今年はいろいろなことがありました......と書きたいところですが、あまりにもいろいろなことがありすぎたせいか、一年を振り返ろうにも記憶が混乱していてまとめられません。気がついたら1年が終わろうとしていてあせった......というか。
これまで私は「何事もがんばれば(努力すれば)なんとかなる」とどこかで思い込んでいたところがありました。でも、がんばるチャンスさえ奪われる、もしくは努力するチャンスがもともとないこともあるし、努力して結果が出ることは実は非常にまれである、と思い知らされることが多い一年でした。だからといって無気力になったり自暴自棄になったりしていいわけじゃないですけれど、あきらめる勇気を持つこともこれからは必要なのだろう、と今は思っています。いくら努力してもどうにもならないことのほうが多いのだけれど、それでもやっぱり努力はしていきたいな、というところかな、心境としては。あ~ややこしくってもどかしい。
仕事は今一つでしたが、相変わらず書道にはのめりこんでいるし、中国語のレッスンもなんとか続けているし、太極拳を始めたし、前からひそかに一人でやっていたジョギングを娘と一緒に走るようになったし、趣味は本当に充実していました。問題は健康面で、ちょっと忙しくなると「あれ? あれれ?」と思っているうちに病名がつく病気で医者にかからざるをえなくなることしばしば。ほんと、気をつけなくてはなりませぬ。
来年は健康に気をつけて、仕事をもう少しなんとかしたいです。あせらず、あわてず、あきらめず。こつこつとやっていく一年にしたいな。
今年もグラマラスライフを訪れてくださり、本当にありがとうございました。
また来年も(来年は)楽しく明るい話題を書いていきたいです。
来年もまたどうぞよろしくお願いいたします。
2012年が皆様にとって、より発展する希望に満ちた一年となりますことを心よりお祈り申し上げます。
「争うは本意ならねど――ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美(ちゅ)らゴール」
木村元彦著
集英社インターナショナル
読みながら3回泣いた。紹介文を書こうと先ほどもう一度ざっと読みなおして、また涙がこみあげた。それくらい心が揺さぶられる本である。
ただし、涙を流したうちの1回の原因は怒りである。憤りと言ってもいい。一人のJリーガーに冤罪を負わせた人たちへの憤りだ。
そして冤罪をうやむやにしないで欲しいと願った浦和レッズ、仁賀ドクターが我那覇選手に出した手紙を読みながらこぼれた涙は、その勇気と心の温かさに対しての感動からだ。
最後にCASに訴えた我那覇選手を支えた「チーム我那覇」の皆さんが、「我那覇選手はシロ」と出たときに喜ばれるシーンでは「スポーツは、サッカーはまだ信じられる」という思いから安堵の涙がこぼれた。
この「事件」を知らない人のために説明すると、2007年川崎フロンターレ(当時)の我那覇選手は感冒から体調を崩し、練習後にチームドクターの診察をあおいで、ビタミンB1を入れた生理食塩水の点滴治療を受けた。そのころフロンターレはACLとJリーグの試合を過密日程気味にをこなしており、チーム内のレギュラー争いも激しかった我那覇選手は体調が思わしくないのを無理して練習し、試合に出ていたのだが、それも限界に来ていてやむなくこの治療を受けたのだという。
ところが、「風邪をひいたので点滴治療を受けた」とサンケイスポーツの記者に話したところ、翌日「我那覇 秘密兵器、にんにく注射でパワー全開」という見出しで記事が出てしまい、それを重く見たJリーグが「ドーピング違反だ」ということで本人やドクターの話を何も聞かないうちに「6試合の出場停止」という厳重処分を下した。
私はこのときの一連の記事を今でもはっきり覚えている。「にんにく注射って何? なんかあの我那覇選手とこういう記事は似合わないなあ」とかすかな違和感をおぼえていたら、あれよあれよという間に厳重処分。
その後、我那覇選手が個人としてCAS(スポーツ仲裁裁判所)に「ドーピング違反ではない」と訴えたことがニュースでも取り上げられ、涙をこぼしながら「子どもが大きくなったときに、お父さんがドーピングをしていたのかと思われたくない」と記者会見で訴える姿を見て、やっぱりおかしかった、という思いを強くした。そのことはこのブログでも書いた。その後私も、裁判費用(3400万円以上。我那覇が自己負担した)をまかなうために彼の仲間たちが起こした「ちんすこう基金」にわずかではあるけれど寄付したり、興味を持って成り行きを見守っており、そして案の定とも言うべき「シロ」の裁定が下ったときにはひそかに祝杯をあげた。
