秋葉原無差別大量殺人事件(書いているだけで悲しくなる。被害者の方々と、そのご家族のことを考えただけで涙です)の犯人が、ケータイに自分の気持ちやその日あったことを5000件以上書いていた、という記事を読んだ。
紹介されているものを読んだだけだが、感想は「なんてわかりやすいのだろう!」という驚きだ。
これを見て、ワイドショーのコメンテーターが心理学的に、社会学的にいろいろコメントをするのだろうが、あまりにも直截的表現が並ぶこのケータイの文言では、分析も評論もしようがないだろう。
これを読みながら、どこかで読んだことがあるなあと昨日雨の神保町を歩きながら考えていて、はっと気づいたのが昨年大ベストセラーになった「恋空」などのケータイ小説である。
こう言ってはなんだが、似ている。
思考方法が、表現方法が、言葉の選び方が、とても似ている。
ケータイという、短い言葉しか受け付けない媒体での表現だということを差し引いても、共通点があまりにも多い。
共通点その1、被害者意識と自虐意識満載。
なぜか(はよくわかっているのだが)ケータイ小説も、ケータイだけではないが人気を集めるブログも、イジメ体験、虐待体験、親と学校とうまくいかない、だから私はこんなに不幸、という短絡的図式が大好きだ。イジメや虐待(自分のせいではないのに......という被害者意識満載)、何をやってもうまくいかない自分をもっとおとしめる(ブスで、バカで、モテないオレ、と開き直る自虐意識)、だけどきっといつかシアワセになる。(たいていお気楽なシアワセは、ふと(ここ強調)知り合った、自分のことを何でもわかってくれて、何でも言うことを聞いてくれる、カレやカノジョによってもたらされる。
犯人が「恋人さえいたら、すべて変わる」と言ってるのを読んで、ああ、ケータイ小説の登場人物もおんなじことを考えていたよなあ、とか思った。
現実逃避に一番効き目があるのは、自分を被害者にしたドラマを書いて、自虐することだ。
共通点その2、自己愛満載
精神医学の学者だったら、誇大的自己愛症候群とかいうのだろうか、とにかく自分がかわいい、自分がかわいくてかわいくて、そんなにかわいい自分を誇示したいのに、恥ずかしがり屋で人見知りでさびしがりやだから、誰もかまってくれない。なんでこんなにかわいいオレ様をわかってくれないんだ~せけーん!! しゃかーい!!
あの、見え見えで引いてしまうんですけど。
ケータイやネットが普及する前も、コンプレックスに悩み、幼児的自己愛から抜け出せない人はたくさんいたんだけれど、それを表現する手段がなかったから、頭のなかでどんどん屈折していったのではないか。だから犯罪にまでいたったときには、自分で説明する言葉をもたず、専門家の先生方があーだこーだとアイシングした言葉で説明してくれて、それで「心の闇」だとかをわかったような気になっていたのだと思う。
ところが、だ。自己愛のはけ口となるケータイやらブログという手段を得ると、「心の闇」に照明がこうこうとあたって、その醜さも白日のもとにさらけだされるようになり、しかもそれを排斥せずに「私もだ」と受け入れる人たちが何百万といることに気づくハメとなった。カワイソーな自分、カワイイ自分を、「カワイソー」「カワイイ」といってくれる人がいる喜び。しかも、面と向かって会うというそういう人種がもっとも苦手なことをしなくてもいい。せいぜい1行、20文字程度の短い文言で同調し、わかってくれちゃう。
ケータイ小説は「わかってくれる人」が大勢いたおかげで、自己愛満足となったのだろうが(ほんとになったのかな?)、事件の犯人は「ここでも無視か!」と、今度は最悪の手段で自己愛を満足させる道を暴走した、と。
20文字で表現される内容の「心の闇」は、「早安楽」と示される目的地までの最適経路のようだ。
本当は人間はそんなに薄っぺらなものではないはずなのに。
あ~梅雨の晴れ間だというのに気持ちが暗い!
