「「かまやつ女」の時代ー女性格差社会の到来」
三浦展著 牧野出版
「ワーキングプア 日本を蝕む病」
NHKスペシャル『ワーキングプア』取材班 編
ポプラ社
遅ればせながら2冊を読んだ。拾い読みはしていたのだが、全部通して読んだのは初めてだ。
2冊一気読みして、どーんと暗くなって、しばらく寝つけなかった。
「かまやつ女」は2005年。「ワーキングプア」は番組放映が2006年で、本は2007年発行だ。「格差論争」真っ只中で出された波紋の書。
どちらも日本社会に進行している格差を取り上げている。
「かまやつ女」とは何か一応説明しておくと、中年の男性がかぶるような帽子をかぶり、髪型もぼさぼさしていて、ルーズな服を着ていて、スカートはめったにはかずほとんどだぼだぼのジーンズで、たまに短いパンツとかはいても下に必ずスパッツをはいていて、靴は間違ってもヒールをはかずいつも大きめの草履やスニーカー、という格好の若い女の子。その格好がかまやつひろしに似ている、というので著者が命名した。
口癖は「ラクに、自分らしく生きていたい」。そして「がんばらない」「無理をしない」。あらゆる「らしい」ことをやんわり拒否し、とくに「女らしい」ことをするのをやめるので、その格好になる。
そのどこが問題かというと、(著者の目から見ると)彼女たちが努力をやめてしまって、人生からおりてみたいだからだ。
だから著者はかまやつ女にずいぶんいらだっているみたいだ。たしかにゆるゆるの生き方や考え方には私もむっとするところもある。だが、かといってかまやつ女が「学歴も美貌も経済的にも高い三高女」や「男をつかまえて専業主婦になりたいギャル」という「層」と対極の位置にあるとは思えないのだけれど。マーケティングではそうなるのだろうか。三高女もギャルも、ある意味あきらめて下りているところがあるのですがね。
「ワーキングプア」はもう政治、社会レベルで解決しなければどうしようもない要素が8割以上を占める問題で、安易に「グローバル化の余波」だの「教育の問題」だのと評論家みたいなことは私はいえない。情報をちゃんと分析しているわけじゃないし。
だが、両方を読んで感じたのが「社会を階層化し、それを目に見える形でわかりやすく区分し、しかもその区分に不満があってもあきらめて受け入れさせることはダメなんじゃないか」ということだ。
どんな社会にも、形はちがえども階層というのはあったし、いまでもあるし、これからもありつづけるだろう。
だが、生まれ落ちたときから入れられた階層に、どれだけ不満があっても抜け出せないと思い知らされることは、人間として不幸だ。親から子へとそんな不幸が受け継がれるような社会は即刻変えなくてはならない、ということを歴史から学んで、面倒くさいし、欠陥も多いけれど、とりあえず民主主義ってものを選んだのではなかったか。
いや、これじゃ政治的すぎる。そんな大げさなことが言いたいのではない。
今の日本社会は、現状になんとなく不満があったり、不幸とまではいかないけれどストレスを感じていたり、漠然とではあるけれど底知れぬ不安を感じていることが日常化していて、それをどう表現していいかわからない社会なのではないか、ということだ。昔はデモとか、社会運動とかいろいろあったけれど、いまはそういう仲間で怒りを共有することができなくなっている。格差に対して理解しづらくなっているから。で、不満や不安やストレスの根源にあるのが、固定化されている階層に対するあきらめではないかと。
私が最近本当に耳にするのも目にするのもいやな三大フレーズが
「夢をもつ」
「自分らしく生きる」
「好きなことを仕事にする」
なんだけれど、とくに政治家とか評論家とか実業家とか、若者の将来の夢を見事に打ち砕いている張本人が、あきらめきって肩を落としている若者にむかって追い打ちをかけるような言葉を投げつけると、ほんと私でさえもひきこもりたくなる。
あきらめざるをえない状況でもがいているところに、夢だの自分らしくだの好きなことだのと、カッコイイコーティングをした自助努力を強制するんじゃない、と言いたくなるんですね。は~。
訳了しました。
訳了したよ!
