一昨年だったか、某大学で「ケータイ小説」を取り上げたことがあります。「恋空」をはじめ、ベストセラーの上位をケータイ小説が独占したときのことで、映画化もされて話題になっていました。学生さんたちに「ベストセラーになっているケータイ小説を、①ケータイで、もしくは、②本を買って、読んだか?」と訊いたことがあります。
そしたら、ほぼ全員が①ケータイで読んでいて、なおかつ、感動して、②本も買った、という人(男子学生!)もいたし、同じく映画を見て感動したから②本を買った、という人(女子学生!)もいました。
ケータイ小説をちゃんと読んでおもしろかったら素直におもしろいと認めよう、というつもりで、ケータイと本の両方で、なんと私は3冊ずつ読んだんですよ。「恋空」「赤い糸」え~と、忘れた(汗)
で、私には無理でした。ケータイで読むのも無理だったし、紙の本でも無理でした。映画もたぶん無理だろうと思ったので見ませんでした。
何が無理なのか? いろいろ考えたのですが、いまだにきちんとまとまっていません。
本、とくに小説を読むときの楽しみというのは、「想像力を働かせること」にある、と私はこれまで思っていました。書かれていることから情景や感情を想像して、本の世界の中に三次元、四次元(時間も超越して)飛び込んでいけることが、本を読む最大の楽しみなのだろう、と思っていました。本の世界に飛び込んでいく。それが未知であるほど楽しい。そう思っていました。
でも、ケータイ小説に感動した! という人たちの話を聞いていると、「既知」だから楽しいんですね。どこかで見たことがあるような(聞いたことがあるような)ストーリーを、「等身大」の登場人物たちが、自分たちがふだんしているような会話で話してくれる。だからこそ「おもしろくて、楽しい」というのです。
ケータイ小説は読者のよ~く知っている世界をなぞっています。想像力の働かせようがないほど端的な文章。描写っつーものがありません。だいたいにおいて、出会ってすぐに「かわいい」とか「かっこいい」と思って、3ページ目で「好き(ハートマーク)」って、それ、情感のわきようもないでしょう。
情景や人物描写も三次元どころか、実に平面的でケータイの画面以上、本の紙の上以上に世界が広がっていかないのです。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。勧善懲悪どころか、自分中心の勧好懲嫌の価値基準。
たいてい主人公が病気になって、すれちがいがあって、泣きながら「死」で別れがきて、でも千の風になるのでお墓の前で泣かないでください、となるわけです。たぶん100文字で足りると思います。頭に情景だの、ツッコミだのが浮かびようがありません。
でも、ケータイ小説+紙の本+映画の三乗効果があるわけです。「感動」が生まれるわけです。
はっきり言って、「本を読む」ために紙の本にする意味が私にはまったくわかりませんでした。ただ、ケータイだけだと収益があがらないし、紙の本になってようやく「小説」として認められる、という文壇(ぷっ)至上主義みたい風潮があるし、「ベストセラー」という宣伝文句がほしいばかりに、紙に印刷しました~というだけに思えました。
ケータイ小説というわかりやすい例をあげましたが、ほかの本も同じです。