「はぐれ刑事」シリーズをはじめとする刑事ものドラマが結構好きです。
頭をからっぽにして見るのにちょうどいい。予定調和の穏やかな筋書きがリラックスできるのかも。ときどきありえないプロットに突っ込みをいれたくなるところがちょっと困りますが。
最近では、現在映画が大ヒット中の「相棒」の再放送をお昼ごはんを食べながら見てました。
「相棒」のファンは多いんですね。意外な人が「あれは欠かさず見ています」と言い出してびっくりします。
下の娘が「ママ、映画を見に行こうよ」とさかんに誘います。うーん、映画館にわざわざ行くほどの熱心なファンではないなあ、私は。お昼ごはんを食べながら、ぼーっと見るのにいいんであって、じっくり見るとツッコミだらけで困っちゃうではないですか。
......話変わって。
いろいろ忙しくて、ちょっと油切れしました。
木曜日に大阪から帰ってくる飛行機のなかで「うーちょっとヤバイかも」と思ったのだけれど、夕ごはんをつくるといってしまった以上、いまさらキャンセルはダメよね、と買物して帰ったところでFUELの針がゼロ以下にふれてしまいました。
と、ここまで長いいいわけは、メールのお返事ができていないことに対して、です。
来週もめいっぱいのスケジュールなんで、急ぎ以外は再来週にお返事します。
いや、まったくの私信でどうもすみません。
あああ、早く「相棒」でも「はぐれ刑事」でもいいから、お昼ごはんを食べながら見てぼんやりする日々に戻りたいです。
ディズニー映画にも、テレビアニメにもなった『ポリアンナ』(テレビアニメは『愛少女ポリアンナ物語』)(私は小学生のころ映画館で観たディズニー映画にはまっていました)
冷たいおばさんのところに引き取られたみなしご(→死語?)という不遇な境遇(でもおばさんめちゃめちゃ金持ち)なんだけれど、辛いことがあったときでも、すべてをいいように考えようとがんばるいい子。ポリアンナは「いい子」の代名詞です。いい意味でもビミョーな意味でも。
で、最近の私はちょっとポリアンナごっこしています。
あまり人を嫌いになったり、苦手だったりすることがない、と自分では思っているのですが、実際のところは嫌いな人、苦手な人はやはりいるのです。そういう人にどうしてもかかわらなくてはいけないときには「この人にもいいところがぜったいにあるはずで、ただ私とは合わないだけなんだ」と思いこもうとするわけです。ほら、いい子でしょ?
でも、たぶん私が嫌いな人は、相手も私が嫌いです。私が苦手な人は、相手も私が苦手です。そういうもんです。だから別にポリアンナごっこする必要もなく、お互い近寄らなければいいだけの話なんだけれどね。
それでも、それをストレスにしないためには、やっぱりポリアンナごっこ。
で、最近、私が苦手な人というのは、やたらに「空気を読め」と周囲に強要する人だということがわかりました。
「あの人、ほんとに空気読まないよね」「ね、ね、ね」と周囲に同意を求める人が苦手です。意見の同調や、場の無理やりの調和を強要するのって、それまた一種の暴力に思えるのですが。
そこでポリアンナごっこして「空気を読め」とか「あの人はKYだ」というようなことを人に言わない人になろう...とかね。いやらしいなあ、私。ほんと、ポリアンナだわ。
小学校高学年から大学2年生くらいまで、私は友達が気になってしかたなかった。
自分に友達がいるか?
その友達は信じられるか?
私を仲間に入れてくれるか?
私は友達と思う人たちに本当に好かれているか?
中高生の特に女子が、友達からケータイの返信がないと不安でたまらなくなる、というニュースを読んで、その気持ちがすごくわかる、と思った。
だからいまの子どもたちは友達づくりがヘタだ、とかとても私にはいえない。
だって私も友達(と思う人と)手紙のやりとりをしていて、返事がないとすごく不安だった。上に書いたような不安で胸がきりきりした。落ち込んだ。若さとはそういうものだ。人生経験が短く浅いから、人間関係の築き方も未熟で、築いたと思ったものも浅くもろく崩れやすい。
でも、20歳を過ぎたころ、ツキモノが落ちたみたいに気にならなくなった。20歳を過ぎると、人間関係の輪はずっと広くなり、学校を中心とした狭い人間関係であまり頭を悩ますことがなくなる。友達とは、毎日のように声を聞かなくても友達でいられるし、手紙にすぐに返事を書かなくても「もう友達ではない」とか絶交状を突き付けられることもないのだとわかった。っていうか、絶交状ってなつかしい。いまでもあるのだろうか?
