Glamorous Life

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観る極楽

今年は配信ドラマに夢中になれる作品がないのと、仕事が開店休業状態なので、映画館で映画を見る機会が多いです。はい、ティピカル高齢者の日常ですね。昼間の映画館はすいていて、座っている大半はおそらくアッパー65。落ち着いて観られます。
で、観た映画を記録しておかないと忘れてしまって、また配信で見てしまって、途中で「あれ?これ見たことがあるな」とか思ったりするので、記憶に留めるために感想とともに記しておきます。
1月に見た映画は『ブラックバード、ブラックベリー、私は私』。このジョージア映画については感想をブログでも書きました。
『侍タイムスリッパー』
TOHOシネマズ新宿で鑑賞。この映画についてもちらりとふれた記憶がありますが、主演の山口馬木也さんがブルーリボン賞の主演男優賞を受賞し、受賞スピーチで涙で声をつまらせたところでは、私もじーんときました。
久しぶりの日本映画、それも時代劇で、しかも低予算で必死に作りました感たっぷりでしたが、予想外のおもしろさでした。いま配信で見られるようなので、おひまなときのエンタメにぴったりとおすすめしておきます。時代劇のなかでもとくに殺陣が好き、という人は、楽しめると思います。
『室町無頼』
TOHOシネマズ新宿で鑑賞。『侍タイムスリッパー』に誘ってくれた友人たちが、予告編でやっていたこの映画も見たいと言ったので、また時代劇を見ました。ちょっと荒唐無稽感ありでしたが、権力者が民衆の飢餓や苦しみをまったく顧みないため、無法状態になっている社会を立て直そうとする一匹狼の侍(大泉洋)の憤りは伝わってきたかな。
『エミリア・ペレス』
Bunkamuraル・シネマで鑑賞。メキシコが舞台で、マフィアのボスという超マッチョな男性が性転換して女性になり、かつて自分が苦しめた人たちを救う「聖母」になる、とこれまた荒唐無稽なあらすじをミュージカル仕立てにした映画です。クイア映画でもあるし、フェミニズム映画でもある、というふれこみで見に行ったのですが、うーん、ちょっと浅かったかなあ。エンタメにしてしまうには、扱っているテーマが重すぎたのかもしれない。
『海から来た娘たち』
ヒューマントラストシネマ渋谷で鑑賞。ル・シネマに置かれたチラシで「アメリカ黒人映画傑作選」のイベントを知り、取り上げられた作品のひとつに、私が敬愛する研究者(現代アラブ文学、パレスチナ問題、第三世界フェミニズム思想が専門)の岡真理さんが、著書『彼女の『正しい』名前とは何か』で触れていた『海から来た娘たち』があったので即チケットを購入。
素晴らしい映画でした。ジュリー・ダッシュが監督をつとめ、アフリカ系アメリカ人女性が監督した長編映画として初めて劇場公開された作品(1970年代)です。奴隷解放後の1902年に大西洋に浮かぶ島で暮らしていた黒人の一族が、よりよい未来を求めて北へ移住しようとする。でも長老のナナは、夫の墓があるこの島にとどまるという。出ていくべきだと主張する人たちと、ここに残ろうとする人たち、また奴隷を増やそうとした白人の地主にレイプされて生まれた女性のなかには、いったん島を離れたけれどまた戻ってきて島でやり直そうとする人たちもいる。1日とひと晩の出来事のなかに、アフリカから奴隷として連れてこられた前の世代の人たちの記憶が盛り込まれていて、アフリカの祖先の豊かな歴史と文化が食事や語りのなかに重低音として響いている。
別れの前に一族の記念写真を撮ることになり、子供たちも含めてみんな着飾っているシーンでは、女性たちの純白ののドレス、男性たちのスーツ姿がまぶしいほどかっこいい。別れの宴の料理も、彼ら彼女らの祖先が生まれ育った土地の文化の豊かさを伝えていました。ビヨンセがこの映画に影響を受けて、2016年のアルバム「レモネード」を作ったというのもよくわかります。もう公開されないのかな? (トランプの時代では)配信もむずかしいのか? でも機会があればぜひもう一度見たいです。
『トレンケ・ラウケン』
下高井戸シネマで鑑賞。アルゼンチンの監督ラウラ・シタレラの代表作。Part1,2合わせて4時間超の大作。南米のマジックリアリズム、フェミニズム、クイアとテーマが盛りだくさんで、エンタメの要素もたっぷりのミステリーとも見ることができて、ジャンルはもうしぼりこめないくらいです。主人公も、彼女を探す人たちも、地平線がどこまでも広がるパンパのなかを彷徨う、彷徨うだけならともかくはまりこんで抜け出せない迷宮をぐるぐる回っている。この映画を見る人も、いったいどこに連れていかれるかわからないまま彷徨っている、というような映画です! とにかくちょっとやそっとではまとめられないのだけれど、とにかくおもしろかったです。
