読む快楽

活字中毒患者です。朝15分読まないと起き上がれない。最低1時間読まないと眠れない。夢中になって読んだ本を教えずにいられない。おもしろい本、 常時募集中!

「静かなノモンハン」

伊藤桂一著 講談社文芸文庫

 

 自分が生きてきた昭和という時代を、実はまったく知っていなかったということに気づいて愕然とすることがあり、少しずつだけれど、その当時のノンフィクションを読んでいる。

 なんとなく本屋で見つけて購入し、翌日から出張に出かけて飛行機のなかで読み始め、帰りの新幹線で読了。最後の著者と司馬遼太郎の対談の一言ひと言が胸に突き刺さった。

 関東軍とソ蒙軍とが、満蒙国境で戦った凄惨な記録である。

 戦略も戦術も、もっといえばまともな兵器や食糧・水さえも与えられず、何の役にも立たない重い荷物を背負わされて徒歩で砂漠地帯に放り込まれた日本の兵士たちが、死に物狂いで戦って......というか、殺されて、無残に敗退していった有様を、詩人の著者が3人の兵士たちの聞き書きでつづっている。

 鈴木上等兵、小野寺衛生伍長、鳥居少尉の3人は、大半が戦死したなかで奇跡的に生き残った人たちである。著者のインタビューにもなかなか応じてくれなかったそうだが、重い口を開いて、自分の目で見て、耳で聞いて、からだで感じた戦争を語った。

 全員、ノモンハンに送られたときは若かった。鈴木氏と小野寺氏は2人とも北海道出身。10代、20代の若さで召集され、ろくに訓練も受けないうちにいきなりの実戦がノモンハン事件だった、という。

 ノモンハンを世界地図で探してみた。平凡社世界地図にはのっていない。著者が「集落というより蒙古人たちが名づけた地名」であり、「遊牧民たちが、そこにときどき、パオの群落を築くだけの、寂しい場所でしかない」というような砂漠のなかにあるらしい。こんな何もないところに放り込まれて、歩けども、歩けども見渡すかぎり砂漠で、地平線の向こうから戦車が列をなしてやってくるのを見たときには、どんなに恐ろしかっただろうかと、地図の上からでも想像する。

 昭和14年5月、外蒙兵が日本の警察を攻撃してきたことをきっかけに戦闘が起こり、8月末に停戦にこぎつけるまでに、日本側の死傷者はざっと計算したところ、14505名にのぼった。出動人員のじつに33%が犠牲になった。数字を見ただけで、たった数ヵ月間にこれだけの犠牲を出して敗退し、しかもその後も愚かな戦いを続けたのはなぜだったのか。

 著者は、砂漠のなかをソ連軍の戦車に追い回され、まわりで大勢の仲間たちがなすすべもなく殺されていくのを歯がみをしながら眺め、爆弾が落下した穴のなかに息をひそめて隠れるしかなかった兵士たちのなまの声を淡々とつづっている。死のぎりぎりまで追いつめられた人間が、そのとき何を思ったか。のどが渇いた、痛い、苦しい、息ができない、そんな人間の本能的な欲求や生理を超えて、なまの感情があふれだす、というところがすごい。うれしい、ありがたい、恐い、くやしい、恥ずかしい......肉体的に極限状態にあり、精神的に絶望の縁まで追いやられても、人はそんな感情を抱いて、しかもそういう感情をもったシーンを克明におぼえているものなのだ。そして、全員が共通しておぼえるのが「虚脱感」である。何をすることもできず、仲間も救えず、ただぼろぼろになって帰ってきただけ。いったい自分はなにをしたのか、何もしていないではないか、という虚脱感。

 最後の対談で、戦争体験者である司馬氏と著者が、なぜ日本は愚かな戦いをしたのか。そして、敗戦してもちっとも学んでいない。それなのに自覚がない、という話をしている。

 2人ともけっして戦争を美化しない。劇画のように描かない。砂漠のなかに生えている、羊が食べる草をかみながら行軍したという小さなエピソードを連ねながら戦争を語る。そうしないと、戦争の生の姿が見えてこないのだと思う。

 戦争をまったく知らない世代の人間は、こういうノンフィクションで戦争の実態をせめて頭で理解したほうがいい。

 愚かでない戦争、かっこいい戦争なんてあるわけない。どんな戦争も愚かで醜い。でもそれがどんな風に醜く汚く、そしてばかばかしいのかを知るために、こういう本こそ読んだほうがいい、と思う。

