Glamorous Life

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観る極楽

6月11日(木)
アメリカでジョージ・フロイドさんが警官に首を押さえつけられて窒息死してから、世界中で「BlackLivesMatte」(黒人の命もたいせつだ)のデモが繰り広げられている。
BlackLivesMatter、BLMのデモは21世紀に入ってからも何回も繰り返し起こってきたし、オバマさんが大統領になってからも警官が黒人に暴力をふるって死にいたらしめ、それでも正当防衛で警官が無罪釈放される事件(あえて事件という)は後をたたなかった。
以前はそういった警官による黒人への暴力を「アメリカの人種差別」というおぼろげなイメージ(今思えばとんでもない偏った見方)しかなかったのだが、NHKBSでアメリカの「刑務所ビジネス」のドキュメンタリーを見たときに、いやいやそこには人種差別どころではないものがあるぞと気づいた。増え続ける受刑者に刑務所が追いつかないために、民間経営の刑務所が次々とつくられ、そこに大手企業が続々参入して巨大産業になっている実態を暴いたドキュメンタリーだったが、その背景にある歴史や法律まで踏み込んで、アメリカの暗部(どろどろのウミといってもいい)を描いたのが映画13th 憲法修正13条」だ。
 2016年公開だというから、今回のデモより前に制作された映画なのだ。
 アメリカ合衆国憲法修正13条は、(大雑把に言うと)南北戦争終了後に廃止されたはずの奴隷制が南部の州では残り続けていることを懸念したリンカーン大統領(当時)が、人種に関係なく、アメリカの市民権を持つものは皆が平等に扱われることを憲法で保証するよう修正法案を提出し、暗殺後となったが1865年にやっと議会を通過した条項だ。
だが、この条項には「法を犯した者をのぞき」という言葉が入っていた。
そしてたった数語のこの言葉が、現在にいたるまで人種差別をより深く広く人々の間に根付かせる「温床」になってしまう。
19世紀末から、一部の州では解放された奴隷たちを「犯罪者」として刑務所に収監し、鎖でつないで無給で働かせることが横行していた。
たまにそれを問題視する政治家はいないでもなかったが、根強い人種差別意識を持つ白人有権者たちの票を獲得するためには、黙認するしかなかったし、ニクソンのように、もっと助長するような法律を通す大統領も後をたたなかった。
1981年、ごりごりの保守だったレーガンが大統領に就任し、レーガノミクスで、それまで公が担っていた「事業」が民営化されていく。刑務所もその一つだ。刑務所ビジネスには大手企業がこぞって参入し、受刑者の労働搾取に始まり(マイクロソフトも受刑者に製造を担わせていた)、食品、衣服、通信(刑務所からの通話料は外でかけるものの10倍)から教育まで大手企業は続々と利権を勝ち取っていく。中国の工場で生産するよりもコストが安く(なにせ労賃はただだ)、品質管理もしやすいし、流通も管理も国内でできるから簡単だ。刑務所ビジネスは、人々の「有色人種は犯罪者予備軍」という偏見を後ろ盾にした警官がほんの軽い罪でも黒人やラテン系の男性を逮捕して、ただ働きさせる労働力として民間の刑務所に送り込むことで発展していった。
 そして新自由主義が市場の「憲法」になると、受刑者の数は急増する。なぜなら「経済の発展」とともに労働力の確保が急務となったので、受刑者=労働者の数が減らせなくなってしまったからだ。1980年からこの映画が作られた2016年までに、受刑者の数は全米で4倍にまでふくれあがり、そのほとんどが有色人種だ。
 受刑者はあらゆる権利を剥奪される。なぜなら犯罪者の市民権を剥奪することは「憲法修正13条で認められている」からだ。
 なぜアメリカは人口に対する受刑者率の高さにおいて、世界で群を抜いているのか?
 なぜ黒人とラテン系の受刑者が白人の7倍もいるのか?
 なぜたびたび問題になり、議会でも取り上げられるのに、受刑者数は減らないのか?
 そしてここが肝心。なぜ、司法は機能しないのか?
黒人をはじめとする有色人種に対する根強い、歴史的な人種差別がアメリカにある、と言うだけではない。
 そこに「ビジネス」つまり金儲けの力が働いているからだ
 そして、産獄共同体を「ビジネスモデル」の基盤に据える企業のロビー運動があり、また選挙に勝つための「戦略」として「犯罪には断固とした姿勢でのぞむ」と強くアピールする大統領がつぎつぎと当選し、「公約」にそって「犯罪者と受刑者を増やせるような法律」をつぎつぎと作るからだ。法律と司法が警察権力を擁護して、受刑者数の確保に協力しているからだ。ニクソン、レーガン、ブッシュ、そしてクリントン(ストライク・スリー法だ!)も、全員が加担した。
 唯一、オバマさんは例外だった。彼だけはみずから刑務所を訪れ、受刑者を減らすために力を注ぐと声明を出したために産業界から総スカンをくった。オバマさんが「弱腰」とののしられた背景には、人種差別に根ざした偏見以上に、産獄共同体を規制しようとしたことがある。
 刑務所ビジネスは、いまやアメリカの基幹産業であり、「産獄共同体」という恐ろしい名称さえもつけられている。
 似たようなことが、アメリカだけでなく日本でも、そして世界の至る所であるのではないか。
今こそこのドキュメンタリー映画を見るべきだ、と強く思うのでYouTubeであげさせてもらう。(この動画アップが違法かどうかわからないので、調べて違法だったらすぐ下げます)