Part1では、アルゼンチンのトレンケ・ラウケンという中部の街で、突然姿を消した若い植物学者(女性。植物学者というのがたぶんキモになっている)を探すために、彼女の恋人というブエノスアイレスからやってきた教授と、彼女の植物採集の運転手をつとめていた男性が、行方を尋ねてあちこち車で探し回ります。2人とも、なぜ女性が姿を消したのかさっぱりわからない。教授は「彼女は仕事も順調で昇進間近だったし、私生活でも私と二人で家を建てているところ。前途洋々、順風満帆だったのにそれを捨てるわけがない」と主張。運転手のほうは「彼女は図書館の本のなかに隠されていた、どうやら不倫らしい男女のエロい往復書簡を見つけて、それに夢中だった。それが何か関係しているのではないか」という。でも、女性と親しかったほかの女性たちは、男性たちのそんな話を聞くと肩をすくめて、わかっちゃないね、という顔をして「彼女なら心配ない。戻ってくるかどうかわからないけれど、彼女は大丈夫」とあっさりしたもの。
とPart1で仕込まれた伏線が、彼女の視点からどういうことだったのかが語られていくのがPart2。
でも、謎解きは映画を見る人にまかされていて、正解というか解明されるオチみたいなものはいっさいない。なので、Part2でなぜ女性がパンパを彷徨するのか、なんていうことをぜひとも知りたい人にはおすすめできません。とにかくおもしろかったです。もう1回見てもいいかな。
『リー・ミラー』
Uplink吉祥寺にて鑑賞。リー・ミラーは1907年ニューヨーク州生まれ。7歳(映画では10歳となっている)のとき、知り合いの男性にレイプされて淋病にかかるという悲劇に襲われたが、母親はそれを恥じて決して口外させなかったという。しかも父親は彼女が幼いときからティーンエイジャーになるまでヌード写真を撮り続けたというトンでも家庭で育った。思わず人が振り返るほどの美女に成長したリーは、18歳ときVOGUEなどの雑誌を出版するコンデ・ナスト社のオーナーであるコンデ・ナストに街で見初められて(自動車事故を装って目にとまるようにリーが画策した)、VOGUEのモデルになる。でも生理ナプキンのCMに出演したことで、モデルを続けられなくなり(当時は一流モデルが生理用品のモデルになるなどたいへんなスキャンダルだった)、裏方の仕事にまわされた。
やがてヨーロッパにわたり、シュールレアリストの芸術家たちと親交を深め、マン・レイのもとで写真を学ぶ。マン・レイだけでなく、数々の芸術家たちの恋人、そしてミューズとなるが、写真家としての実績をしっかりと積んでいった。
映画は彼女がそんな芸術家の一人であるロバート・ペンローズと出会って恋に落ちる1930年代後半から始まる。ロバートと結婚し、ロンドンのVOGUEで写真家&ジャーナリストとして仕事をするが、欧州は第二次世界大戦に突入。リーは周囲の反対を押し切って、アメリカ人であることを利用して従軍カメラマンとなり、逃げ惑う女性や子どもたち、また爆撃で亡くなった人々や傷病人たちを撮り続ける。やがてLIFE誌の従軍記者である(恋人でもあったらしい)デイヴィッド・シャーマンとチームを組み、最前線での取材活動にたずさわるようになる。いよいよ終戦となったとき、帰ってきてほしいと懇願する夫を振り切り、デイヴとともにドイツにジープで乗り込むリー。映画はここからそれまで自信のある強気なリーではなく、苦痛に苛まれながらも使命感から対象に勇気を持って踏み込んでいくリーの姿を描く。ケイト・ウィンスレットの表情や所作の変化がすごい。リーはホロコーストの犠牲になった人々を撮影し、そしてヒトラーが自殺した日に、ヒトラーが愛人と暮らしていた豪邸で風呂に入る写真をデイブに撮らせるところがクライマックスとなる。
終戦後、英国で暮らし、子どもも生まれたが、PTSDに苦しみ、アルコール依存症となり、肺がんで亡くなる。70歳だった。
VOGUE誌創刊100年を記念して出された分厚い写真集を私は大枚はたいて購入し、何回となくページをめくった。だからモデル時代のリー・ミラーの、うっとりするほど美しい姿は見ていたし、その経歴もだいたいのところは知っていた。だが、従軍カメラマンとしてホロコーストの現場に足を踏み入れ、軍人でさえも目をそむけたくなる収容所の犠牲者を撮影したことは知らなかった。映画館のあかりがついたとき、立ち上がるのにしばらく時間がかかった。


