Glamorous Life

グラマラスライフ 実川元子オフィシャルサイト おもしろい本、どきどきする試合や映画、わくわくする服に出会えたら最高に幸せ

観る極楽

たまたまNetflixで見始めた「ウ・ヨンウ弁護士は天才肌」にはまっています。
自閉症スペクトラム障がいのウ・ヨンウ(パク・ウンジンが好演)が弁護士となり、大手弁護士事務所で働きながら、社会のさまざまな問題(とくに差別)にぶつかり、自分の生きる道、居場所をつくっていく、というストーリーです。ヒューマン法廷ドラマと紹介にはあるけれど、法廷での展開以上に、社会が「普通」とはちがった人をどう見ているのかがひりひりと描かれている点が興味深い。毎回さまざまな事件が取り上げられる、法廷ドラマとしては1話完結となっているところも、ドラマ性があっていいなと思っています。
16話中でまだ12話までしか公開されていませんが、私が「おそらくこれがベストの回だろう」と思ったのが、第3話の「ベンスでいきます」という回です。
医学生の兄の傷害致死罪で、自閉症スペクトラム障がいの弟が在宅起訴され法廷で裁かれます。しかし弟と意志の疎通をはかるのが困難なため、罪状認否さえもできない。そこで事務所の人たちは、「同じ障がいを持っているのだから、話ができるだろう」とウ弁護士を担当にする。でもウ弁護士は「自閉症スペクトラム障がいはひとそれぞれで、ひとくくりにはできない」としりごみし、兄弟の両親も、ソウル大学を主席で卒業して弁護士になったヨンウと、親とさえもコミュニケーションがとれない息子を比べて、複雑な心境になり。結局ヨンウを担当から外してくれと頼みます。
ヨンウがその裁判が終わってつぶやきます。「ベンスさん(訴えられた弟)も私も、おそらく時代や場所が変わったら、社会には役に立たない人間だとされて社会から抹殺されていたでしょう」
このつぶやきを聞いてドキンとしました。
私は無意識のうちに、モノやことだけでなく、人さえも「役に立つ」「役に立たない」で線を引いているのではないか。そもそも「役に立つ」基準を自分はどういうところに置いているのか?
私だって「役に立たない人間」のレッテルをいつ貼られてしまうかわからない。そうなったときに、私はどういう扱いを受けるのだろうか? そうなったときに私は私自身を許せるのだろうか? いやいやちょっと待て。そもそも私はいま、本当に社会の役に立つ人間なのだろうか? 
そんなことを考えて、コミカルなドラマなのに見終わったあとにかなりどーんと考えこんでしまいました。役に立つ/立たないの線引きが、実は差別を生んでいるのではないか、と。
で、いまの心境は、世の中には役に立たない人間なんて一人もいないし、役に立たないと思っているコトやモノだって、場面が変われば役に立つのかもしれない、と思い直そうということです。
表面的に、また短絡的に物事や人を見て、役に立つ/立たないと判断してはいけない、とこの夏にしっかり心に刻んでおこう。

ドラマについて鋭い指摘をしていた記事↓
 https://telling.asahi.com/article/14682316

うまく貼り付けられないので、URLを貼っちゃいます。オフィシャルな予告
https://www.youtube.com/watch?v=f6X66CW9XGc

 

 現在、「毎日書道展」が新国立美術館と東京都美術館で開催されています。
 今年はこの公募書道展で初めて佳作賞を受賞しました。
 応募と入選12年目にして初受賞です。それも多字数(21文字以上)の分野での受賞。
 2020年はコロナで毎日書道展が中止で、少し余裕ができたこともあり、これまでやったことがない分野に挑戦しようと多字数作品に取り組みはじめました。5文字や4文字作品でこれまでずっとやってきたのだけれど、ちょっと趣向を変えてみたかったのです。漢詩のなかの一部や、四文字熟語を書いてきたのだけれど、一度、漢詩全部を書いてみたかったというのもあり。
 選んだのは、杜甫の「春帰」という詩。
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もう一点、4文字作品も飾られました。
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「無弦之琴」
会場で自分の作品を見ると、あああああ〜〜〜もっとこうしておけばよかった〜〜〜と頭を抱えたくなります。うーん、まだまだかな。
  