おばさんになった今では、ケータイメールの返信がなくても、ほとんど忘れている。PCメールもときどき返信を忘れて失礼をしまう。ごめんなさい、とここで謝っておきます。
ケータイメールに返信しないと切れてしまう友達は、別に切れていい関係だと思う...というのは、一人飯がウマイというオバサンの感覚だ。
大人というか、おばさんは思うだろう。
そんなくだらないことに時間と労力を使うのではなく、もっと建設的なことに目を向けなさい。
返信がないくらいで崩れるような友達関係は、本当の友達ではない。
私も娘たちに100万回言った。
でもそれは、若者よりはるかに人生経験を積み、人間関係とはケータイメールや空気を読むこと以外で築くものだとわかってしまった大人の意見だ。
きのうテレビで放映されていたので、蜷川実花監督、土屋アンナ主演の『さくらん』を見た。
おいらんはあんなbehaviorはしないよ、とドシロートの私でも思うけれど、それは棚に上げておいて、どうしてもガマンできなかったのが、発声のひどさ。
役者さんならやっぱり発声法をちゃんと練習すべきだと思う。土屋アンナはまあしかたないとして(いや、しかたなくないが)、木村佳乃と管野美穂と安藤政信はなんとかしてほしい。何を言っているかわかんなくて、耳が悪くなったのかと不安になったんだけれど、一緒に見ていた娘が「語尾が聞き取れない」といっていたので、ほっとした。
たぶん色使いの美しさで見せようとした映画なのだと思うんだけれど、画面がベターっと奥行きがなくなるカメラワークも気になった。どぎつい色の氾濫を、一点、品のあるものにするには、ちょっとなぁ。
ほかにも、FAKEのおもしろさの狙い方があざとすぎるとか、セリフのあまりの陳腐さに泣けてくるとか、いろいろツッコミどころが満載でありましたが、こないだ見た『マイ・ブルーベリー・ナイツ』の、ひさびさに「時間返せ! カネ返せ!」と叫びたくなるほどの陳腐さに比べれば、まだマシだったかな。
絵がかかっていない壁はよそよそしい。家が冷たい。絵をかけることで、家はあたたかくなる。
と、誰がいったのでしたっけ?
定年を過ぎてから油絵を描き始めた父に、ねだりにねだって一枚、もらいました。
そのために家を改装したようなもの。父のこの絵がかけたい一心で、テレビボードを購入しました。
かけたとたんに、本当に家のなかの温度が微妙にあがったような気がします。
きのうはお客様がいらしたのですが、ちゃんとほめていただきました。
「お父様って、性格がとても明るいかた?」
そう、色が明るい。構図が明るい。80歳を過ぎた父のこの明るさのおかげで、家が明るく、あたたかくなってます。
「愛おしき隣人」
監督:ロイ・アンダーソン
キムラさんに勧めていただき、試写にいってきました。
北欧の映画の試写にいく、といったら、次女が「それなら私も」と一緒に行くことに。
なんともふしぎな空気が流れている映画でした。
ストーリーがあるのか、テーマは何か、そんなことはどうでもよくなる。
何組もの恋人や夫婦や集団が出てくるのだけれど、誰も相手にとコミュニケーションがとれていない。投げかけた問いに、満足のいく返答をもらえなくて、いらいらと地団駄を踏むのだけれど、いらだっていることさえも理解してもらえない。
スウェーデンといえばモデルが多くて美男美女がいっぱいでてきそうなものなのに、登場人物が全員ブス&ブオトコ。いやもうそれは見事なくらい。(しいていえばロックスターだけちょっとかっこいいけれど、メイクが濃いために顔の造作まではわからない)
半分くらいの人たちが「夢を見た」と語り出して、夢のストーリーがそのまま映像化される。わけもわからず裁判にかけられて死刑をいいわたされる怖い夢だったり、憧れのロックスターと結婚する甘い夢だったり、ディナーに呼ばれてテーブルクロスを引き抜く芸をして失敗する突拍子もない夢だったりする。一つ一つの夢が妙に現実にシンクロしていて、どちらが夢でどちらが現実かわからない。でも夢がよけいに現実の哀しさを増幅させる。
いってみれば、アパートの窓の一つひとつに繰り広げられている人間劇みたいな感じ。外から遠く離れて一棟のアパートで、近寄って見ると滑稽で、いじましくて、でもだからこそ愛おしい人間の悲喜劇が織りなされている。そんな感じ。 一つ一つのエピソードで登場人物が独白のようにつぶやいたり、叫んだり、うめいたりする姿に、思わず笑ったり、どきどきしたりする。
