Glamorous Life

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読む快楽

「ある家族の会話」

ナタリア・ギンズブルグ著

須賀敦子訳

白水Uブックス

 

 何回も読み返したい本というのは少ないけれど、この本は読むたびに感動があらたになる。思わず声を出して笑い、同じ行を何回も読んで涙し、幸せな気持ちで本を閉じることができる稀有な本だ。

 ナタリア・ギンズブルグは1916年、イタリア北部の街、トリノで生まれた。父はユダヤ系イタリア人でトリノ大学医学部解剖学教授だったジュゼッペ・レーヴィ。母はミラノ生まれのリディア。ジーノ、マリオ、アルベルトの3人の兄と姉のパオラがいる5人兄弟の末っ子だった。本書は、17歳のころから小説家を志していたナタリアが、人生の円熟期に書いた自分の家族の回想記である。Lessico Famigliareという原題にあるように、家族間、とくに両親の間での会話が中心である。

 語られていることは、子どもたちの話が7割で、あとの3割が友人や使用人たちのこと。お父さんはすぐにキレる人で、子どもたちが粗相をすると「ぶざまなことをするなっ!」と怒鳴り、気に入らないことをすると「愚かものが!」「なんというロバだ、おまえは!」とわめく。

お母さんは子どもたちが何をやっても「私の○○」と呼んで目を細め、お父さんからかばう。たとえばアルベルトという3男は、サッカーと女の子にしか興味がなくてちっとも勉強しないし、すぐに二男のマリオととっくみあいの喧嘩をするしで、お父さんが気に入らないことこの上ない。「アルベルトはロバだ。あいつはどうしようもない愚かものだ」とお父さんがこきおろすと、「あら、私のアルベルトはいい友だちがいっぱいいるのよ。あの子は勉強がよくできる、しっかりした友だちをつくる才能があるの」とかばうのだ。

一方で、お母さんは子どもたちにかまってもらえないとすねて、とくに長女のパオラが友だちと出かけたりすると「私とちっとも遊んでくれない」とむくれたりする。次女で末っ子のナタリアについては「あの子はちっとも私に話してくれない。なんでも勝手にやっている」と嘆く。

お父さんが家族全員を引き連れて山歩きをし(長男以外はこれが苦痛で、二男と三男はぜったいに行かない)、お母さんがショッピングに出かけ、使用人が家事を取り仕切るブルジョワの家庭が描かれるのだが、3分の1を過ぎるころから、レーヴィ家の上に戦争の暗い影が落ちてくる。イタリア北部で1930年代にユダヤ系として生きること、しかも反ファシストの社会主義者を表明することの危険が、日常の会話のなかからも緊張感をもって伝わってくる。政治には何も関係なさそうだった二男のマリオが、勤務先のスイスから社会主義的な文書をイタリアに持ち込もうとして逮捕され、危機一髪で川に飛び込んで逃げて助かるくだり。息子たちの友人がつぎつぎ投獄され、家族の親しい友人だった社会主義者のトゥーラティが偽名でレーヴィ家にひそみ、亡命していく場面。そして息子たちを釈放してもらおうとかけあっているうちにお父さんも投獄され、なんとなくそれが自慢げだった様子が語られる。

ナタリアは出版社勤務のロシアからの移民のユダヤ人、レオーネ・ギンズブルグと結婚し、子どもが生まれる。しかしレオーネは当局に目をつけられて何回も投獄され、挙句に南部の寒村に家族全員で流刑された。やがてドイツ軍がイタリアに侵攻し、ローマに逃げて地下運動を行っていたレオーネは、ナタリアたちがローマで合流してから20日後に逮捕され、拷問を受けて獄死する。

この箇所を書くのはナタリアは相当つらかったのだと思う。何回も読み返して、ようやくレオーネの死の模様が私は理解できた。

 

何回読んでも私が涙する箇所がある。

流刑地で幼い子どもとともに、心細い日々を送っていたナタリアのもとに、両親は何回も訪ねてきては励まし、生活を援助し、なんとかしてやりたいと一生懸命やってくれる。でも当局ににらまれているレオーネはたえず逮捕されているし、自分たちの息子たちもあちこちに流刑されたり、投獄されていて、助けるにも限度がある。