本書はそんな「冤罪」がなぜ起きたのか、経緯を念入りな取材で浮かび上がらせる。そしてJリーグのドクターたちが「この処分を見逃していたら、選手の怪我や病気の緊急時に治療ができなくなってしまう」という危機感から立ち上がり、「ドーピング規定」を明確にすることに尽力した姿が描かれる。冤罪の原因となったのが、浅はかとしか言いようがない名誉欲や権力欲からくる保身だ。それに対して「おかしい」と声をあげるドクターたちと我那覇選手自身の勇気と潔さが、よけいに際立つ。最初に「冤罪」の原因をつくった上に、詭弁を弄して非を認めない人々への憤りから歯ぎりしりをしていたのだが、読み進めるうちに「チーム我那覇」の皆さんの勇気とがんばりに温かいものがひたひたとこみあげてきた。
でも、憤りは消えない。Jリーグは罰金として川崎フロンターレに科した1000万円を一刻も早く返還すべきだし、関係者(サンケイスポーツの記者も含む)は全員我那覇選手と後藤ドクターに謝るのが人としての筋だと思う。組織が、形式が、規則が、とか言う前に、まず守らなくてはならないのは自分の身ではなく選手ではないだろうか。そもそも選手を大事にしない組織って何なんだろう?
2007年のあの記事のときからくすぶっていた疑問を、本書は見事に解き明かしてくれた。この本を勧めたらさっそく読んだサッカーファンからこんな感想をもらった。
「我那覇選手はJリーグを救いましたね。救われた方々はそれに気づいていないようですが」
我那覇選手だけではなく、この本を書いた木村元彦さんもJリーグと、そのファンと、そして日本のサッカーを救った、と思う。そのことに感謝したい。
左側のコラムでもご紹介しておりますが、新刊が出ます。(12月10日発刊)
「サッカーと独裁者――アフリカ13か国の「紛争地帯」を行く」
スティーヴン・ブルームフィルド著
実川元子訳
白水社
チュニジアのチューリップ革命に始まった民主化運動で今注目のアフリカを、サッカーを通して読み解こうとするルポルタージュです。サッカーのことよりも、政治と紛争に軸足を置いた内容。アフリカの「いま」がわかるだけでなく、揺れ動く世界の一端がつかめる一冊です。
悲惨なエピソードも紹介されているのですが、サッカーの現場から眺めた世界なので、どこか面白味があります。著者の性格にもよるのでしょう。いまだに「暗黒大陸」とされているアフリカを、こういう視点から見ることも重要なのではないか、と訳しながら思いました。
この2週間ほど珍しく仕事が忙しく、夕飯後も机に向かうことが多かったのですが、それもようやく一段落。明日から短期間ですがまた旅に出ます。(旅に出るから忙しくなった、ともいえます)
でもって、仕事が忙しくなると、本が読みたくなるのです。いや、いつだって読書欲はあるのだけれど、締切が迫れば迫るほど、まーったく仕事と関係がない本を広げてしまう。でも、気が咎めるから、立ったまま読んでいます。座ったら仕事をしなくちゃならないから、立ったまま読んで罪悪感を軽減しているつもり。それも1時間以上立ち読み。疲れます。それに夜中まで仕事をしていて、もう寝なくちゃいけないとわかっているにもかかわらず、また本を読んでしまって夜がしらじらと明けてくる......。もう自分でも自分がやっていることのワケがわかりません。(読んでいたのはヘレン・マクロイのミステリーとか、ロディ・ドイルの新刊とか)
さてさて、明日は出張ですが、それ以後はフリーな旅。いっぱい読めるかなあ。とりあえず3冊選んで今つめました。読んでおもしろかったら、またご紹介しますね。
サッカー日本代表監督、アルベルト・ザッケローニ氏を取材した記事がWebでアップされました。
http://dignio.nikkeibp.co.jp/interview/
ザッケローニさんは紳士で折り目正しいすてきな方でした。好感度アップです。
インタビューは通訳さんの力も大きく、録音を聞きなおして「なーるほどね」と感心することしきりでした。
どうか順調に日本代表チームが「成長」していくことを願っています。
久々に読書話など。
といっても、読書量はさほど多くなかった夏でした。イタリアに行くためのガイドブック、旅行記、歴史本などが多かったためかな。
その中で一番役立ち、旅をいっそうおもしろくしてくれたのがこの本!
