Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

読む快楽

最後の最後まで「不祥事発覚」「辞任」で何回もつまずいて転びそうになりながらの大会ですが、今日開幕ですね。
でもコロナ感染拡大で東京で1日2000人近い感染者が出ている下で開かれることだけが問題ではありません。オリンピックはもうかなり以前からそのあり方に大きな疑問が投げかけられてきました。
そもそもオリンピックは始まり(1896年@アテネ)から、帝国主義的、人種差別的、性差別的なスポーツイベントで、その体質が今も根強く残っていることが長らく批判され続けています。
ある特定の人種(白人)、ある特定の性(男性)、ある特定の民族(欧米「先進国」)に属する人たちが、自分たちの身体的優位をそれ以外の「文明化されていないと自分たちが考える人たち」に誇ろうという意図で開かれてきたことは、歴史が明らかにしています。実は「平和の祭典」「人類みな平等」という看板は、IOCがブランド維持のために掲げているだけで、戦争や紛争や政治的問題が起こるとたちまち「中止」になったり、「抗議のために不参加」の国が出てくることがいったい何回あったことか。
コロナ禍下で行われる今回の東京オリンピック。
オリンピックだけでなく、スポーツの国際的なメガイベントがこれからどういう方向に向かっていくのかをあらたな視点から考えるヒントがつまっている対談です。否応なく時代は大きく変わろうとしていることを感じさせます。


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 人に何かをしてもらったり、頂き物をしたときには「ありがとう」とお礼を言う。それは社会生活を送る上で欠かせない、というのは当然だと思う。でも、何かをしてもらったり、プレゼントをもらったりしたら、そのお返しを「しなくてはならない」というのは、正直「そうかな?」という思うときがある。バレンタインデーにチョコ貰ったら、ホワイトデーにお返しするとか、それくらいならいいけれど(本当はホワイトデーのお返しも「やるべき?」と疑問なのだが)、モノでもコトでも贈りものに対して、必ず返礼をせねばならなくて、それを欠いたら社会人失格だとか、人格を疑うとか、そこまで責めたりしたら、人間関係はとてもぎすぎすとした嫌なものになってしまうのではないか。
 母方の一族は、とにかく「返礼」に厳しくて、モノを貰ったらその日のうちにお礼の電話をかけて、お礼状を出して、後日同じくらいのモノを贈るべきだ、と口うるさく言っていた。 自分たちが贈ってすぐにお礼がないと、口をきわめてその人を罵り、もうつきあいをやめるとまで言う始末。「お礼をせんとは非常識だ!」という母や祖母の声が今でも耳についているほどである。
 モノを贈られたら返礼の品を送り返すのは百歩譲ってまあそれも社会常識なのかもしれないと思ったりするのだが、たとえば人を紹介するとか、情報を教えてもらう(あげる)とかそういうことに対しても、返礼をするのが「義務」だと言って、同じコトを自分がお返しできないのであれば、 見合ったモノで返礼をせねばならない、という考え方には子どもの頃から私は疑問を持っていた。親切でやってくれたことに対してモノで返されることを相手はどう思うだろうか? 面倒くさいからつぎからは親切にするのをやめようと思うんじゃないか? しかもこちらが何か人に対して労をとった場合に、返礼がないとこれまた人非人のように罵る、というのはおかしいんじゃないか? と十代の頃から私は思っていたのだが、今でもつい返礼を期待して人に何かを贈る自分がいて、なかなか染み付いたものはぬぐえていない。
 しかし、である。親子の間で贈与→返礼の公式(?)は成り立つのだろうか? 「子どもの面倒をみたのだから、年老いた親の面倒を子どもはみるべきだ」という公式である。親子関係が(いつも必ず)無償の愛のもとに成り立つとは思ってはいないが、かといって子育て(教育含む)にかけるコストとエネルギーを、老後に子どもに返してもらおう、という発想で子育てするっていうのは、なんか(じゃなくて、かなり)おかしいと思う。理想論かもしれないけれど、子どもを育てることと、老いた親の面倒を子どもが見ることの間に「贈与の法則」は成り立たない、と私は思いたい。
 それは夫婦(パートナー間)でも同じだ。相方がお金を稼いできてくれるのだから、私が家事と育児を担う、というのも、Give&Takeで関係のバランスを保とうとする考え方ではないか? それだと双方とも苦しくなるばかりではないだろうか。
 人間関係はGive&Takeだけじゃない。Giveに対して、必ずTakeがあるべきだと考えていると、その人間関係はいつまでたっても豊かなみのりを結ばないのではないか。かと言って、「愛」なんてつかみようがない関数を入れても、いい関係になるとは限らない。それならどうしたらいいか。それがわからないから、今日も私は悩んでいるわけだ。
 そんなことを考えながら、取材して書いた記事を添付しておきます。
https://www.vogue.co.jp/change/article/feminism-lesson-vol9