そんなとき、ナタリアは気づくのだ。

「母もどうすれば私たちを助けられるのかわからず、おびえきっていた。そのとき私は生まれてはじめて、だれももう自分を守ってくれることはできないのだと、自分で道を切りひらく以外方法はないのだということに気づいた。そのときはじめて私の母にたいする愛情の中には、私が困っていればかならず母が私を守ってくれ、助けてくれるという確信が深く根ざしていたことに気がついた。そしていま私の中には、それまで自分が持っていた保護への願望と期待がさっぱりと消え去ったあとの純粋な愛情だけが残っていた」

この文章に何か言うのは野暮なこと。それこそジュゼッペ父さんに「なんというロバだ」と怒鳴られそうなので何も言わない。

この本はまた何回も読み返しそうな予感がする。

「脳はなにかと言い訳する」

池谷裕二著 祥伝社

 

 「海馬―脳は疲れない」(糸井重里との対談)を読んで、ふーん、おもしろいと思ったのがきっかけで海馬の研究者である池谷氏の本をもう1冊読んでみた。

 うーん、いまひとつおもしろくなかったのは、最初の本の感動が薄れたからだろうか? 脳ブームでいろいろ読み過ぎて(新書レビューをやっているので、毎月結構な新書を読んでいて、一時期脳関連本ばかり立て続けに20冊読んだことがあった)いまさらな情報だったからかもしれない。

 それはともかく、以前に「海馬」のほうで、「脳は疲れない。頭が疲れた、というのは、目をはじめとする体が疲れたのだ」(まちがっていたらすみません。これが私の解釈です)というのを読んで、なるほどな、と感心したのだが、本書を読んで、「脳の力を十分に発揮するには、人間の体はあまりにも脆弱である」ということがわかった。人間の高度な脳(しかもいくら使っても疲れない)に存分に働かすと、体のほうがとてももたない、ということか?

いや、こういう否定的・悲観的言い方はまずいな。「人間が体をコントロールするのには、脳の力は10%程度発揮するだけで十分に事足りる」という言い方を池谷氏はしている。もっと大きく、もっと力強く、もっと精巧な体をもっていて、しかもいまの人間並みの高度な脳をもっていたら、地球最強の種になっていたかも(いまもある意味最強なんでしょうが)。でもそうなると、あまりに強すぎてほかの種をとっくの昔に絶滅させてしまい、自らももっと早めに滅びてしまっていたかも。

つまり人間という種として長く繁栄をつづけられたのは、言語をもって社会を構成し、発展させていくだけの高度な脳をもったからだけれど、反対に体が脆弱で、それを補うための道具を発達させるためにもっと脳を進化させたため、ということもいえるわけだ。要するに、生き延びてこられたのは脳と体のバランスがとれていたから、ともいえる。

脳と体をつい切り離して考えてしまいがちだけれど、体なくして脳は働かない。というか、脳も体の一部。

睡眠中も働いている脳は、人が目覚めているときの記憶を整理して収納するという仕事をしている、という。睡眠は体を休めるためだけでなく、脳自身の基本的な機能を十分に働かせるために重要だ、というわけ。だから、徹夜で仕事をするなんて、単に体がもたないだけでなく、脳にとっても致命的な機能不全を起こしかねない。脳はいくら使っても疲れないけれど、脳にとってたいせつな仕事をさせるためにも睡眠は必須だ。

というわけで、仕事は終わっていないが、さっさと寝よう。

「ゲルマントの方」I II

マルセル・プルースト著

鈴木道彦訳

集英社文庫ヘリテージシリーズ

 

昨年から「失われた時を求めて」を読み返しています。

読み返す、というと昔ちゃんと読んだみたいに聞こえるでしょうが、そうではありません。以前は面倒なところはすっとばして、おもしろそうなところだけを読んでいました。よく引用される有名なシーンとか、恋愛、性愛、愛憎のシーンとか。

で、今回もじっくり一語一語かみしめるようにというのではなく、やはりおもしろいところを拾って集中的に読んでいます。

ところが、10年以上前に読んだときとちがうところにひかれて、読み返すというよりもはじめて読んだ感ありです。

それに、年をとったおかげで、小説そのものだけでなく、登場人物の心理や行動に対する理解も深まった気がします。舞台は100年以上前のヨーロッパですが、いまの私が読んでも「人間ってほんと変わらないんだな」と共通点が見いだせる。とくに男女や親子関係はこれだけ世の中が変わっているというのに同じだし、バカな人間のバカさ加減はまったく変わらない。

