Glamorous Life

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読む快楽

「聖(セイント)☆おにいさん」 中村 光(モーニングKC)

 

急にマンガが読みたくなって(QMY)、夜、ごはんを食べてからヴィレッジ・ヴァンガードへ。

ときどきのぞくブログで紹介されていたので、このマンガを買っていそいそベッドのなかで読みました......蒲団がずり落ちる勢いで笑ってしまった。

休暇で天界から現代日本の東京におりてきたイエスとブッダの2人が、アパートを借りて摩訶不思議な日本を体験する、というギャグ漫画です。

昼寝をするとつい涅槃の姿勢になって「あ、まずい」と起き上がるブッダ。

ジョニー・デップにまちがえられて女子高生に騒がれるイエス。

手塚治虫の「ブッダ」をマンガ喫茶で読んで、滂沱の涙を流すブッダ。

感動すると頭にまかれた荊にバラの花が咲くイエス。

スキンヘッドを見かけるとつい「あ、アナンダ」と叫んじゃうブッダ。

サウナで隣に座ったやっちゃんから「兄ちゃん、その傷はどこでつけたんか?」と聞かれ「ゴルゴダ」と答えるイエス。

神社でおみくじを引いて「天界からぜったいにツッコミがくるね」という二人。

私としては、ノリがよくておバカなことをするイエスよりも、お人好しのおばさんタイプのブッダのほうがツボにはまりました。

しかし......いいのだろうか。これ、宗教関係者からつるし上げられたりしないのかな。ちょっと不安です。

軽く見逃してやってください。イエスもブッダもとてもいい感じに描かれているのだから。

 

マンガとしては「臨死 江古田ちゃん」と「闇金 うしじまくん」以来のヒットかも。

「日本語の歴史」

山口仲美著

岩波新書

 

 石垣から戻ってきました。

 石垣の人たちが地元の言葉で話されると、さっぱりわかりません。Welcomeが「おーりそーり」の意味だといわれても、は~それ私が知っている日本語じゃないし、と方言の域を越えた言葉のちがいにため息が出ます。

 でも、日本語とはそもそも何? という疑問に応えてくれたのが、石垣島への往復で読んだこの本。同行者に「まあ、むずかしそうな本を読んで」と言われましたが、タイトルよりもずっとやさしく、わかりやすく書かれた日本語の歴史入門エッセイです。

 この本で私が注目したのは、現在「日本」とされている土地のなかで、「日本語」として「日本人」に通用する言語とするまでに何を統一しなければならなかったか、という点です。実際に「日本語」が成立するのは、明治時代が終わるころというから、たかだか100年ほどの歴史しかないのです。日本のなかで言語のちがいを生じさせていたのは3つでした。

その1。地域。沖縄県で使われている言葉が、現在の日本語とは大きく異なるのを見てもわかるように、方言ですませられないほど地域によって使用言語はちがっていたし、いまもちがう。

その2。性別と社会階層。男言葉と女言葉は江戸時代近くまで分離していたし、農民と武士とでは江戸時代においても別言語といっていいほどちがう言葉を使っていた。

その3。話し言葉と書き言葉。

著者はとくにその3について詳しく書いています。その1とその2も、その3のちがい(そして統一)が日本語という共通言語を成立させるのに大きな意味をもっていたからです。

江戸時代まで話し言葉が書きとめられることはめったになかったので、それぞれの地域でどんな言葉で人々が日常会話をしていたのかはなかなかわかりずらいのですが、それでも物語や説話に書かれた会話から推測することができます。そしてそれは明治が終わるころまで、書き言葉と大きくちがっていました。

書き言葉の変遷は、どんな文字を使うかで歴史をたどることができます。文字をもたなかった日本人(と仮にしておきます)は、中国の漢字を流用して、自分たちの言葉(やまと言葉)を漢字の意味に関係なく音だけに頼って書きあらわしました。万葉仮名と呼ばれるこの書き方にはかなり無理があったし、画数の多い漢字を延々と書かなくてはならなかったのでずいぶん面倒でした。