 

6月9日(火)
都心まで行く用事があった。電車で行けば乗り換え2回で45分乗車の距離だ。地図をじっと眺めて、自転車で行けるかどうかを検討したけれど、Google Mapによれば自転車では片道2時間かかるというので断念。ママチャリに1日4時間またがっているのは、さすがに辛いもんなあ。
時間をずらして出かけたので、電車は空いていたし、車内は私が見る限りソーシャルディスタンスを意識してしている乗客ばかりだった。ここ数ヶ月で初めて「新常態」というのを実感。人と人の間の距離をこんなにも多くの人が意識しているとは!

6月10日(水)
今回の緊急事態宣言下の外出自粛要請が終わって「このまま今の家で暮らし続けよう」と決意を新たにした。
少し前まで、年老いてボケて動けなくなって、周囲に迷惑をかける前に高齢者施設に移ろうと思っていたのに、気が変わったわけだ。もちろん状況によっては、また高齢者施設を探すことになるかもしれないが、とりあえず今のところは「できるだけ長く、たとえ一人暮らしになっても、ここに住み続けよう」と思っている。
そう思った理由は2つ。1つはご近所コミュニティのありがたさを実感したことから。日記にもしょっちゅう書いているように、家庭菜園をやっている方から野菜を分けていただいたり、豊作だといってたくさん梅の実を分けてもらったり、お返しにお惣菜を届けたりするのがとても楽しかった。これまでもおつきあいはあったのだけれど、ご近所づきあいがコロナ禍を機に濃密になった気がする。
自粛期間中は外周りの掃除をするときに朝晩の挨拶以上の会話を交わすようになった。「そのマスク可愛いじゃない? え? 手縫いなの?」と褒めていただいたり、「今あそこの道は自転車が通れないわよ」と教えて差し上げたり。向かいに住んでいる外国人家庭(いまだにどこの国の人たちかわからない。少なくとも英語で会話はしていない)の女の子(推定3歳)から、私が自転車を出すたびに「行ってらっしゃーい!」「どこ行くの?」「気をつけてね〜」と日本語で声をかけてもらうようになったし。
2つ目は、時間に余裕があったのと、公共交通機関を使わなかったために、ご近所探索をする機会があり、地元の魅力を再発見したためだ。毎日出かけるたびに、必ず1本は通ったことがない道を通ることにしていたら、思いがけないおもしろいところ、すてきな場所を見つけた。
年老いたら階段が昇れなくなるんじゃないか、段差につまづいて転んで骨折するんじゃないか、調理定年が来て食事に困るんじゃないか、年寄り世帯は詐欺とか危険な目にあうんじゃないかなどなど懸念していたのだけれど、そんなこと今から考えてもなるようにしかならない。それよりも、今、現在のこの環境を大切にするほうが重要じゃないか、と思ったわけだ。
できるだけ長く自立して自宅で暮らせるようにと、毎日の太極拳は欠かさない、とそれも決意をあらたにしている。