いまになって初めて、この小説の読み方が少しわかってきたような気がします。登場人物と自分との距離がぐっと近くなったからかも。

それはまた、鈴木道彦さんの翻訳がすばらしいからで、「読みやすく、わかりやすく訳そう」という「心」が強く感じられます。

スワン、オデット、ジルベルト、ゲルマント公爵夫妻、フランスワーズ、アルベルチーヌ、ヴィルパリジ夫人、シャルリュスといった主要人物に対する語り手の辛辣さと底意地の悪い見方が、以前はなんかいけすかなかったのですが、今度読み返すとその辛辣さの陰にある「人に対する哀しみ」みたいなものが感じられて、妙に共感します。そう、以前は語り手が嫌いでした。いやなヤツだと思っていました。でも、今回は「う、そこ、わかる。鋭すぎる」と思うことが多い。

食べるために働くという意味の「労働」からまぬかれたとき、人は生きていく目的をどこに見出すのか。ただ集まるために集まるパーティ、空気の読み合いに切磋琢磨するサロン、知っているということだけが重要な教養のための教養。あらゆることが自己目的化してしまったことで時間をつぶしていく話を読んでいると、人間ってほんとにおもしろいと思います。

まだこのあと第四編の「ソドムとゴモラ」があるのですが、「ゲルマントの方」がもしかしたらこの長い長い小説の圧巻なのではないか、という感想をもっています。有名なのは「スワン家の方」なのでしょうが、「スノッブ」を描ききったという意味ではこの巻なのかなあ。



このたびブログにして、ケータイからも読んでいただけるようになりました。よろしければBOOKMARKしていただき、思いきりヒマなときに閲覧ください。ちなみにこの書き込みはテストも兼ねて、ケータイから書き込んでいます。画像も実験で入れてみます。 ケータイ用 URL http://www.motoko3.com/ktai/ QRコード motokoqr.png

『ヴァギナ・モノローグ』
イヴ・エンスラー著
岸本佐知子訳
白水社

 今週末に「性を語る」という座談会に出席することになっていて、錚々たるメンバーを見てくらくらきているところです。
 何を語ればいいのか......たぶん99%聞き役になりそう。圧倒されそう。
 で、最近読んだ性にまつわる本を探していて、一番印象に残ったのがこの本。
 イヴ・エンスラーは劇作家で詩人。ヴァギナについて200人の女性にたずねたインタビューをもとに「一人芝居=モノローグ」を書き、1996年からソーホーの劇場で上演しました。その舞台は大あたりで、賞もとり、いまも世界中でロングランを続けています。
  この本はその作品をもとに、エンスラーがインタビューした女性たちのエピソードやヴァギナについてのさまざまな問いかけとその答え、新聞記事のクリッピン グなどを集めたもの。断片的なものが連なっているのですが、読みとおすとそこから浮かび上がってくるのは、女性の「性」について真正面から(あまりにも真 正面から)対峙したときの素直な感動です。フェミ的立場からだったり、恋愛がらみだったり、思春期や妊娠や更年期といった婦人科系の話だったりすることは あっても、ごくふつうにヴァギナと対峙することは女性にはないんじゃないでしょうか?
 対峙して「感動」なんてあるのか? という人こそ、この本を読んでほしいと思います。
 たぶん男性たちはあまり感動しないと思う......っていうか嫌いなんじゃないかな。そもそも男性は「対峙するのは、男だけに任せといてほしい」とか言い出しそう。
 それはともかく、そういや渋谷のブックファーストでこの本を買ったとき、レジカウンターの若い男性の店員さんの手が一瞬留ったような気がしたのは私の気のせいでしょうか? たぶん気のせいね。

 今日は次女の誕生会で、お友だちの若いきれいなお嬢さんたちがどっといらっしゃいました。パーティーのメイン料理はコート・ダニョー。ケーキも果物を満載したのをつくりました。20歳。ぱーっと花開くような年齢ですね。

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