それじゃ中国語の漢字の使い方(漢字の一つひとつにこめられた意味を利用する)で書けばいいじゃないかというと、やまと言葉は助詞や助動詞という中国語にはない文法上の語があるし、文法がちがうのでややこしい。そこで私たちが漢文の授業で習った返り点を使って、いわゆる訓読をする漢式和文が発達し、そのうち送り仮名や助詞を補うために漢字を略式にしたカタカナが生まれました。

それじゃひらがなはというと、漢字を崩してうまれたそうです。安→あ、以→い、といった具合。

法律や政治的文書を書くために生まれたカタカナに対し、ひらがなは和歌のために発達しました。つまりひらがなとカタカナは同じように漢字から発達したとはいえ、生まれも育ちもまるでちがう。しかも、漢式和文→漢字→カタカナ→男性が使うもの、崩し字→和歌→ひらがな→女性が使うもの、という使う人まで分離していました。書くものによって、文字までちがっていた、というところがおもしろいですね。女は漢字を使うものではないとされ、男がひらがなを使うことは恥ずかしいことだったのです。

漢字とひらがなとカタカナを駆使した日本語の書き表し方にどういう風に変遷していったかは本を読んでもらうことにして、私が興味深かったのは日本語のなかに「外来語」がどう導入されていったかの部分。これには残念ながら、明治時代の言文一致の章のなかにさらりとしかふれられていません。それでも、日本にはなかった概念(たとえば哲学、科学、社会、思考、人格、必要など)を、西周をはじめとする明治時代の思想家たちが言葉を漢字でつくっていった、というくだりは興味深い。日本人がつくった西欧「外来語」を表現した漢字は、中国や韓国でいまでも使われているそうです。万葉仮名→漢式和文→ひらがな・漢字まじり文の変遷のなかで、日本は独自の和式漢字とでも呼びたいものを発達させてきたことがうかがえます。

翻訳をしているとき、頭の片隅にいつもひっかかっているのが、アルファベットで表現された言葉と、漢字とひらがな、カタカナを使って書き表す言葉の間にある深い溝のようなもの。溝というよりも、むしろ肌ざわりといったほうがいいような皮膚感覚的に近いものかもしれません。(でも溝という距離感でもある)言葉や文法の違いとともに、使用する文字の違いにときどき(しょっちゅう)いらだちます。

この本は、そのいらだちがどこから来るのかを少しだけ教えてくれると同時に、いま使っている言葉に甘えてはいけないといさめてくれました。「日本語」という言葉に絶対はない。「これこそが日本語だ」といいきるのは傲慢だというものです。いま大手メディアが使っている標準語(この言葉は嫌いだけれど)に絶対的に依存することのあやうさを自分のなかでいさめる意味でも、つねに「日本語とは何か?」を問いながら翻訳していきたい、と思いました。

ところで。本日、また一つ年をとりました。

お誕生日にメッセージをいただき、とても喜んでいます。私はなかなか誕生日が覚えられないので、お祝いをくださった方の誕生日にメッセージを送っていない失礼を重ねています。ごめんなさい。そういいながら、自分の誕生日を覚えていてくださるのはとてもうれしい! 今年一年、また元気に過ごしていきたいです。

ふぞろいないちごたちが売られる季節になった。

ひと盛り480円。小さくて、食べると酸味がきつい小さないちご。

八百屋のおばさんが「ジツカワさん、ほら、いちご出ましたよ。お好きなんですよね、すっぱいのが」と、新キャベツを買いにきた私にいった。え? 私、すっぱいいちごが好きだなんていったかなあ。ま、いっか。と青いビニールのざるに入ったいちごを買った。キャベツはすっかり忘れてしまったよ。

さて、これでいちごジャムをつくろう、とほくほく。いえね、ジャムなんてめったに食べないんですよ。でも、自分でつくった金柑ジャムとかゆずジャムとか夏みかんジャムは食べる。誰も食べないから、一人で食べる。