映画「13th 憲法修正13条」を観た衝撃を書いた6月11日分は別立てにしました。
まだ衝撃が醒めない。

本格的(?)に外での活動を再開してからというもの、ばたばたと日々が過ぎていき、巣篭もり期間中と比較するとじっくり自分と世界に向き合う時間が減ってきてしまいました。いかんいかん。
だから日記も一週間ぶり。「巣立ち日記」では、あれしたこれした、という「活動」をできれば書きたくない、できればこんなことを考えたということを中心に書きたいと考えているのですが、そうすると考えていることを言葉に凝縮させる時間がとれないうちに日が過ぎていきます。
と、ここで気持ちを取り直して、初心に戻り、凝縮まではいっていなくても、その日考えたことをメモを元に書き記していくことにします。一週間分、とは行かないかもしれませんが。

6月3日(水)
 久しぶりに英文でややこそしい案件のメールをやりとりした。基本、ややこしいことを伝えることは日本語でも英語でもむずかしい。最初っから相手を敵対視した書き出しだと、怒りと非難の応酬になってしまって 、話がぐちゃぐちゃになる。でも、やんわり伝えようなんて思って書いたら、まーーーったくこちらの意図が伝わらないどころか、相手をつけ上がらせて(なんて言い方は悪いけれど)もっといいっていいのかと攻撃の度合いが増す。
 日本語だろうが、英語だろうが、相手から言われたことに対してこちらの反論なり、望む落とし所を伝えるのは本当にむずかしい。どういう感情が私の中にわき起こったかをまず冷静になって分析し……なんてやっていると、言いたいことの半分も言えないうちに終わってしまう。そもそも相手とこれからも付き合っていきたいのか、それともこれで切れてしまっても後悔はないか……と書き出す前から悶々と悩む。
 書いては消し、消しては書き、を繰り返しているうちに、やっと頭が英語モードに戻って、かなりストレートに怒りをぶつける言葉を並べて、ええい、もうこれでいく! と返信したときには、最初に書いた分量の3分の1まで減っていた。その後、相手からは返信なし。私のメールを読んで怒りがふつふつとわいているのかもしれないけれど、私のほうは言いたいことを言えた、という達成感でこの件は忘れることにした。それにしても……たった1通のメールを書くのに丸一日かかってしまったよ、とほほ。

6月4日(木)
 昨晩、はじめてオンライン読書会というのに参加してみた。下北沢にある「好奇心の森ダーウィンルーム」が毎週水曜日に開催している読書会で、コロナウィルス 感染防止のために、いまはオンラインのみの開催になっている。
 緊急事態宣言の外出自主規制中に、たまたまダーウィウンルームに入ったら、たまたま探していた本(『給食の歴史』藤原辰史著 岩波新書)あとで感想を書きます)を見つけて購入した。すると「読書会をやっています」とお知らせをいただき、たまたま関心を持って読みたいなと思っていた山本太郎著『感染症と文明』(岩波新書)をたまたま次回の会で取り上げるというのでさっそく本を購入し、一気読みしてものすごくおもしろかったので申し込んだわけだ。
「たまたま」を連発したが、「予期したことが実現するとか、実現してよかった気持ちをあらわす」(日本国語大辞典)という意味が一番近い。おもしろそうな店で、私好みの本がありそうと思って入ったら、案の定見つけることができ、この本を取り上げるのならきっといい話が聞けそうだと思ったらその通りだった、というわけ。この場合の「たまたま」は、偶然起こった出来事を意味しない。予期していた通りのことが実現した、という意味だ。
 キュレーターの鶴田想人さんの本の紹介と進行もツボを押さえていたし、参加した方たちの感想や視点もたいへんに刺激的だった。またぜひ参加してみたい。