紙に刷った本だけでは、ビジネスとして成り立たなくなっている。すでに10年、いや20年前の私がモノ書いて食っていこうとしたときから、その徴候はありました。本の企画は今(というのはここ10年)ではまず「それ、儲かりまっか?」で始まります。いやいやいや、本だけでは儲かりませんよ。マルチメディア(古すぎの表現ですみません)のさわりに置かれて、はじめて収益が生まれます。
マルチメディアというのは、ネット、映画、ゲーム、TV......といった媒体の問題だけでなく、本を書く人、企画する人も媒体としていくつもの顔(チャンネル)を持っていなくてはならない。本しか書か(け)ない人ではもうアカンのです(たぶん)。
映画やTVの題材になるような本が書ける(つまりはプロデューサー的感覚に優れた)人。もしくはモノカキ以外のたくさんの顔(才能)を持っていて、メシのタネはモノカキ以外にある人(勝間さんとか香山さんとか→私は好きでよく読みます。念のために言っておきます)。そういう人の本でないと、たぶん出版はむずかしくなるだろうなあ、と思います。
この傾向に私が悲観しているか、といえば、実はそうでもありません。(正直なところ、悲観はしていないけれど、懸念はしているかな)
電子ブックのケータイになるかどうかは別にして、出版の概念が大きく変わり、どんな形にしろ新しい収益構造をつくろうとする傾向は悪くないと思っています。
少なくとも現状ではもう書き手も読み手も追い詰められてしまう予感がします。
私が個人的に今必要なのは、危機感かな。
文字で書かれたものを読み、文字で世界をつくる。その楽しみ、喜び、手段を継続していくためには、紙だけに頼らない、また文字だけに頼らない、何かしらの対策が必要なのだ、という危機感を持つことが重要なのだ、と私は考えています。
で、それが何かってことはわかりません(汗)
わかっていたら、確定申告で頭抱えませんよ。
ふ~確定申告書類作成終了。
収入はさほど変わりませんが(この5年同じくらいの率で目減りしています)、仕事量は増えました。自分で言うのもなんだけれど、毎年1割ずつ収入が減って、毎年2割ずつ仕事量が増えています(ちと大げさ?)。収入が減って、仕事が増える......頭のなかで「サークシュー、サクシュ」という自作の歌が流れましたよw
でも、私は別に搾取されているわけではないのです。ただ、産業構造の変化にまったくついていけていないってのが問題です。
いま考えなくてはならないのは、「何を書くか?」ということ以上に、「どこでどう書けば、書くことが収入につながるか?」ということなのですね。出版業がこれだけ不振をきわめるのは、直接的にはインターネットの普及が大きいのだけれど、間接的には「売文業」の新たな仕組みをつくれていないからだ、と思います。もっと言えば、売るのは本当に「文章」でいいのか? ということかなあ。いまさらですが。
私は本が好きで、というか本がないと生きていけないくらいで(子供をあやしながら本を読んで、「本と子供とどちらがたいせつなのか?」としかられたこと多々あり)つい紙の本を買ってしまって延々と読みふけってしまうのですが、そういう人間は今以上に激減こそすれ、増えることはまったく期待できないわけです。
でも不思議なことに(不思議でもなんでもないけれど)、ネットに書きこむだけでは全然満足できずに、やはり紙の本を書きたいという人は増えているんですよね。でもそういう人も買ってまで読まない。
紙の本はたしかに20世紀で終わったのだと思います。(思いたくないけれど)
それなら書きたい、読みたい、という欲求を満足させるための媒体はいったい何になるのか? そこで「どう」書けば(読めば)いいのか?