 国立新美術館@乃木坂/六本木で現在創玄展という書道展が開催されています。全国の書道(愛好)家たちによる展覧会で、年1回、誰でも作品を出品できて、審査の上、入選すれば飾られます。いくつかの賞も設けられていて、今回私は秀逸という賞をいただきました。
 秀逸賞は4回目の受賞です。何回もらっても嬉しさは増すばかり! 賞をとるために書いているわけではない、とイキがっていたこともありますが、いざ賞をいただくと、ますます書を探求していこうという意欲は高まるもの。
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 そしてまた、昨年出版された『サッカー・グラニーズ』(ジーン・ダフィー著 平凡社)がサッカー本大賞の優秀賞に選ばれて、昨日は授賞式にいってきました。
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 3月、誕生日もふくめて私にとっては思い出深いおめでたい月となっています。
 71歳、まだまだこれから、ですね。

 

昨年(2024年)観たなかで一番だったのは(古いけれど)「Perfect Days」でした。もうすべてが私のツボにハマりまくり。音楽はもちろん、役所広司の渋い演技も、脇役たちも、とにかく好き。もう一度見たい、と思わせる映画はなかなかないけれど、「パーフェクト・デイズ」は毎年1回くらい観たいと思ってます。
そして1月と2月は毎年ですが映画を見る時間的余裕があるので、20日間に映画館で2本、配信で3本(ドラマも入れると7本)見ました。
印象に残った映画の記録を残しておきます。
「ブラックバード、ブラックベリー、わたしはわたし」
吉祥寺UpLinkで観賞


ジョージア映画です。ジョージアの山奥の村で小売雑貨店をほそぼそと営んでいる48歳の女性エテロは、父親と兄のケアに追われてこれまで性体験なし。母親が彼女を産んで亡くなったことで、父親は腑抜け野郎になり、兄はロクでもない放蕩野郎で、生活のあれこれはすべてエテロがまわしていた。父も兄も亡くなり、ひとりになったエテロは、周囲が寂しいだろうとかいろいろと言ってくるなかで実はとても自由で晴々とした気分で日々を送っていた。
楽しみは野生のブラックベリーを摘んで作ったジャムを食べること。ある日、川縁の崖の上でブラックベリーを摘んでいたところ、ブラックバードと目が合い、みとれているとバランスを崩して崖から落ちてしまう。必死に岩にしがみついて崖を這い上って九死に一生を得たエテロは、初めて死を意識した。
店に戻って傷の手当てをしているところに売り物の日用品を配送してきたおじ(ぃ)さん(たぶん50代)にいきなり激しく迫り、店でセックスをする。びっくり仰天のおじさんだけれど「きみも私のことが好きだったのか」とか言って、ちゃんと応じた。おじさんがトラックで去っていったあと、パンツのなかに手を突っ込んだエテロが「48歳にしてやってしまった」という満足そうな表情がとてもいい。
孫もいるそのおじさんは恋に恋するロマンチストになっちゃって、愛の詩をつくって送ったり、秘密のピクニックデートに誘ったり「これが最後の恋なんだ」とか「トルコにいって一緒に暮らそう」とか迫ったりする。エテロも適当に応じているのだけれど、いまさら誰かのためにごはんを作ったり、掃除をしたりする気は毛頭ない、とおじにはっきり言っちゃう。
エテロ、美人じゃないしスタイルも悪い。だから男に振り向かれない、結婚できないんだ、と村の女たちからはさんざんな言われよう。彼女たちから「タライみたいなお尻だよね」「子どもがいないと寂しいよね」「男を知らない処女は欠陥がある」など言われると、そのたびに「子どもがいたって、結婚していたって、幸せそうな女を私は見たことがない。ひとりで気楽に暮らすのが一番」とさわやかにエテロに反論されると、みんな黙ってしまう。
独身をさっそうと楽しんでいたエテロだったけれど、あるとき体調不良になって「もしかすると、悪い病気かも」と不安の塊になり、死を覚悟して身辺整理を始めるのだけれど……そのあとは大いにネタバレになるから書きません。
鑑賞後に私は「そうか〜『女の一生』は人それぞれなんだなあ。世間の『こうあるべき』なんてものに惑わされたらいかん。いまの自分にもっと自信をもって生きていくぞ」ととても気持ちよく(でもいろいろと考えながら)帰ってきました。