『物語 イタリアの歴史』 『物語 イタリアの歴史Ⅱ』
藤沢道郎著 中公新書
古代ローマから統一にいたるまでの歴史を、人物にスポットをあてて物語風に書く、というのは、たぶんモンタネッリの手法にならっているのかもしれませんが、藤沢先生が訳されたモンタネッリの歴史書よりも、ご自身でお書きになったほうがずーっとおもしろい!! この2冊でイタリアだけでなく、近代以前のヨーロッパの歴史がつかめます。
ちなみに私は中公新書の「物語」歴史書シリーズが好きで、旅行に行く前には読むことにしているのですが、藤沢先生のこのイタリアの物語を越える本にはまだ出会っていません。
『背教者ユリアヌス』
辻邦夫著 中公文庫(上下)
上述の『物語 イタリアの歴史』でも登場するユリアヌス帝を主人公とする物語。紀元4世紀、355年にローマ皇帝に即位したユリアヌスは、ギリシャ、ローマの古代の神々に傾倒し、キリスト教の優遇をとりやめようとしたので「背教者」と呼ばれました。コンスタンティノープル(現イスタンブール)で生れ、アテネに留学して教育を受けた皇帝にとって、キリスト教こそ異教だったわけで、当時の(今もですが)宗教と政治の対立と葛藤が辻邦夫氏の筆力でぐいぐい読ませる小説になっています。
私は大学2年の時、フランス語科の先輩に借りて読みました。読み始めるとやめられなくなり、徹夜はもちろん、授業中も読み続けて目がはれたのを覚えています。
辻氏が亡くなられたあと、文庫本になったのをなつかしくて買っておいたのを今回の旅行を機に再読してみました。感動は当時i以上だったかな。昔は単に皇帝とその周囲の人物だけに集中していたのが、年取ってくると別の視点で読めるようになっておもしろいです。
『ナポリの肖像』
澤井繁男著 中公文庫
以前に神保町の古本屋で見つけて購入。ところが、購入したのをすっかり忘れていて、旅行前にあわててアマゾンでまた買っちゃった、という大バカ者です。旅行前にはカタカナの人名が頭に入ってこず、すらすらと読めなかったのだけれど、旅行後にはあっさり読めました。現地を知ると頭の中に地図と歴史が入りやすい。しかし、入ってきやすかったのはルネサンス以降ですな。その前の異民族が押し寄せていたころのイタリア半島の歴史はごちゃごちゃのまま整理されていません。
『ハドリアヌス帝の回想』
ユルスナール著 多田智満子訳 白水社
これも再読。以前にこの本を手に取ったのは、須賀敦子さんの『ユルスナールの靴』を読んだからなのだけれど、藤沢先生の本に取り上げられていたハドリアヌス帝の話を読んだあとに読むと、この皇帝の孤独と鬱が理解できて、文学書というよりも歴史人物としてのおもしろさがわかります。
と、ここでイタリアとはまったく関係のない本。
『コンニャク屋漂流記』
星野博美著 文藝春秋
これはおもしろい! 星野さんの本の中で一番好きかも。くすくす笑い、ほろっとして、読み終わったあとに本を閉じたとき、胸にあったかいものが湧き上がってきます。今年のベスト10には確実に入るな。
『景福宮の秘密コード』
イ・ジョンミョン著 河出書房新社
書評で取り上げましたけれど、ここでもご紹介。ハングルを制定した李氏朝鮮の世宗大王がおさめていたときを舞台にした歴史ミステリー。明の朝貢国家だった李朝が、漢字ではなく、自分たちがふだん使っている言葉をそのまま表現できる文字を持とうとしたときにおこる葛藤を、景福宮内で起こった連続殺人事件にからめて描いています。
韓国ではもうテレビドラマが始まっていて、私の好きなハン・ソッキュが出ているそうです。観たいなあ。
さて、今日から10月。私が一年のうちで一番好きな月です。気候がいいし、食べ物がおいしいから。
そして明日、ガンバはクラブ創設20周年記念試合と称して浦和レッズと対戦します。銘打った試合に限ってろくでもないことをしかねないガンバさん。もう今から胃が重いです。私ももう泣いたり怒らせたりしないでね。気持ちのいい月の始まりなのだから。