来週までに入稿3冊って......。

今月末までの締切も1冊。

歯の手術を延期し、バーゲンも泣く泣く見送り、何よりも優先していたガンバの試合観戦もあきらめ、家事協力要請を家族全員に出し、がんばりますよ。

 

ランキング

| 読む快楽 | コメント(0)

 昨晩、NHKクローズアップ現代で「書店のランキングの功罪」を取り上げていた。

 私は比較的書店によく行くほうだと思うが(仕事柄あたりまえだ)、面出しされているランキング本を見てチェックはしても、買ったことがない。みんなが読んでいる本を私が読んでも意味がない。あまり読まれていないけれど、実はものすごくおもしろい本を探さなくちゃ本を読む意味がない、とまで思っていますです、はい。いや、実を言うと読んでいる本の8割は仕事がらみなので、楽しみで読む本くらい好きな本を読みたい。

 ただ、番組でもいわれていたが、本に関しては「ランキングには左右されない」という私の行動はあまり一般的ではないだろう。それは認める。本を読む目的、探す目的が、一般的ではないから。

 だが、私はほかのこと――グルメ、エンタテインメント、美容など――に関しても、ランキングを見ない。ランキングを見るのは「ランキングに出ていないものを探そう」と思うときだ。映画の「興行成績ランキング」だの「コメント数ランキング」だのは、その裏にある作為が感じられて、見るだけ腹が立つ。観たい映画は、監督と簡単なストーリーで決める。貴重な時間とお金を使う以上、自分で決めて納得したい。最近ではめっきり減ってしまった外食でレストランを選ぶときも、メニューと店のたたずまいで決める。失敗もあるけれど、ランキングみたいな他人のあやふやな評価や作為で決めて失敗したときよりは、不満度が低いから。

 なんだかね、あちこちのサイトに貼りついているランキングを見ると哀しくなってしまうのだ。

 そんなことまで「みんなと一緒」にしたいのかな、と思って。そういう時代はもう10年前に終わったと思っていたんだけれど、そうじゃなかったのかな。

 みんなが読む本を読んで、みんなが見る映画やテレビ番組を見て、みんなが行くレストランに行って、みんなが使っている化粧品を使って、みんなが着ているブランドの服を着て、それ、何がおもしろいんだろう。それでいて「私、ちょっと変わってるっていろんな人に言われるんです」とみんな同じことを言う。

 マーケティング手法のメインがランキングていうのは気持ち悪い。ランキングに振り回されるのは、もっと気色悪い。

 ああ、今日の私は毒吐いている。

 『臨死、江古田ちゃん』第3巻がいまいちパワーに欠けていたせいかもしれない。難波ゆかり、いい加減にダメンズをやめさせてください。

「誘拐」

| 読む快楽 | コメント(2)

「誘拐」 

本田靖春著

ちくま文庫

 

自分が生きてきた昭和はどんな時代だったのか、ということをあらためて知りたくなり、今年に入ってから、昭和のとくに戦後に起きた事件をたどって読んでいます。「下山事件」「疑獄事件」は記憶にあまり残っていなかったのですが(しかしこの2つの事件もあらためて読むと衝撃でした)、「吉展ちゃん誘拐事件」はたぶん私の記憶に鮮明に刻まれた最初の大事件だったと思います。私が9歳だった1963年、東京オリンピックを1年後に控えた東京の下町で起きたなんともいたましい事件でした。

本田靖春氏は、この優れたノンフィクションで犯人の小原保側から事件に迫っていきます。福島県の山間の貧しい農村で生まれた犯人の貧しさ――読んでいて胸が痛くなるほどの貧困――を淡々とした文体で描いていくのです。

誘拐事件とそれの解明に向けた刑事の取り調べ以上に、戦後の混乱からようやく落ち着きを取り戻してきた......それどころか高度成長期を経て経済も社会も安定していたはずの日本で、ついに営利目的の幼児誘拐・殺人という重罪を犯してほど追いつめられていく犯人の心象を暴いていくところが、このノンフィクションの真骨頂でしょう。貧しいからといって、犯罪をおかすのは大きなまちがいだが、貧しさが犯罪を生む土壌となることは否めない、という著者のスタンスが犯人像をより鮮明にしています。