そこを「考えること」がたぶんモノ書いて食っていこうという私には一番たいせつ......っていうか、それを考えていないのかい! とツッコミが来そうですね。
がむしゃらにがんばる(←私の得意分野)のがもしかすると一番まずい状況に自分を追い込むことなのかも。
緊急に考えないと、確定申告でため息をつくくらいではすまないことになってしまいそうです。
いやはやいやはや......こんなに働いた2ヵ月はないわ。おかげで、かどうか、目標9割達成。まだ1割残っているけれど、来週には終わりそうです。
今取り組んでいる本の1冊は、カルチュラル・スタディーズに関するものなのですが、私にとってはこれまでやったことがない分野なので、たいへんではありますが、すごく勉強になります。
これまで読まないですませてきた古典の人たち、マルクスやマックス・ウェーバーやフーコーも目を通したし、ガタリ、ドゥルーズといったところにふれることもできた。理解したかどうかはともかく、やむをえずでも目を通して少しでも勉強した、という経験ができたのはありがたいことです。
いつも思うのだけれど、翻訳でもモノカキの仕事でも、新しいジャンルに挑戦することは、勇気がいって、手間も時間もふだん以上にかかって面倒だし、なによりもエネルギーが必要なのだけれど、やはり必要なんですね。臆していては自分の世界は縮小する一方、という気がします。「無理」と言う前に、チャレンジしてみること。これだなあ。(習字の先生にまで、チャレンジする実川さん、とか言われましたよ。たぶん半分あきれているんだと思うが)
さて、ちょっと中断して確定申告の書類を作成せねば。ふ~。年々減少する収入と向き合うのが一番つらいですわん。
やれやれ、やっと1冊訳了しました。結局、2ヵ月ちょっとかかったなあ。
つぎの本が控えているし、本を受け取ってから締切まで時間がいつもと比べてあまりにも短かったので、今回は「休まない。頭と気持ちを途切れさせない」ことを目標にがんばりました。ほかの仕事の締切があっても、大晦日も正月も、土曜も日曜も、冠婚葬祭もオリンピックも関係なく、とにかく毎日、1ページでいいから翻訳する。そう決めて68日。マラソンのようでした。翻訳は訳了したときからがたいへんなんだけれど(私だけか? 推敲にエネルギーが吸い取られる、なんて言っているのは)、まあ、とりあえずちょっと一息。
さ~、今日から別の本の見直しです。エネルギーを枯渇させる推敲ですよ。
全部が終わって校了となるのは、たぶん5月末。
今年の私の正月は6月1日です。
しばらくごぶさたでした。
今日妹から電話がかかってきて、10日もこちらを放置していたことにやっと気づきました。
いやはや、公私ともにばたばたしております。睡眠時間5時間切っています。午前4時に寝て8時30分起床が日課です。いい加減にせえ、ですね。生活を立て直さないと。
そのため東アジア選手権もオリンピックもほとんどみられていません。東アジア選手権は中国戦と韓国戦の後半だけ見たかな。オリンピックにいたっては、ダイジェストさえも見られていない。どうなっているのですか? 誰か、教えて!(自分で調べなさい)
切迫の仕事はあと30ページまでこぎつけました。でも、そのあとに超難関の本の見直しが控えておりまする。(翻訳は終わっているけれど、見直しのほうがたいへんそう)なんとか3月中旬までに終わらせないと。
そうそう、Kindle2を購入しました。日本語化もできたのだけれど、日本語のサイト(青空文庫)がうまく見られません。なんとかしなくちゃいけないのだけれど、まずは仕事を片付けてからでないと遊べません。と言いながら、英語の本をダウンロードして読んでしまった。バカバカバカ、仕事でもないのに英語の本など読んでいるヒマないだろうに>元子さん。一応書いておくと、エミリー・ディキンソンの詩集と古典作品短編集。アマゾン.comのKindleサイトはアジアで購入できない本も多いことを知りましたよ。
ブログタイトルはですね、前に習字で書いた中国故事。