映画館で見たのはもう1本。
「侍タイムスリッパー」。友人が「おもしろいっていうよ。見ようよ」と熱く誘ってくれたおかげでTOHOシネマズで観賞。幕末の侍が現代にタイムスリップして、いまは廃れようとしている時代劇で斬られ役になる、というあらすじです。主演の山口馬木也の殺陣(も演技も)がとにかくうまかった。脚本がよくできてた。面白かったです。

配信ドラマではいまさらですが「地面師たち」「不適切にもほどがある」をインフル回復期に一気見。どちらも昨年ヒットしたのがよくわかるおもしろさでした。古いですが「ちはやふる」も3話一気見。こういう青春一生懸命ドラマが私は好きなんだなあ。
いまは「阿修羅のごとく」を見ているところ。向田邦子ってやはり偉大な脚本家だった、宮沢りえ、ますます凄みを増している、と一話ごとに感心しています。
配信映画では「ホールドオーバーズ」がよかった。ぜひともおすすめ、というほどではないけれど、ほろりとくる映画でした。1970年代のアメリカ、今ほどじゃないけれど、差別と暴力の時代だったんだなあ、と。

いま石内都の写真展、STEP THROUGH TIMEが桐生市の大川美術館で開催中。以前にヴェネツィア・ビエンナーレ日本館に展示された「mother's」の記事で写真を見て衝撃を受けたので、これはぜひとも見なくてはと、10月秋晴れの日に桐生まで行ってきた。
水道山という山の中腹を切り開いて建てられた元社員寮を改装した大川美術館は、入り口の階からくだっていくにつれて、展示されている作品が新しいものになっていく。会場入り口のある3階(?)は1970年代に横須賀の街や建物を撮った「絶唱、横須賀ストーリー」からのモノクロの写真群。1979年に木村伊兵衛賞を受賞し、写真家、石内都の名前を強く印象づけた一連の作品だ。モノクロで撮られた写真にはあまり人が出てこない。というか、人物ではなく、建物だったり、家財道具だったり、無機物が主体。なのに、そこには不在の「人」がおそろしく主張している。
階をくだって、重いガラスの引き戸を開けて「mother's」が展示されている部屋に入ったとたん、私は一瞬息をのんだ。それまでのモノトーンの光よりも影の印象が強かった写真が打って変わって、いきなりあざやかな色があふれる写真となる。モノを撮った写真なのに、人の肉体がなまなましく迫ってくる。真紅の地の長襦袢、ピンクの口紅、レースの透けたランジェリー、赤い靴、手袋……お母さまの遺品だというそれらの「モノ」は、身につけていた人の肉体、だけでなく、生理や日常生活の活動まで映し出しているようだ。
また階を下り、1階の「ひろしま」の展示室で華やかな花柄のワンピースの前と後ろを撮った写真の前から、私はしばらく動けなかった。のどの奥になんかへんなものがつまっているみたいにこみあげるものがある。そのときは撮影された衣服や靴が原爆被災者の遺族が寄贈したものだとは知らなかったのだが、そんな情報に無知であっても、それらの写真には私を揺り動かす力がこもっていた。
もう一度3階に戻って、1970年代の横須賀の写真から、2011年に発表された「ひろしま」まで順に作品を見た。そしてもう一度。回を重ねると、見えてくるもの、感じるものが少しずつ変化する。でも衝撃が薄らぐことはなかった。
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帰りに「写真関係」(筑摩書房)という石内都さんの著書を購入した。石内さんは1947年生まれで私より7歳年上。戦後の生まれではあっても、世代も、歩いてきた道も、吸っていた空気も、あたりまえだがまるでちがう。敗戦によって日本が失ったもの、女性が生きていく道の険しさ、人に寄り添うやさしさ、そんなものが石内さんの写真と文章には詰まっていた。
今年見た展覧会でもっとも大きな衝撃を受けた。おそらくしばらく忘れられない1日になると思う。

7月最後の日だった昨日にながながと振り返り月着(げっき=ひと月の記録。造語かな)を書いたのですが、何回トライしてもアップできませんでした。何なんだよ、ブログは時代遅れってことかよ、と毒づくのはほどほどにして、気を取り直して7月に読んだ本、観た映画やドラマなどについてあらためて記しておきます。

