Glamorous Life

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読む快楽

リーマン・ブラザースが倒産した。

月曜日にそのニュースをネットで見たとき、しばらく目を疑った。え? なんか私、勘違いしてる?

と思ったら、メリル・リンチもバンク・オブ・アメリカに買収されるのだとか。

金融の世界にまったく縁遠い私でさえも、それがどれほど世界経済を揺るがすか、ということくらいはわかる。

バブルがはじけそうな予感は、1年、いやそれより前からあった。サブプライムローン問題が顕在化するより前から、きっと金融界ではうすうす気づいていたんだと思う。今回の史上最大の倒産だって、もしかしたら金融にくわしい人なら相当前、サブプライム問題前後からわかっていたんじゃないだろうか。

日本のバブル崩壊と比べる論調が多いけれど、いや、形は似ていても影響力の点からいくと、質も規模もちがう。なんてったって世界経済の土台となっている(た)アメリカのNO3の証券会社が倒産するほどのはじけ方だし、日本のバブル崩壊時からは考えられないほど世界経済はグローバル化してしまっている。

しかし、経済と金融に明るいとはとっても言えない私がなんか言うのもおこがましいな。

前に『若者はなぜ3年でやめるのか』と『3年で辞めた若者はどこに行ったのか?』(いずれも城繁幸氏というコンサルタントが書いている)という新書を読んだとき、なんというか、舌にざらつくような苦さを感じた。いずれも年功序列をはじめとする、日本の昭和的労働価値感が、グローバル化している経済・社会にはなじまない、組織に頼らず、自分の能力でキャリアを築いていく生き方をしなければ敗者になる、という話だった。そのなかに外資系金融会社につとめている30代の男性が、「世界のどこにいっても、やっていける自信がある」(やっていける=年収1千万円以上稼ぐ)といっていて、それが新しい働き方、とされていた。たぶん、欧米でもアジアでも、グローバル化にのって大成功をおさめたビジメスパーソンたちはそういう生き方をしているんだろう。だが、そういう働き方で生き延びていける人って、100万人中10人くらいじゃないのか?(いい加減な割合だが)でもって、そういう人たちがつくりだしたバブルがはじけて、残りの99万9990人は路頭に迷うか、よくて「負け組」と軽蔑の目で見られるわけだ。

今回のリーマン・ブラザースの破たんで、いったい何人が残っていくのだろうか? 考えただけで気が重い。

「わたしを離さないで」

カズオ・イシグロ著・土屋政雄訳

早川書房

 

注:これから書くことはネタバレです。未読の方は読まないで! 

 

 衝撃的な小説である。

 時間つぶしや教養づけや娯楽のための娯楽としてではなく、「小説を読む」という本当の楽しみを満喫させてくれた小説だった。ひさびさにそういう小説を読んだ気がする。一ページめくるごとに、読み終わるのがもったいなくなる。数行の文章に書かれた意味を、そこに隠された謎を解き明かそうと、ときどき本を置いて考える。そうやって想像力を思うままはばたたかすことを読者に許し、好き勝手に想像させるスペースをたっぷり与えてくれる。なんてぜいたく!

 そして、この小説の読み方は一人ひとりみんなちがう......ような気がする。いや、ほかの人の意見を聞いたことがないからわからないのだけれど、私の感想と、ほかの人の感想ははっきりちがうだろう。それがわかる。一人ひとり、好きな読み方ができるはずだ。私が見つけた謎解きのカギと、別の人のカギとはまったく異なるものになっているのではないか。それ以上に、私が謎に思うところと、ほかの人の謎ともちがう。そうやって読者の自由裁量に任せてくれる構成になっている。

 そんなことすべてが、この小説を読む「楽しさ」につながっていく。

 舞台も時代も、架空だ。イギリスの地名が使われていて、人物の名前も英語名で、どうやら二○世紀の話と読めないでもないけれど、未来SFのようでもある。

 ヘールシャムという名前の田園地帯にある小さな学校らしきところから話は始まる。幼児から15,6歳までの子どもたちが、外部とは隔絶された場所で寄宿生活を送っている。ふつうの学校のように算数や地理や国語を先生が教えているが、とくに力を入れているのが、絵画や彫刻、詩作といった創造的な授業だ。優秀な作品は選ばれて、「マダム」と呼ばれる人の「展示室」に保存される、と子どもたちはいわれる。「展示室」がどこにあって、誰がそんな作品を見るのか、子どもたちはふしぎがるが、先生たちをあえて問い詰めようとしない。

 問い詰めることがはばかられることはほかにもたくさんある。

 なぜ自分たちは隔離されているのか?