2004年に出版された拙訳書『ザ・ハウス・オブ・グッチ』(サラ・ゲイ・フォーデン著 講談社)が映画化され、来年1月14日から日本で公開されます。
このたび文庫化+電子書籍化されることになり、いま校正に励んでいるところです。単行本のときに翻訳原稿を入稿したら、編集者から「このままでは700ページ近くなる。なんとか削ってほしい」と言われて、四苦八苦して削り、著者の同意をもらってあらすじは変えないように整えたのですが、このたび映画化、文庫化にあたって、削った箇所を少し戻し、かつ17年前から大きく変わった業界と世界を踏まえて修正を入れています。うーん、なんというか、ただ翻訳するよりも苦労しているかも(愚痴です)。削った箇所を戻したからというだけでなく、やはりかなりボリューミーで、結局上下巻となりました。
でも、訳者の私が言うのもなんですが、非常におもしろいです。ノンフィクションだけれど、極上エンターテインメント。映画化されて当然だと思う。今までも何回も映画化の話が持ち上がっては、殺人事件が絡んでいるのでむずかしかったと聞いていますが、結審して服役して、すべて一応かたがついたから映画化できたんでしょうね。

そしてその映画。
リドリー・スコット監督で、主演はなんとレディ・ガガ。もう一人の主人公を演じるのはアダム・ドライバー。グッチ家の面々を演じるのは、アル・パチーノ、ジェレミー・アイアン、ジャレット・レト(怪優ですわ、相変わらず)。それにサルマ・ハエックなどいまをときめく名優ずらりでゴージャス! さすがグッチ。
音楽はBlondieの”Heart of Glass"。うーん、70年代ですね。(これ歌ったとき、デボラ・ハリーは33歳だったって知ってました? で、70代後半のいまも現役で歌ってるって。すごいわ)
映画のTrailerを貼りつけておきます。Blondieが響き渡るので要注意です。

ああ、この機会にダナ・トーマスが書いた"Gods and Kings: The Rise and Fall of Alexander McQueen and John Galliano"も映画化されないかなあ。
https://www.amazon.co.jp/Gods-Kings-Alexander-McQueen-Galliano/dp/1594204942 
アレクサンダー・マクウィーンとジョン・ガリアーノの盛衰を描いたすごくおもしろいノンフィクションなんだけれどな。 とさりげなく売り込んでみる。 

2年前からAppleMusicサブスクリプションを購入してしまっています。以前からサブスクを契約してはやめることを繰り返していたのですが、2年前からは「高い!」と思いつつも、聴きたい曲があるとSiriに頼んでiPodで即再生できる便利さで解除できないままずるずると2年。最近はウォーキング中にどうしても音楽が聴きたいので、もうやめられません。
といっても、お気に入りの曲を繰り返し聴くということはしないようにしています。クラシック、Kpop、Cpop、Jpop、1960年から2010年代までのベストヒッツやポップス、ワールドでアフリカ音楽、アラブ音楽と、ときには邦楽(三味線とか琴とか)も聞いたりして、もうほとんどでたらめです。サブスクだからね、いろいろと聞かないと。週末は家事や書道をする間、ずっとバックグラウンドで朝から晩までかけ続けているので、まあサブスクの元はとっているかな、と自分を納得させています。
でも、でも、でも、やはり好きな、というかしっくりくるジャンルというのがあって、それは私の場合1970年代なのです。 1970年代、高校、大学、就職、結婚、出産までのめまぐるしかった10年間。おそらくこの時期に私は一番音楽を聴いていました。
キャロル・キング、カーペンターズ、ヴァン・モリソン、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)、ロッド・スチュアート、ミシェル・ポルナレフ、ミッシェル・デルペッシュ、シカゴ、カーリー・サイモン、ロバータ・フラック、ビー・ジーズ、フリートウッドマック……あれ? 洋楽ばかり???  ま、いいや。
で、1週間に1回は70年代洋楽ポップスばかりを集めたプレイリストを1日中聴いてしまう。人がいないのを見計らって、歌詞を覚えているサビのところをウォーキング中に歌ってしまう。
私の青春は1970年代にあったのだなあ、とあらためて思います。
ヒット曲の一つひとつにそれを熱心に聴いたときの光景や覚えた感情が浮かぶ。
でも、あの頃がよかったとは少しも思いません。
私はいつも、いまが一番いいし、いまの自分が一番好きです。昔に帰りたいとはまったく思わない。
でも、1970年代のヒット曲が好きです。聴いていて、すごくしっくりと心にしみます。
半世紀たって、音楽はもちろんですが、音楽の背後にある世界は大きく変わりました。 いい方向に変わったこともあるし、あれれれ〜という変化もある。その大きな変化を振り返りながら聴くからいいのかもしれません。