著者はこの事件を通して、貧しさから抜け出すためには、教育が重要、教育が、人を反社会的行為(ひいては犯罪)に走るのを救う、ということを言外に訴えています。

それは楽観的すぎる、というかもしれませんが、この時代のような貧困層を生み、格差が大きい社会に逆戻りしないためには、やはり教育しかないのではないか、と読後しばし考えてしまいました。教育はすぐに投資効果があらわれるものではないし、高齢者対策とはちがって票にもつながりません。でも、このまま教育費を高騰させ、教育格差を広げるままにしていけば、戦後の混乱期と同じような不安な社会になるのは時間の問題に思えます。もう十分不安で不穏ではありますが。

 

話変わって。

歯の骨再生手術は無事終わりました。

痛いことは痛いけれど、少しはマシになるかなと期待があるので、痛みさえもポジティブに受け止められます。

しばらくごはんが食べられないのが一番つらかったりして。

コメント欄について

| 読む快楽

先日来、コメントにスパムが送られてくるようになりました。

手動で削除していたのですが、昨晩数分のうちに70件以上も送られてきたので、しばらくコメントの書き込みができないように設定しました。

送りつけられるスパムコメントを防ぐいい方法が見つかれば復活しますが、それまでの間、コメントができないことをご了解ください。

 

いてて......目が疲れているので、目薬をさそうとしたら、うっかり目に突き刺した大バカ者です。ああ、目が痛い。

世間のGW気分に乗っかろうとしているのですが、そうは言ってられないのがフリーのつらさ。たまっていた洗濯ものを干して、さっきからくもってきた空を見上げては、雨降るなと祈っています。

家のなかに事務所(?)をもうけて働き始めてはや18年。

家事と仕事の両立、という点では会社勤めをしていたときのほうが断然両立度は高かったと思います。いまみたいに洗濯ものが気になってテキストに集中できないとか、夕方が近づくと(近づかなくても)夕飯のメニューをどこか頭の片隅で考えたりとか、集中度が落ちることも問題ですが、それ以上に「雨だ!」と物干し場まで階段をかけあがったり、「そうだ、ごはんだけでもたいておこう」とつい立ちあがって台所に行ってしまうのがいけない。

最近では「あと2ページ(翻訳が)終わるまではトイレにも立たない」など自分で決めて、椅子にへばりつくようにしていますが、それでも洗濯ものを干していて雨が降るとねぇ......。

家でできる仕事だから、翻訳は主婦には向いている、とよくいわれますが、本当にそうなのかな?

むしろ主婦だからこそ、家内で2つの仕事を同時進行させるしんどさがあるのではないでしょうか?

凡人には2つの仕事を同時進行させるのは無理じゃないか、と思います。家事をいっさい切り離したところで仕事するほうがずっと楽。

いきなり話が飛んで(でも実はつながりなのですが)最近読んだ本でとてもおもしろかった『中国の歴史――近・現代史』(陳舜臣著 講談社文庫)のなかで、李鴻章がいくつもの仕事を超人的な集中力でつぎつぎ片づけた、という逸話が出てくるのですが(『蒼穹の昴』by浅田次郎の描写はあながちフィクションではなかったらしい)、偉大な人はそれがきっと可能なのでしょう。でも、聖徳太子や李鴻章でも、家事との両立はむずかしかったと思いますよ。

陳先生の『中国の歴史』はハマります。正確にいうと、ハマる巻とハマらない巻とがあるのですが、『近・現代史』の一巻目はまちがいなくおもしろい!! 私はすっかり孫文と康有為のファンになってます。

「リアル」

| 読む快楽 | コメント(0)

「リアル」

井上雅彦

 

くにこさんが「好きなマンガ」というので、これまで断片的、というか最初の1~2巻、昔読んだだけで終わっていた「リアル」を大人買い(つっても古本屋だが)して読んでみました。いまさらですが。

井上雅彦はなんてったって「スラムダンク」だろうと思っていて、たぶんそれはまだ変わっていないのだけれど、「リアル」はたぶんスラムダンクを超える傑作ですね。傑作が好きかどうかは別にして。

ときどき「スラムダンク」を読み返して、最初は安藤先生がいい、とか、やっぱり流川にひかれる自分がはずかしいとか思っていたけれど、最近、といっても1年前に読んだときにはっきり「桜木くんが一番いい」と思いましたです。いや、主人公だから当然ですがね。でもこのキャラの味がわかるような大人になったわけです、私も(いまさら何をいっとるか)