 「親」はどこにいるのか?

 「マダム」とはいったい何者なのか?

 なぜ「マダム」は、おぞましいものを見るような恐怖のまなざしで子どもたちを見るのか?

 子どもの一人、キャシー・Hの一人称で語られる小説のなかで、一枚ずつ薄皮をはぐようにその謎があきらかにされていく。

 セックスは許されるが、子どもをつくることはできない、と性教育の授業で先生たちにきっぱりいわれる子どもたち。

 15、6歳になると、先生たちに保護されていたヘールシャムを出て、「外の世界」に連れていかれ、「介護人」と「提供者」という役割を割り当てられる「ルール」。

 優秀な「介護人」となったキャシー・Hは、ヘールシャムで一緒に育った仲間で、「提供者」となったトミーとルースの2人の介護をしながら、その「ルール」に例外は認められないのかと必死にあがく。

 ......

 生殖行為なくして生まれ、生殖ができず、短い生を義務付けられ、あらゆる「人間的な」生活を禁じられた人間に創造的な営みは可能なのだろうか?

 そもそも人間とは何なのだろう?

 最後の一ページを読み終わった今朝、明けていく空を見ながらしばし余韻にひたった小説だった。

 

本棚を整理していたら、どうやら夫が古本屋で買ってきたらしき西村京太郎の本が2冊出てきたので、初十津川体験をやってみました。

う~ん、ダメだった。ものすごく時間をソンした気がしました。書きなぐっちゃったかなあ、という感じ。殺人の動機がなんともいやはや。愛情のもつれって、いったい時代いつだよ!

2冊目は飛ばし読み。でも、殺人が起こった時点でもう犯人がわかってしまって、飛ばし読みをしてもまったく問題なかったです。

でも、日本でものすごく売れている(らしい)このシリーズをとりあえず読んだ、ということにしておこう。

いま売れているらしい、今野敏も2冊(「朱夏」「ヒート」)読んだけれど、警察側にも犯人側にもなんの思い入れもできずに困りました。いや、困ったというより退屈だったかな。オヤジが好きそうな人物像でした。主人公の樋口氏の奥さんは翻訳家です。なんつーか、判断に困った。

夕飯は、ラムチョップの香味焼き、きゅうりのさっと漬け、あと、名前はわからないけれど、こないだテレビでやっていたスーダン料理のサラダをつくってみました。焼きナスとサワークリーム、ニンニク、塩、レモンをフードプロセッサーにかけて、冷やしたもの。トマトとイタリアンパセリとともに、トーストにのっけて食べると美味でした。 

 

ところで、腱鞘炎が悪化して、きのうは歩いても痛い状態になってマイッタです。マウスが握れないので、トラックポイントでできるノートパソコンで仕事しています。体操をして痛みを軽減。

「「かまやつ女」の時代ー女性格差社会の到来」

三浦展著 牧野出版

 

「ワーキングプア 日本を蝕む病」

NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班 編

ポプラ社

 

遅ればせながら2冊を読んだ。拾い読みはしていたのだが、全部通して読んだのは初めてだ。

2冊一気読みして、どーんと暗くなって、しばらく寝つけなかった。

「かまやつ女」は2005年。「ワーキングプア」は番組放映が2006年で、本は2007年発行だ。「格差論争」真っ只中で出された波紋の書。

どちらも日本社会に進行している格差を取り上げている。

「かまやつ女」とは何か一応説明しておくと、中年の男性がかぶるような帽子をかぶり、髪型もぼさぼさしていて、ルーズな服を着ていて、スカートはめったにはかずほとんどだぼだぼのジーンズで、たまに短いパンツとかはいても下に必ずスパッツをはいていて、靴は間違ってもヒールをはかずいつも大きめの草履やスニーカー、という格好の若い女の子。その格好がかまやつひろしに似ている、というので著者が命名した。

口癖は「ラクに、自分らしく生きていたい」。そして「がんばらない」「無理をしない」。あらゆる「らしい」ことをやんわり拒否し、とくに「女らしい」ことをするのをやめるので、その格好になる。

