新刊が出ます。
今日、見本が送られてきたので、たぶん今週末あたりから本屋さんに並ぶでしょうか。
『菊とポケモン――グローバル化する日本の文化力』
アン・アリスン著
実川元子訳
新潮社 2300円(税別)
(以下、帯に書かれていることを引用します)
クール・ジャパンはディズニーを超えた。
ゴジラからポケモンまでのキャラクターたちは、日本を旅立ち、米国を通過して、グローバル市場という大海に漕ぎだした。
『菊と刀』を凌駕する、21世紀に日本論。
翻訳に......というよりも、どうやったら日本の学者ではない方々にも読んでいただける本になるだろうかとまさに苦闘した本です。長くかかったけれど、やっと本になりました。ふ~。
せめて書店で手にとってください! どうぞよろしくお願いいたします。
くらくらする暑さから、働けど働けど......という日々から、自分や親や周囲の人たちの老いからの避難場所となってくれるのは、やはり読書です。ページを開けばどこかちがう世界に連れて行ってくれる本は、ほんとにありがたい友だちです。私のたいせつなどこでもドアだな。
というわけで、夏休みのうれしい興奮と、その下にあるかすかなせつない痛みを感じさせてくれた本たちをご紹介。
「しずかな日々」
椰月美智子著 講談社文庫
母子家庭の不器用な小学5年生が、転校先で友だちと出会い、すてきな先生と出会い、何より祖父と出会って同居するようになった最初の夏休みを描いたお話です。児童文学の賞をとった作家の作品で、本書も少年が主人公ではあるけれど、大人にこそ理解できる物語ではないでしょうか。
この本で最高にセクシーなのが少年のおじいさんです。物語のメインはたぶん空き地で草野球をするところなのだけれど、私はおじいさんが出てくるシーンばかりを繰り返し読んでじーんとしました。朝自分で考案した体操をし、おいしいごはんを炊いてもりもり食べ、井戸で西瓜をひやし、縁側のぞうきんがけをし、友人と将棋をさし、庭木の手入れをするおじいさん。自分で自分の生活を律し、でもけっして自分の生き方だけに固執することなく、孫の価値観や生活を柔軟に受け止めて愛情深く見守る。ほんとにセクシー。これがおばあさんだとあたりまえなのに、なぜおじいさんだとセクシーに描けるのか?
「人生は劇的ではない。ぼくはこれからも生きていく」――その言葉が胸にしみます。ついでに、この作者の「十二歳」は別の意味で名作です。
「ツバメ号とアマゾン号」
アーサー・ランサム著 神宮輝夫訳
岩波少年文庫
ずっと版切れだったのがようやく改訳で発刊されました。書評でも取り上げたので読み返し、はじめて読んだ高校生のころを思い出しました。全12巻がつぎつぎ改訳で出るそうで、ほんとに楽しみです。
あらためてこの年になって読むと、高校生のころには見えていなかったものが見えるものですね。高校生のころにはナンシィがかっこいいと思い、またスーザンに自分を重ね合わせて読んでいたのですが、今度はお母さんのふところの深さに感じ入りました。子どもをどうやって自立させるか、それを知っている人なんだわ。社会の「管理」とは何か? また個人の「自由」とは何か? それを子どもに教えられる人なんだな。
「夏休み」が単に「学校が休みだから遊ぶ時間」なのではなく、学校によってきめられている日常から離れた非日常によって、社会的訓練を積む時間なのだとわかります。組織論として読んでもおもしろい。
「丘の家のジェーン」
モンゴメリ著 村岡花子訳
新潮文庫
高校生のころの愛読書。父母が別居して、母親とともにトロントの裕福な祖母の家で暮らす少女ジェーンが、夏の間だけ父とともにランタン丘で暮らします。夏の小さな家の小さな主婦となって、思う存分家事を楽しみ、父と対等に話をすることによって大きく成長していく思春期のジェーンの姿を描いた作品です。トロントの立派な家には使用人が何人もいて、彼女は自分の部屋の掃除をすることさえ許されず、そのためもあってつねに自分が「半人前」だという情けない思いを味わっています。ヴィクトリア朝の流れをひく女性観、子ども観を持つトロントの祖母と、きわめて20世紀的かつ大衆的な子ども観の父親との間を行き来していくうちに、子ども期を脱する少女がまぶしい。