今朝の朝日新聞朝刊に、作家の平野啓一郎氏が「ことばの力で伝えよう」という記事のなかで語っていることに、私が深く同意する一言があった。
「ことばなんて通じなくても酒を飲めばわかり合える、という話が嫌いなんです。そこでわかり合える内容は、楽しかった、ということぐらい。体験こそ大事だと話す人もいますが、体験を自分のものとして回収するには、言葉が必要です(以下略)」
話が少しずれる。
昨日、留学生派遣団体の会議に出席したのだが、そこでショックな話を聞かされた。
留学を希望し(つまり意欲があり)、筆記試験と面接試験に合格しても(つまり適性もあるはずなのに)、アメリカ合衆国がビザ取得のために設けている語学テストで不合格になって留学できなくなる、という高校生が多いのだそうだ。学校で英語の成績が上位にあっても、テストに合格できない。これだけ英語の成績が悪いのは世界でも日本とタイだけだとか。
日本の学校の英語教育はどうなってるんだ、と憤る前に、私は日本人(とひとくくりにすることには抵抗があるのだけれど、それはさておき)が他人に何かを伝えようとするとき、「ことばを軽視していること」が問題なのではないか、と思う。
「ことばに出しては言わないけれど、わかるだろ、な?」とか、「空気読めよ」とか、「ことばは通じなくても身振り手振りでコミュニケーションはとれる」とか、そういう言い方、考え方(私は単なる甘えだと思っとります)がこの国には蔓延している。平野氏が言うように「酒を飲んでわかり合う」ということが、ことばで伝えることよりも重視されているのではないか。「楽しかったね」「つまんなかったね」「たいへんだったね」というだけで、体験をインターネット上のつぶやきごときのもので終わらせてしまっている。陸山会についての報道を読んだときにも、企業の会議に部外者として参加したときにも、自分自身が家庭で家族に接しているときにも、海外旅行に行ったときにも、自戒をこめて痛感する。ことばの持つ力が侮られている。
コミュニケーションはまずことばから始まる。ことばを軽視(無視)して、人に何かを伝えるのはもちろん、人に伝えたいことを自分の頭で考えることさえ無理だ。
「日本人なんだから日本語ができればいい。外国語なんてできなくても別にかまやしない」という人がいる。でも、そういう人にかぎって、日本語の使い方もうまくないし、自らの日本語語学力を磨くべく努力しているようには思えない。(まあ、多分に偏見が入っていますが)。それはさておき、望むと望まないとにかかわらず、異なる言語でコミュニケーションをとり、異なる文化・社会で生きている人たちと接しないでは生きていけなくなっているのがこの時代だ。「外国語なんてできなくてもいい」と本気で思っている人は、ごく少数ではないだろうか? 自分はともかく、我が子にはぜひ外国語を身につけさせたい、と願っている親がたぶん大半だろう、と推測する。
ただ、外国語を習得する目的と、その目的に達するための道筋を明確に描けていないことが、日本人は外国語が使えないといまだに言われている原因なのではないだろうか。
目的の第一はずばり「コミュニケーションをとるため」である。なーんだ、そんなことわかっているよ、と思われるだろう。だが先ほども言ったように、日本人が考えている「コミュニケーション」のなかには「言わなくてもわかってくれるよね」「身振り手振りでもコミュニケーションはとれる」「一緒に酒を飲めばわかり合える」という甘えが多分に入っている。それに加えて「学校のテストでいい成績をとるため」とか「会社に言われてTOEICの点数をあげるために」とか、そんな目的での外国語習得に終始するから、伝わらないことばが飛び交ってしまう。異言語異文化の人(必ずしも外国人とは限らない)に自分の意志を伝え、相手の意志を理解しようとするなら、身振り手振りやあうんの呼吸ではぜったいに不可能だ。ことばを習得すること。何よりも、伝わることばを身につけること、これが肝心。