でも、この映画のすごさは映像にある。カメラはほとんど動かない。たとえば激しい雷雨があがるのを狭いバス停に人々が身を寄せ合っているシーンがある。誰ひとりなにもいわない。目も合わさない。ただ黙って前を見つめているだけ。そこに一人の男がコートをかぶって走ってくる。なんとかそこに入れてもらおうとするのだけれど、バス停のなかの人は相変わらず何もいわず、身ぶりもせず、ただ「ここはもう無理」という目でちらりと男を見るだけ。男はしかたないね、という感じでまたコートをかぶって駆け出してつぎの雨宿りの場所を探しに行く。
たかが2分程度の映像なのだけれど、セリフの一つもなく、人の演技も何もないのに、観る人の想像力を刺激してドラマをつくらせる力がある。
どれだけセリフをつめこんでも、どれだけ迫力のある動きや演技を見せても、何も伝わってこない映画が多いなかで、これはすごいことだと思う。
いや~、おもしろかったです。
ただ、北欧スウェーデンらんらんらん、と一緒にいった次女は、見終わって「うーん、お願い、何がいいたかったのか説明して」といいました(汗)焼き鳥を食べながら感想を話し合ったんだけれど、私がまったく見ていないものを彼女が見て「あそこがポイントでしょ?」といったり、私の解釈とまったくちがったりして、この映画は観る人によってちがう感想をもつんだなと思いました。監督が何がいいたかったのかを私がここでぐだぐだいうことは、もしかすると無駄なことかもしれません。
ま、とにかく観て。ぜったいにソンはないから。
GWに恵比寿ガーデンシネマで公開です。
砂漠ならぬ土漠という言葉を知ったのは、5年前に旅したイラン南部でした。日本にはない灰色がかった土が盛り上がり、またひいていく大波のようにうねってどこまでも続き、土の上に顔を出した時点からかさかさに乾いている褪せた黄土色の灌木が点々と生えている、そんなところでした。湾曲している道路(一応舗装されている)を走るバスから目を凝らすと、ところどころに日干し煉瓦を積み上げた真四角の建物が立ち並ぶ集落があり、土埃でフィルターがかかった太陽の下でゆらゆら揺れて、まるで幻のようにはかない。丘の頂上に、ときおり土団子をもったような丸い建物があり、それは墓だと説明されました。
「ハーフェズ ペルシャの詩」は、そんな土漠のなかの村が舞台です。
ハーフェズは14世紀(西欧年代で表記してしまいます)に、現イランのシーラーズという、テヘラン近郊の街で生まれた詩人です。私もシーラーズで「ハーフェズ廟」を観光してきました。バラが咲き乱れる美しい場所でした。ガイドさんが、朗々と詩を朗読してくれました。
イランを旅すると、あちらこちらでハーフェズの詩にお目にかかります。村の土壁にタイルで装飾された一節が飾られていたり、観光地のレストランのメニューに書かれていたり。まさに国民的詩人ですが、彼が歌っているのは「愛」の詩です。そして、その「愛」はどうやらイスラムと古い因習が残るイラン南部の土漠のなかでは禁忌らしい。そのタブーを破った男女が何もかも失い、ハーフェズの詩のなかでだけ結ばれる、とおおざっぱにストーリーをまとめてはいけません。
ハーフェズは詩人の名前であるだけでなく、コーランを詠唱する神聖な職業につく人も意味しています。
主人公の青年(シャムセディン=ムハンマドという、詩人ハーフェズ(雅号)と同じ本名)は、母親の期待どおりに「ハーフェズ」になり、朗々とコーランを詠う役目についていたのですが、大師の娘(麻生久美子)の家庭教師に任ぜられたところから運命が狂いだします。娘、ナバートは母方の国チベットで育ったので、コーランはおろかペルシャ語もできない、という設定。麻生久美子はそれでも正しい発音でコーランを読んでいました。セリフは極端に少なかったけれど。
ナバートは、青年シャムセディンが詠ずるコーランを、一行ずつ自分も詠じながら覚えていくわけです。でも、壁をへだてての授業なので、お互い顔も見ない。乳母がしっかり見張っていて、「あやしい行為」に及ばないかをチェックしています。
声だけの交わりなのに、それがとてもエロチック。コーランがわからない私も、その言葉の抑揚にひかれます。
やがて詩も勉強しているシャムセディンの詩作ノートをこっそりのぞき見したナバートが、どうやらシャムセディンが自分への思いを歌ったらしい詩を発見する。そこで授業の合間に暗唱してみせる。そのときのナバートのどきどきするような表情が初々しいし、同時にうぶな男をからかうようにも見えてしたたかです。
驚いたシャムセディンは思わず壁から顔を出して「その詩をどこで?」とついナバートと目を合わせてしまいます。その場面を乳母に目撃され、告げ口されてシャムセディンは「裁判(!)」にかけられ、「結婚前の娘の純潔をけがした」という「罪状」で「有罪」に。もちろんハーフェズの称号は取り上げられてしまいます。