何事もね、目標を高く設定しないと大化けはないってことです。無理といってあきらめていたら、いつまでたっても魚は魚のままです。でも、大化けするためには、毎日チャレンジしつづけなくてはならない。毎日毎日高い波に立ち向かい、どう越えていこうかと工夫して、がんばっていかないと、もし大波がやってきたときにはただ飲まれてしまうだけ。
チャレンジすること、はいつも自分に言い聞かせて、娘たちにも言っているのだけれど、今回はね、サッカー日本代表に言いたいと思いましたよ。ただ高い目標を設定するだけでは、ただのアホです。そこに向かって、どうやって日々チャレンジするか。その努力がないとね。
私もちゃんと高い目標を立てないとなあ。家族も自分も健康で毎日無事に過ごせますように、では、あんまりです。
悲しいことが立て続けに起きたので、ブログを書く気力を失っていました。
いつまでも「気力がない」とか言っているとかえってよくない、と自分を奮い立たせてます。
話変わって。
なでしこジャパンにも引きましたが、それより恥ずかしいSAMURAI BLUE。
なに、この聞いた(見た)とたんに3メートルくらい穴掘ってもぐりこみたくなるほどみっともないネーミング! 世間は許しても、私は許さないからね。試合内容以前に、まずネーミングをどうにかしないと世界に出ていけません。しかもローマ字。ブログに書くのさえもためらいましたよ。手と目がいやがってキーボードが打てない。それを耐えてあえていう。SAMURAI BLUEというネーミングを堂々と口にする人とはお友だちになれません。(いや、むこうも私もお友だちになりたくないだろうが)
またまた話変わって。
衝動的にKindle2を買ってしまった。
iPadも申し込んであるのだが、オタクな人の「いやいや、なんてったってKindle2でしょ」という記事を見て、一気に傾いて衝動買い。
たぶん、出版界は猛烈な淘汰がこれから始まるので(いやいやもうとっくの昔に始まっていますが)、わずかながらでも電子BOOKに希望をつなげようかと思って......なんていうのはほーんのいいわけ。単に欲しいだけ。iPhoneをさんざん迷いながらやめた理由が「画面が小さすぎて50代にはつらい」というところだったので、ならKindleの6"ならいいのではないか、と思ったしだいです。
で、iPadはどうするのだろう?>わたし。
『ミレニアム』三部作
スティーグ・ラーソン著 ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳
早川書房
児玉清氏大絶賛。週刊文春ミステリーベスト10。など2009年のミステリ界の話題をさらったスウェーデン・ミステリ3部作。著者が2004年に急死なさったり、ハリウッド版リメイク映画が決定したり、で最近いろいろ話題にもなりました。
でもって、私は今年に入って死に物狂いスケジュールにもかかわらず、2回も『ミレニアム』で徹夜をしてしまいましたよ。ったく、何やってんだか私。ストーリーの作り方がうまいのだね。あと2ページでやめよう、と思いながら閉じられずにあと20ページ読んでしまう。これでやめないと明日起きられない、とわかっていても、読者(私)に最後まで読ませてしまう。ストーリー展開、力技。翻訳もよかったな。
だが、児玉清氏が「これを読まないとミステリが語れない」と言うほどの作品でもなかった。息つく暇なしのおもしろさはあったが、それほど深くはない。ものすごく目新しいテクニックや情報が出てくるわけでもない。そう考えると、最新技術、経済・社会の裏話、どこか遠い国の政変などが、瞬時にして流れてしまうネットの普及って恐ろしいものがありますね。少なくとも私は、昔、同じスウェーデン人のマルティン・ベック・シリーズやフレデリック・フォーサイスを読んだときのハラハラドキドキ感はなかったなあ。これが10年前なら確実に「一生忘れられないシリーズ」になるはずだったのに、ちょっとさびしい。
主人公のミカエルには共感できなかったのですが(なんでモテるのかさっぱりわからん。ハリウッド・リメイク版はブラッド・ピットがやるとか、それだけは勘弁だぁぁぁ)、リスベット・サランデルには闘魂注入されました(笑)。もしかして栄養失調、無愛想系女子の時代到来か? ちょっとこぶりだが中島美嘉とか?