えーっと、砂糖の分量はどうだったっけ? と開いたのが

「お料理はお好き 入江麻木の家庭料理」

鎌倉書房

という料理本。著者も出版社もいまはない。

この料理本は、結婚した1978年に購入した、私の最初の料理本である。

入江麻木さんは、小澤征爾・指揮者の奥さんのお母さんである。ロシアの方と結婚したので、ロシア料理がいっぱい出ている。もちろんそれだけじゃない西欧料理がたくさん出ているのだが、1978年にはめずらしいことこの上ない料理ばかりだった。

なぜそんな料理本を第一冊目として私は結婚生活、つまりは料理生活を始めたのだろう? たぶん、この本に出てくるような料理を毎日するような生活にあこがれていたのですね、きっと。実態は大きくかけ離れていたけれど。

この本で覚えて、いまでもよくつくる料理がミートパイ、サーモンパイ、ポトフ、ローストチキン、ロシア風レアチーズケーキ、スペアリブ、いわしのパン粉焼き、ロールキャベツ、じゃがいものチーズ焼き......こう書いていくと多いなあ。

ピクルス、テリーヌ、マリネなどの保存食もこの本に教えてもらった。

そしていちごのジャム。いちごとレモンと砂糖だけでつくるジャムは、簡単にできて、市販のものよりもあっさりしている。と私は思う。

いまやぼろぼろになったこの料理本には、何枚もの紙がはさんである。それは入江さんのレシピを応用して、分量を変えたりして私の好みの味にしたメモ。ロシア風はやっぱりいまいち合わないし、購入してから30年たつと、あぶらっこさや塩気などが気になってくるから。

それでも私の料理の原点はこの本にある、と思っている。

季節になったら、いちごジャムをつくってみようかと八百屋の前で足をとめるのも、あくをすくいながらふんわり甘い香りに包まれて幸せな気分になれるのも、この料理本のおかげだ。

「祖母力」(うばぢから)

祖母井秀隆著

光文社

 

一昨年までジェフ千葉のGMをつとめ、現在は、フランス2部リーグのグルノーブル・フット・38というチームで、日本人としては初の海外クラブのGMをつとめている祖母井(うばがい)氏の著書です。祖母井(うばがい)氏の著書です。あのイヴィツァ・オシム氏を招聘し、Jリーグでずっと降格すれすれにあったジェフ市原(当時)を、成績だけでなく、内容もすばらしいチームにした陰の功労者だといったほうがわかりやすいかもしれません。いまのジェフの基盤をつくったといってもいいズデンコ・ベルデニック氏をジェフに呼んできたときから、祖母井さんというGMがいることはなんとなく知ってはいたのですが、オシム氏を連れてきたことで、彼の業績はより注目されました。

本書には、オシム氏招聘にまつわる話や、オシム氏が日本代表監督になった経緯、病に倒れたときのエピソードなどが書かれていて、たぶんそれが本を宣伝するときの目玉になっているのだと思います。

でも、この本で私が感動したのは、そういうネタ話ではない。

祖母井さんのすばらしい行動力です。ご本人は自分の行動が「規格外」だといっておられるけれど、私には祖母井さんが自分で自分の規格(信念、といってもいいかもしれない)をつくりだすことができる稀有な人間に思いました。とかく人がつくった規格に自分をあてはめようと汲々としてしまう人が多いなかで、この人は自分があらたに器をつくれるタイプなんだと思います。

高校生のとき、サッカーが好きだ、サッカーをやりたい、と思ったら、マンチェスター・ユナイテッドに「練習生にしてください」と手紙を書いてしまいます。ていねいに「残念ながら...」と断りの返事が来るのですが、手紙を書いたと聞いたサッカーのコーチは爆笑するし、周囲も笑うばかり。そのなかで、ただ一人、おばあさんだけは励ましてくれて、それどころか海外サッカーにくわしい人に話を聞むくために、大分まで祖母井さんを連れていってくれたりするのです。「規格外」が自信をもって規格外を通すためには、やはり無条件に認めてくれる人が必要なんですね。