映画館で観た映画は2本。
「90歳、何がめでたい」作家、佐藤愛子さん(すでに100歳を超えられました)が90歳のときに書かれたエッセイが大ベストセラーになり、それに基づいて佐藤さんを草笛光子さんを演じられ、編集者を唐沢寿明さんが演じた映画です。(なぜか「さん」づけしている)書友に誘ってもらって、書道のお稽古の帰りにシネコンで見ました。観客の平均年齢は60歳を超えていたね、きっと。歳を重ねるひとつの姿を描いているのだけれど、40歳以下が見たらピンとこないんじゃないかと思いました。草笛さん(90歳超えていらっしゃる)がきらきらとまぶしいほどに美しく、90歳超えてなお現役社会人を演じているのもどこか絵空事に感じられるのではないかと。でも、映画のところどころに私は老いの現実を感じて、単なるコミカルな映画とだけは受け取れなかったな。

「ピクニックatハンギングロック」1986年に日本で公開され、今にいたるまで映像の美しさと謎めいたストーリー(実話をもとにしている)でファンが多いという映画。監督のピーター・ウィアーはこの映画がオーストラリアだけでなく世界的にヒットして注目を集め、やがてハリウッドに進出してハリソン・フォード主演の「刑事ジョン・ブック/目撃者」を撮りました。私は「ピクニック〜」がオーストラリア映画祭で日本で初公開されたときに観に行き、その後小説も読みました。掘れば掘るほど迷路に迷い込むような映画で、38年ぶりに観ると、最初に観たときや小説を読んだときには「見えていなかった」ものがおぼろげに見えてきたような気がしています。

配信で見た映画は8本ほど。とくに印象に残った2本について書いておきます。
なんといっても印象深かったのは「Perfect Days」ヴィム・ヴェンダース監督、役所広司主演の話題作ですが、1年に1回くらい見直したいと思ったほどよかった。あらすじを書いたり、役所広司演じる主人公の平山がトイレ掃除の仕事場に向かうときに車内で聴くカセットの音楽についてはもうあちこちで書かれているのでやめておきます。そこで使われている70年代、80年代のロックやソウルも脳に染み入ったのですが、それ以上に子どもたちのはしゃぐ声などの街のざわめきや風が木々を吹き抜けていく音、かすかな鳥の声、風呂屋に響く水や桶の立てる音、などがどんなセリフや歌よりも染み入る「音楽」なのだと思いました。と言いながら、平山が早朝、朝日が昇る時間帯に仕事場であるトイレに向かう高速道路で聴く「朝日のあたる家」の本家The Animalsとlukiによるカヴァーを毎日繰り返し聴いています。音楽だけでなく、役所広司の身体性が目に焼きつくなど映像も美しい。ヴェンダース映画のなかで私は一番好きかも。ほんと染み入る映画です。
「Saint Frances セイント・フランシス」34歳独身、定職なし、パートナーなしの女性が、バイトでゲイ・カップルの6歳の少女の子守りをすることになる。パートナー探しのパーティで知り合った男性とセックスしたら妊娠して中絶することになったり、コンプレックスから苦手意識があった両親と久しぶりに会ったら母親からあたたかいメッセージをもらって感動したり、少女のギター教室に付き添いでいったら教師にひと目惚れしていいところまでいくけれどロクでもない男だとわかって幻滅したり……少女、フランシスやその両親とつきあっていくうちに、人との距離の取り方や、人に甘えることができる大人へと成長していく、とまとめてしまえばそんなストーリー。

読んだ本でガツンと殴られたような衝撃を受けたのは、
ハン・ガン著 斎藤真理子訳(白水社)でした。済州島4・3事件を生き延びた母親の最後の晩年を共に過ごした映像作家のインソンと、光州事件を扱った小説を書き終わって抜け殻のようになったキョンハが、生と死を行き来しながら語り合うという形式。なんてこんな薄っぺらい言葉ではとてもあらわせない。読んでいる間、大きな灰色の霧のようなものに取り巻かれて、前にも進めず、引き返すこともできず、それでは苦しいのかというとむしろ痛痒いみたいな気分のまま読み進みました。一気に読んでしまったのだけれど、もう一度読み直す必要を感じています。
娘に勧められて「七王国の玉座」ジョージ・R・R・マーティン著 岡部宏之訳(早川書房)をいま読書中。ファンタジー好きとしてはこれは読まずに死ねるか本ですね。

酷暑をいいわけに、毎日のように配信で映画を見て、TVerでオリンピックを見て、ちっとも仕事していない。熱中症になるから外に出かけるのは控えて、といわれても、サッカーの試合は見に行ってしまうし、旅行も行ったし、書道をはじめ展覧会にもあちこち出かけています。元気の証明、ということにしておこう。

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