(ちょっとここで具体的な話。これはあくまで私の体験からでしかないが、コミュニケーションのために語学力を身につけるには、身も蓋もないが、たくさん聴いて、たくさん読んで、たくさん話してみることしか道はない。語学に王道なし。語学的な才能がない、とか嘆く人がいるが、才能云々を言う前の段階で、「無理」とあきらめてしまっている人のほうが多いと思う。量は質(才能)を凌駕するのですよ、こと語学習得においては。
世界各国で放映されているニュース番組と映画をできるだけ字幕なしで視聴して、「そうか、自爆テロが起こったときにはこういう言い回しで衝撃を伝えるのか!」とか、「体よく相手をふるときにはこの言い回しが使える」とか、実生活でも役立ちそうな単語や表現を覚えておく。私は以前、書きとめたメモを冷蔵庫の扉に張って、冷蔵庫を開けるたびに口に出して言ってみることをやっていた。そうやって覚えた単語や言い回しは、実際に会話するときに実に役立っている。
読むのはさておき、話す、というのはついネイティブとお話ししなくちゃ、とか思われるだろうけれど、そう簡単にネイティブスピーカーが見つかるわけではないから、私は「音読」がいいと思っている。その昔、高校時代に私は試験前にひたすら英語の教科書を音読し、丸暗記して書いてみるのをやっていた。あのテスト勉強は非常に役立った。テストの成績がよかった、というだけでなく、語学の習得は「口に出して言ってみて、それを自分の耳で聴くことから始まる」ってことがわかった、という意味で役立った。)
そして第二の目的。外国語を習得するのは、外国人とコミュニケーションをとるためだけではない、と私は思っている。異なる思考方法、異なる社会、異なる文化、異なる精神性を知ることは、まずことばを知ることから始まる。ことばを手がかりにして、自分とどこが異質であり、どこが共通しているかが初めてわかり、「異なる者」への理解が始まる。そしてことばを通じて「自分とは異なる考え方がある」ということを意識し、理解していく過程で出会うのは、異なる者たち以上に、「自分」ではないか。
つまり、自分が母語としている以外の言語を学ぶことは、自分が何者であるかを知るための重要な手だてとなる。私はそう考えている。日本人である自分、高度成長期後に成長した自分、母親である自分、仕事をする自分、一応女性である自分、そういう自分をどう表現して伝えるか? 私の場合だけなのかもしれないが、外国語を学ぶことで、世界における自分の立ち位置とか、自分の在り様が実感を持ってつかめているような気がする。
「40歳をすぎてから新しい外国語を習得するのは、時間と労力がかかりすぎる(だからやらない)」と言ったことをたしか村上春樹氏が言っておられて、そうかーと思ったことがある。村上さんでもそう思われるのだから、私なんかやめといたほうがいいなとね。と言いつつも、40歳をはるかに過ぎてからイタリア語とスペイン語を学び、50歳をはるかに過ぎている今は中国語習得に自分でもちょっとおかしいんじゃないかというくらい時間と労力を注ぎ込んでいる私。先日イタリアを旅行して、10年前に2年ほど学んだイタリア語が、旅行で使う程度であればまだ十分役立つことを知って、異言語習得に遅すぎるということはないのだ、とあらためて思った。
何歳からでも始められるし、一度獲得した語学力はほそぼそながらでもブラッシュアップを続けていけば、失われることはない。そして目的と手段をまちがわず、時間と労力をかけさえすれば、かならず進歩しつづけるのが語学力だ。
日本語も含めて、ことばの持つ力をもう一度見直し、伝わることばを獲得するための手段と努力を始める時期に来ているのではないだろうか。
外出したら最低でも3つの用事をすませなくては気が済まないビンボー症のジツカワです(交通費と時間のもとをとりたい)。だもんで、昨日も山手線半周しながらつぎつぎ用事をすませ、最後に渋谷まで帰ってきたときにはへとへと。大荷物を抱えながらずるずる歩いていたら20代後半に見られる女性2人の会話が耳に飛び込んできました。