私は高校生のころ、モンゴメリ作品にどっぷりつかっていました。アンのシリーズも好きだったけれど、15歳のときに出会ったこの本と、「可愛いエミリー」を一番読んだかもしれません。ジェーンに料理をし、家を居心地よくするという生活の楽しさを教えられ、エミリーによって書くことの喜びを学びました。いま読み返すと、カナダの当時の厳然とある階級差別、移民・入植者の生活の厳しさや、ヴィクトリア朝的、かつスコットランド的の考え方にへきえきとするところもあるのですが、それでも夏休みの貴重な期間に成長していく少女の姿に胸がきゅんとなります。
夏休みにはイベントがなくっちゃ~と考えるお父さんお母さんは多いかもしれませんが、子どもの心に残っていく夏休みの思い出は、実はドラマなどない平凡な日々のちいさなルーティーンだったりするのかもしれません。そんなことを教えてくれるのも、本たちなんですね。
最後に。
「堕落する高級ブランド」 (ダナ・トーマス著・講談社)が、なんと刊行後1年以上たって、また増刷になりました(5刷)。ほんとありがたい。ありがとうございます。
昨日は『少女マンガを読む研究会』というのにいってきました。ひさびさに知的刺激をいっぱい受けて、めちゃめちゃ楽しかった。ありがとうございました、みなさま。お昼過ぎからスタートして、研究会は一応夕方でお開きになりましたが、その後ごはんを食べにいってまたまた盛り上がり、いやしゃべったしゃべった。爽快な気分で帰宅しましたよ。
マンガの話からどんどん発展していって、最後は「メディアリテラシー」について侃侃諤諤の議論に。かなり内容が濃かったので、議論の詳細について紹介することはとてもできないのですが、帰る道々考えていたのは「私はいったいどんな情報を得たいのか?」そして「どんな情報を発信していきたいのか?」ということでした。
iPhoneを手に入れたとき、私はひそかに「これでTwitterがもっとラクにできるようになる」と思っていました。プラス、もっとネットにアクセスする時間が増えて、外出中に調べものがもっと便利にできる、やったね、とうれしかったのです。
ところが......予想とはまったく逆に、Twitterはほとんどやらなくなり、ネットにつなぐことも(ケータイ使用時よりも)減り、じゃ何をしているかというと、iPodに入れた音楽やら中国語のテキストを聴きながら、リーディングのファイルか辞書を読んでます(前も書いたように、私は辞書を読むのが好き)。
加えて、これも前に書いたようにPCでもネットにアクセスする時間がだんだん減ってきていて、iPhoneを手に入れてからというのも仕事するかブログを書くときにしかPCを立ち上げなくなりました。デスクにはついていて、何をしているかというと昔の人(1890年から1960年代まで)が書いた本を読んだり、アナログに万年筆や鉛筆で手紙や作文を書いたりしているのです。
もしかすると世界ではトンでもないことがいっぱい起こっていて(もしかしなくても起こっているでしょう)、PCを立ち上げてその情報を得ないことによって、私はトンでもないリスクを負ってしまっているのかもしれません。以前はかなり本気で「世の中の動きにおいていかれる」とか「知らないとソンをする」ということに、恐怖に近い感情を抱いていました。メディアリテラシーとはつまり、ハード面でのPCやらスマートフォンやらの機能に詳しくなり、ネットに常時アクセスして情報を検索し、そこから「正しい」ものを見つけ出すことだと信じていました。
でもねぇ、なんかちがうような気がする。それに、もういいや。
私が知りたい、見たい、聴きたい、読みたい情報は、ネットでは見つからないように思います。
私は見えないものが見たい、聞こえない声や音を聴きたい。
見えないものが見えて、聞こえないものが聞こえた人たちが書いた言葉を読みたい。
そういう人たちが何を考え、どんなことで笑い、何に涙している(た)のかが知りたい。
ときの流れにまぎれこみ、「時代に合わない」とか言われて忘れられてしまっているかもしれないけれど、なんとか見つけ出したい。
そしてそれを伝えていきたい。
でも、伝えるためのメディアはいったい何なのだろう?