で、「リアル」ではストレートに野宮朋美が好きです。野宮こそ、桜木でしょう。愛されキャラとして描かれているんだけれど、ものすごくうっとおしくて、うとましいキャラでもある。で、私はそのうとましいところが好きです。ほら、大人だから。

一番ひかれるのは、高橋のお母さんです。高橋の弱さとエグさは、結局お母さんの弱さ、エゴそのままであることに、お母さん自身がしだいに気づいていくところがすごい。ただの「献身的なお母さん」じゃない。プライドと自分が名づけたエゴを押し通そうとしてこわれていくところ。共感します。

一番つまんないのが安積で、この子と戸川がどうなるのか...になんの興味ももてないです(汗)

タイガースがどうなるのか、には非常にそそられますが。

障害者スポーツがテーマとはいえ、いったい「障害」とは、「健常」とは何なのか、ということに関して「リアル」にせまられます。ほんと、自分の身体のリアルとはなんなんでしょうね。

 

「沈黙のファイル  「瀬島龍三」とは何だったのか?」

共同通信社社会部編

新潮文庫

 

旧陸軍参謀本部作戦課のエリート参謀。30歳で事実上、対米英戦の作戦主任となり、「陸軍大学校開校以来の頭脳」といわれた俊才。

戦後、11年間のシベリア抑留を経て帰国。伊藤忠商事に入社。10年で専務、20年で会長になる。

中曽根康弘、竹下登らの指南役といわれ、政財界の影のキーマンとささやかれた男。

瀬島龍三はどうやって生き延びてきたのか? 表舞台に出ていながら、つねに背後に暗い闇をのぞかせていた人である。彼にまつわるエピソードには、どこかうさんくささとあやしさがともなっていたような気がする。本書はその男の多くの謎に迫ったルポルタージュであり、彼が亡きあとに出されたたぶん「瀬島龍三評伝」の決定版だろう。

前半は広範囲の取材によるルポルタージュで、後半に瀬島氏と深くかかわった人たちのインタビューが掲載されている。

冒頭から話はなまぐさく始まる。戦後のアジア(とくにインドネシア)への賠償に瀬島氏がどのように暗躍したかを、伊藤忠商事で瀬島氏とともに働いた小林氏の証言によって語られる。戦後「賠償」とは名ばかりで、実はヒモつき借款のからくりがあったことが暴かれる。デビ夫人がはたした役割や、日韓関係改善に向けて瀬島氏が裏で果たした仕事などが紹介され、実になまぐさい。

第二章では、瀬島氏が第二次世界大戦で参謀役として何をやってきたかが検証されている。なぜ無謀な戦争に日本が駆り立てられていったのか? 誰が被害をここまで大きくしたのか? 戦場を自分の目で見ることのないまま、参謀たちが「作戦」を立て、戦場はただ盲目的に従っていたことが、戦争をより悲惨なものにしていく様子が元兵士たちの証言によって語られる。

第三章ではシベリア抑留から帰国まで。ソ連の旧日本兵のシベリア抑留が、対米、対日政策をにらんだもので、現在の日ロ関係につながっていることがよくわかる。

そして第四章。かつての参謀たちがよみがえり、日本の政財界をいかに牛耳っているかの検証が行われて圧巻。ロッキード事件、政界と官界の汚職事件など暴かれたのはほんの一部。日本の政治・経済の底辺にあるのは、敗戦という汚点の責任をとらないばかりか、目をそむけてなかったことにしようとする日本の「体質」だという。

KCIAにいた崔英沢(チェヨンテク)氏、瀬島氏とともに大本営にいた井本熊男氏、シベリア抑留の指揮をとっていたイワン・コワレンコ氏のインタビューも、これまた「よくもここまで」という内容で読み応えがあった。単に私が無知だったからだけなのだが。

瀬島龍三氏がどんなことをやってきたか、というのはさほど大きな問題ではない。「瀬島龍三的なもの」がいまだに日本に根強く息づいていて人々の行動を動かす力があり、つまり日本において「戦後は(まったく)終わっていない」ことが問題なのだ。誰があの戦争の責任をとるのか? つぐないは誰がするのか? すべてうやむや。

防衛庁の数々の「失態」、自衛隊の海外派遣の問題、靖国参拝......根っこにあるものが少しだけ見えた気がする。

新幹線のなかでほぼ一気読みしたあと、次女に「ぜひ読みなさい。これを読まなきゃいまはわからない」と押しつけた。東アジアにはまっている彼女には、どうしても読んでもらいたい。