6月5日(金)
 髪を切って、カラリングした。昨年10月から伸ばしっぱなしで、髪型どうしようどうしようと思っているうちに8ヶ月。髪がかなり傷んだこともあり、思い切ってショートにした。あ〜すっきり〜〜〜。手入れが楽です。
 カラーもどうしようどうしようと思っているうちにごま塩になってしまい、いっそこのまま白髪にして近藤サトさんをめざすか……と考えたりもしたのだが、まだ肌と髪につやがある50代ならともかく、お肌がまがってからすでにン十年たっていて、白髪にしわしわじゃ単なる「かまわないおばあさん」になってしまう。おばあさんになる勇気はまだない。年齢はおばあさんだとしても、ですよ。だからやっぱりカラリングした上に、部分メッシュまで入れてしまった。
 私はどうしても「おしゃれの業(ルビ:ごう)」が解脱できない。「もうファッションにとらわれないで生きていく」「人からどう見られるかではなく、自分が気持ちのいい外見でいい」といさぎよく思いきれない。それどころか、「出かけてはいけない」と言われながらも、おしゃれをしてどこかに出かけたくてたまらない。外出自粛期間中も時間があるとファッションサイトをぐるぐる巡って、この服にはあの靴が合うよね、ピアスはこれにしようかなと一人脳内ファッションショー。最近では服にマスクを合わせて……なんてコーディネイトを考えたりして、いったいどこまでおしゃれ業(ごう)が深いんだ。

観た映画(WOWOW):『ガリーボーイ』。実話を下敷きにした音楽映画。ポリウッドらしく予定調和のあらすじなんだけれど、ラップの歌詞の風刺がきいていて面白かった。

夕飯は鯵の刺身サラダ(魚屋さんで新鮮で大きな鯵が安価で売られているのを見つけ、3枚におろして刺身にしてみました。ヘタクソだから身がぼろぼろになったので、塩と酢でしめてお刺身サラダに)、牛ヒレステーキ、3色ピーマン炒め。金曜だから豪華ディナー
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6月6日(土)
 今年は梅が豊作なんだとか。ご近所から大量に分けていただき、今年も梅しごと。
 昨年は梅が不作だったのと、欧州に遊びに行ったりしていたので、梅しごとをしなかった。
 今年は初めてジップロックを使う方式でやってみた。これは便利で手早くできる。朝晩、重石を外して、保存容器をあおって塩を馴染ませる手間は必要もないし。
 6キロの下漬けしごとが2時間かからないで終わった。ジップロック万歳!

6月7日(日)
 北海道の遊牧舎という牧畜業者さんが、豚オーナーの募集をしていたので、半頭分のお肉を1年に分けて送ってもらうように注文をした。遊牧舎さんでは、豚を近隣農家の野菜と草を餌にし、一年中屋外で放牧して育てているとか。雪の中でも豚さんが元気に走り回っている画像を見て、これは健康そうで、何より美味しそう! とすぐに申し込んだのだ。
 先月末につぶして解体された分から、今月はロース肉2キロが送られてきた。チルドで届いた肉を、届いてから一週間は寝かせてください、ということだったので、ちょうど今日が食べ頃。
 できるだけ厚手に切って、とんかつかトンテキでお召し上がりください、決して火を通しすぎないように気をつけて、という注意書き通り、2.5センチの厚さに切って、低めの油で5分揚げてトンカツにした。一緒に届いたスペアリブは、下茹でしてからじっくり弱火で1時間半オーブンで蒸し焼き。
 元気に遊び回って育った豚さんの肉は、みずみずしく、脂身までもがさっぱりしていて、「美味! 滋味!」という表現がぴったりだった。招待した娘たち一家も堪能し、大満足の豚曜日だった。
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観たドラマ:娘から『椿の咲く頃』という韓国ドラマを勧められたのだけれど、検索をかけているときについ見始めた『トッケビ』にはまってしまった。主演のコン・ユも素敵だけれど、同じく主演のキム・ゴウンがたまらなくかわいい。何よりもこのドラマがヒットしたポイントは、脚本にあると思う。といっても、まだ2話しか観ていないのだけれど。