それにしても、サブスクってほんと、エンターテインメントの形を大きく変えたなあ、とちょっとため息です。 

ワクチン接種1回目が終わった実川です。大手町で接種したのですが、入ってから出てくるまで約1時間。私は甲殻類アレルギーがあると問診のところに書いたので、打ってから30分の待機時間がありましたが、それがなかったらおそらく40分弱じゃなかったでしょうか。実にシステマティックに運営されていました。ちなみにまだ副反応はありませんし、注射そのものはチクッとしたかな? くらい。2回目は7月中旬。夏休みは少しは気楽に過ごせるでしょうか。

という報告はさておきまして、先月からまた映画館で映画を観賞することを再開しています。NetflixでもAmazonプライムでもたぶん観られないだろうなあと思うような映画は、映画館に足を運ばねばなりません。その中から「観てよかった❤️」と感動した作品の感想を書いておきます。

『海辺の彼女たち』
藤元明緒監督の長編2本目(1本目についてはのちほどふれます)。新聞で映画評を見て、即チケットを予約しました。ベトナムから技能実習生として日本にやってきた3人の女性たちが主人公。ベトナムにいる家族を養うために日本に出稼ぎに来た3人は、「技能実習」とは名ばかりで、残業代はおろか給与もまともに支払われないのに休みがずっとなしで1日10時間労働みたいなブラックな職場で働かされ、たまらずブローカーの手引きで青森県の漁村で住み込みで働くことになります。そして1人がベトナムにいる恋人の子供を妊娠していることがわかり、でも恋人とは連絡がとれず、どうしたらいいのか途方に暮れる中で彼女だけでなくほかの2人も追い詰められていきます。
すごく暗いストーリーではあるのだけれど、決して絶望的な悲劇を描いているわけではない。また日本社会が抱えている「技能実習生なしに成り立たないのに、搾取をまるでなかったように無視する」という暗部をえぐっているのだけれど、つばを飛ばして告発しているというのでもない。かといってベトナム人女性のたくましさが素晴らしい、というのでもない。
生き抜くために必死ではあるのは彼女たちだけでなく、ブローカーのお兄さんたちや漁村のおじさんたちも病院のスタッフもみな真剣に(あがくほどに真剣に)生き抜こうとしている。必死になるほどに哀しみも増していくのだけれど、それでも生活は続いていく(まさにLife Goes On)
ある意味やりきれなさも感じたのですが、見終わって席を立つときには、ほんの少しあたたかいものを感じていました。最後のシーンが、外では冷たいミゾレまじりの風が吹き付ける中、3人が寝ぐらにしている漁師小屋をぼんやりと照らす電気ストーブが、若い彼女たちのエネルギーを象徴しているように思えたからかもしれません。