それだけでなく、実家は焼き打ちされ、お母さんはショックで死んでしまい、ナバートは大師の弟子と結婚させられてしまう。まさに踏んだり蹴ったりです。ロミオとジュリエットでもこうはいくまい、というくらいの悲劇。
シャムセディンは炎天下に日干し煉瓦をつくる苦役に従事し、それでも断ち切れない思いをなんとか断ち切るために「鏡の誓願」の旅に出ます。7つの村で、7人の処女に鏡をふいてもらい、その願いをかなえたら、自身の願いもかなう、というもの。本来は愛をかなえるためのおまじないなのだけれど、愛を断ち切るために彼はやるのです。
それから艱難辛苦の旅の模様が描かれますが、そこはあらすじよりもすべて詩のようなセリフの一つひとつと、土漠の風景と、ペルシャの楽器の奏でる物悲しい音のほうが心に沁み入る。
鏡、布、煉瓦、そして詩。
隠喩と暗喩。
これは映像による詩なのだ、ということが、つと暗転してタイトルロールが流れ出してようやくわかります。
監督は、イランのアボルファズル・ジャリリ。あの名作「キシュ島の物語」「少年と砂漠とカフェ」を撮った人です。
大雪にめげず、恵比寿まで行ったかいがありました。
左側のコラムでも紹介していますが、今週土曜日に乳房文化研究会の定例研究会が京都で開かれます。
お時間のある方はぜひお越しください。
私もちょこっとしゃべります。私のテーマは「モラヴィア4事件に見るアメリカの乳房観」
ほら、そこのあなた「モラヴィア4事件って、なに?」と知りたくなるでしょ(笑) そういうかたはぜひいらっしゃいませ。
いまPowerPointで資料をつくったのですが、なかにはおっぱいの写真&イラスト(ジツカワ画伯制作)を入れてお茶をにごして華やかに彩ってみました。
ほかの講師のみなさんは立派な先生方なのですが、そのなかにあって私はボケ担当門外漢から一言、という役割のようです。巨乳に見えるファッションで行こうっと......と書いて客寄せパンダの役目も果たそう。
詳しいことはこちら→
http://www.wacoal.jp/company/nyubou-bunka/public/index.html
内容を貼り付けておきますね。
「乳房をめぐる犯罪と法律」
水島幸子先生(水島綜合法律事務所 所長/弁護士)
四宮章夫先生(弁護士法人淀屋橋・山上合同 弁護士/京都産業大学法科大学院 教授)
大島俊之先生(弁護士法人淀屋橋・山上合同 弁護士/九州国際大学法学部 教授)
実川元子先生(フリーランスライター・翻訳家/乳房文化研究会運営委員)
以前から取り上げてみたいと思っていた課題の一つが、乳房をめぐる犯罪や法律の問題です。ただ、犯罪、殊に性犯罪に関わる問題は、なかなか具体的事実に基づいて、言い換えれば、実例を挙げて、取り上げにくい課題でした。あえて挑戦しようとしたのですが、例えば法医学の立場などからはまだ生々しすぎ、また、加害者や被害者が推定しうるような事例も少なくなく、プライバシーの問題などを考慮すると難しい課題です。でも、乳房をめぐる犯罪や事件、法的事案は間違いなく存在します。そこで、今回は法律家にご講演いただき、こうした問題を可能な限り取り上げて見ます。
たとえば、乳房は性器なのでしょうか? 生殖器との法的扱いの違いとその根拠は何なのでしょう? 映画などでの乳房と性器の扱いも大きな差がありますし、歴史とともに変遷もしてきています。実際の性犯罪での乳房の扱いはどうだったのでしょう? 生殖器とはどう違ったのでしょう? 人前での乳房の露出は公然わいせつなのでしょうか? 海水浴場でのトップレスや混浴の温泉などでは、法律はどうなるのでしょう? 性差と法律上の平等性・特殊性の扱いは、胸に関してはどうなっているのでしょう? 性同一性障害をはじめとして性の多様性が問題となる中で、単純な生物学的性差で価値を分けていいものでしょうか? もし乳房の露出が犯罪を構成するとして、乳頭さえ出なければ公然わいせつにはならないのでしょうか? ニップレスで乳頭だけ隠せば問題ないのでしょうか?とすれば、男性の乳頭の露出が許されることの法的根拠は何なのでしょう? 透けるとか突起が判別できるような衣類は、性的興奮をもたらしうるのでしょうが、法的には問題ないのでしょうか? 人前での、例えば電車の中での授乳は公然わいせつになるのでしょうか? 時代とともに概念や扱いはどう変遷したのでしょうか? さらに、乳房の法的価値はいかほどなものなのでしょうか? 形成手術の失敗などの裁判での扱いはどれほどのものなのでしょうか? 女性の顔や他の部位などとの違いは如何様なのでしょう?
