごくうれしい。どう? ぼく××○○っていうんだけれど、せめて名前は教えてよ。ねえ、きみ学生?」

 もうアカンと思った私は、にぎっていた本をパタンと閉じて「いいえ、私は先生です。それじゃ幸運を祈るわ。さよなら」と立ち去ったのでした。

 ところが、話はここで終わらなかったのです。

 本屋を出て、駅のほうに歩いていたら、なんと今度は日本人(たぶん)のおじさんにナンパされたのです。今日は1年1回のナンパあたり日なのか?

 小走りで追いかけてきたおじさん。私の前に立ちふさがると「さっき、そこの本屋で歴史の本を見てらっしゃいましたよね。歴史がお好きなんですか?」

 (ポカン!。歴史が好きかってなんだよ! 歴史って好きとかきらいとかいうものなのか? それがナンパの声かけか? もちょっとマシな誘い方がないのか?)

 無視して前進したんだけれど、なおも横に並んで「ぼくも歴史が好きなんです。よかったら、お茶でも飲みながら、歴史の話をしませんか?」

 ああ、これ宗教の勧誘。歴史の話がそのうち宗教の話に変わるのは確実。

 幸いなことに、日本の古代史について語りだしたおじさんがヤマタイ国(?)に踏み入れる前に改札をくぐりぬけることができました。

 やれやれ。インド人に古代史。

 結局、書評の本は見つけられませんでした。

 

正月休みもあっという間に終わりですね。正月期間、絶賛おいしいもの食べまくりだったのに、なぜか体重は減ってしまい...少し鍛えようと思って、今日はヨガとプールに行ってきました。

年末はなんやかやと家事や雑事に追われてあまり仕事をしなかったので、昨日からひさびさに机に向かって仕事していても集中力がないことったらもう。事務的な仕事を片付けるのに、えらく時間がかかってしまいました。

正月期間中には、貸してもらった東直己『消えた少年』『悲鳴』

いまときの人、湯浅誠『反貧困』(岩波新書)、

いしいしんじ『ポーの話』(新潮文庫)、

そのほか仕事関連で橋本治『あなたの苦手な彼女について』(ちくま新書)、湯山玲子『女装する女』を読みました。

どれもおもしろかったけれど、やはり『反貧困』は衝撃でした。昨年の話題をさらった理由がよくわかります。賞にふさわしい力作だったし、現場から出てくる声というのは強い。湯浅氏の口調は抑制しているのだけれど、耳元でじんじん響いて、貧困の実態と、貧困状態にいかにすべりおちやすくなっているかに気づいて背筋が寒くなります。

「努力する、がんばる、ということができる状態にまで生活レベルを引き上げないと、人間はつぶれていってしまうしかない。最低限のレベルにまで落とさないように手を差し伸べるのが社会の責任ではないか」という主張に「社会」はどう向き合うのでしょうか。自己責任という言葉で切り捨てるのは、強者のごうまんでしかない、というのが淡々とした文章の中から悲鳴のように響いてきます。

いしいしんじ氏は若者に人気がある、と聞きました。あっという間に読めてしまったのですが、この小説をどう自分のなかで位置づけていいのか、ちょっと迷うなあ。ファンタジー? 村上春樹的? うーん。よくわからないので、あと2冊ほど読んでから、いしいしんじ的なものをどうとらえるか考えます。

さて、明日から本格的に仕事だわ。

先週から風邪をひいて、ちょっとよくなったと思ったらまた悪化させるという連続で、なかなかよくなりません。40代までは風邪なんかひいたことがなかったのに、ここ数年はどうもいけません。

そんなところで、今年読んだ本のなかで印象に残ったものをいくつかあげていきます。

『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』

水村美苗著 河出書房新社

翻訳をやっている立場から、ここ数年ずっと「日本語とはなんだろうか?」と考え続けています。翻訳はほとんどを英語から日本語にするものです。以前は、同じ英語と呼ばれている言葉であっても、何系かもふくめてアメリカ人、イギリス人、アイルランド人それぞれの「英語」があることを意識していました。ユダヤ系アメリカ人の使う英語と、大英帝国支配下にあったアイルランドの英語とは、はっきりちがう言語だ、というくらいは私にもわかり、英語の歴史についてはちょっとは勉強してきたつもりでした。

最近、それではその英語をどんな日本語にするのがいいのか、という疑問から、そもそも私が選んでいる日本語はどういう歴史を経てこうなったのか、などと考えるようになりました。昨年、「言海」を編んだ大槻文彦氏の伝記『言葉の海へ』(高田宏著)を読んで、日本語が国語になるまでの過程を知り、『日本語の歴史』(山口仲美著)で文字ができあがった歴史を垣間見て、あらためて日本語とは何かを考える視点を得ました。

そしてこの本でした。衝撃でした。英語が公用語として使われているいま、世界のなかで日本語が置かれている立ち位置。日本語でしか表現できないもの(とくに文学)を「保護」していくことが緊急課題であること。うっすらともっていた危機感が、どんな形のものなのかを非常に明確に示された、と思いました。この本はたぶん、しばらく何回も読み返すものになると思います。

『わたしを離さないで』

カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳

早川書房

読みながら、せつなくて、哀しくて、でもその哀しさにいつまでもひたっていたい、という気持ちにさせられ、読み終わるのがおしくてたまらない小説でした。エンタテインメントとしても秀作。まちがいなく、カズオ・イシグロの作品のなかでは、『日の名残り』につぐベストワンでしょう。

『漢字』

白川静著 岩波新書

平凡社新書『白川静』(松岡正剛著)を書評で取り上げたのがきっかけで、白川静氏がすっかりマイブームになり何冊か読みました。そのなかで、白川氏が1970年代にはじめて一般人向けに書いた本がこれ。

漢字が成り立ちを、古代中国の人たちの生活や思想に即してわかりやすく解説しています。自然観、死生観、信仰、国と王のありかたなどを漢字から読み解いていて、あらためて表意文字としての漢字のすごさを認識しました。本当におもしろい本で、あまりにもおもしろかったので言葉大好きな次女に勧めたら、めずらしく興奮して読んでました。で、いま『常用字界』(白川静著 平凡社)を居間に置いてあって、次女は何か気になる漢字があるとそれをひいて「ほっほー!」と読んでます。

『フロスト気質』

R.D.ウィングフィールド著 芹沢恵訳

創元推理文庫

上下巻にもかかわらず、ほぼ徹夜で一気読み。推理小説を読む楽しさを満喫させてくれたのはさすがフロスト警部。あまりに楽しかったので、またまたフロストシリーズを読み返しました。

そのほか、マリコさんに大量に貸していただいた東直巳のなかで『残光』がおもしろかったし、クニコさんに貸していただいたマンガのなかで小玉ユキが衝撃のおもしろさだったし、エンターテインメント系についてはまた機会があれば。

あああ、早く風邪を治さないと。

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