Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

「脳はなにかと言い訳する」

池谷裕二著 祥伝社

 

 「海馬―脳は疲れない」(糸井重里との対談)を読んで、ふーん、おもしろいと思ったのがきっかけで海馬の研究者である池谷氏の本をもう1冊読んでみた。

 うーん、いまひとつおもしろくなかったのは、最初の本の感動が薄れたからだろうか? 脳ブームでいろいろ読み過ぎて(新書レビューをやっているので、毎月結構な新書を読んでいて、一時期脳関連本ばかり立て続けに20冊読んだことがあった)いまさらな情報だったからかもしれない。

 それはともかく、以前に「海馬」のほうで、「脳は疲れない。頭が疲れた、というのは、目をはじめとする体が疲れたのだ」(まちがっていたらすみません。これが私の解釈です)というのを読んで、なるほどな、と感心したのだが、本書を読んで、「脳の力を十分に発揮するには、人間の体はあまりにも脆弱である」ということがわかった。人間の高度な脳(しかもいくら使っても疲れない)に存分に働かすと、体のほうがとてももたない、ということか?

いや、こういう否定的・悲観的言い方はまずいな。「人間が体をコントロールするのには、脳の力は10%程度発揮するだけで十分に事足りる」という言い方を池谷氏はしている。もっと大きく、もっと力強く、もっと精巧な体をもっていて、しかもいまの人間並みの高度な脳をもっていたら、地球最強の種になっていたかも(いまもある意味最強なんでしょうが)。でもそうなると、あまりに強すぎてほかの種をとっくの昔に絶滅させてしまい、自らももっと早めに滅びてしまっていたかも。

つまり人間という種として長く繁栄をつづけられたのは、言語をもって社会を構成し、発展させていくだけの高度な脳をもったからだけれど、反対に体が脆弱で、それを補うための道具を発達させるためにもっと脳を進化させたため、ということもいえるわけだ。要するに、生き延びてこられたのは脳と体のバランスがとれていたから、ともいえる。

脳と体をつい切り離して考えてしまいがちだけれど、体なくして脳は働かない。というか、脳も体の一部。

睡眠中も働いている脳は、人が目覚めているときの記憶を整理して収納するという仕事をしている、という。睡眠は体を休めるためだけでなく、脳自身の基本的な機能を十分に働かせるために重要だ、というわけ。だから、徹夜で仕事をするなんて、単に体がもたないだけでなく、脳にとっても致命的な機能不全を起こしかねない。脳はいくら使っても疲れないけれど、脳にとってたいせつな仕事をさせるためにも睡眠は必須だ。

というわけで、仕事は終わっていないが、さっさと寝よう。

「ゲルマントの方」I II

マルセル・プルースト著

鈴木道彦訳

集英社文庫ヘリテージシリーズ

 

昨年から「失われた時を求めて」を読み返しています。

読み返す、というと昔ちゃんと読んだみたいに聞こえるでしょうが、そうではありません。以前は面倒なところはすっとばして、おもしろそうなところだけを読んでいました。よく引用される有名なシーンとか、恋愛、性愛、愛憎のシーンとか。

で、今回もじっくり一語一語かみしめるようにというのではなく、やはりおもしろいところを拾って集中的に読んでいます。

ところが、10年以上前に読んだときとちがうところにひかれて、読み返すというよりもはじめて読んだ感ありです。

それに、年をとったおかげで、小説そのものだけでなく、登場人物の心理や行動に対する理解も深まった気がします。舞台は100年以上前のヨーロッパですが、いまの私が読んでも「人間ってほんと変わらないんだな」と共通点が見いだせる。とくに男女や親子関係はこれだけ世の中が変わっているというのに同じだし、バカな人間のバカさ加減はまったく変わらない。

いまになって初めて、この小説の読み方が少しわかってきたような気がします。登場人物と自分との距離がぐっと近くなったからかも。

それはまた、鈴木道彦さんの翻訳がすばらしいからで、「読みやすく、わかりやすく訳そう」という「心」が強く感じられます。

スワン、オデット、ジルベルト、ゲルマント公爵夫妻、フランスワーズ、アルベルチーヌ、ヴィルパリジ夫人、シャルリュスといった主要人物に対する語り手の辛辣さと底意地の悪い見方が、以前はなんかいけすかなかったのですが、今度読み返すとその辛辣さの陰にある「人に対する哀しみ」みたいなものが感じられて、妙に共感します。そう、以前は語り手が嫌いでした。いやなヤツだと思っていました。でも、今回は「う、そこ、わかる。鋭すぎる」と思うことが多い。

食べるために働くという意味の「労働」からまぬかれたとき、人は生きていく目的をどこに見出すのか。ただ集まるために集まるパーティ、空気の読み合いに切磋琢磨するサロン、知っているということだけが重要な教養のための教養。あらゆることが自己目的化してしまったことで時間をつぶしていく話を読んでいると、人間ってほんとにおもしろいと思います。

まだこのあと第四編の「ソドムとゴモラ」があるのですが、「ゲルマントの方」がもしかしたらこの長い長い小説の圧巻なのではないか、という感想をもっています。有名なのは「スワン家の方」なのでしょうが、「スノッブ」を描ききったという意味ではこの巻なのかなあ。