 

「聖(セイント)☆おにいさん」 中村 光(モーニングKC)

 

急にマンガが読みたくなって(QMY)、夜、ごはんを食べてからヴィレッジ・ヴァンガードへ。

ときどきのぞくブログで紹介されていたので、このマンガを買っていそいそベッドのなかで読みました......蒲団がずり落ちる勢いで笑ってしまった。

休暇で天界から現代日本の東京におりてきたイエスとブッダの2人が、アパートを借りて摩訶不思議な日本を体験する、というギャグ漫画です。

昼寝をするとつい涅槃の姿勢になって「あ、まずい」と起き上がるブッダ。

ジョニー・デップにまちがえられて女子高生に騒がれるイエス。

手塚治虫の「ブッダ」をマンガ喫茶で読んで、滂沱の涙を流すブッダ。

感動すると頭にまかれた荊にバラの花が咲くイエス。

スキンヘッドを見かけるとつい「あ、アナンダ」と叫んじゃうブッダ。

サウナで隣に座ったやっちゃんから「兄ちゃん、その傷はどこでつけたんか?」と聞かれ「ゴルゴダ」と答えるイエス。

神社でおみくじを引いて「天界からぜったいにツッコミがくるね」という二人。

私としては、ノリがよくておバカなことをするイエスよりも、お人好しのおばさんタイプのブッダのほうがツボにはまりました。

しかし......いいのだろうか。これ、宗教関係者からつるし上げられたりしないのかな。ちょっと不安です。

軽く見逃してやってください。イエスもブッダもとてもいい感じに描かれているのだから。

 

マンガとしては「臨死 江古田ちゃん」と「闇金 うしじまくん」以来のヒットかも。

「日本語の歴史」

山口仲美著

岩波新書

 

 石垣から戻ってきました。

 石垣の人たちが地元の言葉で話されると、さっぱりわかりません。Welcomeが「おーりそーり」の意味だといわれても、は~それ私が知っている日本語じゃないし、と方言の域を越えた言葉のちがいにため息が出ます。

 でも、日本語とはそもそも何? という疑問に応えてくれたのが、石垣島への往復で読んだこの本。同行者に「まあ、むずかしそうな本を読んで」と言われましたが、タイトルよりもずっとやさしく、わかりやすく書かれた日本語の歴史入門エッセイです。

 この本で私が注目したのは、現在「日本」とされている土地のなかで、「日本語」として「日本人」に通用する言語とするまでに何を統一しなければならなかったか、という点です。実際に「日本語」が成立するのは、明治時代が終わるころというから、たかだか100年ほどの歴史しかないのです。日本のなかで言語のちがいを生じさせていたのは3つでした。

その1。地域。沖縄県で使われている言葉が、現在の日本語とは大きく異なるのを見てもわかるように、方言ですませられないほど地域によって使用言語はちがっていたし、いまもちがう。

その2。性別と社会階層。男言葉と女言葉は江戸時代近くまで分離していたし、農民と武士とでは江戸時代においても別言語といっていいほどちがう言葉を使っていた。

その3。話し言葉と書き言葉。

著者はとくにその3について詳しく書いています。その1とその2も、その3のちがい(そして統一)が日本語という共通言語を成立させるのに大きな意味をもっていたからです。

江戸時代まで話し言葉が書きとめられることはめったになかったので、それぞれの地域でどんな言葉で人々が日常会話をしていたのかはなかなかわかりずらいのですが、それでも物語や説話に書かれた会話から推測することができます。そしてそれは明治が終わるころまで、書き言葉と大きくちがっていました。

書き言葉の変遷は、どんな文字を使うかで歴史をたどることができます。文字をもたなかった日本人(と仮にしておきます)は、中国の漢字を流用して、自分たちの言葉(やまと言葉)を漢字の意味に関係なく音だけに頼って書きあらわしました。万葉仮名と呼ばれるこの書き方にはかなり無理があったし、画数の多い漢字を延々と書かなくてはならなかったのでずいぶん面倒でした。

それじゃ中国語の漢字の使い方(漢字の一つひとつにこめられた意味を利用する)で書けばいいじゃないかというと、やまと言葉は助詞や助動詞という中国語にはない文法上の語があるし、文法がちがうのでややこしい。そこで私たちが漢文の授業で習った返り点を使って、いわゆる訓読をする漢式和文が発達し、そのうち送り仮名や助詞を補うために漢字を略式にしたカタカナが生まれました。