それが今の私にとって、大きな問題なのです。
さっき洗濯物を取り込みに行ったら、とても気持ちのいい風が吹いていて、いかにも夏らしい夕暮れでした。やっと晴れ晴れと青空を眺めることができましたよ。
なぜなら、再校が終わったから。
昨晩から半分徹夜してゲラを見終わって、夕方にバイク便で出したあと、しばらくその場に座り込んで動けませんでした。
達成感......(まだ終わってない。念校が出る)......というのでもないし、疲労感......だけでもないし。出来栄えに満足しているかどうかさえもわからなくなるくらい、いろんなものをしぼりきりました。
8月末に書店に並びます。
『菊とポケモン』
アン・アリスン著/実川元子訳
新潮社
労作です。いろんな人の汗がにじんでますよ。
詳しい内容については、出版されたらあらためてご紹介します。
かいつまんでいえば、日本のポップカルチャーがなぜグローバルに成功できたか? という話ではあるのだけれど、そこに行き着くまでにフロイト、マルクス、ウェーバー、ドゥルーズ&ガタリ、中沢新一、アルジュン・アパデュライ、セーラームーン、パワーレンジャー、たまごっち、ポケモンなどなど総出演ですよ。
さて、今から神戸戦。がくがくぶるぶる。
3日間の連休は、文字通りiPhoneとともに過ごしたジツカワです。
やっていることの半分以上がアプリの検索。もっとネット閲覧をするかと思っていたけれど、最近ちょっとネットそのものに飽きてきたこともあり、15分ほどまわったところでやめちゃってます。(でも、試合終了後まもなく、YouTubeでJリーグダイジェストが見られたのには感動したぞ)
iPhone購入動機の1つが「ちゃんとした辞書がほしい」でした。これまでもネットで無料の辞書(英和、仏和、国語、漢字)は使用してきたけれど、なんというかな、探している言葉プラスアルファを見つけるのにふさわしい辞書にネットで出会ったことがなくて、結局紙辞書か電子辞書を引きなおしってことが多かったのです。翻訳では辞書に載っている言葉をそのまま使うことはあまりなくて(私の場合)、つねづね不満でした。私の場合、インスピレーションの手掛かりを得るために辞書を引くってことが多い。そして私がインスピレーションを得やすい辞書があるんですね。つまり私と相性がいい辞書。それは例文の巧みさだったり、言葉の並べ方だったり、語源の説明だったりして、一概には言えないのですが、一つだけ言えるのは「たくさん並べりゃいいってもんじゃないだろう!」という怒りを私に与えない辞書であることが重要。言葉の並べ方や説明に秩序があり、解釈に共感と発見があるのが私にとってのいい辞書です。今のところ、私のお気に入りの英和はランダムハウスで、リーダースやオクスフォード(英英)も使うのだけれど、どうしても「最後はランダムハウス」に行き着きます。私の「脳内グーグル機能」と一番マッチしているせいかな。
それを越える辞書アプリがないか、というのがアプリ探索の目的でした。結論は......今のところ、見つけてないです。しかたなくウィズダムを入れました。これがいいかどうかわからないけれど、消去法でまあこれがいいかな、と。新幹線のなかで仕事をしていたのですが、それには十分用が足りました。
仏和はまだ迷っています。って、迷うほどないけれどね。ロベールしかないよね?(→フランス語専門の方に訊いている)中国語は小学館のを大枚はらっていれました。初心者なので十分役立つし、読んでいるだけで楽しい。実際、朝起きてから「これは中国語でなんというか?」とすぐにiPhoneくんに訊いて楽しんでます。
そのほかアプリ検索でいろいろ楽しいし、iPodも活用しているし、iPhoneで当分楽しめそうです。
連休は大阪の実家へ。ええ、ええ、ガンバの「伝説の試合」を観戦した勝ち組です(えばっていいよね!)。ヤットのロスタイムゴールの直後は、泣きましたよ。身体がふるえて、自然に涙がこぼれました。W杯のFK以上の感動だったかも。やはりガンバで、しかもナマ観戦での感動は最高です。試合内容は......でしたが、もういいんだ、そういうことは。ルーカスが骨折で離脱だそうですが、そういうことは悔やんでもしかたない。若手を成長させるチャンスと腹をくくって、がんばれ、ガンバ!
