Glamorous Life

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観る極楽

ディズニー映画にも、テレビアニメにもなった『ポリアンナ』(テレビアニメは『愛少女ポリアンナ物語』)(私は小学生のころ映画館で観たディズニー映画にはまっていました)

冷たいおばさんのところに引き取られたみなしご(→死語?)という不遇な境遇(でもおばさんめちゃめちゃ金持ち)なんだけれど、辛いことがあったときでも、すべてをいいように考えようとがんばるいい子。ポリアンナは「いい子」の代名詞です。いい意味でもビミョーな意味でも。

で、最近の私はちょっとポリアンナごっこしています。

あまり人を嫌いになったり、苦手だったりすることがない、と自分では思っているのですが、実際のところは嫌いな人、苦手な人はやはりいるのです。そういう人にどうしてもかかわらなくてはいけないときには「この人にもいいところがぜったいにあるはずで、ただ私とは合わないだけなんだ」と思いこもうとするわけです。ほら、いい子でしょ?

でも、たぶん私が嫌いな人は、相手も私が嫌いです。私が苦手な人は、相手も私が苦手です。そういうもんです。だから別にポリアンナごっこする必要もなく、お互い近寄らなければいいだけの話なんだけれどね。

それでも、それをストレスにしないためには、やっぱりポリアンナごっこ。

で、最近、私が苦手な人というのは、やたらに「空気を読め」と周囲に強要する人だということがわかりました。

「あの人、ほんとに空気読まないよね」「ね、ね、ね」と周囲に同意を求める人が苦手です。意見の同調や、場の無理やりの調和を強要するのって、それまた一種の暴力に思えるのですが。

そこでポリアンナごっこして「空気を読め」とか「あの人はKYだ」というようなことを人に言わない人になろう...とかね。いやらしいなあ、私。ほんと、ポリアンナだわ。

小学校高学年から大学2年生くらいまで、私は友達が気になってしかたなかった。

自分に友達がいるか?

その友達は信じられるか?

私を仲間に入れてくれるか?

私は友達と思う人たちに本当に好かれているか?

中高生の特に女子が、友達からケータイの返信がないと不安でたまらなくなる、というニュースを読んで、その気持ちがすごくわかる、と思った。

だからいまの子どもたちは友達づくりがヘタだ、とかとても私にはいえない。

だって私も友達(と思う人と)手紙のやりとりをしていて、返事がないとすごく不安だった。上に書いたような不安で胸がきりきりした。落ち込んだ。若さとはそういうものだ。人生経験が短く浅いから、人間関係の築き方も未熟で、築いたと思ったものも浅くもろく崩れやすい。

でも、20歳を過ぎたころ、ツキモノが落ちたみたいに気にならなくなった。20歳を過ぎると、人間関係の輪はずっと広くなり、学校を中心とした狭い人間関係であまり頭を悩ますことがなくなる。友達とは、毎日のように声を聞かなくても友達でいられるし、手紙にすぐに返事を書かなくても「もう友達ではない」とか絶交状を突き付けられることもないのだとわかった。っていうか、絶交状ってなつかしい。いまでもあるのだろうか?

おばさんになった今では、ケータイメールの返信がなくても、ほとんど忘れている。PCメールもときどき返信を忘れて失礼をしまう。ごめんなさい、とここで謝っておきます。

ケータイメールに返信しないと切れてしまう友達は、別に切れていい関係だと思う...というのは、一人飯がウマイというオバサンの感覚だ。

大人というか、おばさんは思うだろう。

そんなくだらないことに時間と労力を使うのではなく、もっと建設的なことに目を向けなさい。

返信がないくらいで崩れるような友達関係は、本当の友達ではない。

私も娘たちに100万回言った。

でもそれは、若者よりはるかに人生経験を積み、人間関係とはケータイメールや空気を読むこと以外で築くものだとわかってしまった大人の意見だ。

 

きのうテレビで放映されていたので、蜷川実花監督、土屋アンナ主演の『さくらん』を見た。

おいらんはあんなbehaviorはしないよ、とドシロートの私でも思うけれど、それは棚に上げておいて、どうしてもガマンできなかったのが、発声のひどさ。

役者さんならやっぱり発声法をちゃんと練習すべきだと思う。土屋アンナはまあしかたないとして(いや、しかたなくないが)、木村佳乃と管野美穂と安藤政信はなんとかしてほしい。何を言っているかわかんなくて、耳が悪くなったのかと不安になったんだけれど、一緒に見ていた娘が「語尾が聞き取れない」といっていたので、ほっとした。

たぶん色使いの美しさで見せようとした映画なのだと思うんだけれど、画面がベターっと奥行きがなくなるカメラワークも気になった。どぎつい色の氾濫を、一点、品のあるものにするには、ちょっとなぁ。

ほかにも、FAKEのおもしろさの狙い方があざとすぎるとか、セリフのあまりの陳腐さに泣けてくるとか、いろいろツッコミどころが満載でありましたが、こないだ見た『マイ・ブルーベリー・ナイツ』の、ひさびさに「時間返せ! カネ返せ!」と叫びたくなるほどの陳腐さに比べれば、まだマシだったかな。

絵がかかっていない壁はよそよそしい。家が冷たい。絵をかけることで、家はあたたかくなる。

と、誰がいったのでしたっけ?