その後、どうしても海外、それもヨーロッパに行きたい一心で、通訳として10万円だけもってドイツにわたり、港でアルバイトしながら、4部リーグでプレイをします。そのときも練習を見ていたらたまらなくなって、「セレクション!」と叫びながら駆け寄って、いきなり練習に参加して認めさせてしまう、という行動力がものをいいます。

3年たってノイローゼ寸前になって日本に帰国したものの、どうしても海外への夢が断ちがたく、ドイツの大学で本格的にサッカーの指導の勉強をするために再び渡欧。留学中も、この指導者に会いたい、指導を受けたい、と思ったら、またもや熱い手紙を書いて頼み込み、たいていはかなえられるのです。そして結局10年もの間、ドイツでサッカーにかかわる仕事をして実績をつみます。帰国後は大学で教鞭をとるかたわら学生チームのコーチなどを経て、95年にジェフの育成部長→GMになった、という経歴です。

高校のときのチームメートが「サッカーバカだった」ということを書かれていますが、世間の規格内にいる人から見れば「アホちゃう」といわれるタイプなんだと思います。いい意味で、巨人の星。「思い込んだら、試練の道を~」...というか、祖母井さん自身は「試練」なんて思っていない。なぜなら、一見「思い込み」に向ってがむしゃらに突っ走っているように見えるその行動力は、実は10年先、20年先まで見据えて、その上でいま何をすればいいか、という祖母井さんなりの考えがあるからです。だから「試練」なんかではなく、目標に向かっての一歩にすぎないのです。でもその目標が、世間的には「規格外」だし、とてつもなく大きい。実現するためには、「規格内」のことをやっていたのでは、10年どころか100年でも足りない。だからその行動力もとてつもないものになるのでしょう。

ハタから「アホちゃうか」といわれるそのがむしゃらな突っ走りを支えているのは、第一に祖母井さんにとっての大きな目標であり、第二にサッカーにかける熱い思いであり(そういう情熱こそ、「愛」と呼ぶにふさわしい)、第三に、人に対する深い信頼と愛情だと思います。自分が責任を持つチームに対して、選手や監督やスタッフに対して、もちろん家族に対しての一直線な信頼と愛情には頭が下がります。とくにオシム氏とその家族に対する思いには、思わず涙が出てくるほど。

こういうスケールの大きい人が日本にもいて、海外で活躍しているのだなと思うと励まされます。

自分で言うのもなんだけれど、私もアホぶりと行動力はちょっと自慢だと思っていたのですが、何が足りないって立てる目標のスケールがぜんぜんちがうと思い知らされました。

「なにもトライしていないのに「できない」は言ってはいけないのです」

「安住するより、ピリピリした緊張感の中で生きていたいのです」

という祖母井語録をエネルギーにしていきたいなと思いました。

「ある家族の会話」

ナタリア・ギンズブルグ著

須賀敦子訳

白水Uブックス

 

 何回も読み返したい本というのは少ないけれど、この本は読むたびに感動があらたになる。思わず声を出して笑い、同じ行を何回も読んで涙し、幸せな気持ちで本を閉じることができる稀有な本だ。

 ナタリア・ギンズブルグは1916年、イタリア北部の街、トリノで生まれた。父はユダヤ系イタリア人でトリノ大学医学部解剖学教授だったジュゼッペ・レーヴィ。母はミラノ生まれのリディア。ジーノ、マリオ、アルベルトの3人の兄と姉のパオラがいる5人兄弟の末っ子だった。本書は、17歳のころから小説家を志していたナタリアが、人生の円熟期に書いた自分の家族の回想記である。Lessico Famigliareという原題にあるように、家族間、とくに両親の間での会話が中心である。