父が私のiPhoneを見てすごくうらやましがって、iPodnanoを購入したい、と言い出したので一緒に電機店に行きました。身体の自由がしだいにきかなくなって、よろよろしている父ですが、炎天下のなかを「iPodを買う!」という執念で杖をつきながら行く姿にちょっと感動。CDから楽曲を取りこむ方法を教えながら、「でも、お父さんには無理だろうなあ」と思っていたら、今朝電話があり、さっそく新しいCDを10枚以上取り入れて聴いている、とのこと。アルバムのリストが見えないので拡大鏡を使っているそうです。音量の調節一つにも苦労しているようですが、それでも新しい機器を使いたいというその意欲に感動。86歳の挑戦、がんばれ!
ご近所でいつもとってもお世話になっている木村圭子さんは、すてきなイラストを描かれます。
その圭子さんのイラストが見られるのが「せたがやクオータリー」という年6回発行の小冊子。
「せたがやの散歩道」というコーナーで、世田谷の印象的な建物とともに地元の人に愛されている「味」やその地で起きた出来事、生活した人々の歴史が紹介されていて楽しい。こないだ発刊された7月号では等々力が紹介されていて、そのページがこれ↓
圭子さんのホームページでは、紹介しきれなかったお店や名所旧跡なども描かれた「Making of せたがやの散歩道」を見ることもできます。
http://homepage2.nifty.com/kin-chan/
世田谷にお住まいの方は「ああ、ここ知ってる!」とか「こんなところがご近所にあるのか!」といろいろ発見や共感などできると思うので、ぜひごらんになってくださいね!
ふ~。初校ゲラ、完了。今から編集者に渡しがてら打ち合わせです。400ページの本ですよ。ひさびさに大部。難解で、大部な本を翻訳するのはそろそろきつくなっているかも。何が問題って、訳注と注記の文字が老眼で読みにくい(汗)拡大コピーをとってしまいましたよ。
実はこの仕事に取り組んですでに1年が経過したのですが、自分の実力と知識が足りなさ過ぎて、何回となく「もうできない!」と投げ出したくなりました。私には無理だ、とてもじゃないが満足がいくまでできそうにない、だからおもしろくない、でもやらなくちゃいけない、つらい......とやりながら「マイナス思考」が頭のなかをぐるぐる。家族や友だちにグチって、負の感情をはきまくり。
でね、先週、ため息をつきながら原書を眺めているとき、ふと窓の外を見たら梅雨の晴れ間で夏の光がきらきらしていて、おむかいの家のあじさいとくちなしの花がきれいで、外はこんなに明るいのに、私は暗いぞ、と考えたときに、やっと自分が「負のスパイラル」に入っていることに気付きました。
マイナスの感情をいったん持ってしまうと、やる気まで失って、けっしていい仕事はできない。もうダメ、できない、といったん口に出したら、もうできません。
反対にプラスの感情を持ってこそ、やる気がわいてきて、質の高い仕事につながっていくはずです。
そんなこと、何十年も働いていてわかっていたはずなのに、目の前の感情にだけとらわれて、つい忘れていましたね。
プラスの感情を持つことはできなくても、少なくとも負の感情は持たない。その前に、まず負の感情を口に出さない。言葉にしない。それが大事。
難しい仕事だからこそ、やりがいがある。そう思い直して、さて、いってきます!
この1か月余り、ちょっと低速走行気味です。何がって、仕事とサッカーに対して。仕事しなくちゃ~とアクセル踏むのだけれど、どうもギアがちゃんと入らず、ずっとローのままがくがくしながら走っている感じ。
でもってサッカー。今日からW杯開幕だというのに、どうもイマイチ気分が盛り上がりません。来週、恐ろしいゲラが出てたぶん2週間はサッカーどころではないのが目に見えているので、気持ちに自己規制をかけているのかも。
でもって今、夢中なのは中国語学習。これだけは心が弾みます。新しい言葉を学ぶのはなんでこんなに心躍ることなのか!