っていうか、このシリーズ、著者の男性はあまりにも女性崇拝しすぎていませんか? 裏があるんじゃないか、とひくひく鼻を動かすこと1冊につき3回ずつ(つまり計18回。とくにリスペッドがミカエルに寝たい、とか言うところはあやし~)。男はろくなもんじゃない、なんたってこの世界は女性が主導権を握っているのだ、ということを声高に言う男ほど、男尊女卑だってことを知っている50代の女一人。
つまんないドラマを見て「日本人はバカになった」となげくより、ムカつくメールを消去するのに時間を使うより、正月についた贅肉を落とすためにジョギングして膝を痛めるより、おすすめのミステリです。
いま、W杯に向けて南アフリカの本を翻訳しています。映画にもなっているので、DVDをお取り寄せ中。見たら感想書きますね。
それはともかく、資料にあたらねばならないこともあり、アフリカ関連本を読んでいるのですが、いや~まずいなあ。だんだんアフリカに行きたくなってますよ、元子さんは。困ったなあ。南アフリカは行かないつもりだったんだけれどなあ。そそられるなあ>アフリカ。
今年は1月1日から休まず仕事をしています。日曜のきのうも研究発表してきたしね。その前の連休はひたすら取材とインタビューだったしね。来週の週末は撮影だしね。ちょっとやけくそ気味。
だからよけいにアフリカが私を呼んでいるような気がしてなりません。
スワヒリ語かな、つぎの語学研修は。
「この世界の片隅に」(上中下)
こうの史代 アクションコミックス
昭和29年生まれの私は、当然ながら平成よりも昭和のほうを長く生きているわけで、平成になってからの日本の、というか、自分の浮かれっぷり、おごりっぷりが鼻についてなりません。「もう私ったらこんなこと言っちゃって(やっちゃって)、何様?」と思うことが一日に一回くらいある。つまらない仕事はしたくない、だの、ギャラが信じられないくらい少ない、だの、家事は義務だからしかたなくやっている、だの、メシはつくってやっているんだから文句を言うな、だの、将来(老後)に希望がもてない、だの、若者がたるんでる、だの、生きるのが面倒になってきた、だの、まあ、よくもそれだけ言えるものだと自分がいやになります。
夜、ふとんのなかで自分のゴーマン発言・態度を思い出して自己嫌悪に陥ったとき、こっそり(?)取り出すのがこのマンガ。こうの史代さんのマンガは「夕凪の街、桜の国」で感動したのですが、「長い道」を読もうと思いつつ手が出ないまま、ヴィレッジバンガードでふと手に取ったのがこの3冊。あの戦争を知らない戦後昭和生まれの私には、がつんとくる内容でした。
生きていることがどれだけありがたいことなのか。人を思いやることがどれだけ人間の尊厳を支えているか。人生、うまくいかなくてあたりまえ、と思う謙虚さで人はどれだけ救われるか。
もうひとつ。今ばかり見ること、今しか知らないことのおそろしさ、を思い知らされます。過去を知ることで、人は視野が広くなり、自分にも他人にもやさしくなれる強さが手に入るのだな、と主人公のすずさんに教えられます。今(と未来)ばかり追いかけていると、視野狭窄に陥って、今がとても生きづらいものになってしまう。3年ほど前から、個人的なテーマが「昭和とはどんな時代だったのか?」ということなのですが、今年もこのテーマを深めていきたいな、と思います。
こういうマンガがベストセラーになってたくさんの人に読まれていること、それだけで、日本はまだまだ大丈夫と思えます。
ついでに。広島と岡山に親戚が多い私は、広島弁がなつかしくてうふうふしちゃいました。
3月半ば締切の本を抱えています。
厳しい。
飲み会も、遊びも、すべて断って、毎日がんばらなくては終わりそうにない。
そういうときの救いは、眠る前の「逃避の読書」。
いまはなぜか山本周五郎です。
今頃気づいたけれど、山周さんの作品って、どれも気持ちが休まらない内容なんですね。
人情ものも、ちっともほっくりしない。
敗者がみじめに負けていき、勝者もなぜか高笑いできない、という勝ち負け相殺の物語。
ま、そういうところが好きさ。
逃避にはならないけれど。
で、いましゃかりきに訳しているのは南アフリカのサッカーの話です。
ネルソン・マンデラさんとか出てきます。
なぜ、アフリカで最初のW杯が南アフリカで開催「されなければならなかった」のかがよくわかります。
さ、がんばろう。