新刊が出ました。
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「小さなひとりの 大きなゆめ ココ・シャネル」 
マリア・イサベル・サンチェス・べガラ 文
アナ・アルベロ 絵
実川元子 訳
ほるぷ出版
https://www.holp-pub.co.jp/book/b556717.html

「子どもたちの夢を励ましたい」という目的で世界十数ヵ国で出版されている絵本シリーズ「小さなひとりの 大きなゆめ」(Little People, BIG DREAM)の一冊として出版されました。
シャネルの他には、マザー・テレサ、オードリー・ヘップバーン、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、マリー・キュリーがシリーズに入っています。
このラインアップを見てもわかる通り、女性やマイノリティがしめています。
以前にもう少し年齢が上の女の子たち向けの女性の伝記シリーズ「こんな生き方がしたい」(理論社)に関わったことがあり、「ファッションデザイナー、ココ・シャネル」「建築家 長谷川 逸子」を執筆しました。そのときにも強く思ったのですが、ロールモデルとなる女性の業績を真正面から取り上げて紹介する「伝記」が必要です。「真正面」というのは、その人の恋愛とか結婚とか子供がどうの、とかそういうことではなく、やってきたこと、社会に与えたインパクトと遺した業績に焦点を当てることが重要だ、という意味です。
今回の絵本は小学1、2年生向けで、シャネルが女性のファッションと生き方にどういう影響を与えたかをちゃんと伝えているところが気に入っています。 
子どもだけでなく、大人にも是非読んでいただきたいシリーズです。
よろしくお願いいたします。 

 今年は「ブログを続けてきてよかった〜〜」と思う出来事がたくさんありました。
 まず、書道展にブログ読者の方がいらしてくださったことにはびっくりして、とても嬉しかったです。またブログ読者の方からメールをいただいて、本の情報を交換したり、先日はガンバサポの方と2回もお目にかかって、なんとなんと、ガンバカラーのすてきなニット帽をいただいたり、もう嬉しさを通り越してぶるぶる震えるほど感動しちゃいました。
 ほかにもブログで紹介したドキュメンタリーを見ました、と顔見知りではないかたからメールをいただいたり、拙訳書を購入しましたと感想を送ってくださったり、昨年CONIFAの年次総会で訪れたポーランドの旅日記を読んでポーランドに行きましたとおっしゃる方がいたり、ほんとブログ主名利につきます。
 
と、いきなり話題が変わりますが、今年読んだ本(今年出版された本ではなく、私が読んだ本です)でおもしろかった本をあげておきます。順不同。

「感染症と文明——共生への道」
山本太郎著 岩波新書
「21Lessons 21世紀の人類のための21の思考」
ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社
「誓願」
マーガレット・アトウッド著 鴻巣友季子訳 早川書房
「アシガール」
森本梢子
「フェミニズム 」
竹村和子著 岩波書店
「存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く」
キャロライン・クリア度=ペレス著 神崎朗子訳 河出書房新社
「マンガ 認知症」
ニコ・ニコルソン/佐藤眞一著 ちくま新書
「エクソフォニー 母語の外に出る旅」
多和田葉子著 岩波文庫
「健康・老化・寿命 人といのちの文化史」
黒木登志夫著 中公新書
「アルテ」
大久保圭

来年もたくさんの楽しい方々とお目にかかる機会がありますように(リモートでも!)
来年もたくさんのおもしろい本や映画に出会えますように!