 語られていることは、子どもたちの話が7割で、あとの3割が友人や使用人たちのこと。お父さんはすぐにキレる人で、子どもたちが粗相をすると「ぶざまなことをするなっ!」と怒鳴り、気に入らないことをすると「愚かものが!」「なんというロバだ、おまえは!」とわめく。

お母さんは子どもたちが何をやっても「私の○○」と呼んで目を細め、お父さんからかばう。たとえばアルベルトという3男は、サッカーと女の子にしか興味がなくてちっとも勉強しないし、すぐに二男のマリオととっくみあいの喧嘩をするしで、お父さんが気に入らないことこの上ない。「アルベルトはロバだ。あいつはどうしようもない愚かものだ」とお父さんがこきおろすと、「あら、私のアルベルトはいい友だちがいっぱいいるのよ。あの子は勉強がよくできる、しっかりした友だちをつくる才能があるの」とかばうのだ。

一方で、お母さんは子どもたちにかまってもらえないとすねて、とくに長女のパオラが友だちと出かけたりすると「私とちっとも遊んでくれない」とむくれたりする。次女で末っ子のナタリアについては「あの子はちっとも私に話してくれない。なんでも勝手にやっている」と嘆く。

お父さんが家族全員を引き連れて山歩きをし(長男以外はこれが苦痛で、二男と三男はぜったいに行かない)、お母さんがショッピングに出かけ、使用人が家事を取り仕切るブルジョワの家庭が描かれるのだが、3分の1を過ぎるころから、レーヴィ家の上に戦争の暗い影が落ちてくる。イタリア北部で1930年代にユダヤ系として生きること、しかも反ファシストの社会主義者を表明することの危険が、日常の会話のなかからも緊張感をもって伝わってくる。政治には何も関係なさそうだった二男のマリオが、勤務先のスイスから社会主義的な文書をイタリアに持ち込もうとして逮捕され、危機一髪で川に飛び込んで逃げて助かるくだり。息子たちの友人がつぎつぎ投獄され、家族の親しい友人だった社会主義者のトゥーラティが偽名でレーヴィ家にひそみ、亡命していく場面。そして息子たちを釈放してもらおうとかけあっているうちにお父さんも投獄され、なんとなくそれが自慢げだった様子が語られる。

ナタリアは出版社勤務のロシアからの移民のユダヤ人、レオーネ・ギンズブルグと結婚し、子どもが生まれる。しかしレオーネは当局に目をつけられて何回も投獄され、挙句に南部の寒村に家族全員で流刑された。やがてドイツ軍がイタリアに侵攻し、ローマに逃げて地下運動を行っていたレオーネは、ナタリアたちがローマで合流してから20日後に逮捕され、拷問を受けて獄死する。

この箇所を書くのはナタリアは相当つらかったのだと思う。何回も読み返して、ようやくレオーネの死の模様が私は理解できた。

 

何回読んでも私が涙する箇所がある。

流刑地で幼い子どもとともに、心細い日々を送っていたナタリアのもとに、両親は何回も訪ねてきては励まし、生活を援助し、なんとかしてやりたいと一生懸命やってくれる。でも当局ににらまれているレオーネはたえず逮捕されているし、自分たちの息子たちもあちこちに流刑されたり、投獄されていて、助けるにも限度がある。

そんなとき、ナタリアは気づくのだ。

「母もどうすれば私たちを助けられるのかわからず、おびえきっていた。そのとき私は生まれてはじめて、だれももう自分を守ってくれることはできないのだと、自分で道を切りひらく以外方法はないのだということに気づいた。そのときはじめて私の母にたいする愛情の中には、私が困っていればかならず母が私を守ってくれ、助けてくれるという確信が深く根ざしていたことに気がついた。そしていま私の中には、それまで自分が持っていた保護への願望と期待がさっぱりと消え去ったあとの純粋な愛情だけが残っていた」

この文章に何か言うのは野暮なこと。それこそジュゼッペ父さんに「なんというロバだ」と怒鳴られそうなので何も言わない。

この本はまた何回も読み返しそうな予感がする。

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