『僕の帰る場所』
藤元監督の長編1作目。建築の専門職を志してミャンマーからやってきたアイセ、夫を追って2人の息子を連れて日本にやってきたケイン、長男のカウンは小学5年生だが生後8ヶ月で来日して日本の保育園から小学校に進学したので、普通に日本語を話し、自分は日本人のつもりでいます。弟のテッは日本で生まれていま小学2年生。まだまだ父親にも母親にも甘えてわがまま言い放題。父アイセは難民申請をしてもしても認められず、ついに入国管理局に連れていかれてしまいます。母は夫が不在の生活に不安を覚えて精神が不安定になり、 ある日ついに「ミャンマーに帰る」と決意しました。
息子2人を連れ、夫を日本に置いてミャンマーの実家に帰ったケインはしだいに落ち着きを取り戻し、テッもミャンマーの生活になじんでいくのですが、一人カウンだけは言葉が通じず、生活習慣が日本とは大きく異なるミャンマーになじめません。電話で父に「いつ日本に帰れる?」「日本に帰りたい」「ぼくは日本人だ」と訴えるのだけれど、難民申請が認められず不法滞在者のレッテルをはられた父アイセには息子を日本に呼び戻す力はないのです。 ついにカウンは一人で日本に帰ろうと決めて飛行場を目指して家出をするのですが……。 
映画初出演の子役たちと実のお母さんの演技があまりにも自然で、ついドキュメンタリーだろうかと思うほど。実の親子だからこその甘え方や反抗っぷりがこの映画の主題である「日本の難民政策がかかえる大きな矛盾とそれが生む悲劇」をより鮮やかに浮かび上がらせています。父親役のアイセだけが(シロートではあるけれど)本物の父親ではないそうで、パンフレットで「子供たちが最初はどうしてもアイセをお父さんと呼べなかった」というエピソードを読んで微笑ましく思いました。父も息子たちも頑張ったな、と。

ところで、ポレポレ東中野でこの映画を見終わってから、藤元監督にサインをいただいて少しだけお話する機会を得ました。実はこの映画を見に行った動機の一つに、日本に滞在しているアジア系の人たちの支援に今私自身が少しだけかかわっているということがあるからで、そのことについても少しお話できました。 いまミャンマーは本当にたいへんなことになっています。自分には何ができるだろうかといつも考えているのだけれど、たとえばこの映画のパンフやMakingのDVDを購入することくらいならできるし、ブログでこうやって映画のことを書くこともできる。藤元監督とお話しして、できることから少しずつやっていきたいとあらためて思いました。

『ファーザー』
フローリアン・ゼレール監督作品。
アンソニー・ホプキンスはもちろんすごい俳優だということはよくわかっていたのですが、この作品の認知症の演技には圧倒されました。何がすごいって、認知症の進行具合を「目」で示しているのです。よく小説で「目に不安が宿っている」「目がうつろ」「目が泳いでいる」という表現が書かれているけれど、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるたびに「それはこういう目のことを言うのか」と分かったのです。ラストシーンでの彼と介護士のキャサリンとのやりとりは、認知症患者の現実と妄想の間を揺れ動く不安定な精神状態をどんな本よりも如実に語っている、と思いました。
アンソニー・ホプキンスはラストシーンで初めて助けを求めます。「ママ、助けて」(私もしょっちゅう母に「お母さん、助けて」と言われる)「もう何がなんだかわけがわからない」(これもしょっちゅう母から聞く言葉)と介護士に向かって助けを求めるときの彼の目は、まるでガラス玉のように内面からの光をまったく感じさせていませんでした。全編を通して、認知症の人が「見えている」ものが、実はとてもぼんやりとゆがんでいる像でしかないことをカメラワークが語るのですが、同時にアンソニー・ホプキンスが、あるはずのものが見えず、ないはずのものが見えることを目で語るのです。娘役のオリビア・コールマンもすばらしい演技なのだけれど、アンソニー・ホプキンスに、というか彼が演じる父親の存在感にちょっとかすみがちでした。
これを観たからといって、母の認知症のことが少し分かった、ということありません。でも妄想と作話が不安から来るもので、認知症ではない人(と思っている介護人)が「おかしい」「言っていることはまちがっている」と否定するほどに認知症者の不安が増していくということはよくわかりました。

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