たぶん来週からまた締切と格闘する日々が来て、しかもそれが心弾む仕事とは言い難いので、今日のうちにこの1か月あまりに読んだ本のことをタイトルだけでも書いておこうと思います。ほんのメモがわりに。
『オシムからの旅』
木村元彦著 よりみちパンセ(理論社)
サッカー批評という雑誌に書評を書いたのですが、少ない文字数ではとても書ききれなかったほど中身の濃い本でした。中高生向けのシリーズではあるけれど、大人こそ読むべきかな。民族、国境といった恣意的につくられたものの壁に、サッカーの力がどう立ち向かい、そして崩していったのか、ということがストイコビッチ名古屋監督と、オシム元日本代表監督の話から書かれているのですが、圧巻は第三章「オシムからの旅」。旧ユーゴの紛争を、私たち日本人は日本からどう見たらいいのか? グローバル化によって、民族や国境はどうなっていくのか? そんなことをあらためて問題提起しています。
『カラマーゾフの兄弟』
ドストエフスキー著 亀山郁夫訳 1~4巻 光文社古典文庫
亀山氏にインタビューすることになり、急遽読みなおし。で、すみません、第4巻まで読み終わったところでインタビューの日が来てしまい、第5巻未読です。ずーっと昔、高校生の時に米川正夫氏の訳で読んだことがあるのだけれど、この年になって読みなおすとあらたな発見、というか記憶に残っているのと大きく異なる作品として堪能できました。「罪と罰」にも通じるけれど、正しい行いとは何か? 人として立派である、とはどういうことを意味しているのか? それを自分に問いかけ、突き詰めていった作品なのだな、と21世紀の私は思いましたよ。高校生のときに抱いた感想は「カネが人をこわす。借金とオンナがオトコの永遠の問題だ。結婚するなら借金とオンナ遊びをしない男にしよう」でしたが、さすが大人になると視点が深くなります(違)。私がおもしろかったのは、第4巻。裁判のところはとくに盛り上がりました(個人的に)。佐藤優さんの本を読んでロシアについて少し下地ができたせいか、スメルジャコフに対する見方が変わって妙に共感しちゃったりして。
『コフィン・ダンサー』
ジェフリー・ディーヴァー著 池田真紀子訳 文春文庫
読後、ジェフリー・ディーヴァーさんのツイッターをフォローしています(笑)。と言いながら、うーん、カラマーゾフのあとに読んだせいか、気持ちが乗らないまま終わってしまいました。CSI大好きな私だから、主人公の科学捜査官にもっと思い入れを持ってもいいものなんだけれど、美男子とされていながら頭に浮かぶのがギル・グリッソムの顔で、手足となって働く女性警察官のイメージもキャサリンになってしまうせいか、どうもダメ。で、一気読みにもかかわらず「おもしろかった~」という満腹感がない。それはたぶん一人として共感できる人物がいなかったせいかも。少し共感して肩入れできたのが、何かとにぶい市警の警官セリットーだっていうんだから。警察側にもだけれど、犯罪者の魅力がないことが満腹感欠如の原因かなあ。
『愛のゆくえ』
リチャード・ブローティガン著 青木日出夫訳 早川epi文庫
ブローティガンは藤本和子氏の翻訳で読んだ『アメリカの鱒釣り』が一番好きで、晶文社から出ていた単行本の表紙の作家本人の写真を本棚に面だしで飾っていたこともあります。ほんと好きだなあ、ブローティガン。藤本さん以外の翻訳家で読んだことがなかったので、興味があって購入。ひさびさに読んだけれど、ブローティガンらしい空気が流れている不思議な作品でした。図書館が舞台っていうのがなんともいい。
『経産省の山田課長補佐 ただいま育休中』
山田正人 文春文庫
著者が横浜市の副市長になっているのを知ってびっくり。この本の中で一番印象的だったのは、世間一般の男性(もしかしたら女性もか?)の育児と家事に対する評価のあまりの低さかな。妻(著者と同じく官僚)のお姉さんが専業主婦で、共働きの著者夫婦が育児や家事で何かと世話になっている。で、地域でやはり子育てで困っている家庭の手助けをする仕事を始めたことに対して、お姉さんの夫が言った一言。「彼女はそのくらいのことしかできないのでね」。そのくらいのこと=育児と家事。山田さんは育休をとってみてやっと育児と家事がいかにたいへんか身にしみたので、この一言は世間一般の男の気持ちとわかりながらも、怒りをおぼえる、というのです。