そのどこが問題かというと、(著者の目から見ると)彼女たちが努力をやめてしまって、人生からおりてみたいだからだ。

だから著者はかまやつ女にずいぶんいらだっているみたいだ。たしかにゆるゆるの生き方や考え方には私もむっとするところもある。だが、かといってかまやつ女が「学歴も美貌も経済的にも高い三高女」や「男をつかまえて専業主婦になりたいギャル」という「層」と対極の位置にあるとは思えないのだけれど。マーケティングではそうなるのだろうか。三高女もギャルも、ある意味あきらめて下りているところがあるのですがね。

「ワーキングプア」はもう政治、社会レベルで解決しなければどうしようもない要素が8割以上を占める問題で、安易に「グローバル化の余波」だの「教育の問題」だのと評論家みたいなことは私はいえない。情報をちゃんと分析しているわけじゃないし。

だが、両方を読んで感じたのが「社会を階層化し、それを目に見える形でわかりやすく区分し、しかもその区分に不満があってもあきらめて受け入れさせることはダメなんじゃないか」ということだ。

どんな社会にも、形はちがえども階層というのはあったし、いまでもあるし、これからもありつづけるだろう。

だが、生まれ落ちたときから入れられた階層に、どれだけ不満があっても抜け出せないと思い知らされることは、人間として不幸だ。親から子へとそんな不幸が受け継がれるような社会は即刻変えなくてはならない、ということを歴史から学んで、面倒くさいし、欠陥も多いけれど、とりあえず民主主義ってものを選んだのではなかったか。

いや、これじゃ政治的すぎる。そんな大げさなことが言いたいのではない。

今の日本社会は、現状になんとなく不満があったり、不幸とまではいかないけれどストレスを感じていたり、漠然とではあるけれど底知れぬ不安を感じていることが日常化していて、それをどう表現していいかわからない社会なのではないか、ということだ。昔はデモとか、社会運動とかいろいろあったけれど、いまはそういう仲間で怒りを共有することができなくなっている。格差に対して理解しづらくなっているから。で、不満や不安やストレスの根源にあるのが、固定化されている階層に対するあきらめではないかと。

私が最近本当に耳にするのも目にするのもいやな三大フレーズが

「夢をもつ」

「自分らしく生きる」

「好きなことを仕事にする」

なんだけれど、とくに政治家とか評論家とか実業家とか、若者の将来の夢を見事に打ち砕いている張本人が、あきらめきって肩を落としている若者にむかって追い打ちをかけるような言葉を投げつけると、ほんと私でさえもひきこもりたくなる。

あきらめざるをえない状況でもがいているところに、夢だの自分らしくだの好きなことだのと、カッコイイコーティングをした自助努力を強制するんじゃない、と言いたくなるんですね。は~。

 

訳了しました。

訳了したよ!

訳了したんだ、聞こえてる?(しつこい)

正直、5月はじめに打ち合わせをしたとき「7月末までに仕上げます」とか言っておきながら、心のなかで「ちょっとキツイかもぉ......でも締切延びても許してくださるかもぉ」と仏顔の編集者さんを見上げたのでした。

さすがに6月になるとあせって、日々のページノルマを決めたのですが(スケジュール帳に書き入れていく作業。「えーっと、この日はほかの締切がないから、よし、5ページ......この日は3ページかなあ......あれ?計算が合わない......」なんていう作業をしているヒマに、やれよ!)、突発の仕事が入った上に、別の本の入稿が重なり、7月はじめには「確実に間に合わん!」といったんは腹をくくりました。「いつまでならできるか」「いつのタイミングで間に合わないというか」もんもんと悩むこと(悩んでいる間に、やれよ!)数日。

そしたら、どこかでふっきれたのか、ぐいぐい進み、間に合いました。

いや、毎回同じことの繰り返し。もう間に合わない、どうしよう間に合わない、また今日もノルマ非達成、逃げたい、国外逃亡したい............(2週間後)あれ? 終わった! 最後の3分の1は、いつもノルマの3倍進みます。ってたって最大一日12ページだけれどね。それ以上やると、ミスが多くなるから自重。

今回も締切守ったもんね。

えらい? えらい?(トトロのメイの口調で......気色悪い)

 

今日(じゃなくてもうきのう)の夕飯は、夏野菜と鶏肉のトマト味シチュー、ロメインレタスときゅうりとししとうのピリ辛炒め、ごはん、かぼちゃの漬物。

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