女性A「夏の終わりってなんか疲れちゃってさー、朝起きるときに、会社行きたくねーって思うんだよね」
女性B「わかるわかるー! そんでさ、○○(→会社の同僚らしい)にすべてにやる気が起きないって言ったら、自己啓発本を読めって貸してくれたよ」
女性A「あ、私も勧められたよ。『7つの習慣』ってやつでしょ。読んでないけど。あとさ、夏の疲れにはマシュマロが効くらしいよ。○○は一日にマシュマロ50個食べながら、自己啓発本を読んでいるらしい」
女性B「マシュマロー?! なんでー?」
女性A「マシュマロには脳を活性化するグルコサミンが入っているんだって」
マシュマロ? グルコサミン? 脳の活性化?......思わず振り返って女性たちの顔を見てしまいました。ごく普通のOLっぽい感じの女性たちでした。
私が調べた限り、マシュマロにグルコサミンが含まれているということはどこにも書かれていなかったし、グルコサミンが脳を活性化させるという記述もなかったんだけれどなあ。
それはともかく、そういう俗説と同じ線上で自己啓発本が語られるってことに軽くショック。
本屋に行くと「自己啓発本」というコーナーがかなり大きく取ってあることに、私はなんというか......危ういものを感じています。ベストセラーには、正面きって自己啓発をうたっていなくても、中身は形を変えた自己啓発本でしょ、っていうのが何冊も並んでいるし。みんなそんなに自己啓発したい、もしくはされたいのでしょうか?
自己啓発本にはいくつかの系統がある、と見ています。(注:あげた本のタイトルは変えてあります)
1)生活習慣系......「断捨離」本とか、「朝5時起きの習慣で、人生はスムーズにいく」とか、日々の暮らし方を変えることで人生がスムーズになりますよ、とお勧めする本。健康本のなかにも、この類の自己啓発本は多くて、ダイエット本もある意味自己啓発本と言えないでもない。単なる健康本やダイエット本と自己啓発本とのちがいは、「健康にいいですよ」とか「痩せますよ」と言うのではなく、「これをすると、人生がもっとうまくいく」と断定してしまうことです。効能を「うまくいく人生」にするところが自己啓発本でしょう。
2)教育系......「20代でしておきたいいくつかのこと」とか「子どもがぐんぐん伸びる魔法の言葉」、「部下に伝えたい○○のこと」、もしくは自己啓発における歴史的名著「人を動かす」byDカーネギーというような、育児、部下育て、そして「育自」のための自己啓発本です。私も読んだぞ、子どもがややこしい年齢のときには。励まされるものもあれば、かえって落ち込む内容の本もありました。今はもっと増えていて、口調はもっと断定的。育児も社員育成もむずかしい時代なんでしょう。
3)医学系......最近のはやりは脳科学者がとく自己啓発。「脳にいいいくつかの習慣」とか「あなたの脳が劇的に変わる」とかそういった類のもの。ここから発展して「ぼけないために脳を鍛える」とかそういった「ぼけ防止自己啓発本」という新しい分野もできつつあります。以前は医者が身体の健康を精神面の健康と結び付けてとく自己啓発本がベストセラーを出していたけれど、脳トレ(→あやしさのきわみだと私は思っている)以降は脳科学です。私もおもしろがって読んでいるんですけれどね。問題は、子どもが巻き込まれるときに発生するのではないでしょうか。親が勝手に自己啓発している分にはいい(いいのか?)んだけれど、子どもの脳を変えようとか本気になられるとこわい。
4)ビジネス系......ビジネス本の棚に並んでいる3割くらいは自己啓発本じゃないかっていうくらい、それっぽい本が並んでいます。3.11以降減るかと思ったらますます増えている。経済が混乱状態にあって、「こうすれば(この分野なら)儲かりまっせ」という提案ができなくなったために、精神面でカバーしようっていうんでしょうか。