このたびブログにして、ケータイからも読んでいただけるようになりました。よろしければBOOKMARKしていただき、思いきりヒマなときに閲覧ください。ちなみにこの書き込みはテストも兼ねて、ケータイから書き込んでいます。画像も実験で入れてみます。 ケータイ用 URL http://www.motoko3.com/ktai/ QRコード motokoqr.png

『ヴァギナ・モノローグ』
イヴ・エンスラー著
岸本佐知子訳
白水社

 今週末に「性を語る」という座談会に出席することになっていて、錚々たるメンバーを見てくらくらきているところです。
 何を語ればいいのか......たぶん99%聞き役になりそう。圧倒されそう。
 で、最近読んだ性にまつわる本を探していて、一番印象に残ったのがこの本。
 イヴ・エンスラーは劇作家で詩人。ヴァギナについて200人の女性にたずねたインタビューをもとに「一人芝居=モノローグ」を書き、1996年からソーホーの劇場で上演しました。その舞台は大あたりで、賞もとり、いまも世界中でロングランを続けています。
  この本はその作品をもとに、エンスラーがインタビューした女性たちのエピソードやヴァギナについてのさまざまな問いかけとその答え、新聞記事のクリッピン グなどを集めたもの。断片的なものが連なっているのですが、読みとおすとそこから浮かび上がってくるのは、女性の「性」について真正面から(あまりにも真 正面から)対峙したときの素直な感動です。フェミ的立場からだったり、恋愛がらみだったり、思春期や妊娠や更年期といった婦人科系の話だったりすることは あっても、ごくふつうにヴァギナと対峙することは女性にはないんじゃないでしょうか?
 対峙して「感動」なんてあるのか? という人こそ、この本を読んでほしいと思います。
 たぶん男性たちはあまり感動しないと思う......っていうか嫌いなんじゃないかな。そもそも男性は「対峙するのは、男だけに任せといてほしい」とか言い出しそう。
 それはともかく、そういや渋谷のブックファーストでこの本を買ったとき、レジカウンターの若い男性の店員さんの手が一瞬留ったような気がしたのは私の気のせいでしょうか? たぶん気のせいね。

 今日は次女の誕生会で、お友だちの若いきれいなお嬢さんたちがどっといらっしゃいました。パーティーのメイン料理はコート・ダニョー。ケーキも果物を満載したのをつくりました。20歳。ぱーっと花開くような年齢ですね。

「モンテ・フェルモの家」
ナタリア・ギンズブルグ著
須賀敦子訳
ちくま文庫

 一気に読み終えました。教えてくださってありがとう>Matsunoさん。
同じ著者・訳者の「ある家族の会話」もすばらしい作品・すばらしい訳なのですが、こちらもすばらしかった。
 60年代、モンテ・フェルモ(不動の山、という意味)にあるマルゲリーテの館に集まっていた若者たちが、中年になって自由奔放の生きてきた青春時代の代償を払いながら生きていく、と、簡単にいってしまえばそういう内容の小説です。
  書簡集で書かれているので、人間関係が最初つかみにくい。何人もが複雑に関係しあっていて、感情も絡み合うのですが、キーワードは「モンテ・フェルモの 家」です。彼ら彼女らが青春を送ったその場がずっとありつづけるはずだったのに、がらがらとくずれていってしまう悲劇が描かれます。
 主人公は2人の男女。
 イタリアでの生活をすべて捨てて、ローマの家も売って、アメリカの兄のところに身を寄せようとするジュゼッペ。
 マルゲリーテの館で暮らしているルクレティアは、ピエロという夫と結婚生活を送り、4人の子どもをもうけているが、ジュゼッペと一時期愛人関係にあったという女性。
 2人にからむのが、ジュゼッペが誰かに産ませたけれどいっさい面倒を見なかった息子。ルクレティアと不倫する男。その男の愛人。みんなの面倒を一手に引き受ける母性愛に満ちた女性。
 ほかにもいろいろ出てくるのですが、全員が「ここではないどこかに自分の居場所があるはずだ」と思いこんでいる。それが悲劇の元凶です。
 ジュゼッペはそう思ってアメリカに行くし、ルクレティアはそう思ってモンテ・フェルモを捨ててローマに行く。
 でも、どこにも彼らの居場所はないのです。
 居場所をつくるんは「家」という物理的空間ではない。
 「家族」という関係性でもない。
 どんなに退屈であっても、わずらわしくても、自分で「居場所」をつくって、そこに責任を負わねば「居場所」に落ち着けないのです。
 でも、いい歳をして誰もそれに気付かない。というか、気づきたくない。
 読み終わって、なんだかとても哀しくなりました。
 デラシネ、という言葉が浮かびました。

 読後、どうしても須賀さんの翻訳がもっと読みたくなって、また「マンゾーニ家の人々」を引っ張り出してきています。
 ナタリア・ギンズブルグも、イタリアの詩人のサハも、ユルスナールも、須賀さんがいなければ私は知り合えなかった。
 あらためて須賀さんのすごさを感じました。

夕飯は豚汁、ほうれん草のたまごとじ、お寿司

↑このページのトップヘ