多くの疑問や問題が存在します。こうしたことの一つ一つを、法律家の立場から、以前に性同一性障害について先駆的で素晴らしいご講演いただきました、弁護士の大島俊之先生を中心に、お話いただきます。恐らく、法律家の世界でも、あまり真正面から考えたり議論したりしたことのない課題ではないでしょうか。また、性犯罪に関する内容も含む「巨乳はうらやましいか?」を翻訳・出版された本会運営委員・実川元子先生からも話題提供をいただきます。どうぞご期待いただきますように。そして違った世界、ジャーナリズムや法医学の立場からも、面白い議論が出ることを期待しています。
オーガナイザー:会長 田代 眞一
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日 時 |
2008年1月26日(土)14:00~17:10(開場:13:30) | |
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場 所 |
(株)ワコール本社ビル 2階 会議室 (京都市南区/JR東海道本線「西大路駅」から徒歩4分) | |
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定 員 |
100名 | |
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問合せ |
乳房文化研究会 事務局 TEL 075-682-1178 | |
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主 催 |
乳房文化研究会 | |
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協 賛 |
株式会社ワコール |
ジョージ・クルーニー監督作品
「もしもテレビが娯楽と逃避のためだけにあるのだとしたら、それはテレビがいずれ滅びるということを意味するのです」
主演のエド・マローが演説の最後にいうこの一言。彼がこう言ってから半世紀たち、いまその「予言」は的中してしまった。滅びる、というのが物理的に「なくなる」ということではない。「影響力を失う」という意味だけでもない。(「なくなる」も「影響力を失う」もある程度あたってしまっているけれど)
この映画を監督したジョージ・クルーニーが訴えたかったのは、「メディアとしての基本」がテレビ界において滅びてしまった、ということだ。それは何も娯楽と逃避だけを提供しているからではない。スポンサーと政治的・経済的圧力に負けて、報道の「節度」を失ったことを意味している。
マッカーシー上院議員の赤狩りはたしかに異常なことではあったが、非常にわかりやすい異常さだった。いまは異常にみんな慣れてしまっただけでなく、上手に隠ぺいされて異常事態が進んでいく。いまならメディアが主体的に赤狩り的異常な言論統制をすることだってらくらくできてしまうだろう。クルーニーはこの映画でそれを危惧して警鐘を鳴らしている。
テレビだけではない。インターネットも同様で、ディレクターもキャスターもいないところで、「世論」という怪物はどんどん流れていってしまう。いや、そんなことより、娯楽と逃避を提供するメディアが増えて、エド・マローがいうようにますます人々はインテリジェンス=知性をなくしていってしまう。
70歳にしてパソコンをいじりはじめた母が、インターネットを使いながらある日いった。
「前はテレビを見ていたらバカになると思っていたけれど、インターネットはもっと人の思考力を奪うね。ボケはここから始まるかもしらんわ」
50代で亡くなったエド・マローがいまもしこのメディア状況を見ていたら、なんというだろうか?
やっと見られました。推薦してくださった方がおっしゃっていたとおり、すぐれた作品でした。通訳をしている友人が、仕事でジョージ・クルーニーの話を聞いて絶賛していました。「アメリカの知性と良心」だって。「オーシャンズ」ではなく、この作品こそ見てほしいですね。
ところで、最近「今日の夕飯」を書いていませんが、今日はん? ちょっとうまくない? と我ながらうまくいった一品があったので書いておきます。
菜の花とささみの和えもの
新鮮な鶏のささみを酒と塩で下味をつけておく。
片栗粉を薄くまぶして、沸騰した湯で1分ほどゆでて取り出して氷水でしめ、キッチンペーパーで水気をとる。
菜の花はさっとゆがいて、1センチほどにきざむ。
ささみは細く切って(中はが少しなまっぽいけれど、熱は通っているくらい)、すりごま、たたいた梅干しと辛子であえる。辛子よりマヨネーズを入れたほうが喜ばれるかも。