自己啓発本がどれも悪いと言っているんじゃないんです。私だって落ち込んだときに自己啓発本に励まされることはあるし、自分ではどうしようもないときに何かすがるものが欲しくて手に取ることもある。でも、あまりにもあやしげな(それこそマシュマロが身体にいいっていうくらいのあやしい)自己啓発本が多いし、それに依存するっていうのは危ないんじゃないか、と思ってしまうんです。
最近の自己啓発本はどれも「科学の裏付け」をうたいます。だからかどうか、やたらと数字をあげる。数字がタイトルに入っていると売れるんでしょうね。しかも刺激的な数字です。「7日間で人生が変わる」とか、「1日3分の習慣」とか、「脳が9割変わる」とか。冷静に考えれば、そんなに簡単に自分も人生も変わらないとわかるはず。でも、冷静さを欠いているからこそそういう本を手に取りたくなる。なんか......つけこんでいるなあ、と思います。
あと、やたらと「夢」が出てくる。「夢をかなえるなんたら(動物名)」という本が大ベストセラーになって、どうもそこに私の本から文章が引用されているらしく、アマゾンで私の名前を入れると最初にその本がヒットしてしまう、という。とほほ。「夢」の自己開発本は、現実からのかい離を促しているのだろうか、と私は少々疑っています。
世界は今、大きく変わろうとしています。この先にどんな未来があるのか、まったく見えない。前は10年先のことなんかわからない、と思っていたけれど、来年のこと、いや、来月のことだって不透明です。そういう時代にはどうしても近視眼的になって、自分と半径5メートル以内のことだけ、もしくは今日のことだけを見て、とりあえず生き延びられたからラッキー、と思いたくなる。世界は崩壊しつつあるけれど、私は今日おいしいアイスクリームが食べられて幸せ、みたいな。そしてそんな行動や気持ちを肯定するような自己啓発本が多い。
それが悪いっていうんじゃないのだけれど、それこそ奥歯の間にはさまった食物繊維みたいな感じで気になる。
マシュマロ食べて夏バテを防ごうっていうノリは、虫歯になって太るくらいですむかもしれないけれど、自己啓発本だけに頼って現実から目をそむけ、目の前のささやかな幸せにすっぽりくるまれていることに満足しているのは、ほんと危ういんじゃないでしょうか。
お盆休み前進行なんか関係ない、と思っていたのだけれど、お盆明けにいきなりくる締切合戦に備えて今週はちょこっと忙しく、1週間もブログ更新をしていませんでした。私も今日から実家に帰省です。そろそろ用意して行かないと。お盆とGWには空港の荷物検査が混んで時間がかかることをついうっかり忘れて、毎回冷や汗をかくのですよ。
忙しい、と言いつつ、読書はやめられず。
最近読んだなかでおもしろかったものを、メモだけ残しておきます。
ヘニング・マンケル著 柳沢由美子訳 創元推理文庫
ヘニング・マンケル全読破の私としては、予約までして購入、即読んでしばらくうなされました。何にって、ヴァランダー刑事の糖尿病に、ですよ。
一部には「シリーズ中最高傑作」の呼び声が高いのですが、私は「白い雌ライオン」のほうがスケールが大きくてよかった。ちょっと小さくまとまっちゃったかなあ。スウェーデンの片田舎にまで押し寄せるグローバル化、というこれまでのテーマが少し見えなかった。一番書き込まれていたのが、ヴァランダーの糖尿病だもん。
でも、ほぼ一気読み。それで熱中症になって頭が痛くなったという噂もあり。
小川洋子著 中公文庫
大好きな一冊。夏休みになると読み返したくなります。だって、私が中学生だったころの時代で、しかも私の故郷、芦屋が舞台なんですよ。子どものころの行動半径がそのまま重なり、主人公と一緒に歩いている気分です。そのせいかファンタジーなんだけれど、とってもリアル。あのころの関西山の手の独特の雰囲気が作中に漂っています。
都築響一著 ちくま文庫
いやはやもう、都築節全開! 日本のヘンなじーさんたちの写真&インタビュー集なのですが、じーさんたちも「ちょっといい加減にしたら」といさめたくなる珍態(造語、念のため)ぶりながら、都築さん、あなたの質問が一番珍です! 珍の☆三つ!