6月8日(月)
 今年3月に予定されていた創玄書道展は中止になり、私の初受賞作品は展示されないで終わった。受賞の感慨はそのせいかほとんどなく。自分が何を書いたのかの記憶も薄れつつあった今日、作品が返却されてきたので、広げて写真を撮影した。
 疾風勁草—苦境や厳しい試練にあるとき、意志や節操が堅固な人であることがわかる、というたとえ(gooより)この意味よりも、ぴゅーっと音を立てて吹く風に、根元から倒れながらも折れないで立ち上がる草の感じを表現したいと考えて書いた作品。私の記憶では最後の錬成会で、最後のほうに書いたものを提出したはず。なぜなら「艸」の字にばっちり墨が入っているのは、「そろそろ終ろう、でも墨を使い切ってからにしたい」とかケチくさいことを考えたおかげのような気がするから。
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読んだ本:『給食の歴史』藤原辰史著 岩波新書
こんなに私の関心のツボ(食、子ども、食育、政治)を押しまくってくれる本を今まで見逃していたなんて! これはもう別立てで感想を書かねばなりません。 

5月11日(月)
 高齢者施設にいる母は、外出は隣の公園を散歩する以外禁止で、 大勢が集まるのはダメという理由で、囲碁教室や麻雀クラブも中止。朝の体操でさえも今は行われていないとか。一人でやれることしかできないので、読書とテレビ視聴しかすることがない、ものすごく退屈で、孤独を感じるという。
「それなら本を送ろうか? 読みたい本はない?」と聞くと、「活字を読むと頭が痛くなるから、いらない」と言われてしまった。「それじゃDVDで見たい映画はない?」と聞くと、「DVDデッキの使い方がわからない」。うーん、朝からずっとワイドショーでコロナ情報を見続けていると思うとゾッとする。
 家事をやらないですむ、というのはいいようだけれど、まだ元気な高齢者が家事いっさいをアウトソーシングしてしまってやる必要がなくなり、しかもみんなで集まってやる趣味もダメ、となってしまったら、これはするべきことも楽しみですることもなくなって、生きがいも張り合いもなくなってしまう。そうでなくても曜日や時間の感覚が失われてしまう高齢期に、一人でぽつんと部屋にいると老化はいっそう加速するだろうなあ。心配だ。
 イタリアでもアメリカでも、クラスターが発生して、大勢亡くなっているのは高齢者施設だという。日本でも高齢者施設でクラスターが発生した。AC(After Corona)になったら、感染症が流行したときに、重症化のリスクが高い高齢者の対策についてきっと議論が起こるはず。ただ感染を防止する、というだけでなく、ステイホームになった高齢者がどう生活と生きることを継続していけるかも考えないといけなくなるだろう。
 私も高齢者の一人として、感染症から身を守る術だけでなく、ソーシャルディスタンスを取らざるを得ない状態に置かれたとき、退屈と孤独からどうやって自分を救っていくか、今からしっかりと考えておかねば。
 夫もそれは痛感しているらしく、私が貸してあげた樋口恵子さん著『老〜いどん』を熟読しておりました。
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 私にもヨタヘロ期はきっとやってくるし、調理定年もいつかくる。それをできるだけ先延ばしにするために、早朝太極拳道場(最近は公園で行われているラジオ体操にも参加している)と家事を怠らない生活習慣は欠かせませんな。

夕飯は、ヒレカツ、キャベツその他野菜のコールスロー、豆腐とアスパラガスの茎の味噌汁、玄米ご飯、大根の漬け物

5月12日(火)
『愛の不時着』は4話で飽きてしまった。もう少し恋愛エネルギーが湧く時期になったらまた見よう(→いつだよ?)ちょっと漫画チックなんだよね。それと、どうしても主人公の女性に感情移入できない。どうしてこれがフェミニズムドラマなのか、まだわからない。もう少し我慢してみてみるかな。
 そこで『コンテイジョン』を視聴。スティーヴン・ソダーバーグ監督。2011年映画。すごいなあ、ソダーバーグ。ここまで「予言」していたわけか。SARSの流行にヒントを得たとはいえ、ワクチンをめぐる各国間の攻防とか(アメリカ映画だから仕方ないけれど、きわめてアメリカ的なやり方で成功しましたっていうのがちょっと気に入らない)、経済と感染症の食止めとの攻防とか、ほんとドキュメンタリー映画を見ているようなストーリー。
ただ、ソダーバーグらしく、最後に掃除のおじさんの子どもに自分のワクチンを射ってあげるというエピソードで終わるところは、「映画」らしくてほのぼのしていた。
Netflixはオリジナルのドキュメンタリーがおもしろいと聞いたので、仕事のためのお勉強もかねて『フェミニストからのメッセージ』を見る。たぶん私がまさにこのドキュメンタリー映画がテーマとしている70年代のWomen's Liberationに心躍らせて、怒りを共有した、フェミニズム第二波世代だったこともあって、めちゃめちゃ共感して感動した。(翌日にメモを取りながらもう一回見たほど)