ただね、もっと評価してくれよ、と私も言いたいところだけれど、今振り返ってみると私自身が育児と家事を過大に「やらなくちゃいけないこと」「たいへんなこと」と評価してた点は否めないな。もっと肩の力を抜いて、手抜きしてもよかったのにね。でもって私が満足いくところまで(レベルが高いんだ、私の満足度は)手を貸そうとせず、育児家事への評価が低い夫に不当に(というのは、やったことがなくて、やる必要も感じず、やる気もない人に、やれやれと言うことの不当さ)怒っていたな、という反省もあるので、まあ、お姉さんの夫ばかりを責められません。
『なぜフランスでは子どもが増えるのか』中島さおり著 講談社現代新書
『モードとエロスと資本』中野香織著 集英社新書
山田課長から引き続いて読むと、ほんとおもしろい2冊でした。が、この2冊は書評に取り上げるので今ここでは書けません。
『恋愛と贅沢と資本主義』
ヴェルナー・ゾンバルト著 金森誠也訳 講談社学術文庫
中野さんの本に触発されて読みました。もっと早く読んでおけばよかった。なんというか、これまで私がいろいろ四苦八苦して考えていた「誰のために着飾るのか?」「なんで人はファッションにこんなに踊らされるのか?」という命題について、ちがう視点でとらえられたのにぃ。ついでにいえば、恋愛と結婚の折り合いをどうつけるのかってことに対しても、ゾンバルトさん、明快な答えを与えてくれます。非合法だからこそ恋愛は成立するってね。
でこの4冊を読んだ結論として、もしかするとポストモダンの時代において、資本主義社会でまっさきに消えていくのは恋愛ではないか、という気がしたのでした。その思いをもっと強めてくれたのがつぎの2冊。
『動物化するポストモダン』
『ゲーム的リアリズムの誕生』
東 浩紀著 講談社現代新書
東さんの言説にはオタク文化にうとい私でさえもツッコミどころがいろいろあって、そこをたぶん大塚英志氏などがツッコミを入れているのだと思うのですが、それでも刺激的。『動物化する~』はだいぶ前に読んでいたのだけれど、『ゲーム的~』を読んだのであらためて再読。たった5年でこんなに大きく変わったのか、と思いました。今はもっと変わっているかな。
「物語」が消費されていく時代をへて、「物語」そのものが消えつつある時代に、「物語」がなくては成立しえないリアル社会の恋愛はどうなっちゃうのだろうか、と頭を抱えちゃいます。
だんだん疲れてきたので、仕事がらみで読んだ本もタイトルだけ入れておきます。
『神の捨てた裸体――イスラームの夜を歩く』石井光太著 新潮文庫
『レンタルチャイルド――神に弄ばれる貧しき子どもたち』石井光太著 新潮社
石井さんは写真がとてもいい。ものすごく悲惨な現場をとっているのに、いろいろな邪念を極力取り除いて撮っているためか、しらじらとした現実が妙に明るい。だが、文章がちょっと......いや、これはあくまでも好みの問題です。
『白洲正子自伝』 新潮文庫
何回読んでもいいなあ。なかでもイランに旅したときの「旅は道草」のエッセイが好きです。
『秋瑾 火焔の女』 山崎厚子著 河出書房新社
秋瑾の写真を以前に陳舜臣氏の著書で見て忘れられなかった。強烈な人生です。
『江戸百夢』田中優子著 ちくま文庫
近世図像学の楽しみ、という副題のとおり、絵のなかから読み取り時代と人間です。博学の学者の語り口が痛快。
で、私はこの本を読んで、なぜかツイッターとかブログとか電子書籍について考えてしまいました。知識と情報って質的な次元でちがっているんだな、やっぱり。でもって読んだのが以下。
『電子書籍の衝撃』佐々木俊尚著 携書
書かれているないようなあまり衝撃ではなかった(汗)といいながら、やっぱりiphoneにして、iPadも買おうと思った。
『変愛小説集Ⅱ』岸本佐知子編訳 講談社
書評するので感想文はここではなし。でも、一言。おもしろい!