今年もブログにお越しいただきありがとうございました。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。
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(やはり作ってしまいました、おせち)

 下の子が高校を卒業して朝のお弁当作りから解放されたとき、やれやれ、これで朝ゆっくり起きられる、と思って心底ほっとしたのを覚えています。それ以来、ずるずると深夜まで起きて本を読んだりテレビを見たり、ビールを飲みながら録画しておいた映画を見てからようやくベッドに入り、そこからまた本を読んでそのまま朝の雀の声を聞いて眠るとか、こと就寝と起床に関してはめちゃくちゃな生活を送ってきました。
 それが今年は一変し、いきなり早寝早起きの元子さんになったのです。原因は3つ。1つは認知症が進行した母が昨年から早朝深夜を問わず電話をかけてくるようになり、「夜は電話をしてくるな」と対面で言い聞かせても、電話で怒鳴っても、手紙で切々と訴えても、夜中の2時3時、時には早朝4時5時から電話が鳴り響くようになり、ついにケータイも家電も夜は電源を切るようにしたことです。2つ目に、新型コロナウィルスの感染拡大で外出が制限される中、人とあまり接触しない時間帯に体を動かしたいと早朝に公園までウォーキングして太極拳をし、帰ってきてからゆっくり朝食をとる習慣がようやく身についたためです。 3つ目は、言うまでもなく、年寄りになったからです。何で年寄りはあんなに朝が早いのだろうと思っていたら、今は自分が年寄りになってよくわかるようになりました。幼児と同じで、お天道様に合わせた体内時計になっちゃうんですよね。
 夜10時〜11時に電話がかけられる機器の電源を切り、朝6時まで入れないことが習慣になると、電源切った途端に眠気が襲ってくる、というのはどういうことなのでしょうか?電子機器というのは、やはり現代人の睡眠に何らかの影響を与えているのかな?
 早寝はともかく、早起き(最近は5時に起きてしまう)になってこれまでまったく気がつかなかったいろいろいろいろなことに気づき、敏感になりました。
 1つは、音です。 
 早朝、人が活動を始める前に鳥や虫が早々と活動開始して、しかも日中よりも気のせいか活発に鳴き交わしていることに気づきました。朝目が覚めて、ベッドの中でセミや雀やよく知らない鳥や虫の声を聞いていると、大げさですが、そうかこの世界では人間も生き物の一つにすぎないのだなあということを実感します。生き物の声だけでなく、風や雨の音も早朝ははっきりと聞こえて、その日のお天気が予想できます。
 2つ目は、光です。
 日の出時刻が6時すぎになった今でも、明け方には夜の闇とは異なり、かと言って太陽が昇ったあととは異なる光があるのだ、ということにこの年まで生きてきて初めて知りました。 そして、私は夜から朝への移り変わりを示す光が割に好きです。というか、その光を見るとほっとします。自分自身も含め、さまざまな存在を主として視覚情報に頼って認知している私は、闇はやっぱり怖いのです。
 早寝になると、ベッドタイムの読書の楽しみが味わえなくなったのですが、代わりに早朝ウォーキングから帰ってきてコーヒーを飲みながら読書するようになりました。電灯の光のもとで読むのと、朝の太陽光のもとで読むのとでは、作品から受ける印象が大幅に違って(個人的な感覚に過ぎません)、そこがちょっと残念ではあります。でも読む本の種類は変わってないような気もするので、ま、いいか。
 ここ数日読んでいる本は「誓願」(マーガレット・アトウッド著 鴻巣友希子訳 早川書房)、「辻征夫詩集」(岩波文庫)。アトウッドの「請願」は「侍女の物語」の続きなんですが、朝の光の中で読むと侍女の物語よりもぐっとディストピア感が薄れて、希望の物語に思えます。
 

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