定年を過ぎてから油絵を描き始めた父に、ねだりにねだって一枚、もらいました。

そのために家を改装したようなもの。父のこの絵がかけたい一心で、テレビボードを購入しました。

かけたとたんに、本当に家のなかの温度が微妙にあがったような気がします。

きのうはお客様がいらしたのですが、ちゃんとほめていただきました。

「お父様って、性格がとても明るいかた?」

そう、色が明るい。構図が明るい。80歳を過ぎた父のこの明るさのおかげで、家が明るく、あたたかくなってます。

tonton.jpg

「愛おしき隣人」

監督:ロイ・アンダーソン

 

 キムラさんに勧めていただき、試写にいってきました。

 北欧の映画の試写にいく、といったら、次女が「それなら私も」と一緒に行くことに。

 なんともふしぎな空気が流れている映画でした。

 ストーリーがあるのか、テーマは何か、そんなことはどうでもよくなる。

 何組もの恋人や夫婦や集団が出てくるのだけれど、誰も相手にとコミュニケーションがとれていない。投げかけた問いに、満足のいく返答をもらえなくて、いらいらと地団駄を踏むのだけれど、いらだっていることさえも理解してもらえない。

 スウェーデンといえばモデルが多くて美男美女がいっぱいでてきそうなものなのに、登場人物が全員ブス&ブオトコ。いやもうそれは見事なくらい。(しいていえばロックスターだけちょっとかっこいいけれど、メイクが濃いために顔の造作まではわからない)

 半分くらいの人たちが「夢を見た」と語り出して、夢のストーリーがそのまま映像化される。わけもわからず裁判にかけられて死刑をいいわたされる怖い夢だったり、憧れのロックスターと結婚する甘い夢だったり、ディナーに呼ばれてテーブルクロスを引き抜く芸をして失敗する突拍子もない夢だったりする。一つ一つの夢が妙に現実にシンクロしていて、どちらが夢でどちらが現実かわからない。でも夢がよけいに現実の哀しさを増幅させる。

 いってみれば、アパートの窓の一つひとつに繰り広げられている人間劇みたいな感じ。外から遠く離れて一棟のアパートで、近寄って見ると滑稽で、いじましくて、でもだからこそ愛おしい人間の悲喜劇が織りなされている。そんな感じ。 一つ一つのエピソードで登場人物が独白のようにつぶやいたり、叫んだり、うめいたりする姿に、思わず笑ったり、どきどきしたりする。

 でも、この映画のすごさは映像にある。カメラはほとんど動かない。たとえば激しい雷雨があがるのを狭いバス停に人々が身を寄せ合っているシーンがある。誰ひとりなにもいわない。目も合わさない。ただ黙って前を見つめているだけ。そこに一人の男がコートをかぶって走ってくる。なんとかそこに入れてもらおうとするのだけれど、バス停のなかの人は相変わらず何もいわず、身ぶりもせず、ただ「ここはもう無理」という目でちらりと男を見るだけ。男はしかたないね、という感じでまたコートをかぶって駆け出してつぎの雨宿りの場所を探しに行く。

 たかが2分程度の映像なのだけれど、セリフの一つもなく、人の演技も何もないのに、観る人の想像力を刺激してドラマをつくらせる力がある。

 どれだけセリフをつめこんでも、どれだけ迫力のある動きや演技を見せても、何も伝わってこない映画が多いなかで、これはすごいことだと思う。

 いや~、おもしろかったです。

 ただ、北欧スウェーデンらんらんらん、と一緒にいった次女は、見終わって「うーん、お願い、何がいいたかったのか説明して」といいました(汗)焼き鳥を食べながら感想を話し合ったんだけれど、私がまったく見ていないものを彼女が見て「あそこがポイントでしょ?」といったり、私の解釈とまったくちがったりして、この映画は観る人によってちがう感想をもつんだなと思いました。監督が何がいいたかったのかを私がここでぐだぐだいうことは、もしかすると無駄なことかもしれません。

 ま、とにかく観て。ぜったいにソンはないから。

 GWに恵比寿ガーデンシネマで公開です。

 

 

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