『愚か者、中国をゆく』
星野博美著 光文社新書
『謝々! チャイニーズ』
星野博美著 文春文庫
本に導かれるように旅をした、という経験が何度かあります。
ロディ・ドイルの本を翻訳したおかげで、アイルランドを旅した、なんていう非常にベタな経験もあれば、井上ひさしの『黄色い鼠』を読んで、どうしてもオーストラリアの砂漠に立ちたいと行ってしまった、という若気の至りのようなこともありました。
そして私の「中国に行きたい!」という気持ちをぱたぱたとあおいで火をつけたのが、新井ひふみさんという若い学生さんが書いた『中国中毒』でした。(『中国中毒 チャイナホリック』新井ひふみ著 三修社)でした。
1984年に出たこの本と、上下2冊の厚手の中国のガイドブックを隅から隅まで暗記するくらい読んで、ああ、行きたい行きたい行きたい中国! とNHK中国語講座を見ていたのは長女が4歳のころ。家族に大迷惑をかけながらあこがれの中国初上陸は1986年春。新井さんと同じ経験がしたくて、上海の駅でチケットを一人で買おうとしたのだけれど、まず人の波に勢いに圧倒されてひよわな日本女性(私)は押しやられ、挙句に(たぶん)親切な中国人に救われて、高いチケット代を払って外国人向けの特権車両で一人のうのうと杭州と蘇州まで行ったのも今となってはいいんだか悪いんだかわからない思い出です。
「何か学びたい病」にかかって、しかも抜群のタイミングで先生と出会ったおかげで20年ぶりに再開した中国語。始めてみるとほんとに楽しくて、まずいことに仕事はさておき状態ではまっています。Zhege yong Zhongwen zenme shuo?(これは中国語でなんといいますか?→Ling zi laoshi, zhe yang xie dui bu dui?) といちいち自分に問いかけ、日中辞典と中日辞典をのぞく日々。なぜ中国(そして中国語)にこんなに魅せられるのか、自分でもふしぎです。中国が好き、中国語が好き、というわけではないから。
これまで西欧列強(笑)の言語習得に励んできた私で、それはそれで楽しいのだけれど、中国語という日本語の源流に影響を及ぼし、また日本と深くかかわるところの言葉を学ぶことには、楽しいだけではないいろいろな感情がまといつきます。その感情は自分でも予想外に強く、しかも複雑。アンビバレントなその気持ちを抱いて本屋を歩いていたとき、ふと目にとまったのが星野博美さんの本でした。
星野さんの『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)は返還時に香港に留学していた体験記で、これはもう名作の域に達した内容なのですが、数年前に読んだときには「おもしろいなあ」ですませていました。
でも、今回読んだ2冊は、おもしろい、とか、鋭い、とか、そういう月並みな感想を越えた、突き刺さってくるものがありました。『愚か者、中国をゆく』は1987年、当時留学していた香港から本土にわたってシルクロードをアメリカ人の恋人と旅をした(そして旅の過酷さが遠因となって別れる)旅行記で、『謝々! チャイニーズ』は1993年と1994年の二度の夏に華南を一人で旅した旅行記です。
2冊にある何が私の胸を刺したのか? 読み終わってから数日間、ずっと頭から離れませんでした。まだ結論は出ていないのですが、一つに「生きていくことの責任の取り方」について、中国と日本のちがいに著者が言及している箇所ではないか、と考えます。
『愚か者~』で著者は行ってみたいという気持ちだけで好きなところに「旅」ができる身分である自分たちと、生きていくためにどうしても「旅」をしなくてはならない中国の人たちが一緒になって切符を奪い合い、席を奪い合う光景を描きます。同じ貧乏旅行であっても、かたや選択肢というとてつもないぜいたくが許される「貧乏」な旅であり、かたや移動できるだけでありがたく非常にぜいたくな旅です。貧乏旅行の学生たちは、お金を払って経験を買ったように思って誇らしげな気持ちになる。中国の人たちは旅の間も商売を忘れず、どうやって旅行費用を稼ぎ出し、しかもそれにまさるカネを得ようかと必死に考えながら旅をする。生きること自体への切実さがまるでちがう。
