Glamorous Life

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読む快楽

訳了しました。

訳了したよ!

訳了したんだ、聞こえてる?(しつこい)

正直、5月はじめに打ち合わせをしたとき「7月末までに仕上げます」とか言っておきながら、心のなかで「ちょっとキツイかもぉ......でも締切延びても許してくださるかもぉ」と仏顔の編集者さんを見上げたのでした。

さすがに6月になるとあせって、日々のページノルマを決めたのですが(スケジュール帳に書き入れていく作業。「えーっと、この日はほかの締切がないから、よし、5ページ......この日は3ページかなあ......あれ?計算が合わない......」なんていう作業をしているヒマに、やれよ!)、突発の仕事が入った上に、別の本の入稿が重なり、7月はじめには「確実に間に合わん!」といったんは腹をくくりました。「いつまでならできるか」「いつのタイミングで間に合わないというか」もんもんと悩むこと(悩んでいる間に、やれよ!)数日。

そしたら、どこかでふっきれたのか、ぐいぐい進み、間に合いました。

いや、毎回同じことの繰り返し。もう間に合わない、どうしよう間に合わない、また今日もノルマ非達成、逃げたい、国外逃亡したい............(2週間後)あれ? 終わった! 最後の3分の1は、いつもノルマの3倍進みます。ってたって最大一日12ページだけれどね。それ以上やると、ミスが多くなるから自重。

今回も締切守ったもんね。

えらい? えらい?(トトロのメイの口調で......気色悪い)

 

今日(じゃなくてもうきのう)の夕飯は、夏野菜と鶏肉のトマト味シチュー、ロメインレタスときゅうりとししとうのピリ辛炒め、ごはん、かぼちゃの漬物。

今日、書評原稿を書いていて、「訳者あとがき」に

「最近は翻訳調(というのがあるとすれば)がとみに嫌われるようだが、本書の性格からあえて「日本語らしく」しなかった部分もある」

と書かれているのを読んで、ん? と思った。

というのは、その本の訳は秀逸で、「翻訳調」で「日本語らしくない」部分に、すごく味があったから。嫌われるんですか、そこが? 

という本は

「厨房の奇人たち」

ビル・ビュフォード著 北代美和子訳

白水社

うん、とても楽しかったし、こういう言い方は誤解を招きかねないけれど、とても勉強になった。知らないことを知る楽しみを与えてくれる本はいいね。著者の行動力に引きずられて、これまで「知ろう」とも思わなかった世界をのぞけるのがありがたい。さすが『フーリガン戦記』の著者だ。

読み終わって、すごくトクした気分にさせてくれる。自分も一緒になって、著者と一緒に、NYの厨房で汗水たらして兎やら鴨やらをさばき、ワインをラッパ飲みし、トスカーナの山奥の質素な、でも実はとても豊かな食卓に座った気分にさせる。

どんなシーンを描いても、その場の「空気」が感じさせるのがうまい訳だ。これ、ビュフォードさんの文章がうまいだけじゃないと思う。翻訳に空気を伝える力がある。

そういう本であり、そういう訳。

で。

翻訳された本を読む楽しみは、いつも自分にまとわりついている(まとわりつかれるのがいやだっていうんじゃない)ものとはちがう「空気」を感じることにある、と私は思っている。

その「空気」を感じさせるのが、ひとつには「翻訳調」じゃないかとときどき思うのですね。

あまりにもひっかかりのない日本語になった翻訳文って、ちょっとちがう気がする。

日本語と外国語の間に横たわる深い溝を、ときどき垣間見せる(感じさせる)ほうが、歯ごたえがある。だって、溝を超えてどちらか土俵に引きずり込んでしまったのなら、翻訳を読む楽しみが減りませんか? ま、それは私だけかもしれないけれど。

自分に向かって石が飛んでくるのを覚悟の上でいわせてもらうと、世の中には「翻訳調」どころか、「翻訳」までもいたっていない本もいっぱいとはいわないけれどあって、それを読んだ人が「あ、これ翻訳調だから読みにくい」とか思っていたら困るなあ。

「静かなノモンハン」

伊藤桂一著 講談社文芸文庫

 

 自分が生きてきた昭和という時代を、実はまったく知っていなかったということに気づいて愕然とすることがあり、少しずつだけれど、その当時のノンフィクションを読んでいる。

 なんとなく本屋で見つけて購入し、翌日から出張に出かけて飛行機のなかで読み始め、帰りの新幹線で読了。最後の著者と司馬遼太郎の対談の一言ひと言が胸に突き刺さった。

 関東軍とソ蒙軍とが、満蒙国境で戦った凄惨な記録である。

 戦略も戦術も、もっといえばまともな兵器や食糧・水さえも与えられず、何の役にも立たない重い荷物を背負わされて徒歩で砂漠地帯に放り込まれた日本の兵士たちが、死に物狂いで戦って......というか、殺されて、無残に敗退していった有様を、詩人の著者が3人の兵士たちの聞き書きでつづっている。

 鈴木上等兵、小野寺衛生伍長、鳥居少尉の3人は、大半が戦死したなかで奇跡的に生き残った人たちである。著者のインタビューにもなかなか応じてくれなかったそうだが、重い口を開いて、自分の目で見て、耳で聞いて、からだで感じた戦争を語った。

 全員、ノモンハンに送られたときは若かった。鈴木氏と小野寺氏は2人とも北海道出身。10代、20代の若さで召集され、ろくに訓練も受けないうちにいきなりの実戦がノモンハン事件だった、という。