 シンシア・マカダムスが70年代女性解放運動に関わった女性たちを撮った写真集を題材に、そこに登場するした女性たちが当時のこと、そして今(2018年)の自分たちについて語る、という内容。アーティスト、女優、歌手、バイオリニストなどなど、今も現役で活躍している女性たちが登場する。まあそういうキャリアを積んできた女性たちだから言えることなのかもしれないけれど、自分たちがやってきたことは良かったこともあるけれど、失敗もいっぱいある。21世紀になっても女性たちはまだ平等と公正な扱いを訴え続けなくてはならないのか、と落胆することも多い。だからこそ、私(たち)はまだまだフェミニズムを叫び続けなくてはならない、と言っていたのが印象的。
 もう一つ、黒人女性たちが「70年代の女性解放運動は、白人中流以上の階級の女性たちしか視野に置いていなかった。人種、階級、教育レベル、宗教全てを超えて、世界中の女性たちの平等と公正のための闘いは始まったばかり」という言葉も重かった。

夕飯は、鯵といわしのフライ(2日続けて揚げ物を食べてしまった)、コールスロー、ホワイトアスパラガスの蒸し煮

5月13日(水)
 COVID19で外出が制限される中、ニューヨーク・タイムズがリスニングのプログラムを増やしている。その中で私のお気に入りは"Sugar Calling"という番組だ。シェリル・ストレイドという作家が、80年代、90年代に活躍した(もちろん今も活躍中)大御所の作家たちに電話をかけて、現在のこの状況をどう見るか、その中で私たちはどうやって生き延びればいいのか(作家たちの大半は第二次世界大戦を経験している)、そして代表作の中から視聴者へのメッセージになるような文章を選んで朗読してもらう、という内容だ。
 25分ほどの番組なのだが、内容はとても濃い。これまで登場した作家は、マーガレット・アトウッド、エイミー・タン、ジュディ・ブルーム、アリス・ウォーカーなど(他にもいるけれど、とりあえず私が好きな作家を並べた)。一回聞いただけではよく内容がつかめないこともあるので、お気に入りの作家の回は2回、3回と聴く。
 マーガレット・アトウッドが、自身がかなり過酷な幼少期を送ってきた話をして「どんな時代にも、たいへんなことはある。それでも女の子たち! 腕まくりして頑張るのよ!」という言葉に励まされた。エイミー・タンが話す両親が移民してきたときの話とか、軽ーく笑って話しているけれど何回も聞くうちに、それはもう小説ではないですか、と言いたくなるほどドラマチック。アリス・ウォーカーの回では、2回目に聞いたときの「どんなことがあっても、それに立ち向かうのよ!」という言葉が重くて思わず涙が出た。
 朗読っていいなあ。作家の朗読会には1回だけ行ったことがあるのだけれど、自分の作品を読む作家の声dと表情がとても心に残った。ACにはぜひ行ってみたい。