訳了したんだ、聞こえてる?(しつこい)
正直、5月はじめに打ち合わせをしたとき「7月末までに仕上げます」とか言っておきながら、心のなかで「ちょっとキツイかもぉ......でも締切延びても許してくださるかもぉ」と仏顔の編集者さんを見上げたのでした。
さすがに6月になるとあせって、日々のページノルマを決めたのですが(スケジュール帳に書き入れていく作業。「えーっと、この日はほかの締切がないから、よし、5ページ......この日は3ページかなあ......あれ?計算が合わない......」なんていう作業をしているヒマに、やれよ!)、突発の仕事が入った上に、別の本の入稿が重なり、7月はじめには「確実に間に合わん!」といったんは腹をくくりました。「いつまでならできるか」「いつのタイミングで間に合わないというか」もんもんと悩むこと(悩んでいる間に、やれよ!)数日。
そしたら、どこかでふっきれたのか、ぐいぐい進み、間に合いました。
いや、毎回同じことの繰り返し。もう間に合わない、どうしよう間に合わない、また今日もノルマ非達成、逃げたい、国外逃亡したい............(2週間後)あれ? 終わった! 最後の3分の1は、いつもノルマの3倍進みます。ってたって最大一日12ページだけれどね。それ以上やると、ミスが多くなるから自重。
今回も締切守ったもんね。
えらい? えらい?(トトロのメイの口調で......気色悪い)
今日(じゃなくてもうきのう)の夕飯は、夏野菜と鶏肉のトマト味シチュー、ロメインレタスときゅうりとししとうのピリ辛炒め、ごはん、かぼちゃの漬物。
今日、書評原稿を書いていて、「訳者あとがき」に
「最近は翻訳調(というのがあるとすれば)がとみに嫌われるようだが、本書の性格からあえて「日本語らしく」しなかった部分もある」
と書かれているのを読んで、ん? と思った。
というのは、その本の訳は秀逸で、「翻訳調」で「日本語らしくない」部分に、すごく味があったから。嫌われるんですか、そこが?
という本は
ビル・ビュフォード著 北代美和子訳
白水社
うん、とても楽しかったし、こういう言い方は誤解を招きかねないけれど、とても勉強になった。知らないことを知る楽しみを与えてくれる本はいいね。著者の行動力に引きずられて、これまで「知ろう」とも思わなかった世界をのぞけるのがありがたい。さすが『フーリガン戦記』の著者だ。
読み終わって、すごくトクした気分にさせてくれる。自分も一緒になって、著者と一緒に、NYの厨房で汗水たらして兎やら鴨やらをさばき、ワインをラッパ飲みし、トスカーナの山奥の質素な、でも実はとても豊かな食卓に座った気分にさせる。
どんなシーンを描いても、その場の「空気」が感じさせるのがうまい訳だ。これ、ビュフォードさんの文章がうまいだけじゃないと思う。翻訳に空気を伝える力がある。
そういう本であり、そういう訳。
で。
翻訳された本を読む楽しみは、いつも自分にまとわりついている(まとわりつかれるのがいやだっていうんじゃない)ものとはちがう「空気」を感じることにある、と私は思っている。
その「空気」を感じさせるのが、ひとつには「翻訳調」じゃないかとときどき思うのですね。
あまりにもひっかかりのない日本語になった翻訳文って、ちょっとちがう気がする。
日本語と外国語の間に横たわる深い溝を、ときどき垣間見せる(感じさせる)ほうが、歯ごたえがある。だって、溝を超えてどちらか土俵に引きずり込んでしまったのなら、翻訳を読む楽しみが減りませんか? ま、それは私だけかもしれないけれど。
自分に向かって石が飛んでくるのを覚悟の上でいわせてもらうと、世の中には「翻訳調」どころか、「翻訳」までもいたっていない本もいっぱいとはいわないけれどあって、それを読んだ人が「あ、これ翻訳調だから読みにくい」とか思っていたら困るなあ。
「静かなノモンハン」
伊藤桂一著 講談社文芸文庫
自分が生きてきた昭和という時代を、実はまったく知っていなかったということに気づいて愕然とすることがあり、少しずつだけれど、その当時のノンフィクションを読んでいる。