それじゃひらがなはというと、漢字を崩してうまれたそうです。安→あ、以→い、といった具合。

法律や政治的文書を書くために生まれたカタカナに対し、ひらがなは和歌のために発達しました。つまりひらがなとカタカナは同じように漢字から発達したとはいえ、生まれも育ちもまるでちがう。しかも、漢式和文→漢字→カタカナ→男性が使うもの、崩し字→和歌→ひらがな→女性が使うもの、という使う人まで分離していました。書くものによって、文字までちがっていた、というところがおもしろいですね。女は漢字を使うものではないとされ、男がひらがなを使うことは恥ずかしいことだったのです。

漢字とひらがなとカタカナを駆使した日本語の書き表し方にどういう風に変遷していったかは本を読んでもらうことにして、私が興味深かったのは日本語のなかに「外来語」がどう導入されていったかの部分。これには残念ながら、明治時代の言文一致の章のなかにさらりとしかふれられていません。それでも、日本にはなかった概念(たとえば哲学、科学、社会、思考、人格、必要など)を、西周をはじめとする明治時代の思想家たちが言葉を漢字でつくっていった、というくだりは興味深い。日本人がつくった西欧「外来語」を表現した漢字は、中国や韓国でいまでも使われているそうです。万葉仮名→漢式和文→ひらがな・漢字まじり文の変遷のなかで、日本は独自の和式漢字とでも呼びたいものを発達させてきたことがうかがえます。

翻訳をしているとき、頭の片隅にいつもひっかかっているのが、アルファベットで表現された言葉と、漢字とひらがな、カタカナを使って書き表す言葉の間にある深い溝のようなもの。溝というよりも、むしろ肌ざわりといったほうがいいような皮膚感覚的に近いものかもしれません。(でも溝という距離感でもある)言葉や文法の違いとともに、使用する文字の違いにときどき(しょっちゅう)いらだちます。

この本は、そのいらだちがどこから来るのかを少しだけ教えてくれると同時に、いま使っている言葉に甘えてはいけないといさめてくれました。「日本語」という言葉に絶対はない。「これこそが日本語だ」といいきるのは傲慢だというものです。いま大手メディアが使っている標準語(この言葉は嫌いだけれど)に絶対的に依存することのあやうさを自分のなかでいさめる意味でも、つねに「日本語とは何か?」を問いながら翻訳していきたい、と思いました。

ところで。本日、また一つ年をとりました。

お誕生日にメッセージをいただき、とても喜んでいます。私はなかなか誕生日が覚えられないので、お祝いをくださった方の誕生日にメッセージを送っていない失礼を重ねています。ごめんなさい。そういいながら、自分の誕生日を覚えていてくださるのはとてもうれしい! 今年一年、また元気に過ごしていきたいです。

ページ/2ページ |次のページ最終ページ

新刊&セミナーのお知らせ

新刊 「サウンド・バイツ」

アレックス・カプラノス著
実川元子訳
"Take Me Out"で2004年に世界的にブレークしたスコットランドのロックバンド、フランツ・フェルディナンド(バンド名は、響きがよいから、という理由で、サラエボ事件で暗殺されたオーストリア皇太子の名前をつけたとかいう)のヴォーカル&ギターのアレックス・カプラノスが、ワールドツアーで食べたものをつづったエッセイ。

新刊 「巨乳はうらやましいか? Hカップ記者が見た現代おっぱい事情」

スーザン・セリグソン著
実川元子訳
早川書房
1470円(税込)

新刊 「受けてみたフィンランドの教育」

実川真由・実川元子著
文藝春秋
1600円(税込)

新刊 世界の作家32人によるワールドカップ教室

白水社
マット・ウェイランド ショーン・ウィルシー編
訳:実川元子

新刊 あきらめること あきらめてはいけないこと

文藝春秋
ゴードン・リヴィングストン著
実川元子訳
motoko
 人生でたいせつなものは本とサッカーと料理とファッションに教えてもらった、などと言ってみたいモノカキの日常

PROFILE

 職業はモノカキ/翻訳業。書いていきたいテーマは「女」「子ども」「衣食住」。得意技はなんでも一晩寝ると忘れること。
since2000.5.19.
カウンタ