思うんだけれど、ばーさんの珍態はあまりないのに、じーさんはなんで珍態化していくのだろう? 脳の関係?
Scott Schuman
ファッションフォトグラファーによる、NY,パリ、ミラノ、ストックホルムのストリート写真。モデルとかファッションエディターとかも登場するのだけれど、ごく普通の街のおしゃれさんを撮っていて、しかも若い子よりも年配のおもしろい人たちを撮っているところがおもしろいです。
でもって、とっても参考になるんだな。高いものを着ているわけじゃなく、すごくスタイルがいいわけでもなく(デブも結構多い)、美人美男じゃないけれどチャーミングっていう人たちが、なぜチャーミングなのか、その秘密が見えてくるから。サイトで有名になってからの写真集なので、まずはサイトをごらんあれ。
http://www.thesartorialist.com/
書評のために今読んでいるのが「新・ムラ論TOKYO」(隈研吾・清野由美著)と「ワシントンハイツ」(秋尾沙戸子著)、「チリの地震」(ハインリヒ・フォン・クライスト著 種村季弘訳)。
前にここで紹介した野呂邦暢短編集の「白桃」と「諫早菖蒲日記」も読んでいます。ちょっとずつ、上等のお菓子を食べるみたいな感じで。
では、いってきます。 まずは大阪ダービーだな!
ふー、やっと1冊訳了。つぎはアフリカをサッカーから読み解く、というノンフィクションです。アフリカ(だけじゃないが)の情勢は日々刻々と移り変わるので、原書が出たあとの出来事について何かコメントはありませんか? と著者にメールしてみました。
ジャスミン革命@チュニジア、ムバラク前大統領が辞任に追い込まれたエジプトの騒動、またもや内戦勃発のコートジヴォワール、南ソマリアの独立......いやはや。いっぱいありすぎですわ。
アフリカもアフリカのサッカーも混とんとしていて、つかみきれない。
混とん、と言えば、3.11のあと「モノに埋もれて、持っているものが把握しきれない混とんとした家はまずい」と思い、プチ断舎離実行中です。
一つ仕事が片付くと、一ヶ所断舎離&掃除。
断舎離はともかく、年齢を重ねるごとに「掃除は大事だ」と痛感します。
家を掃除することで、見えてくることがあります。
日々の生活に何が必要で、何を必要としていないか。
明日私が死んだら、どこに何があるかが家族はわかるか?
そして、もし地震などの災害が起きたら、安全だろうか?
そういうことを考えながら掃除をすると、以前は生活の中で追求していたものが「快適」だったけれど、3.11以後「安全」と「安心」になったのだなあ、と気づく。
若いときには、掃除なんて賽の河原に石を積むような作業だと思って、億劫でたまりませんでした。「埃で死なない」とか言って、1週間に1回しか掃除機をかけなかったり。「過去は振り返らない」とか言ってじゃんじゃん捨てたり。
でも、最近やっとわかってきました。
掃除はクリエイティブな作業であり、未来を見越す視点がなければできないものだ、ということが。
明日死んだとき、「ちっ、こんなゴミを残して......」と家族に負担を与えないように、このごろの私の掃除は「身の始末」のようになってきています。この年齢ではそれが大事なことなのかも。
断舎利でまーったく手がつかないどころか、どんどん増え続けている本。
どうにかしないと、ほんとに明日死ねないよ。