なんとなく本屋で見つけて購入し、翌日から出張に出かけて飛行機のなかで読み始め、帰りの新幹線で読了。最後の著者と司馬遼太郎の対談の一言ひと言が胸に突き刺さった。
関東軍とソ蒙軍とが、満蒙国境で戦った凄惨な記録である。
戦略も戦術も、もっといえばまともな兵器や食糧・水さえも与えられず、何の役にも立たない重い荷物を背負わされて徒歩で砂漠地帯に放り込まれた日本の兵士たちが、死に物狂いで戦って......というか、殺されて、無残に敗退していった有様を、詩人の著者が3人の兵士たちの聞き書きでつづっている。
鈴木上等兵、小野寺衛生伍長、鳥居少尉の3人は、大半が戦死したなかで奇跡的に生き残った人たちである。著者のインタビューにもなかなか応じてくれなかったそうだが、重い口を開いて、自分の目で見て、耳で聞いて、からだで感じた戦争を語った。
全員、ノモンハンに送られたときは若かった。鈴木氏と小野寺氏は2人とも北海道出身。10代、20代の若さで召集され、ろくに訓練も受けないうちにいきなりの実戦がノモンハン事件だった、という。
ノモンハンを世界地図で探してみた。平凡社世界地図にはのっていない。著者が「集落というより蒙古人たちが名づけた地名」であり、「遊牧民たちが、そこにときどき、パオの群落を築くだけの、寂しい場所でしかない」というような砂漠のなかにあるらしい。こんな何もないところに放り込まれて、歩けども、歩けども見渡すかぎり砂漠で、地平線の向こうから戦車が列をなしてやってくるのを見たときには、どんなに恐ろしかっただろうかと、地図の上からでも想像する。
昭和14年5月、外蒙兵が日本の警察を攻撃してきたことをきっかけに戦闘が起こり、8月末に停戦にこぎつけるまでに、日本側の死傷者はざっと計算したところ、14505名にのぼった。出動人員のじつに33%が犠牲になった。数字を見ただけで、たった数ヵ月間にこれだけの犠牲を出して敗退し、しかもその後も愚かな戦いを続けたのはなぜだったのか。
著者は、砂漠のなかをソ連軍の戦車に追い回され、まわりで大勢の仲間たちがなすすべもなく殺されていくのを歯がみをしながら眺め、爆弾が落下した穴のなかに息をひそめて隠れるしかなかった兵士たちのなまの声を淡々とつづっている。死のぎりぎりまで追いつめられた人間が、そのとき何を思ったか。のどが渇いた、痛い、苦しい、息ができない、そんな人間の本能的な欲求や生理を超えて、なまの感情があふれだす、というところがすごい。うれしい、ありがたい、恐い、くやしい、恥ずかしい......肉体的に極限状態にあり、精神的に絶望の縁まで追いやられても、人はそんな感情を抱いて、しかもそういう感情をもったシーンを克明におぼえているものなのだ。そして、全員が共通しておぼえるのが「虚脱感」である。何をすることもできず、仲間も救えず、ただぼろぼろになって帰ってきただけ。いったい自分はなにをしたのか、何もしていないではないか、という虚脱感。
最後の対談で、戦争体験者である司馬氏と著者が、なぜ日本は愚かな戦いをしたのか。そして、敗戦してもちっとも学んでいない。それなのに自覚がない、という話をしている。
2人ともけっして戦争を美化しない。劇画のように描かない。砂漠のなかに生えている、羊が食べる草をかみながら行軍したという小さなエピソードを連ねながら戦争を語る。そうしないと、戦争の生の姿が見えてこないのだと思う。
戦争をまったく知らない世代の人間は、こういうノンフィクションで戦争の実態をせめて頭で理解したほうがいい。
愚かでない戦争、かっこいい戦争なんてあるわけない。どんな戦争も愚かで醜い。でもそれがどんな風に醜く汚く、そしてばかばかしいのかを知るために、こういう本こそ読んだほうがいい、と思う。
来週までに入稿3冊って......。
今月末までの締切も1冊。
歯の手術を延期し、バーゲンも泣く泣く見送り、何よりも優先していたガンバの試合観戦もあきらめ、家事協力要請を家族全員に出し、がんばりますよ。