ちがうのは「旅」に対する考え方だけではありません。家族とか友だち(朋友)という人間関係の解釈も根本的にちがう。『謝々!~』で著者は、周さんという福建省の島の親切な男性とのつきあいで、「朋友」という人間関係が根本的なちがっていることに気づいて愕然とします。「朋友なんだから、自分が日本と商売をするのを助けてたり、自分の朋友を監獄から出す手助けをしてくれてもいいはずだ」という周さん。「朋友なんだから、関係に一線を引いてお互い自分に責任をもって相手に負担をかけないつきあいをするべきだ」という著者。生きていくためにはお互い利用できるところは徹底して利用する人間関係だとするか、それともまず相手に迷惑をかけないような距離でつきあうことこそ本当の友だちだとするか。生き方の根本にもかかわるところでも、中国と日本では大きなちがいがある、ということに著者は気づくわけです。
中国語を学び始めてわかったのは、漢字が理解できるおかげで単語の習得は西欧の言葉よりはるかに楽だ、ということです。書いてあることもなんとなく理解できる。でも、それが大きな落とし穴なのだと思います。
中国と日本は当然のことながら大きくちがう。根本的なところがちがう。しかも中国と一言でいっても、恐ろしいほど広い。いろいろな人がいて、しかもその「いろいろ」のレベルが日本とはけた外れです。言葉にすると「なーんだ」というような月並みなことなのだけれど、そのちがいを自分の目で見て、耳で聴いて、肌で感じないことには、中国は日本にとって戦争とビジネスの相手だけになってしまう。
しっかり中国語(普通語ですが)を学んで、もう一度中国と出会いたい。読後、新井さんの本以上に「どうしても行きたい中国」病にかかっています。その意味で、出会ってしまった本でした。
50歳を迎えたとき、「あわわ、もう50やんか」というややあせりもあって「やりたいことは、全部やる!」と決めました。年賀状にも書いたもんね。体力、気力、家族との関係(育児とか介護とか)、過去を振り返り、将来を見据えて考えると、私がやりたいことができる時間は実は50代の10年間だけなんじゃないか、と思ったからです。
で、その50代も半分を過ぎ、今のところやりたいことはかなりやっているかな。
やるべきことをやって、しかもやりたいこともやるためには、効率のいい時間の使い方が重要だ、と50代突入時には思っていました。
ところが、ですね。半分すぎてわかったのは、効率のいい時間の使い方なんて、実はないんですね。
人間は機械じゃない。体調や気分ってものがあって、日によって体力や気力のコンディションがちがいます。何時から何時までにこれを片づけて、何時からあれをして......なんていくら計画を立ててもそのとおりにいくわけがない。こまかいスケジュールもさることながら、一か月単位、一年単位で考えたスケジュールも思うようにはいかない。いきなり仕事が入ることがあれば、いきなり仕事がなくてぽっかり時間があいてしまうこともある(今の私)。「効率よく」とはつまり、「計画通り」「思った通り」に時間を使うということに通じますが、そうはいかないためにストレスを感じるようであれば、本末転倒。
生活の面倒事を別の人に任せきりにできる人(おもに男性ですね)は、たぶん仕事のことだけを考えていればいいので、効率のいい時間の使い方が実行できるのだと思います。仕事第一、というか、仕事だけでいい、となれば、そりゃ効率よくいきます。でも、家のことも、家族のことも、仕事以外の人間関係も、もちろん仕事も、趣味も、全部とっても大事、という私のような人(おもに女性)にとっては、効率よく使わなくてはならないのは、時間ではなく気分(気力、といったほうがいいか)。
やらなくてはならないこと、やりたいこと、どちらに対しても「やらなきゃ!」「やりたい!」という気分を盛り上げる。反対に、切り替えもさっさとやる。すんだことはくよくよしない。
かつだらだら、ぐでぐでした気分のまま、まったく何もしない一見ムダな時間を過ごしても、自分を責めない。つぎのやらなきゃ、やりたい気分を盛り上げるための「アイドリング」もしくは「整備モード」と考える。そういうモードのときには、手抜きできることは、思いっきり手抜きする。手抜きしたことでも、自分を責めない。なんくるないさーで流す。そういう時間があるからこそ、やる気も出てくるってもんです。
生活に最低限の規則正しさは必要だけれど、規則正しい(つまりは効率のいい)時間の使い方に固執すると、やらなくてはならないことだけに追い回されて、やりたいことはできない。
なんてことを考える午後。やる気がわいてくるのを待ちながらアイドリング中。(ゲラ読みにちょっと倦んでいる......)