夕飯はイワシのチーズパン粉焼き(いったい何回目かというくらいこの料理ばかり食べている!)、ナスの煮浸し、おかひじきのゴマサラダ

5月4日(月)
3月半ばにスマホの電源を外出時以外は切ることを決断した。緊急事態宣言が出て不要不急の外出をやめたらスマホの必要性をあまり感じなくなったこともあり。このままスマホを解約しちゃうかも(てなことはたぶんないでしょうが)。
スマホの電源を入れるのは早朝太極拳道場に行く間、およそ2時間ほどだけ。家ではタブレットがあるので、メールやLINEやメッセージは読めるし、Zoomやスカイプでビデオ打ち合わせもできる。外出時だけ、もしものことがあってはと電源を入れて持参するけれど、在宅勤務を徹底したら、はたしてスマホはどこまで必要なのだろうか? 電話もLINEでできるわけだし。
スマホの電源を切るようになったのは、母との電話がお互いにストレスになったからだ。電話で話していると意志の疎通に困難を感じるようになったのが2年ほど前。30秒前に言ったことを忘れてしまい、5分間の電話で同じ話を10回は繰り返し、挙句に「なんで私が聞いたことにちゃんと答えないのか!」と怒る。夢と現実がごっちゃになってしまうのか、朝6時すぎの電話で私への恨みつらみを聞かされてうんざりすることが続き、ついに外出時以外はスマホの電源を入れないことにしたのだ。
かわりに母に手紙を書くことにした。1日おきに1通書き、たまに服や花を贈って、「今は会いにいけないけれど、忘れているわけじゃないし、こちらはみんな元気だ」というメッセージを送り続けている。親孝行なわけではない、決して。電話では気持ちが伝えられず、会いにも行けないこの状況で、なんとも歯痒く後ろめたい気持ちをごまかしているだけだ。
母は最初は電話をかけ続けて、通じないことに怒りのメッセージを留守電に入れていたようだが(それも聞かないことにした)、一週間たってやっと諦めたのか、母も手紙をくれるようになった。
そうしたら驚くなかれ、話が通じることがわかったのだ。電話で会話している人と同じ人物とは思えないほどで、書かれている内容はつじつまがあっているし、文章もちゃんとしている。妄想ももちろん書かれていない。周囲への感謝と気遣いも感じられるし、新型コロナウィルスという言葉も書かれている(電話では「風邪」と言い続けていた)。実際に顔を見て話をしているときも、話が通じないことが多くてまいっていたのだが、手紙だと「話が通じている」とほっとする。私が出した手紙の内容も理解して、問いかけにたいしてちゃんと返答を書いてくるのだ。
これは何を意味しているのだろう? 音からの情報では混乱するけれど、文字になれば頭が整理できるのだろうか? 
というわけで、今日は母への手紙だけでなく、お孫たちや友人たちにも手紙を書いて投函した。

夕飯はいわしの生姜煮、ポテトサラダ(まだ終わらない)、白菜そのほか野菜のベーコンスープ

5月5日(火)
外出規制が出されて以来、メディアでは「孤独感」が取り上げられることが多くなった、ような気がする。感染者数の多い東京など大都会では、一人暮らしの人も多く、コミュニティの結びつきが希薄で、孤独感が強まる、という趣旨のトピックがネットでもよく見られる(私はテレビをみないので、メディアというときには新聞かSNSなんだが)
その解消法として、SNSやネットの利用、オンラインでビデオ会話して、と提案されている。SNSやオンラインビデオなどを利用していれば、たしかに自分は一人ではないことが実感できて、不安はやわらぐ。私もFacebookやTwitterに投稿して、反応があるとほっとする。とくに一人旅に出ているときには、こんなことした、あんなもの食べた、おもしろかった、ショックだった、といちいち自分の活動を投稿して、存在を確かめ、孤独感を癒している。
だが、最近「一人になりたい〜!」というぜいたくな願いが湧き上がってくることがある。夫が在宅勤務になってからというもの、「頼む! 私はいないものと思ってくれ!」と切実に願うようになり、それはたぶん夫も同じなので、日中はできるだけ顔を合わさないように、声も聞こえないように、お互い気配も消して生活している(でも、水を飲んだり、トイレに行ったりするとどうしても顔を合わせてしまうのだけれど)
孤立は精神衛生上よくないが、孤独は精神衛生上必要なのではないか。
3月末の緊急事態宣言以降、スマホの電源を入れず、タブレットそのほかを全部別の部屋に置いて一人でどこか(私の場合は3畳のもと物置)に数時間閉じこもる、という日を意図的に作るようにしている。閉じこもって何をしているかというと、ぼーっと外の景色を眺めるでもなく眺めていたり、瞑想まがいのことをしてみたり。
SNSを断ち、音楽を聴かず、人の声も聞かず、活字からも離れ、ただ自分のからだの声に耳を澄ますだけ。世界に自分一人だけしかいないような感じがしてくる。
今日はそんなぜいたくな気分を数時間味わってみた。