 ノモンハンを世界地図で探してみた。平凡社世界地図にはのっていない。著者が「集落というより蒙古人たちが名づけた地名」であり、「遊牧民たちが、そこにときどき、パオの群落を築くだけの、寂しい場所でしかない」というような砂漠のなかにあるらしい。こんな何もないところに放り込まれて、歩けども、歩けども見渡すかぎり砂漠で、地平線の向こうから戦車が列をなしてやってくるのを見たときには、どんなに恐ろしかっただろうかと、地図の上からでも想像する。

 昭和14年5月、外蒙兵が日本の警察を攻撃してきたことをきっかけに戦闘が起こり、8月末に停戦にこぎつけるまでに、日本側の死傷者はざっと計算したところ、14505名にのぼった。出動人員のじつに33%が犠牲になった。数字を見ただけで、たった数ヵ月間にこれだけの犠牲を出して敗退し、しかもその後も愚かな戦いを続けたのはなぜだったのか。

 著者は、砂漠のなかをソ連軍の戦車に追い回され、まわりで大勢の仲間たちがなすすべもなく殺されていくのを歯がみをしながら眺め、爆弾が落下した穴のなかに息をひそめて隠れるしかなかった兵士たちのなまの声を淡々とつづっている。死のぎりぎりまで追いつめられた人間が、そのとき何を思ったか。のどが渇いた、痛い、苦しい、息ができない、そんな人間の本能的な欲求や生理を超えて、なまの感情があふれだす、というところがすごい。うれしい、ありがたい、恐い、くやしい、恥ずかしい......肉体的に極限状態にあり、精神的に絶望の縁まで追いやられても、人はそんな感情を抱いて、しかもそういう感情をもったシーンを克明におぼえているものなのだ。そして、全員が共通しておぼえるのが「虚脱感」である。何をすることもできず、仲間も救えず、ただぼろぼろになって帰ってきただけ。いったい自分はなにをしたのか、何もしていないではないか、という虚脱感。

 最後の対談で、戦争体験者である司馬氏と著者が、なぜ日本は愚かな戦いをしたのか。そして、敗戦してもちっとも学んでいない。それなのに自覚がない、という話をしている。

 2人ともけっして戦争を美化しない。劇画のように描かない。砂漠のなかに生えている、羊が食べる草をかみながら行軍したという小さなエピソードを連ねながら戦争を語る。そうしないと、戦争の生の姿が見えてこないのだと思う。

 戦争をまったく知らない世代の人間は、こういうノンフィクションで戦争の実態をせめて頭で理解したほうがいい。

 愚かでない戦争、かっこいい戦争なんてあるわけない。どんな戦争も愚かで醜い。でもそれがどんな風に醜く汚く、そしてばかばかしいのかを知るために、こういう本こそ読んだほうがいい、と思う。

来週までに入稿3冊って......。

今月末までの締切も1冊。

歯の手術を延期し、バーゲンも泣く泣く見送り、何よりも優先していたガンバの試合観戦もあきらめ、家事協力要請を家族全員に出し、がんばりますよ。

 

 昨晩、NHKクローズアップ現代で「書店のランキングの功罪」を取り上げていた。

 私は比較的書店によく行くほうだと思うが(仕事柄あたりまえだ)、面出しされているランキング本を見てチェックはしても、買ったことがない。みんなが読んでいる本を私が読んでも意味がない。あまり読まれていないけれど、実はものすごくおもしろい本を探さなくちゃ本を読む意味がない、とまで思っていますです、はい。いや、実を言うと読んでいる本の8割は仕事がらみなので、楽しみで読む本くらい好きな本を読みたい。

 ただ、番組でもいわれていたが、本に関しては「ランキングには左右されない」という私の行動はあまり一般的ではないだろう。それは認める。本を読む目的、探す目的が、一般的ではないから。

 だが、私はほかのこと――グルメ、エンタテインメント、美容など――に関しても、ランキングを見ない。ランキングを見るのは「ランキングに出ていないものを探そう」と思うときだ。映画の「興行成績ランキング」だの「コメント数ランキング」だのは、その裏にある作為が感じられて、見るだけ腹が立つ。観たい映画は、監督と簡単なストーリーで決める。貴重な時間とお金を使う以上、自分で決めて納得したい。最近ではめっきり減ってしまった外食でレストランを選ぶときも、メニューと店のたたずまいで決める。失敗もあるけれど、ランキングみたいな他人のあやふやな評価や作為で決めて失敗したときよりは、不満度が低いから。

 なんだかね、あちこちのサイトに貼りついているランキングを見ると哀しくなってしまうのだ。

 そんなことまで「みんなと一緒」にしたいのかな、と思って。そういう時代はもう10年前に終わったと思っていたんだけれど、そうじゃなかったのかな。

 みんなが読む本を読んで、みんなが見る映画やテレビ番組を見て、みんなが行くレストランに行って、みんなが使っている化粧品を使って、みんなが着ているブランドの服を着て、それ、何がおもしろいんだろう。それでいて「私、ちょっと変わってるっていろんな人に言われるんです」とみんな同じことを言う。

 マーケティング手法のメインがランキングていうのは気持ち悪い。ランキングに振り回されるのは、もっと気色悪い。

 ああ、今日の私は毒吐いている。

 『臨死、江古田ちゃん』第3巻がいまいちパワーに欠けていたせいかもしれない。難波ゆかり、いい加減にダメンズをやめさせてください。

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