夕飯は白菜と豚バラの重ね蒸し、白菜のおひたし、白菜そのほか野菜のベーコンスープ(やっと白菜を食べ終わった。白菜4分の1玉を2人で食べきるのにえらく苦労した)
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(お孫製作の鯉のぼり画像が送られてくるまで、子どもの日だってことをすっかり失念していた。子どもたちが元気にスクスクと成長する世界にするのが大人の責任ですね)

5月6日(水)
4日に外出規制が5月末まで延期することが政府から発表された。これで3回目の延期。
外に出かけるなと言われても、出かけないと仕事にならない人たちのほうが多く、仕事をしないと生活が成り立たない人が大半のいまの日本社会では、補償なしの外出規制は酷だ。たぶん明日から普通に仕事に戻る人が多いだろうなあ、と思いながら雨の街をひとめぐり。

5月4日にNHKBS1で放送された「北京の春 市民たちは〜コロナ危機を生きる」というドキュメンタリーを録画で見た。4月30日に外出規制が解かれた後も、まだマスクは外さないし、恐る恐るの市民たちではあるけれど、コロナ後を見据えての経済活動をどうまわしていくかを必死に考えて行動している人たちに注目した内容だった。
もちろん中国は広いし、格差も大きいというから、北京に住んでいるある意味特権的な人たちの話かもしれない。それにしても、登場する人たちが皆、とにかくたくましくて、ポジティブなのだ。つぎの感染拡大も見据えて、コミュニティの見直しや、デジタルでの健康管理(そこまで個人情報を官憲に渡してしまっていいのかとそこはちょっと引いたけれど)、これまでやってきたビジネスが先行きあやしいと思ったら、それを捨てて新しいビジネスに切り替えるいさぎよさとか。
以前に『台湾海峡一九四九』(龍應台著、天野健太郎訳 白水社)を読んだときも思ったけれど、中国の人たちのへこたれなさというか、生き抜こうとするそのたくましさに圧倒される。転んでも、転ばされても、ただでは起きないし、転ばした相手への恨みのエネルギーをポジティブに転換するところもすごい。
理不尽だ〜とか嘆くのは誰かに任せて、とりあえず自分はつぎ行くよっ❗️ という姿勢は見習わなくては。
夕飯はめずらしくラザニアもどきを作ってみた。鶏肉やきのこ類、ブロッコリをトマトソースで煮込んで、マカロニと混ぜ合わせ、ベシャメルソースとチーズをのせてオーブンで焼いた。キャベツ、にんじん、きゅうりと新玉ねぎの塩もみサラダ

5月7日(木)
私は長らく家で仕事をしていて、ステイホームが常態なので、家にいる時間が長いと退屈したり、運動不足になったり云々ということを言われても今ひとつよくわからない。
でも、友人がNetFlixで『コンテイジョン』(Rikaさんからのご指摘で間違いに気づきました。コンテイジョンをみようと思ってNetFlixに入ったのに、その前にヒョンビンに行っちゃったのが間違えた原因ですね)という映画を観て、今の世界の感染状況が予言されてたことに驚いた、という話を聞き、やっと重い腰をあげてNetFlixに登録してみた。
それで最初に観たのが、 『愛の不時着』という韓国ドラマ。 という韓国ドマ韓国のばりばりのビジネスウーマンが、パラグライダーで竜巻に巻き込まれ、北朝鮮に不時着してしまって、北朝鮮の国境を守る美形中隊長と恋に落ちる、というストーリー。まだ1回しか観ていないので、はたしてどうなるのかわからないけど、たぶんこのまま観続けてしまいそう。
なんでよりにもよって初のNetFlix体験にこのドラマを選んだかというと、ヒョンビンが主演だから。『私の名前はキムサムソン』以来、ヒョンビンのファンなんです。
おもしろそうなドラマなんだけれど、このタイトルだけはどうにかしてほしい。『愛の不時着』って、なんともべたつくし、こっぱずかしい。

夕飯は買ってきた握り寿司、豆腐とナスとネギの味噌汁、塩もみサラダ
作るのはまだしも、自分で作ったものを食べることに飽きてきたので、たまにはいいよね。
 

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